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エディターズ・ミュージアム「小宮山量平の編集室」での日々のできごとをお伝えするページです。

 
Editor's Museum 小宮山量平の編集室

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2020/2/13

 上田市立美術館で現在開催されている『農民美術・児童自由画100年展』に行ってきました。
 正しく模写させるのではなく、いかに子ども自身の創造性を引き出すか───、山本鼎の“自由画教育”にふれながら、私はかつて児童詩誌「きりん」にかかわった画家たちに思いをはせていました。
 「きりん」には詩とともに多くの絵が全国の子どもたちから寄せられていたのです。

 1954年、画家吉原治良をリーダーとして結成された前衛美術グループ(略称:具体)。
 初期の頃の「きりん」のページをめくっていくと、やがてその「具体」のメンバーとなる若き画家たちの文章があり、表紙絵があり、さし絵があります。
 子どもたちの創造力をいかに引き出そうとしたか、文章が子どもたちに語りかけています。
 絵は逆に子どもたちからの刺激を受けたのでしょうか、画家の絵も子どもたちの絵もすばらしいのです。・・・

 1955年「きりん展」が行われました。
 公募した子ども達の絵を「具体」の主要メンバーたちが夜を徹して展示作業にあたりました。吉原治良さんがいわれたそうです。
 「こんなすばらしい展覧会は、もう二度とできないなあ」・・・・・と。

 「一枚の繪」に連載されていた父の文章の中に。「具体」のメンバーのひとりであった元永定正さんについて記したものがありました。
 《新しい児童観と元永定正の世界》と題されています。(1988年2月号)
 文章の中にある“子どもに学ぶ姿勢”をあらためて心のまん中に置きたいと思っています。

2020.2.13   荒井 きぬ枝


 (前略)
 やがて私が『きりん』という童詩誌の発行を継承し、月々何千という全国からの子どもの詩の洗礼を受けるに及んで、私は、かのチュコフスキー先生(『2歳から5歳まで』の著者)と共に、これら「子ども語録」の持つ深い意味に目ざめるのでした。すでに私より早く現場の教師としての笑いと涙の中で、灰谷健次郎さんは、これら子ども語録のすばらしい発掘者でした。いや、それより早く、この『きりん』を創始した井上靖・竹中郁・坂本遼・足立巻一の諸先生こそ、先ず「子どもの声を」と耳傾けて、いつしか子どもに学ぶ姿勢を垂範された老達でした。
 この愉しい先達の周辺に、あたかも戦後の「子どもルネッサンス」のように、秀でた画家たちが集まり、いちばん若い人間としてこの子どもの魂の奥底から紡いだような絵を、『きりん』に寄せてくれたものです。
 津高和一・須田剋太・元永定正など、今や日本のマエストロとして仰がれる人びとを、私は心底で、《きりん文化の巨匠(マエストロ)たち》と呼んでいるのです。わざと、その絵についての評価や説明を避けましたが、10月に名古屋で個展のひらかれた元永さんの絵を見て下さい。日本のファンタジーとナンセンスが、老人から子どもまでを一つの世界に包みこんでくれる楽しさ。また、その直前に三越で開かれた須田先生の若やいだ80点の個展の入口には、
 「こどもで、げんきで、ものになりきる。下手で、かみさまで、いますぐ、やってのける」と描いてありました。

(『一枚の繪』「めぐりあいの感動」その14「ファンタジーとナンセンスの華-新しい児童観と元永定正の世界」より)
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以上の文章が書かれた頃、父は『灰谷健次郎の本』全24巻の編集に取り組んでいました。
絵:元永定正
装幀:杉浦範茂
投稿者: エディターズミュージアム
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2020/2/5

 “自分の絵”を見つけられないまま、パリでの留学を切り上げた山本鼎は、その帰途、モスクワで目にしたこどもたちの絵に衝撃を受けます。
 こどもたちの素直な創造力を前にして「いったい自分は何にとらわれていたのか」───と。
 鼎の“児童自由画運動”はここから始まりました。
 それは手本どおりに描かせ、教えこむという従来の図画教育をくつがえすものでした。
 “自分が直接感じたものが尊い”───、こどもたちの創造力を引き出そうとしたのです。

 担任だった柳沢義信先生の“自由画教育”は、この上田の地で小学四年生まで過ごした父の心の中にしっかり根づいたのでしょう。
 “こどもの輝き”を受けとめようとする父の「こども観」はこの時からつらぬかれているのです。
 創作児童文学の出版。そして「きりん」・・・・・。
 あらためて父の“一筋の道”を思っています。

 今朝、この場所に来て、まっ先に手に取ってひろげた本『子どもへの恋文』(灰谷健次郎著 2004年大月書店刊)。
 灰谷さんが、父の“一筋の道”を書いてくださっています。
 いつもは、父が「ほら、ここに書いておいたよ」と文章を私の前に差し出してくれるのですが、今朝は灰谷さんが、「きぬ枝さん、ほらここに書いておいたよ」と差し出してくださったような気がするのです。

2020.2.5  荒井 きぬ枝


 はじめに───子どもがくれた私の履歴書

 育てたつもりが育てられ・・・・・という親子関係の一面をいい表す言葉がある。
 うまいことをいうものだ。
 子どもは未熟なヒナドリか───。
 いや、そうとばかりはいいきれぬ。そういったのは、出版人小宮山量平さんだ。
 知的労働者としての子ども、平和主義者としての子ども、かけがえのないよろこびを人々に与える存在としての子ども。
 そんな側面を、もっと見直してみては・・・・・と彼の人は、ひかえめにつぶやく。
 詩人竹中郁は、子どもを、こううたった。

   こどもがいなかったら
   おとなばかりで
   としよりばかりで
   おとなはみんなむっつりとなり
   地球はすっかり色をうしない
   つまらぬ土くれとなるでしょう

   こどもははとです
   こどもはアコーデオンです
   こどもは金のゆびわです

   とびます 歌います 光ります
   地球をたのしくにぎやかに
   いきいきとさせて
   こどもは
   とびます 歌います 光ります
   こどもがいなかったら
   地球はつまらない土くれです

 こんにちの世相の、子どもや少年たちの悪しき様相をとらえ、子どもに対して楽天的に過ぎると眉を吊り上げる人たちがいることを承知の上でいうのだが、子どもをいつもいつも教え導く対象としてとらえ、果ては、法でもって子どもを従わせようとする大人たちの貧困さと、子どもが持つ楽天性がせめても閉塞した社会と人間関係に、もはやかろうじて光と笑いをもたらしている事実を、あなた方は、どうとらえ、どう考えるか。
 わたしは、そう問うてみたいのだ。

 いたずらに子どもをほめそやし持ち上げようというのではない。
 子どもはその成長の過程で、自らの特質でもって、人間関係をつくり、社会参加を果たしてきた。その特質を小宮山さんは、竹中さんは、子どもを知的労働者だといい、平和主義者といい、かけがえのないよろこびを与えてくれる人間そのものだと定義するのである。
 このような視点を持った人々が、これまで子どもに関わってきたといえるのだろうか。教師、行政官、企業人、政治家、それぞれに胸に手を当てて考えてみてほしい。この書は、子どもがくれた私の履歴書である。  (後略)


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ミュージアムに展示されている『子どもへの恋文』の原画です。
(絵・坪谷令子さん)

投稿者: エディターズミュージアム
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2020/1/29

 何度もくり返し読んだ父の文章です。
 「一枚の繪」に連載していた“めぐりあいの感動その13”(1988年)は、
 『太くひと筆で、おおづかみに!
   ──児童自由画の種子を播いた山本鼎──』と題されています。


(前略)
 私が生まれた大正五年(1916)の暮れのこと。わが山本鼎先生は、長年のパリ留学を切り上げて、父君一郎氏が開業医を営んでおられた上田市近郊へと帰って来ました。スカンジナビアからモスクワへと辿り、トルストイの生家を訪れたり、児童創造美術展や農村工芸品展などを見て秋を過ごした35歳の先生の胸には、さて、日本へ帰ったら・・・・・と、格別に熱い抱負が根付いたのでしょう。
 十二月に帰朝しての翌二月には、金井正・山越脩蔵という好青年たちと会って、その抱負を心ゆくまでぶちまけております。
 後年、私は金井さんとも山越さんとも大変親しいおつきあいをすることとなり、あまつさえ、この二青年が創始した日本で最初の自由大学の灯を受け継ぐことともなるのです。が、差し当たって山本先生は『油絵の描き方』(アルス)を刊行し、秋には北原白秋の妹のいゑさんと結婚し、各地でめざましい制作の成果を挙げ、やがて、地元の神川村小学校で『児童自由画の奨励』を語ったのでした。
 そんな活躍ぶりが、ぐんぐん影響力をを強めるにつれて、児童自由画教育の據点は全国にひろがり、同時に先生が情熱を注いでいた農民美術研究所の北欧風の建物も神川村に完成し、その開所式には、平福百穂・小杉未醒・北原白秋・沢柳政太郎・・・・・など、大正デモクラシーの担い手ともいうべき各界の先達が集いました。
 自由画運動上昇期の、この陽気な発達ぶりが頂点に近づいた大正十二(1923)年に、私は小学校に入り、忽ち、この時代の理想主義の気風に巻き込まれたわけです。


 やがて、実家の造酒屋が倒産。
 父は、5年生で東京の下町の小学校に転校することになります。
 学校での図画の時間、その時の父の様子がなんともおかしくて、私はこの文章が好きなのです。


 (中略)
 「どうしたんだ?」と先生にきかれたとたん、思わず私の口をついて出たのは、「おらあ、生きた人間しか描いたことがねえもん」という、ぶっきらぼうな田舎ことばでありました。じっさい、石膏なんて見たのは始めてのことであり、例えば郷里の学校の柳沢義信先生ならば、図画の時間には児童の机を向かい合わせに四つくっつけた上に、子どもを二人乗せます。「ほい、そこで取っ組みあいやれ」と言われて、金ちゃんと周ちゃんが四つに組む ──力いっぱい押し合う。その緊張した生身の人間を見ながら「さあ、みんな、太く一筆で、おおづかみに!」と先生は声をかけます。
 そんな教育の有様を私から聞いたとたん、その中年の先生は感に堪えたように、「うーむ。さすがは信州教育だなあ!」と唸ったものです。確かにそのころ、「信州教育」は教師たちの憧れの理想主義教育であり、その背景には、あの『赤い鳥』や『白樺』の思潮が、燃えさかっていました。
 山本先生の自由画教育は、いちはやく信州の教師たちをとらえ、いやが上にも『赤い鳥』時代の炎を燃え上がらせていたのでしょう。
 後に、青年時代に思想の自由を拘束され、続く六年に及ぶ軍隊生活のあげく、敗戦の祖国へ帰ってきた私の胸に、残り火のようにくすぶるのは、あの『赤い鳥』時代でありました。
 やがて不死鳥は私の中にも甦ったのでしょうか。いつしか私は『赤い鳥』を承け継ぐ『きりん』を刊行し、創作児童文学の発掘に心身を捧げることとなりました。
 そして、わがふるさと上田市に山本鼎記念館を建設する世話人の一人として、今なお卒寿を迎えてお元気な山越脩蔵翁と画策するめぐりあわせともなりました。たまたま今回《山本鼎生誕100年展》(1982年)のカタログをひもといておりましたら、その冒頭の令息・詩人山本太郎さんの心に迫る解説の中にも、「太く一筆で、大づかみに」と、父君の言葉が記されているではありませんか!  (後略)



 “自分が直接感じたものが尊い”────。
 鼎の遺したことばに、児童詩誌「きりん」に寄せられた子どもたちの詩と絵が重なります。
 「赤い鳥」から「きりん」へ────、父が貫いてきた一本の道が見えるのです。

2020.1.29   荒井 きぬ枝

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4年生の父(先生の右上)上田での最後の夏期学校
柳沢義信先生と子どもたち


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2020年2月24日(月)まで サントミューゼ上田市立美術館
投稿者: エディターズミュージアム
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2020/1/22

 かつて編集者として『20世紀の良心』(岩波繁俊著)という一冊を世に送り出した父が《21世紀の良心》を問う───と言っていたことに心を動かされています。

 「後ろ指をさされるな」と題した一文が遺されています。

『20世紀人のこころ』(2001年 週刊上田新聞社刊)

 ふるさとの風景を語りながら、父は次のように記しています。

 (前略)
 原則として長男は家を継いで残り、次男以下は他郷へ雄飛したが、帰るべきふるさとは、いつでも彼らを見守っていた。誰言うとなく、ふるさとが彼らを見守る言葉が「後ろ指をさされるなよ」という厳しい励ましであった。
 キリスト教や回教のように規範的な宗教を持たない私たちにとり、後ろ指をさされぬような生き方を求められることほど厳しいモラルはなかった。
 家を継いだ長男たちの中にも勉学の志もだしがたく教師へと進む者も多く、それが「信州教育」の核を形づくることともなった。そんな男たちの不在を、主婦として、嫁として、姉妹として、辛抱つよく守りつづけたのは女たちであった。
 いつしか、働き者で気性の強い女たちが、養蚕農家の多忙な明け暮れを守りながら「後ろ指をさされるな」というモラルの中心となった。私たちにとって「ふるさと」と言えば、そんな柱のような祖母であり、母であり、姉さんであった。


 そして、こう書き添えました。

 祖母たちによる訓えの厳しさが解体するにつれて政財界のモラルが廃れた。───と。

 翻って今、「後ろ指をさされる」ような人が、何と多いことか。
 後ろ指をさされるようなことをしたあげく、自分を守るためには説明する責任さえも放棄する面々。
 都合の悪いことはかくしてしまう・・・・・。

 21世紀になって20年目を迎えました。父がそのあり方を問おうとした《21世紀の良心》は今やどこあるのか───。
 父の言葉を探し続けています。

2020.1.22  荒井 きぬ枝



 日本の民主主義が、どうやら多数決民主主義という小学校の教室にも似た図式へと落着した昨今、自民党と公明党が賛成しさえすれば「何でもまかり通る」という国政の図式が急速に深まりました。
 そんな無力感を諫めるかのように、全国各地で所在の識者が「呼びかけ人」となり、《憲法九条》を守りぬこうとする大衆的集会が、津波のように広がりつつあるのが昨今の状況でしょうか。そんな状況をも冷然と見送りながら、内外に末広がりに拡大してゆく国政の凋落ぶりに対処している日本政界・財界の無能ぶりこそは、当代の社会現象と言うべきでしょう。
 じつは、こうした社会現象こそがファシズムそのものであるという認識が、私のような戦中派の歯ぎしりなのです。戦争か平和かではなく、私たちはどっぷりと戦争のまっただ中にあり、世はテレビ映りの良いファシストどもの支配に委ねられている。そんな時流なればこそ、あのフランスの抵抗者(レジスタンス)の若者たちが誠実に、いのちをかけて吹き鳴らしたような「起床ラッパ」が鳴りひびく時を迎えているのに違いありません。耳を澄ましたいものです。

 (『地には豊かな種子を』2006年刊より)
投稿者: エディターズミュージアム
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