MSN(メジャーリーグコラム)からの記事転載
オリックス前監督の仰木氏に関する記事は、教育とは何かと考えさせらます。塾頭も仰木氏が好きで、時々オリックス戦を見に行きました。今年の夏場でしたか、監督が途中からいなくなり、ゲームの終わりだけベンチに出てくるのが気になっておりました。体力的につらかったのでしょうね。
以下は記事です。
シアトル・マリナーズのイチロー外野手をレギュラーに抜擢した名伯楽として知られ、2004年に日本の野球殿堂入りも果たした仰木彬氏(元近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブ、オリックス・バファローズ監督)が去る12月15日、70歳で亡くなった。
イチロー、野茂英雄投手(前ニューヨーク・ヤンキース傘下)のほか、長谷川滋利(前マリナーズ)、吉井理人(元ニューヨーク・メッツほか、現オリックス)の両投手、田口壮外野手(セントルイス・カージナルス)、野村貴仁投手(元ミルウォーキー・ブリュワーズなど)、そして先日ヤクルトスワローズへの入団が決まった木田優夫投手(前マリナーズ)と、同氏のもとからは実に7人ものメジャーリーガーが巣立っている。もちろん、これは日本プロ野球の監督経験者では、ダントツの数字である。昨年の殿堂入りも、監督として日本一に1回、パ・リーグ優勝を3度果たした実績とともに、こうした選手育成の手腕も評価されてのものだった。
その仰木氏のプロ野球人としてのスタートは、福岡県立東筑高から西鉄(現西武)ライオンズに入団した1954年だった。高校時代は投手として活躍した仰木氏だったが、当時の三原脩監督に野手としてのセンスを見出され、すぐに二塁手にコンバートされて、1年目から早くも101試合に出場している。
イチローは、91年にドラフト4位で愛知県の愛工大名電高からオリックスに入団したが、独特の振り子打法を当時の土井正三監督から変えるように命じられ、これを拒んだために最初の2年間は合計でわずか83試合の出場で、159打数36安打で打率.185にとどまっている。しかし、3年目の94年に仰木氏がオリックスの監督に就任し、本名の鈴木一朗から登録名を「イチロー」に変更して売り出しを図ると、その抜擢に応え、210安打を放って日本プロ野球界初の「200本安打」を達成。打率.385で首位打者を獲得し、さらパ・リーグのMVPにも輝いた。
現役選手として実績を残した監督のなかには、自分が指導する選手たちが成長し、自分の残した記録に迫ったり更新したりすることを、内心あまり快く思わない人物もいるが、西鉄時代に少なくとも打者としては二流の選手に過ぎなかった仰木氏は、そうした邪心抜きで弟子たちを指導し、その成長を見守ることができた。イチローは本拠地の神戸が阪神淡路大震災の惨禍に見舞われた95年にも、打率.342で連続首位打者に輝いたほか、打点王、盗塁王のタイトルも獲得し、チームのリーグ優勝に大きく貢献。さらに96年には、3年連続のリーディングヒッターに輝き、前年ヤクルトの前に涙を飲んだ日本シリーズでも、第1戦の延長戦で決勝アーチを放つなどの活躍を見せて、見事にオリックス(阪急時代には3度)、そして恩師である仰木氏に初の日本一をもたらした。
仰木氏、ピネラとイチローを成功に導いた両監督に共通しているのは、現役時代は見た目の数字に現れない働きでチームの勝利に貢献していたこと。監督に転じてからは、過去の実績にとらわれず、若手を思い切って抜擢する勇気を持ち、それを勝利に結びつけたことだ。仰木氏としては、イチローや野茂のアメリカでの大成功を見届け、思い残すことのない70年の生涯だったと思われる。あとは、イチローが悲願のワールドシリーズ出場、そして優勝を果たせば、何よりの恩師への手向けとなることだろう。改めて、仰木彬さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
http://inews.sports.msn.co.jp/columns/MLB_1414.html

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