Depressed human input and output.
HN:ロケットサラダ
♡₍₍ ◝(・ω・)◟ ⁾⁾♡
※最初から2005年7月30日まではHNのりの『私の闘病日記』です。
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2005/2/11  16:19

回復傾向。  死について
昨夜もまだ微熱(37.2)が出ていて、身体の痛みもあったので、ロキソニンも飲んだ。でも朝の分は飲まずに耐えられた。今朝もかなり回復してきてる感じがある。今も座ってキーボードが打ててるし。

手の火傷のようになっていたところは痛みは治まり、現在は皮膚が剥けている状態。浮腫みも完全とはいかないけどかなり取れてきた。全身的に皮膚が赤くなっていたところが段々と、シミのように黒ずんできている。炎症が治まりつつあるようだ。次の治療まであと10日あまり、それまで治療できる体調を作っておかなければならない。

私は時々自分がマラソンの現役選手になったような気がする。何度も繰り返し繰り返しマラソンを走り続ける。全力で走り続ける。体力の限り走り続ける。でも、走れなくなったら、ゆっくり走っても許される治療が出てきて欲しいと切に願う。引退後の選手のように。

私は生きることを諦められない。私に穏やかな死なんてない。私は生きたいのだから。だいたい、若い人に穏やかな死なんてあるのだろうか?人生を全うしたいと思うのが自然なことではないだろうか。穏やかな死があるとすれば老人でほぼ人生に思い残すことが無くなった人の死ではないか?そういう人の死を人は「大往生」と呼ぶのではないだろうか。生きようとして苦しみもがく姿を決して醜いとは思わない。
私のこの若さで「死にたくない、もっと生きたい」と思うのは当然なことだと思ってる。「生きたい」という事と「楽になりたい」という事は違うと思う。
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2004/12/16  12:46

死を受け入れる。  死について
私が再発して、特に医療従事者(若い人に多いな)から感じることなんだけど、死を受け入れるように促されているように感じることがあるんだ。自分の絶望的な未来について、冷静に動揺することなく受け入れろっていうのか、悟れっていうことなのかわからないけど、そういう風に感じるときがある。
具合悪くて、たんにうつ傾向がでて疑心暗鬼になってるときなのかもしれないけどね。

「死の受容」なんて言葉も流行ったときがあるね。私も死は受け入れる必要があるものなのだろうかと随分考えた。取り乱してみっともなくしないようにとか。ここまで生きてきて、私は年中取り乱してるし、泣いたり、当り散らしたりさんざんだ。

癌の再発というのが不治の病とされているので、今まだこうして生きているのに、死ぬことばかり考えなくちゃいけない。それは死の恐怖から逃れるためだろうか?病気の苦しみから逃れるためだろうか?

そう、私はこんな思い通りにならない身体を抱えて、治療の苦しさを一生抱えて生きていかねばならないと考えただけで、それは死ぬより辛いことだったかもしれない。そして、いくら頑張ってもよくなる見込みなんて限りなく0に近いと思えば、そこには絶望しか湧いてこない。
現代医療の限界、予測が私を絶望へと駆り立てる。

でも、結局私の今の答えは悟らなくてもいいんじゃないかって思う。交通事故で死んでしまうように、いつか死んでしまうものだし。100歳で死んでもきっと思い残すものはあるかもしれない。人生の終わりはいつも旅の途中でいい気がする。生きることに向かってそのまま生きて死んでいく。それで十分な気がするんだ。誰でもきっと死のその瞬間まで懸命に生きているのだと思えるし。

前にも書いたけど私に死の準備はいらない。常に生に向かって生きてそして、いつか死んでいく。死を考えることは、私にとって死のうと思うことではなく生きようと思うことだった。そして、死を受け入れるとは生きる苦しさを受け入れることだった。
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2004/11/27  21:57

死のイメージ。  死について
時々、死について考えてしまう。
以前の私の死のイメージは、生と死の間に垣根のようなものがあって、死ぬためにはその垣根を飛び越えなければならなかった。その垣根を飛び越えるのはとても怖いものだった。
目をつぶっていても、その恐怖は私にひしひしと押し寄せてくる感じである。

最近、その死へのイメージがいつの間にか変わった。死と生の間に垣根が無く、一本の道のようになっていて、真っ直ぐ繋がっているのである。垣根がないので、飛び越える必要も感じることがない。なので、死をイメージしても恐怖心がわかない。

何故このように変化したのかわからない。これがいいことなのか悪いことなのかもわからない。また変化するかもしれない。

これは、イメージだけの話であって、殺されそうになったら怖いと思うけどね。
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2004/11/3  14:59

死後の世界。  死について
いつになるかはわからないけど、いつか誰でも死ぬことに変わりはない。
死については今まで何度も考えてきた。
私の母なんてもう老人だけど、それでもまだこの世に未練あるみたいだし、生きていたいみたいだね。70、80、90になったことがないからわからないけど、年寄りになったからっていつ死んでもいいってわけじゃなさそうだ。
でも、病気による苦しみは若い人の方が大きいと思う。老人であれば、病気で働けなくても当たり前だと思えるし、家の中でじっとしていても体力の衰えを感じてもそれが自然の摂理で誰もが引き受けていく老化だ。諦めもつきやすいし適応もしやすい。
若い人は社会から求められるものも違うし、回りの人間関係もパワフルだ。その輪からはみ出ると疎外感があるし。そういう社会的経済的部分での苦しみも病気の苦しみに輪をかける。

あまりにも苦しいと、苦しみから逃れたいために死にたいって思ったりするけど、本当に死にたいわけじゃないね。ただたんに苦しみから逃れたいだけなんだ。
そういう意味では私は死にたいなんて一度も思ったことがない。
たまにこんなHPを覗くんだけど大学の先生なのに変わってるなって思って。
飯田史彦 研究室へようこそ!
死後の世界があるとかないとか全くわからないけど、わからないから信じるのも悪くないかもしれないって思う。だからっていますぐ死んでもいいなんて思ってないけどね。

今日は昨日までの苦しさもどこへやら。調子が回復してきてます。
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