2009/5/28

事故処理  戀さまざま

ホテルより出しなにどきり事故処理の群れいつの間に救急車まで

出會ひもまた事故に似てゐるなどいひて突き上げてゐた腰に手回す

先刻まで彼の猫ちやんだつた我手提げバッグの中の首輪で

出會ひ系より送り來る寫眞ありいきなり胸を強調されても

見比べてにやついてゐる彼の頰張り倒さうか胸のパンチで
0

2009/5/28

偶成  日常 時事

つつましき樟の花穗の薄緑みとめて降り來その五階より

無料パスもて女連れゴルフへと向かふ議員氏の話もあれど

家族して向かふテレビは何のよき兆しか地震の少なき今年

はしやぐなく怖づなき群れと行きつれて塔の下なる牡丹園まで

敵失に乘じて保守は生き延びてゐるかされども輝く牡丹
0

2009/5/28

春と夏の境  日記と歌論


藤棚の前を過ぎつつけふこの日俄かにとつぐ人をおもへれ

春と夏の境はどの辺を基準とすればよいか迷ふことがある。


 といふのも、当ブログは既に収録歌数五百六十首に及び、元々立冬から始めたこのブログの流れを四季の名を副題として四部構成にし、歌数多ければこれを冬と夏で上巻とし夏と秋を下巻とする形でまづはお盆くらゐまでにブックサービスを利用して上巻を小部数作らうかといふ心積もりだからである。

 既に立夏を過ぎて夏日も幾度かあつてこれを初夏としてもよいかと思ふに当地では未だ藤が咲かずにゐる。

 藤の花は歳時記には春に分類せられてゐるので古俳諧の時期から暦上の季節と実感の季節とは分けて考てゐたこと明らかである。桜の花期長かつた分を押し出されて延びてゐるわけでもあるまいにこのままでは紫陽花や葵に先を越されかねぬとやきもきしてゐるが、その分春の章をひきのばせてよいかとは思ふ。

 春の末に咲き垂り夏に入つても長く目を楽しませる花ではある。子規の著名な藤の花の歌中に
「瓶に挿す藤の花房花垂れて病の床に春ゆかむとす」
とあるはまさしくそれをいふ。

 五月病とも形容される時期に種々ものをおもはせる花でもある、冒頭の歌はまだ若く多感なりし時期の失恋とまでもいへぬかすかな喪失感を纏綿と包み呉れるがごとき花房に癒されつつ、半ばはうれひもつ己に陶酔しつつ詠んだ焚きあましまでだが。

 雪のなき都の冬を詠むさへあれなほ待たさるる藤の盛りよ

 東京に移り住みこの一年ばかりは短歌と正面から取り組まうとして見て困惑したは、当地十年ばかり前から殆ど雪らしい雪が降らぬとのことで、雪国に育つた自分には何んとも冬の気がせず、絵にも歌にもしかねたことである。

 温暖化の大元の都市でもあり、交通事情からして二三センチの雪でも大混乱にならうこと目に見えてゐるので当局は安堵しをらるるであらうが、歌詠む側には又環境面からもいかがなものかとおもへる。そこで二月の半ばで切り替へるつもりでゐた春の章も三月のこゑを聞かうといふ日まで延び、冬の終りに来てやうやく初雪を詠む羽目にはなつた。

 とまれ自分は文芸には修羅場と濡れ場は付き物と看做し自己の日常時事詠の地に恋と歴史の詠を織り交ぜる形で、姿勢は飽くまで淡々と内に修羅を蔵しつつ詠みかさねてゆくつもりである。

 代述心緒の項目は五首一連の中でも頻々と作主が入れ替るのでめまぐるしい思ひされる向きもあるか知れぬが、私が図書館書店新聞等でつれづれに立ち読みした作をある程度作為を以て収集し綴りあはせたものと観じていただければよいか。とはいつても自作であることは確かだが確かに自分以外の誰かの或いは言霊の作でもある。

 自分は短歌を一義的に専門とするものではなく、歌壇と交渉もないが、しかしこの手法がやがて一般歌人の間に及ぼしてゆくものあるであらうことは自負してゐるので未だ訪問数まばらとはいへ心ある諸氏らよろしくお見守り願ひたい。
0

2009/5/28

尾羽  讀史つれづれ

尾羽をうち枯らして國境に辿り着く囊中寸錢のみの元帥

たちまちに辨士中止のこゑすれば緒の切れし下駄もちて報せに

閨中に卒中起すマダムを捨てシャツ裏返しに着てモボ路地に

恥ぢらひも捨てて母と娘の荷ひ來る芋五六貫牛蛙など

おめかしで出かけゆく子の脱ぎ放す部屋片付けておもふ時代よ
0

2009/5/28

「敗北」  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

画像ウィキより ケネディ ニクソンのテレビ討論 一般にはこの際の両氏のテレビ映りが勝敗を分けたといはれる。

一刻の遲滞は破局 冷戰の今ぞ敗北を認めて他日を

 一九六〇年のアメリカ大統領選挙は歴史に残る接戦となり、僅差で敗れたニクソンは選挙法上、大規模な選挙不正を行つたこと明らかなケネディ陣営の票の再点検を求めて提訴することも出来たが、米ソ冷戦下の世界での合衆国大統領の地位の重要性、一刻の空位も許されぬ状況に鑑み逸早く敗北を認めて、青年大統領がキューバ危機を乗り切るその前段の下拵へをしたといつてよいか。そのケネディは父親が不正で以て当選させるに力を借りたマフィアの取り締まり強化に乗り出したことが誘因となつて、マフィア側からすれば「公開処刑」ともいふべきやり方でダラスに撃たれたのであるが。

 それから四十年後の大統領選挙も又接戦となり、一旦はブッシュ勝利を伝へたものの総得票数で上回るゴア氏側が票の再点検を求めて提訴の挙句一月以上の迷走繰り返した末にゴア氏が敗北を認めてブッシュ氏に落ち着く経緯があり、冷戦後の緊張弛緩して重箱の隅突くごとき騒動にはやや鼻白んだものである。ゴア陣営が早期に敗北を認める度量見識あらば、昨今の大不況もかかる惨憺たるものにはならなかつたのではと思へてならない。

雌伏八年の後に大統領に就いたニクソンはケネディがはじめたベトナム戦争を終結させ緊張緩和の外交を大胆に推進して冷戦終結への一歩を踏み出すものの、ウォーターゲートの一件で弾劾必至の情勢となり辞任に追い込まれたがケネディともどもそれぞれの時代の要請に応へ時代を牽引した逸材であつたことは間違ひない。
 よつてこの一首の作者はニクソンに帰すべきである。
0

2009/5/28

ますら女  戀さまざま

たわや男に惹かるるますら女の胎に宿る命はたぶん坊やか

縋られてゐることどこか生き甲斐になれりや傍で茶碗拭く君

耳をあて聞く心音にあやされていつしか膝を枕に寝しか

陣痛にふためく友と奥さん乘せ向かふ車も思案の外か

駈け入りていくばくもなく聞こえ來る産ごゑけだし母そつくりか
0

2009/5/28

ザマの仕返し  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

直進の他無き象の隊列を逸らして成れるザマの仕返し

アルプスを越えてローマに侵入して滅亡の瀬戸際に追ひつめたハンニバルも彼の戦術に学んだスキピオの前に惨敗を喫する時が来た次第ですか。

ザマの戦い(ザマのたたかい)は、紀元前202年10月19日に北アフリカのザマで起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。大スキピオ率いるローマ軍がハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争の趨勢を決した。

戦いは戦象による突撃で始まった。しかし、スキピオの事前の配置が活き、戦象はローマ軍の隊列の隙間を通り抜け、突撃は大きな効果をもたらさなかった。前進以外の行動が不可能である戦象は、方向転換のために停止したところを、ローマ軍軽装歩兵の投槍や鉦によって混乱し、無力化してしまった。戦象の突撃失敗を見たハンニバルは、自軍の騎兵を後退させた。。

しかしながら、歩兵同士の戦いは、傭兵からなるカルタゴ軍に対し、質で勝るローマ軍が有利だった。カルタゴ軍第一列の傭兵は、ほどなく圧倒されだした。ハンニバルは第二列の市民兵に攻撃を命令したが、大半が新兵で構成されていた第二列は、怖気づいて前進を拒否した。そのため、第一列と第二列の間で同士討ちまで発生した。やむなくハンニバルは事前の予定よりも早く第三列の古参兵を投入することにした。

疲労したローマ軍に対し、第三列の古参兵は優勢に戦闘を進めた。ローマ軍戦列中央を大きく押し込んだが、このためにカルタゴ軍は、湾曲したローマ軍戦列の両翼に包み込まれるような形になっていた。中央を突破すればカルタゴ軍の勝利は確実だったが、そうなる前に、カルタゴ軍騎兵を駆逐したローマ軍騎兵が戦場へ復帰した。ローマ軍騎兵はカルタゴ軍の後方へ回り込み、歩兵戦列の両翼もカルタゴ軍の側面へ機動した。スキピオの企図したとおりにカンナエの包囲が再現された。包囲されたカルタゴ軍はパニックに陥り、傭兵や市民兵は大半が降伏した。古参兵は必死に抵抗したが、そのために彼らは殲滅された。

この戦闘で、カルタゴ軍は約20,000名の死傷者を出し、15,000名が捕虜となった。ハンニバル自身はわずかな供回りとともに逃亡した。一方、ローマ軍の損害は戦死1,500名、負傷4,000名ほどであった。戦いの帰趨を決したのは、カンナエの戦いと同様に騎兵の後方機動にあったといえる。また、スキピオが採用したといわれるグラディウスが、歩兵同士の白兵戦を有利に進めたのも勝利の一因といえるだろう。

画像、記事ウィキペディア
0

2009/5/28

東京驛  日常 時事

寝不足の眼で降り立つ娘感染の報傳へ來る大阪よりのバス

南口すぐの高層より望む丸ビルを臺座と建立せしビル群

垣間見る皇居の杜よ有樂町の驛は眼下に玩具のごとく

てきぱきと鍵解除して導ける江戸言葉の娘の胸盛り上がる

感染者間近に座りゐしばかりに外出もままならざる旅行者
0

2009/5/28

殉教  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

画像引用元西海市教育委員会

わが穴に隣れるパドレころぺりと呼ばへどなほも堪へつつ我は


幕府は、最初こそキリシタンを次々と殉教させていったが、崇拝の対象となる栄光の殉教者を作ることを良しとせず、拷問により棄教を迫ることに方針を切り替えた。これによりさらなる悲劇が生まれていくこととなる。一例を『沈黙』で有名なフェレイラ神父の棄教で紹介しよう。

1609年日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように熱心に布教活動を行った。1614年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続する事になった。その後フェレイラは日本準管区長として、潜伏司祭達の柱として活躍する。そんな彼も1633年ついに捕らえられることとなった。キリシタン教界は彼が殉教するものと信じて疑わなかった。

彼は、元天正遣欧使節の中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであったが、そのやり方は残酷極まりない。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、などそう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。

5時間に及ぶ拷問の末、フェレイラは転んだ。
その棄教の時、吐いた言葉は「南無阿弥陀仏」であったという話がある。

幕府は家康の祖法を守るため、仏教中心の思想統制を行っていた。キリスト教否定のために仏教を用いるのが幕府のやり方であった。穴吊りで意識が朦朧とした者に刑吏が「念仏を唱えよ」と迫るのである。これが棄教した転びキリシタンに、どれほどの精神的苦痛を与えたかは計り知れない。

転んだフェレイラを待っていたのは、さらなる生き地獄であった。江戸の小日向にある宗門改方・井上筑後守政重の下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることとなった。
沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに棄教をすすめ、宣教師との通訳を務めた。
彼は1650年長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた。
ちなみに同じ時同じ拷問を受けた中浦ジュリアンは、穴吊りに屈せず殉教している。

http://hasamiooen.fc2web.com/2008-report-nakaura-jurian.html

実際にはフェレイラがころんだのはジュリアンが殉教を遂げて五時間後であつたやうですが、フィクションとして劇的要素を加味してかく詠みました。
0

2009/5/28

気まぐれの虹  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

携帶をかざしてあふぐ群れにつられ見れば虹立つ夕暮れの空

 仕事帰りの駅前で撮つた虹を肴に、恋人の母から迫られる男と、それをうすうす気づきながらなほ添ひ続けむとする女の情景に仕上げた連作をつい先ほど転送致し置きましたが、こちらの写真は実景です。
 気まぐれの虹とは惚れ惚れしくもなやまされますね。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ