森村塾監とご一緒する工場見学先については、ジャーナリスト岡田氏の紹介があります。転載しておきます。なお、岡田氏のユニークなホームページは末尾に紹介しております。
倒産は天から与えられた”ごほうび“
倒産が「ごほうび」であると書くと、不謹慎だとお叱りを受けそうである。経営者はなにがなんでも企業を倒産させてはいけない。最近、企業の社会的責任という言葉がかまびすしいが、企業の最大の社会貢献は雇用である。しかし、ヒトが病で倒れるように、企業も放漫経営や資金繰り難など、さまざまな要因で倒産する。
モノづくりで世界的に知られる東大阪で、バブルの絶頂期に債務超過に陥って倒産したプレス機械メーカーN社のA社長を十数年ぶりに訪ねた。「再起して元気にやっています」とのメールが届いたからだ。
Aは理系大学を卒業すると、しばらく自動車メーカーで派遣社員として働いた。三十三歳で父親の鉄工所を引き継ぎ社長に就いた。彼はすぐ、従来の動力式のプレス機械から撤退、電子部品や自動車部品の自動組立機械の開発、生産に切り替えた。「モノづくりを永続させるために、いい人材を集めたい」と、ボロ工場を四階建ての総ガラス張りのホテルのような工場に一変させた。一九九〇年のことである。売上げは前年比三〇%増である。ミラクルファクトリーとしてマスコミからも賞賛を浴び、工場見学者は年間五百人を越えた。大手企業の中には、貸切バスで訪れるところもあった。
本社工場は一階がアッセンブリーと、一部加工場、二階から上は会議室、研究室、ゲストルーム、宿泊施設を擁していた。「レポートさえ書けば、金融機関をはじめ、政府も融資を惜しまなかった」と、短期間に集めた資金は十四億円に達し、売上げの倍の投資をしていたのである。
「潰れるかもしれないという不安はつきまとったが、銀行も貸してくれているのだから、なんとかなる」と、自分を納得させた。ところが、バブルが崩壊、仕事量が激減、三年目に不渡りを出してしまった。顧問弁護士は和義には負債が大き過ぎると、自己破産を勧めた。モノの本を読むと、自己破産だけは避けよと、忠告している。確かに自己破産は根こそぎ財産を失い、その悲惨さは筆舌に尽くしがたいという。
「銀行はハッキリしたことを言わずに、危ないとすぐ融資を止める」と、それが判断を鈍らす要因だったという。腹をくくったAは、仕入先と納入先の大半を回って倒産の半年前から「このままではご迷惑がかかります」と、実態を率直に伝えた。中には三時間、監禁され「カネ払え」と罵声を浴びせられた。その甲斐があってかどうか、倒産の日は静かにやってきた。管財人が「この建物は競売(けいばい)にかけられます」と、一枚の紙を貼ることで、会社は二代目で消えた。
ある取引先が開発室を設け、最後まで残務整理に残った七人を雇用。Aも給与は社員より安かったが、顧問に就けた。そのうち、「N社は仕事もきつかったが、やりがいもあった」と、三人が辞めて独立。Aは妻にも苦労をかけ、子供の学資保険で資金をつくり、社長として加わった。倒産二年後のことだ。
倒産企業に銀行は融資しないので、無借金経営。「現金取り引きしかできない」ので、倒産する心配はなくなった。それでも、大手企業からは「当社の規則で手形払いしかできない」と、告げられると、「受注をあきらめるより仕方おまへんな」と、Aは応える。四人の従業員の内、二人は個人企業の形で参画、「売上げが減ったので、今月の給与遅れる」とメールを送るだけで、待ってくれるという。雌伏十年、デジタル家電で波に乗り、売上げは倍々ゲームで伸びているが、「売上げ規模より、中身を大事にしている」と、あくまで慎重である。
「サラリーマン業はできません。結局、苦労にもできる苦労と、できない苦労があります。これもDNAですね。倒産は天が与えてくれた“ごほうび”だったと思っています」とAは笑う。
(月刊誌「Shokokai9月号・巻頭言、岡田清治」引用)
なお、岡田氏らと同社の再建10年目にパーティーをやりました。詳細はつぎのように同氏のホームページに紹介され、学外疑塾についてもふれております。参考までに転載しておきます。
「Oyaji」サミット
昨晩は「Oyajiサミット」と称する会合が、京都・祇園の玉半で行われ、私も招待され出かけました。実は、これは10年前にバブル崩壊とともに、当時、大変な脚光を浴びていました企業が倒産しました。そして不死鳥のごとく、見事に再生して10年を迎えました。そのことについては、HPの経営ページnewpage3keiei.html へのリンク「倒産は天から与えられた“ごほうび”」としてまとめてありますので、お読みください。
N社長は、地獄から這い上がるなかで、終始、応援してもらった方々に声をかけて、お礼の思いを込めて集まってもらったそうです。最近、インドやシンガポールの工場から帰ってこられた人をはじめ、東京、名古屋、茅ヶ崎、川崎、福井など遠くからも駆けつけてこられました。倒産後に、これだけの人たちを呼べるのは、さすがに中さんをはじめ従業員の方々の人柄と、努力の賜物と、改めて感動しました。
出席者の方々には、一応、了解を得ましたので実名と肩書き、それとひとこと発言を紹介します。大半の人たちが技術者ですが、日本のモノづくりに誇りと夢をもっておられることを知って、うれしく思いました。1人3分のところ、ほとんどの人が10分近く、話しました。皆さん一家言お持ちの方ばかりで、好きなんですね。話をすることが・・・。
参加者の中では一番の長老でありますが、非常に若々しい印象の元デンソーY氏(67歳)は「これからの自動車はデイーゼル車が増えてきます。」と、世界の流れを踏まえて予想、エンジンの性能も日進月歩だという。ご本人はエンジンの噴射技術に長年、取り組んでこられたそうです。
松下系の自転車、消火器メーカ社長H氏は、「当社は、自転車、オートバイ、750CCの自動車も作っていた会社ですが、オートバイで失敗。自転車は世界的に溶接で作られていますが、当社は航空機でつかっているボンド接着方式で生産しているのが特徴です。」と、自転車のPR以外に、クリーンルーム向けの新製品を商魂たくましく宣伝されました。
ご自分のプロフィールを1枚のはがき大にまとめられたものを配布しながら、大手電子部品メーカの役員A氏は話されました。「名前のAは天国の中でも一番楽しいところです。」と珍しい名前なのでその説明をまず、されたあと、「いまは設備や機械が大きくても精度をいかに高められるかという技術に取り組んでいます。その模範とする例は橋梁です。」と話されました。
(株)E氏(元松下電産)は「これからは単に組み合わせの技術でなく、すりあわせの技術が重要です。」という認識で、退職後、会社をもたないとビジネスが出来ないことを知って、株式会社を設立、自分で開発した技術の「ご用達」をしているそうです。その第1号が間もなく、開花するという。「やはり技術者だから、世界初のものを開発したいですね。」と、夢を語っておられました。
松下電子部品をこの5月に定年退職するというN氏は「定年の日が待ち遠しい。」と言う。「45年間、モノづくりに携わってきましたので、残りの人生をモノづくりの楽しさ、面白さを日本の若い人たちに伝えたい。」と、定年後の夢を膨らませておられました。
大阪工大高(元都島工業勤務)のK氏は、都島工業の教え子でN社長とは35年のお付き合いだそうです。「中さんは成績もトップグループにいて、いつもリーダーシップを発揮するアイディアマンでした。」と、若いころのお話を披露されました。倒産後、「朝の来ない夜はない。」と励まされました。長年、教育にたずさわられて、「人を教えることは出来ても、育てることは、忍耐のいる仕事です。40人の子供がいれば、それぞれ何か、個性を持っています。それを見つけ、引き出してやることが育てることです。」と教育哲学を述べられました。現在の大工大高も64歳で定年ですが、臨床工学士養成の専門学校から引き続き講師依頼があって、80歳で引退する前任者から「定年はないから、よろしく頼む。」と言われたそうです。「人工呼吸器などを扱う臨床工学士は大変、不足していて、この資格をもつ人は、引っ張りだこというので、生徒は真剣そのものです。大卒の方もおられます。」と、話されました。
デンソーインドから帰国されたM氏は、「よくインド人と間違われますが、当のインド人から、そう言われた時は、ショックでした。」と、笑わせました。「やはり、海外展開は現地に溶け込むことが大事で、人間カメレオンになっています。それにしても、インド人の商売はしたたかで、手ごわいと思いました。」と、ご苦労の一端を述べられました。
松下電子部品のS氏はシンガポール時代、、前述H氏が上司で、「アジアへ行くと、日本人は自分たちが偉いと誤解する人もいますが、みんな同じです。レイバーコストの安さのみで、進出するのは危険で、そこでしか作れないものを求めるべきです。」と、松下の生産方式を現地の人たちと変革するんだという気概で取り組んでいるというお話でした。
中小企業金融公庫のM氏は、金融庁の調査を受けた経験を話されたあと、「どうしてN社長は、無借金経営でやれるんだろう。」と、不思議な思いを話されました。
中京大学経営学部教授の寺岡寛氏は、「ドイツ人の仲間と、かつてヴァーチャルの大学をつくり、やがてドクターも取れる大学に成長しました。いまはそこから離れ、今度は「学外疑塾」を日本で立ち上げたところ、2週間でアクセス1000もあって、40名の教授が集まりましたので半座同盟(半分本業、半分は教育)にして運営するという大変、ユニークな報告がありました。
最後に、小生もNPO活動を報告させていただきました。
野村総合研究所理事長M氏(すばらしい祝電披露がありました)、小松ライト製作所H氏、弁護士のS氏のみなさんたちも急用でこられなかったことが説明されました。
こうして、石塀(いしべ)小路(こうじ)という、京都の通好みの通りに面した、由緒ある料亭「玉半」で会席料理に舌鼓を打ちながら、楽しいひと時を過ごしました。すばらしい異業種交流の場となりました。
名前は塾頭のほうでイニシャルに変えております。
http://www15.plala.or.jp/NET108/index.html

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