2005年6月25日に亡くなられた長新太さん。
戦後創作児童文学への道を同志として父と共に歩み、『千曲川』第四部までの表紙とさし絵を描いて、父を励ましつづけてくださいました。
第五部 “希望=エスポワール” を書こうとしていた父にとって、長さんの不在はどんなに悲しかったか・・・・・・。
今あらためて、そう思います。
長さんが亡くなられた翌日に灰谷健次郎さんにあてて書いた父の手紙が遺されています。
(灰谷さんが保存されていた父の手紙を、ご遺族がミュージアムあてに届けてくださいました)
灰谷さんはその前年の暮れに食道がんの手術をされています。
父の手紙への返信も遺されていました。
人と人はこんなにも美しいことばを交わし合うことができるのですね。
一国の大統領が、未来を語ることも、希望を語ることも、愛を語ることもできずに、他人をののしることしかできない姿を目のあたりにしながら、“美しいことば”のやりとりがとりわけ今、心にしみるのです。2020.11.4 荒井 きぬ枝
つつしみて
あんなに楽しい時間を恵まれた余韻を持ち越して、食事のたびの老夫妻の話題と言えば、さて「灰谷さんのお元気を如何にして」と集中するのでした。
そんな矢先、昨夜民人から長さんの訃報が入り、昨日は終日、そのショックを咀しゃくしておりました。理くつを書き並べる気はありませんが、長さんの天才ぶりをたたえて、その早逝を惜しむ、といったパターンが私にはまるでありません。
そうではなく、長さんがものすごく大切なものを、私やあなたに残してくださった、その温もりをそっと語り合いたい。そして今こそ何の飾り気もなく、その温もりを承け継ぎたい。
承け継ぐことで体じゅうにおおらかな勇気をみなぎらせたい。───そう、思うのです。
じつは、昨冬の終わり、長さんから「遠くの嶺に輝く雪」を眺める宿を、と、依頼され、近くの田沢温泉の《藤村の部屋》を準備したのでした。その矢先、奥さんがヒッタクリと言う暴力で倒れ実現しませんでした。今年の同じ季節に、その部屋から遠くに見える輝く雪の写真をそえてもう一度お誘いしたのに対し、美しい返信を下さったのが、つい先日のことでした。
私の心に刻まれた思いは長さんのひとすじの「純粋さ」とでも言うか、あの方の受け身の微笑が秘めていた控え目な童心そのものでした。そんな童心をこそ、あなたも、私も、たっぷりと受け継ぎ得る、そう思うのです。
まるですさまじい暴力のように、私たちが珠玉のように大切にしている童心そのものを、長さんほど巨きく示して下さった方はありません! そして同じ童心を、あなたのように伸びやかに守りぬこうとした作家はありません。そんな童心を守りぬくために、長さんからもたっぷりと精神の栄養を受け継いで、あなたも、太って下さい。私も長生きします。
そんな励ましをやっと記す気分になりました。
そして、遠くから合掌することとしました。長さんによって励まされるあなたであり、私であるように、養生を専一にしましょう。 とんしゅ
2005年6月27日
灰谷健次郎様 小宮山量平 小宮山量平 さま
昨夜、長さんのお通夜にいってきました。
きょうは告別式ですが、体のことを考えて控えることにしました。
同じ病気なので長さんも許してくださると思います。
今江さんはじめ長さんのしたしいたくさんの友達と顔を合わせ言葉を交わしましたが、みな、せつないようすでつらかったです。
しかし、そんな思いだけではダメなんだよという小宮山さんのお便りの、長さんへのあのすごい思いと言葉を思い出しながら耐えました。
お手紙、ほんとうにありがとうございました。大事なタカラモノです。
お会いした人は、わたしの体のことも心配してくれましたが、こればかりは言葉の先ではどうにも返事ができません。
ただただありがたく思うばかりです。
短いご報告ですが、長さんらしいさわやかなお通夜だったことをお伝えしておきます。
2005年7月2日 灰谷健次郎
1982年に理論社から刊行された『対馬丸』。
著者はこの10月27日に亡くなられた芥川賞作家の大城立裕さんです。
(大城さんは三名で分担執筆したと記しています)
表紙の絵は長新太さんが描かれました。
2005年に刊行された新装版には長さんによるさし絵が加えられています。
長さんが描かれた最後のさし絵だと思われます。
『千曲川』と同じ“ぬくもり”のあるさし絵です。
犠牲になった学童たちの“いのち”と向き合っています。