最近ずっと気になっていた言葉があります。
日本学術会議における任命除外の問題が語られる時、何度かその言葉を目にしました。
ドイツ人、マルティン・ニーメラー牧師(1892〜1984)の言葉です。
引用されている部分に心をひかれて、全文を読んでみたいと思っていました。 「ナチスが最初に共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったからである。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。 全文を読んで、思わず本棚から取りだした一冊の本があります。
そうだ、確か同じことが書かれていた──と。
大切にしていた本です。
『茶色の朝』(2003年 大月書店刊)
フランク・バヴロフ 物語
ヴィンセント・ギャロ 絵
高橋哲哉 メッセージ
藤本一勇 訳
その物語はこんなふうに始まります。
「俺」と友人のシャルリーがビストロでコーヒーを味わいながら心地よいひとときを過ごしています。
その中で、シャルリーが犬を安楽死させたことが語られます。
「茶色の犬じゃなかった、ただそれだけさ」──とシャルリー。
この本の巻末に、哲学者の高橋哲哉さんがメッセージを寄せています。
題名は “やり過ごさないこと、考えつづけること” 『茶色の朝』は、ひとことで言ってしまえば、すべてが「茶色だけ」になってしまう物語です。ある国のなかで、何もかもが「茶色」に染まっていきます。
猫、犬、新聞、ラジオ、本、パスティス、競馬のレース、人びとの服装、政党の名前、そして「朝」までも・・・・・・。
茶色以外の猫、犬、『茶色新報』以外の新聞、『茶色ラジオ』以外のラジオなど、「茶色」以外のものはいっさい存在を許されなくなっていくのです。
(中略)
『茶色の朝』の国では、ウサギも茶色以外の種類は抹殺されていくでしょう。
茶色の猫、茶色の犬、茶色のウサギ、茶色の馬、茶色の人、茶色の言葉、茶色の歌、茶色の法律、茶色の思想、茶色の心・・・・・・。
語り手の「俺」と友人のシャルリーが何とはなしに日常生活を送るうちに、すべてが「茶色だけ」になり、それ以外の色をもつあらゆるものが消し去られてしまう。そんな時間の不気味さ、恐ろしさを描いた現代の寓話、それが『茶色の朝』なのです。
(中略)
じっさい「俺」は、出来事のひとつひとつにとまどったり、不安を感じたりしながらも、そのつどなにかの理由を見つけて、出来事をやり過ごしていきます。
「ペット特別措置法」のもとで最初に茶色でない猫が処分されたとき、「俺」は驚き、胸を痛めますが、科学者や国などの権威筋がそう言うのなら「仕方がない」と思い、やがてその痛みを忘れていきます。茶色でない犬が「安楽死」させられたときにも、「俺」は驚き、「悲しいものだ」と思いますが、犬だって「15年も生きれば、いずれその時がくる」のだから「あまり感傷的になっても仕方がない」と、事態を受けいれていきます。「なにごともなかったように」話すシャルリーを見て、根拠もないのに「きっと彼は正しいのだろう」と思い、「妙な感じ」が残り、「どこかすっきりしない」ところが残っているのに、それ以上深く考えようとはしないのです。
(中略)
「俺」とシャルリーがそうであるように、人びとは、自分自身が直接深刻な被害にあわないかぎり、「茶色」の広がりをやり過ごしていきます。
「茶色に守られた安心、それも悪くはない」と。茶色以外の猫や犬がどうなろうと、「流れ」に逆らわなければ、「悪いこと」をせずに「規則を守って」さえいれば、自分は「安全」だし、「安心」だ。「妙な感じ」があるからといって、「すっきりしないこと」が残るからといって、あえて流れに「抵抗」して「ごたごた」に巻き込まれるより、「おとなしくしている」ほうが得策だ。自分には「仕事」があるし、「毎日やらなきゃならないこまごましたこと」も多いのだから、「面倒なこと」にかかわりあっている暇はない・・・・・・。
『茶色の朝』は、私たちのだれもがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心、といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を成立させる重要な要因であることを、じつにみごとに描きだしてくれています。 やがて「俺」は茶色に染まることに違和感を感じなくなります。
そしてとうとう───。
物語はこう結ばれています。 ひと晩じゅう眠れなかった。
茶色党のやつらが最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、警戒すべきだったんだ。
けっきょく、俺の猫は俺のものだったんだ。
シャルリーの犬がシャルリーのものだったように。
いやだと言うべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。
他の人たちだって、ごたごたはごめんだから、おとなしくしているじゃないか?
だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。・・・・・・
陽はまだ昇っていない。
外は茶色。
そんなに強くたたくのはやめてくれ。
いまいくから。 ニーメラー牧師の警句を、『茶色の朝』の警告を、今、この国で生きている私たちは、しっかりと受け止めなければいけません。
見て見ぬふりはやがて自分に帰ってくる・・・・・・、そうでしょ?
私は父に語りかけます。2020.12.16 荒井 きぬ枝
フランスにおいてジャン・マリー・ルペン率いる極右政党、国民戦線が台頭する中、
パヴロフは強い抗議の意思表示として、この作品を出版しました。
しかも、特に若い世代に読んでほしいと考え、印税を放棄し、
わずか1ユーロの定価で出版することにしたのです。