2006/1/28  23:22

1月28(土)  ロケットサラダの日記
おばあちゃんの家を譲り受け、母と妹と私で大きくて業務用みたいな冷蔵庫の修繕を依頼すると言う夢を見た。私以外の登場人物はみんな死んだ人だ。死んだ者に会えるという点では良いが、何か悲しさを伴う夢だった。夢の中でみんなが死んだ事を自覚しており、嘆き悲しんでいる様な感覚だ。妻は出てこなかったが、現在父との侘びしい2人暮らしだから、子供の時の家族構成を夢見たんだと思う。

眠りが分断される毎に違う夢を見ているが、どれもスカッとするものではなく悲しみを伴っているので寝るのがちょっと憂鬱。多分起きている時の状態がちょっと憂鬱な状態だからそうなるのだろう。最近、抗鬱剤や安定剤を飲み忘れまくっているからか、少しずつ欝っぽくなり情緒も微妙に不安定な気がする。出来るだけちゃんと決められた回数薬を飲まなければなと思う。

どうも今日は、今はなき母に会いたいと言う思いが頭の隅にあった。この歳になってこんな事を書くのは恥ずかしいのだけど、なんだか母にかくまってもらいたい様な感覚。妻も失ってしまったし、この日記には詳細に書いてないけど、最近訓練所での人間関係も上手く行っておらず孤独感が強まっているから、情けない私は母の母性に包まれたくなったのかもしれない(妻が居ればそんな事は微塵にも思わないだろうけど)。

先日、先輩に言われた、お前は自分を美化しているという言葉も軽く流せればいいのだけど、しつこく心に刻まれてしまい、なんだか人と打ち解けて関わる事に恐れを抱いてしまった。また臆病な自分に退行してしまったかもしれない。

世間的に見れば私はまだまだ若い。だけど悲しい思いをたくさんしてきた(そんな人は一杯居るだろうけど)。その結果なのか、元々の性質なのか、現在の私は自堕落な日常を繰り返している。常識やエチケットの感覚も低下し、人の気持ちも解せない人間になっている。でも、ダメ人間じゃない人間って一体どういうものかよくわからない、ワケの判らない状態だ。

こんな私にとって社会とは何なのか、他者とは何なのか、生きる事って何なのか。妻の形見であるV.E.フランクル氏の『宿命を超えて、自己を超えて』という本のキャッチ・コピーの「“意味”こそが人を救う」の“意味”とは何なのか。ていう所まで考えられない。生を肯定する所まで行けるエネルギーが不足している。ガス欠状態だ。

今日は長時間漫画喫茶に滞在して『東京大学物語』を最終巻まで読んだ。だが、その内容は、結局物語の最初から最後まで少年だった村上の1つの妄想を長々と現実の様に描いていたという結末だった。と思ったらそれも含めて、子供時代の遥ちゃんの妄想であった。

確かなものが欲しい私にとって、結局全ては妄想という結論は気持ちよいものではなかった。物語に出てくる遥ちゃんは何度も妻とダブった。まるで妻そのものではないかという場面も何度もあった。だから最後まで読めのに。

でも、愛すべき登場人物も何もかも全て子供の頭の中で作られた妄想(幻想)であり、現実には存在しないとなれば、妻と暮らした記憶も現実ではなく妄想に過ぎなかったのかという心地悪さがあった。なんで確実なハッピーエンドにしてくれないんだ。私は確かなものを求めているのに(私の我侭なんだけど)。素晴らしいと思っていたもの(全然素晴らしくなく酷い場面も何度もあったが)が、蓋を開けてみればただの妄想だったなんて現実を突きつけられるのはそれはそれで残念。

家に帰ると何もかも妄想だという呪縛がとけてきて自分の部屋に入りビールを飲んだ。でも、あの漫画が私の心に残して行った物は精神衛生上よろしくないと言うのが実感だ。現実が判らなくなってしまい、何もかも信じられなくなる。

作者によるあとがきをパラパラっと捲ったが、それは自分が弱いからで、それを上回るもっと強い妄想を持って生き抜いて行けという事かもしれない(もの凄い曲解な気がするが)。けど、あとがきは疲れていてきちんと読めなかったから、本当の所はよく判らないな。
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