2009/5/30

エフタとその娘  画像歌

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画像引用  愚者の侃々諤々 ヽ(´∞`)ノ 
生け贄の誓ひぞ重き凱旋の我を眞先に迎ふるはわが娘

古代にあつて誓約といふものがかくも重いものであつたかとかつて文語訳聖書で読んだ際の衝撃と感銘を思ひ起しつつ。


主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ついで、ギルアデのミツパを通って、ギルアデのミツパからアモン人のところへ進んで行った。
エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。
ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。

エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」

すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」

そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」
エフタは、「行きなさい。」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。
二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行なった。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、
毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。

文書引用  日ごとの糧
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2009/5/29

雨音  日常 時事

轍の音迫る刹那を目覺め聞く梅雨のはしりの雨音あはれ

消息の至らず久しいつの間に丈高くなる辻の葵よ

太りたる若きと痩せて小柄なる老婆相逢ふ常の朝路地

滑走路脇の草叢ともおもふ童子やすやすとわれをつまみ上ぐ

いらち待つ量刑沙汰か咳まばらに主文を後回しの判決は
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2009/5/28

裏路  戀さまざま

赤坂の裏路を降りみ降らずみの雨の夕べをあひあへるもの

後れ毛をかきやるしぐさ得堪へねど辛くも踏み留まる陸橋よ

わが上を過ぎし男の數思はず雨染む袂にいざなふ君の手

産破れ立ち尽くす辻痴れ眺むかつての女連れ入る宿を

襟ぐりの汚れて首周りの血管めり込み見えぬ昔の夫の
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2009/5/28

生け贄  讀史つれづれ

生け贄の誓ひぞ重き凱旋の我を眞先に迎ふるはわが娘

藤花の房も涙す埋葬の禁破り生き埋めにせられゆく王女

その間に姦婦も后とそなはれり薔薇が色分けせし敵味方

たはやすく吟遊詩人を招く閨枕の數を刺繍す蘭に

照らし見る鍾乳洞の瀧つ瀬に括り合はせし男女の骸
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2009/5/28

テロップ  日常 時事

慣れ呆れマスク姿もまばらなる驛に降り立ち見入るテロップ

誰も皆哀號の面堪へ切れぬなかを柩よ誰も恨むな

恨むなと言ひ遺す語を踏みつけし痕まざまざと地震波の規模

一國の尊嚴を踏みにじる徒のやすやす浸透せし「人權派」

裏切りを上書き保存せよとしもミサイル二發日本海へと
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2009/5/28

寫生の 戀  画像  画像歌

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中の島のお堂に至る蓮の布置教へて見下ろす胸の谷間を

不忍池を散策の途次、熟年の写生の群れを眺めつつあらぬ妄想をふくらませてなつた一連の中の一首です。彼ら丁度この写角から弁天堂を写生してゐました。
 素と自分は無趣味無味乾燥な朴念仁に過ぎぬけれど、言葉は大いに運動させてやらなければ、中枢神経が鈍ると憂慮し、あへておふざけの一連を提供して置きます。
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2009/5/28

寫生の 戀  戀さまざま

肩掛けのバッグの紐がくつきりと際出たせゐる胸のふくらみ

婚運のなきと寫生の趣味あるをよすがと成れる今日の出會ひよ

中の島のお堂に至る蓮の布置教へて見下ろす胸の谷間を

池の端の小瀧に立たせ撮る寫眞プロフに省く脣から上も

涅槃圖の足裏か否浮浪者のほとり犬の子の後足のワゴン
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2009/5/28

野の花あはれ  画像歌

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画像引用上まりっぺのお気楽読書下wikiedia

下賜せむにものなきかつての皇后の摘みてたまへる野の花あはれ

これもひとつの女の一生かと。
皇后時代の肖像はなるほどマリーアントワネットを意識した風姿です。
この歌の題材にした逸話を伝へる外交官の名は只今失念しましたが「煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。」といはれる皇后のお人柄しのばれるところです。
 皇帝と皇太子に先立たれ八十八歳頃のお写真とのことです。

「ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo, 1826年5月5日 - 1920年7月11日)はフランス皇帝ナポレオン3世の皇后。

彼女はテバ伯爵令嬢マリア・エウへニア・イグナティア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック(スペイン語: Doña María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick, Condesa de Teba)として生まれ、結婚にともない、フランス皇后ウジェニー(フランス語: Eugénie, Impératrice des Française)となった。

1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Président)主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。

1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。

ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さおよび伝説的な宝石は数え切れない絵画、特に彼女のお気に入りの画家フランツ・ヴィンターハルターによって記録されている。ウジェニーのマリー・アントワネットの生涯への興味は、ルイ16世の頃に人気があった新古典様式の家具とインテリアデザインが宮廷の装飾に多用された。 「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。また、ウジェニーはマリー・アントワネットの肖像画や遺品をコレクションし、それらを集めた展覧会も開き成功したが、中には悲劇の王妃に傾倒する皇后を心配する人々もいた。

煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも影響があった。1866年には女性を初めて電報局で雇用している。

普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(Chislehurst)に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーのファーンボロー(Farnborough)にある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語でコルシカを意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ近くのカプ=マルタン(Cap-Martin)に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。

ウジェニーは1920年7月に死んだ。94歳であった。アルバ公を訪ねてスペインのマドリードに滞在していた際の死であった。」
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2009/5/28

誰も恨むな  画像歌

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画像引用「朝鮮日報」

誰も皆哀號の面堪へ切れぬ中を柩よ誰も恨むな


 昨夜十時過ぎに仕事先から帰りネットに接続してみればかかる報道に一驚。そそくさと癖付けてゐる五首一連にまとめたところがアクセス異常に増殖して、普段二桁に至れば足れりとしてゐたところを十倍以上の訪問あり、それでゐてコメント・トラックバックの類は一向なきをいぶかしんだ次第です。

 以前仕事先で在日のといふよりは日本語堪能なる滞日の方と知り合ひ親しくなつたことあり談たまたまネポチズムはびこる韓国の政治風土のことに及び、ノムヒョン末期とはいへ未だ大統領職にある時点で、2チャンネルなどでノムヒョン逮捕はいつかなど無責任なとりあげがされて居る例を引いて、さういふ前任者への報復式なことはせずに穏便に済ませられればよいねといつたところが、「いや、徹底的にやるべきだ。臭い物に蓋なんてことするのは日本人だけだよ」といふ答へで彼我の心性の落差にあらためて思ひを致した次第です。

 ノムヒョン氏は自家撞着式な主義主張の下性急に歴史の清算を迫り、親日派の断罪に身命を賭されたやうですが、結局ご自身が歴史に清算さるべき身と悟れる果ての今回の件ではなかつたかとおもへてならぬ。

 「恨」とは日本文芸の「もののあはれ」に相当する韓国民の基本情調といはれますが。今回の件が迫つたことは「恨」の根本的清算ではなかつたか。

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2009/5/28

「逝去」  日常 時事

滑落と自殺の線引きの難きか嘆息す歸り來てネットを開けば

國柄をとれるゲバ学生としも思へる「恨」の申し子あはれ

おのづから冷めてしづけきまじらひに移りゆく頃むくげも盛るや

窓の外はいつしか雨に移りゐておもふ藤波の伸びゆく丈を

せめてもの清廉のかさぶた剝がれ滑落より他なき宿世か

 ノムヒョン氏の逝去を知りこれを悼む一連ですが、これほどいたましく悔しい悼歌を詠む期も又とないか。ただ合掌。

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