美術館の建築物ではなく使命感を残す(新かながわ)
1951年に開館した神奈川県立近代美術館は、今年62年目を迎えますが、酒井さんは64年から04年までの40年間、鎌倉近代美術館(通称)の学芸員(そして館長)を務めました。ですから、鎌倉近代美術館を知り尽くしていると言っても過言では在りません。「鎌倉本館は、名残り惜しく、みっともなくない終焉を迎えて欲しいです。建物を残すか残さないのかは、問題ではありません。鎌倉近代美術館の歴史、意義、使命感を残すのであれば、大賛成です。建築物を残そうという話はありますが、その中心に「美術館」である必要性を誰も言ってくれないことに戸惑いがあります。私もはっきりとした態度をとらなかったことを反省しています。なので、せめて回想を含んだ文章を書き留めておこうと考え『その年もまた』と『小さな箱』を刊行しました」
酒井さんは葉山館にも、鎌倉の使命感を残そうと努めました。「葉山館という新しい美術館の根本理念に、これまでの鎌倉近代美術館の継続、発展、継承のために、名称を『神奈川県立近代美術館』そのままにしました。『アートセンター』など、全く異なる名称も候補にはあったのです」
鎌倉の意識を他でも持ち続ける
「鎌倉の本館が閉じても、神奈川県立近代美術館が停滞することはないと思います。形で残っていないと信用できないのでは、意味がありません。これまで何度も鎌倉本館に対する最善の在り方を考え、議論し続けてきましたが、明確な答えは出ませんでした。残念なことですが、精神的な継承を考えるほかないでしょう。
神奈川県立近代美術館は、その成り立ちから神奈川だけではなく、世界的な美術館としての宿命が付けられています。この意識を維持できるかどうかが問題です。世界に発信するには、美術館を支えている人たちの歴史、関わりを無視できないのです。
しかし今日、美術館は日本中にあります。鎌倉だけではない。鎌倉本館は緊張感に溢れ、作品と個人的な実感が保てる人間のサイズに合った美術館でしたが、ローカルであり偏りもあり、エレベーターもない特殊な前線基地でした。その一つの役割を済ませたのです。ですので、新しい形での提案をなすべきなのかもしれません。私は場を移した世田谷美術館で、私なりに今まで培った経験から公立美術館の魅力を引き出そうと努力しています。さらに、美術館連絡協議会に力を入れているのは、鎌倉近代美術館とわが師土方定一に対する恩義であり、私が思い抱いてきたこれまでの沢山の問題を一つひとつ実現させる宿題だと思っています」
今は我慢の時代
酒井さんは、問題を実現させても自分の時代では完結しないと考えています。「長洲一二元県知事は『燈燈無盡』(1979年)の中で、「いくらあかあかと燃えていても、一本のろうそくの灯は燃え尽きて消える。しかし、その一本の灯でも、それが次のろうそくへ、それがまた次へと、次々に灯をともし続けていくならば、尽きることはない。永久に無尽である」と述べています。この思いです。文化行政といえば、今考えると文化を行政化したけれども、行政が文化化しませんでしたね。美術には余白、弛み、無駄が必要であることを認識しないと、行政は文化などと言わなければいいのです」
鎌倉だけではなく、美術館の今後について聞きました。
「美術館とは人間館です。全国の美術館は成長が止まっています。今は我慢の時代です。日本はせっかちになっています。時には我慢する、死んだ振りをする必要もあります。昔は出る杭は打たれましたが、今は抜かれてしまうのです。研究も60年前に比べて格段にすすみましたが、作家の声が聴こえてこないという、瑣末な場所へ向かってしまう。これは自己反省でもあります。今後、美術館が今の形で存在するかは不確定です。美術館そのものの存続が難しい、不安であるという予感が薄らとあります」
永年、鎌倉近代美術館と過ごし、鎌倉近代美術館を心の底から愛している酒井さんであるからこそ語れる言葉に、深く心を打たれました。
酒井忠康『その年もまた―鎌倉近代美術館をめぐる人々』(かまくら春秋社/2004年)。土方定一をはじめ学芸員、美術家、批評家、各時代の動向が端的に記されている。また、神奈川県立近代美術館編『小さな箱―鎌倉近代美術館の50年』(求龍堂/2001年)がある。
美術館連絡協議会は展覧会の共同企画や巡回展開催、美連協大賞・奨励賞、海外研修派遣、活動助成、カタログ論文賞、ニュース、シンポジウム・講演会を活動内容とする。今日、公立美術館のみ135館が加盟している。

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