2004/6/30  1:44

何故、病気になったのかという問い  何故、病気になったのか
私は、乳癌になってから、幾度となくこの問いを考えてきた。
文献も調べた。「癌になりやすい性格」「遺伝問題」「肥満」「夫婦間の関係の悪さ」「食生活」「ホルモンの問題」果ては生まれ育った環境、親子関係にまで及んだ。

その何故と問う過程の中で、私はだんだん、人との関係を悪化させていったのである。
もちろん、人と関わる気力や体力そのものが無くなったせいもある。
誰かのせいにすれば、他者を憎み、自分のせいにすれば、自己嫌悪し落ち込む。
その繰り返しの中から、なかなか脱することができないでいた。
癌に何故なったのか、それがわかれば、自分を変えることも出来るのではないかと、自分が変われれば、癌も良くなるのではないかという思いからなかなか離れることが出来なかったのである。

言葉にしてしまうと上手く表現できないが、奇跡を求めると同時に、私はこの問いの答えを求めたのである。
そして、苦しんでいたのである。
うつ状態なのではないかと薬をもらい、安定剤を飲んだ。

心も身体も弱っている。誰かにすがりつきたくなる気持ちになるが、誰にもすがれない。
私の居場所がない。

主治医から二つの言葉をもらった。
「何故苦しいのか自分でわからないことが苦しいのだ」と
「人が何故病気になるのか、それはわからない。しかし、誰のせいでもない」と。

私は、何故という問いをやめてから、生きるのが少し楽になった。
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2004/6/29  14:18

安静の日々  病状・生活
膀胱炎が2週間以上続いている。
土曜日に外出して、悪化したので今週は買い物にも行かず、家の中で軽い家事だけを行って安静にしている。
旦那さんが惣菜やら、お弁当やらを買ってきてくれる。
市販のものなので、旦那さんもあまり食べない。食事が作れないのは辛いなと思いながらも、膀胱炎を治さなければ、来週も治療できないだろうと思う。
ともかく、今は体力が落ちても安静が必要なようだ。

何もしないことには、忍耐が必要だと思う。汚れていく室内、溜まる洗濯物、美味しくない食事、そんなことにも耐えなければならないし、自己嫌悪とも闘う。

安静というのは大変な仕事であるのだ。

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2004/6/28  17:15

奇跡を求めて(3)  奇跡を求めて
私が願っていたように、仕事を再開することは出来なかった。アルバイトなどもしてみたが、治療中の体力(治療のせいなのか、癌のせいなのかわからないが)では、仕事を継続できなかった。2度チャレンジして2度とも、挫折した。

2度目のチャレンジでは、足の痛みがあって辞めたのである。足の痛みは骨への転移であった。肝臓転移が落ち着いていたので、他に転移するとは考えていず、ショックだった。足の痛みは増し、体重をかけることさえ出来なくなって、松葉杖の生活となる。家事をすることも出来なくなり、自分の部屋の中に閉じこもる日々。

生きてる意味さえわからなくなる。
子供は徐々に成長してきた。もう、私が必要というより、病気の私に気を使って生活しているという状態である。
常に付きまとう疑問。こんなに苦しいのに生きている意味があるのか。何も出来ないのに生きている意味があるのか。疲れていた。再発の治療が始まって2年が過ぎていた。
諦めることと耐えることの間を行ったりきたりする心。

私はどうやって生きていけばいいのだろう・・。

一冊の本を読む。私が最後に読んだ闘病記である。それ以降私は闘病記を読むのを止めた。奇跡を探すことを止めたのである。
その本の中には、事実を見つめて10年間、脳腫瘍と闘ってきた若者の姿が描かれ、多くの生きようとする人々の姿が描かれていた。
けして、奇跡的ではないが、悪戦苦闘しながら生きてる姿である。

私は新たな第一歩を生きることにした。

離婚したのである。そして、今は新たなパートナーと生きてる。
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2004/6/27  14:42

今日は。  病状・生活
ここ一ヶ月、治療が出来ない状態になっている。
白血球が下がっているためである。
相変わらず、足の鈍痛と背部の重苦しさがある。
そのうえに、ここのところ膀胱炎を繰り返してる。
ため息がでる毎日だ。おしっこするたび痛いのだから。

昨日は、プールとマッサージに行ってみた。結果は、膀胱炎の悪化。
排尿後の痛みがしばらく続き、眠れない。眠たいのに眠れず、ぬるいお風呂に浸かる。
お風呂に浸かってると痛みがよいので、お風呂で転寝をしてしまった。

なんとか免疫機能が回復しないかと、プロポリスを飲み始めた。
治療も出来ないので、癌の悪化も気になるし。
そうしたら、旦那さんも一緒にプロポリスを飲み始めた。
この人、何でも一緒に飲むんだなーと思ったら、なんかおかしかった。

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2004/6/26  15:05

主治医への手紙  主治医との話
再発してから、私と主治医はどことなくぎくしゃくしていた。
入院時の主治医交代事件や、退院後も初診から違う医師に回されたり。(これは単なるミスのようだが)
私は、主治医の知り合い医師からの紹介患者である。私は、再発したときも、その医師に相談してる。「このまま、今の主治医の病院に入院しても良いのか」と。
そんなことも、主治医に伝わっているし、また定期的に受診してたのにも関わらず、再発の発見が遅れたこともある。
私だけでなく、私の周りの人々も主治医に対する不信感を持っていたのである。
主治医の私に対する態度がとても神経質のような感じがして不快だった。
その反面、私は入院中、外来での治療、アドバイスも信頼の置けるものであると感じていた。すれ違いはままあったが、信頼が出来ないわけではなかったのである。

私は、不信と信頼の間で揺れ動きながら、治療を続けていた。

一番困ったことは、率直な話が出来ないことである。主治医との間に、奇妙な緊張感を感じていて、自分の不安な気持ちや、辛い気持ちを話すことが出来ないし、治療についても、私の意見をあまり述べられない雰囲気を感じていた。

そして、私が最初に行ったことは「セカンドオピニオン」を受けるということであった。
自分の病気について、自分なりにも勉強はしてきたが、やはり専門家に今の治療について話を聞いてみたかったのである。
主治医とぎくしゃくした関係だったので、これは内緒で行った。
セカンドオピニオンの医師は30分ほど時間を取ってくれ、よく話を聞いてくれた。そして、自分ならこういう治療をすると、いくつかの提案をしてくれた。色々な治療方法を聞け参考になった。その医師は感じもとてもよかった。でも、一番心に残った事は「今の治療がこれだけの効果を示しているのであれば、それがベストだと思う」という言葉である。

私は治療に対しては、自分が納得して行われたものであれば、その結果についても、自分なりに責任を持つという気持ちをもっている。それが死という結果になろうとも、その責任をとれるのは私自身でしかない。

私は主治医に手紙を書いた。あわただしい外来の診療の中で、とてもこの今の自分の微妙な気持ちを上手く表現できるとは思えなかったからである。その手紙を主治医は読んでくれ、こう言っていた。「患者さんは、良くなると僕にありがとうと言ってくれるが、悪くなると、僕がどんなに一生懸命に治療しようと僕を恨むんだ」と。互いの緊張感がなんとなく溶けていったように感じた。

医師も一人の人間である。患者も一人の人間である。
治療を通して、それぞれの役割の責任を持って、いい治療、納得できる治療をして行きたい。

最終的な決定権は私にあると思う。そして最終的な責任も私にあるのだから。
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2004/6/25  20:46

何かを探して。  時々の気持ちなど
ここまで、過去を振り返ってきたが、私は何を書こうと思ったのか、わからなくなった。

今、私は肝臓への転移も消えていないし、骨盤への転移もある。一時は松葉杖がなしでは歩けなかったが、今はほとんど歩行に支障がないぐらいに回復した。治療のほうは、相変わらず化学療法を中心に行っている。

こうして、病気のことを書き綴っているが、病気は私の一部で、もちろんすべてではない。「病気と闘うという仕事」を持ちながら、私は私の人生を生きてきた。

治療方法を捜し求めると同時に、生きる方策を捜し求めてきたのである。

探すことが苦痛であったり、楽しみであったりする。最近思うことは、私は探さなければ生きていけないということである。

身体は癌の症状と抗がん剤の副作用でしんどいのに、一日中、考え事をしてあっと言う間に日が暮れてしまうこともある。

妙案が思い浮かぶと嬉しい。本を読んでいていい言葉にめぐりあうと嬉しい。

嬉しくなると、ご飯を作るのも嬉しくなる。そして、私の旦那さんは美味しいご飯が食べられるということになるのだ。

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2004/6/24  15:41

奇跡を求めて(2)  奇跡を求めて
化学療法を受けながら、何かを探していた。あらゆる闘病日記を読み、私と同じような状態でも長生きしてる人、治癒したと思われる人を探していた。
化学療法以外に何か治療法がないか探していた。
まず、最初に目についたのは「帯津三敬病院」である。
医療に対するホリステックな考えと、その当時自宅から近いということで訪れてみたのである。
主治医に紹介状を頼むと「金をむしりとられるだけだぞ」と反対された。再発当初は「なんでもしてみて」と言っていたが、化学療法の効き目があるとわかったので、代替療法に反対したのだろう。確かに保険の利かない治療はお金がかかる。私は「化学療法が続けられるよう体調を整える目的で受診したいのです」と主治医を説得した。
もちろん、心の中では奇跡的な治療方法を期待していたのである。
帯津病院で受けた私のメニューは、漢方薬(二年飲み続けた。一ヶ月二万円)、栄養指導(「粗食のすすめ」の著者:幕内秀夫氏)を受け、ホメオパシーなるもの、気孔、びわの葉温灸を試してみた。
ホメオパシーはあまり続かなかったが、食事は今でもその時受けた栄養指導が基盤となっている。乳がんに適した食事ということと、日本人に適した食事、食は食べ物という単一な考えでなく、食生活という生活の一部であるという考え方に、今でも納得している。
また、栄養指導は(5回ぐらい受けましたが)費用が安かった。(はっきりした金額は覚えていないが、一回2000円以下だったような・・)
気孔は、無料での指導日があったのだが、ビデオを買って自宅で少ししてみただけ。続かなかった。
びわの葉温灸は、その当時背部の痛みに苦しんでいた私にとって効果があった気がする。痛みが楽になった。ただ、金額が高いのと、面倒なので、やめている。
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2004/6/23  11:37

奇跡を求めて(1)  奇跡を求めて
奇跡的に、抗がん剤は効いた。私の肝臓はほぼ正常の大きさとなった。しかし、転移巣は、右に10cm、左に5,6cm、1cmと三箇所残ってる。腫瘍マーカーはCEAが10から基準値範囲に(2)下がったが、CA15−3は未だ高値を示している。

入院期間一ヶ月で家に帰る。自宅から二時間かけて、毎週の通院が始まる。今すぐ、死ぬかもしれないと言う怯えはかなりなくなり、今度は早く寛解期に入り抗がん剤を止めたいと言う気持ちに変わってきた。抗がん剤が効いて自分の身体が、短期間で奇跡を起こせるような気持ちになっていたのである。

それとともに、仕事に復帰したい気持ちも強くなった。私の職場の病気での休職期間は半年あまり。その期間内に、寛解期を迎えて職場に復帰したい。私は、専業主婦というものをしたことがなかった。結婚しても子供を生んでも、仕事をもっていたのである。

主治医にそのことを話すと「○○さんは男みたいだな」と言われた。実際、私は男性と同じように働いて生きてきたのである。私の人生も、家族の経済的生活も、私が働いている状態でのプランとして成り立っていた。

少し、無理して買った家のローン。子供の教育費。

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2004/6/22  19:30

治療について(化学療法編)  再発直後の治療
入院後、一週間して、私の抗がん剤治療が始まった。長い長い治療の始まりである。
鎖骨のくぼみから、カテーテルが挿入され、5−FUが24時間体内に入ってくる。吐き気は増した。大腿部の付け根から、肝臓動脈まで「動注リザーバー」というカテーテルが埋め込まれた。そこから、アドリアマイシンを注入。
再発の告知直後の私にとって、どんな治療がより適切なのか、判断する材料もなく、ただ医師にお任せするしかなかった。
抗がん剤を打ちながら、カテーテルを挿入した医師は「あまり期待しないでくださいね」と言っていた。
私のような状態になると抗がん剤も、効果がないことが多いそうだ。
一週間後、二回目の注入の前に、レントゲンをとると、肋骨からはみ出て大きく写っていた肝臓は、心持ち小さく見えた。
「先生、小さくなっていますね」と話しかけると「う〜ん、確かに」と驚きとも、怪訝そうともとれる表情で私のレントゲンを眺めていたのである。
たった、2回のアドリアマイシンの注入で、私の肝臓は、正常な大きさに戻ったのだった。
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2004/6/21  15:34

再発して(入院生活2)  再発して
私が、入院して、できる事といえば寝て、少しの食事を食べて、やっとトイレに行く。こんな状態であった。
癌になって、再発するまで、私はいくつかの本を読んだ。日々の忙しさに追われながらも、病気のことを、ほとんど忘れることができず、何かを捜し求めていたからだろう。
その本の中で自宅から2冊持ってきてもらった。
一冊はアンドルー・ワイル氏の本である。私はこの本の中に出てくる「奇跡的に治癒」した人々の物語を何度も読んだ。
ともすると、絶望に陥りそうな気持ちを支えてくれたのである。
もう一冊はチャールズ・V・W・ブルックス氏の本(「センサリー・アウェアネス」)である。私はこの本を読みながら(眺めながら?)ただ、寝てること、座ること、呼吸すること、そんなことを通して自分を感じることで、心地いい状態になることを知っていった。
姉が面会の度に、香りのよい花を持ってきて飾ってくれた。吐き気が続き、少しの嫌な臭いにも敏感になっていた私にとって、よい香りは安らぐものだった。
私が一番リラックスできたのは、音楽を聴いているときだった。ベッドに寝て、または座って深呼吸したり、夜、いろいろな雑音により眠りを妨げられるとき、音楽はとても効果的だった。
鳥の鳴き声や川の水の流れる音などの自然音やギターの柔らかい音が心地よかった。
イヤホーンを使いすぎて耳が痛くなってしまったのは困ったが。
治療や検査の合間に、また治療しながら、少しでも気持ちよいことをしようと思ったのだった。
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2004/6/20  9:01

再発して(入院生活)  再発して
検査と治療で忙しい毎日を過ごす。
肝臓の肥大により、吐き気、鼻出血、背部の痛みがあり、殆どベッドに寝たきりになる。寝返りさえ苦しかった。
血液中のカルシュウムを下げるために、アレディアという薬を使う。効果あり。瞬く間に、カルシュウム値は正常になる。
ベッドに寝てると、子供の顔が思い浮かんで、涙が出る。闘おうと思いながら、涙が止まらない。カーテンを閉めた一人の狭い空間で泣いてばかりいた。看護婦がたまたま、カーテンを開けて私が泣いているので、慌ててしまったり・・。
同室の人で肝臓ガンらしい人がいた。話す元気もないので、会話はしたことがなかったが、症状は私とそっくりである。彼女がお見舞いにきた家族の人に「あの人はなんであんなに、泣いてばかりいるのかしら?」と話しているのが聞こえてくる。本当に私は泣いてばかりだなーと思いながら、泣きたかったのだ。
その彼女は不満も言わず、泣きもせず、忍耐強かった。でも、私が入院中、帰らぬ人となってしまったのである。
姉や友達の計らいで、私は入院中にも関わらず、鍼灸、気孔をしてもらった。外出できない私のために、病室のベッドまで出張してくれたのである。
主治医はこの頃「あなたが効くと思うことはなんでもしてください」と言っていた。
私の姉は看護婦である。私が闘おうとしていることを、すぐ察知してくれ、インターネットで情報を集め、プリントして持ってきてくれた。
私なりに(泣いてばかりいたが)出来ること。今の自分でも出来ること。身体が死への症状をあらわし、そのことに怯えながら、私は必死に考えていたのである。
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2004/6/19  7:55

再発して(周りの変化)  再発して
入院すると、次から次へとお見舞いの人たちが来た。どこから、聞きつけてきたのか、数年音信が途絶えていた人さえ来てくれた。家族、親戚、友人達、同僚達。お見舞いに来てくれるのは嬉しい。病院で一人ぼっちなのだし、心も身体も弱って寂しいのだから。

しかし、そのお見舞いがだんだん、わずらわしいものに感じていくのである。それは、私が具合が悪そうな顔をしてると、みんながみんな、恐れたような目でみるし、元気そうにしてても、腫れ物に触るような感触で接してくる。確かに、こんな病気だし、きっと私でも退きたくなるだろうなーと思う。見知らぬ人なら・・。

あとは、カウンセラーみたいに、私を諭す人。宗教の本なんて持ってきてくれる人。みんなに、共通するこの嫌な感触は「この人はもうすぐ死ぬ」という目である。自分だって、私のお見舞いの帰りに交通事故で死ぬかもしれないじゃない?なんて、心の中で思いながら、表面的に「ありがとう」と言ってる私がいた。

私は、今、死のうとしてるんじゃない、生きようとしているんだと、心は叫び続けていた。
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2004/6/18  7:53

再発して(入院して)  再発して
仕事の引継ぎをして、入院したら、主治医が変わっていた。とても若い医師で私は途端に不安になる。
病状やこれからの治療などを語る医師。私は「◯◯先生を信頼して入院したのに、何故変わったのですか?」など不満をあらわにしながらも、病院とはこういうものかと、諦めもあった。
しかし、若い医師はこう言った。「治療はほどほどにして、早めに退院して、ご家族と過ごす時間をなるべくとりましょう」と。
再発して、私はまだ何も治療を受けていない。これから、力の限り闘っていこうと決心して入院したのに・・・。
「先生、私と一緒に闘ってください。私は諦めていないんです」そのようなことを凄い剣幕で言った気がする。
その日のうちに、元の主治医がおずおずと私のベットにやって来た。
具合も悪く、入院のごたごたで疲れきっていた私は、口をきくのもわずらわしく、指先を動かす事さえだるい。
黙ったまま、たぶん虚ろな視線で元主治医を見ていたのだろう。
元主治医は、何も告げないで主治医を交代した言い訳やこれからも自分が治療すると言う話をしていた。
私は、もうそんなことはどうでもよくなっていて、自分の身体の辛さに耐えていたのである。
しかし、これが私と主治医の本当の信頼関係作りの第一歩だったのである。
医師は治療における唯一のパートナー。特にこのように、生命の極限においては、その信頼関係は非常に大切なものである。

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2004/6/17  9:57

再発2  再発して
おかしなものである。再発が見つかるまでは、毎晩「こんなに辛いなら死んだ方がまし」という考えに取り付かれていたのに、余命が僅かかもしれないと言う事実を知らされた瞬間、心の奥のどこかから「生きたい」という爆発的とも言えるエネルギーが沸いたのである。
その時の事を思い出すと「火事場のばか力」と言う言葉が浮かんで、少し滑稽でもある。
人間の生存本能とは、こんなにも強いものなのだなと。
即日、入院するように医師に言われた。
私の身体は、肝臓転移の他、血液中のカルシュウムが異常に上がっており、体液の電解質がアンバランスをきたし、放っておくと心臓が止まりかねない状態だった。
しかし、私は何をとち狂ったのか、入院を一日伸ばしてもらい、仕事の引継ぎ、後始末に行ったのである。(どこまでも仕事人間である)
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2004/6/17  7:52

手術後の私、そして再発。  再発して
怒涛のような仕事をこなして、日常に復帰した。なんとなく重い身体を引きずって・・。
そう、だんだんと身体がおかしかった。肝臓は沈黙の臓器と言われるようだ。悪くなっても症状があまり出ない。
私は、再発が発見されるまで、目のものもらい、風邪、理由無く続く微熱、膀胱炎を度々繰り返しながら、何かがおかしいと思いながら、日常を送っていた。
また、頭の中では、病気になる前のように「70、80歳まで生きるのは当たり前」として将来のプランを無意識に立てられる自分ではなくなっていた。
病気に対する恐れを感じながら、日常に流されていたのである。
そのうち、仕事が終わり、家事を済ませ、布団に入る頃になると「こんなに辛いなら死んだ方がまし」という、言うにいえない、わけの分からない心理状態に陥り、病院に行った。
「上腹部に硬いしこりがある」と・・。
私のお腹を触った医師の顔色は変わった。
腹部のCT検査を行った。画像に映し出された私の肝臓の三分の二は癌で占められていた。
その画像を見ながら、私は「長くはもつまい」と考えていた。そう考えながら、医師には「三年でいいから生かさせてくだい」と涙を流して頼んでいたのである。
子供が中学校を卒業するまで、生きていたかった。
後で聞いた話だが、その時私の家族には「余命3ヶ月」と告知されていた。
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