2009/5/28


携帶をかざしてあふぐ群れにつられ見れば虹立つ夕暮れの空

うち屈してつなぎ合ふ手もならはしととなれる間色めき立つ君のこゑ

この虹をなつかしむごと君われを憶ひ留めむ日はいつまでぞ

乘り繼いで降り立つ驛にふたたびの雨君が母迫る契りよ

生贄とせしものの數誇るがに春のなごりの雷鳴りにけり
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2009/5/28

内府が靴音  画像歌

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事務室の誰も肅然と身を正す廊下に響く内府が靴音

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は従一位勲一等。

維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。
 木戸の病死、征韓論をめぐる対立から西郷失脚後内務卿として政府を独裁、逐次改革を進めるも、明治十一年加賀藩浪士らに紀尾井坂にて暗殺さる。

「寡黙であり、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言う。桐野利秋も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一喝されてすぐに引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛も、大久保の前ではほとんど意見できなかったという。

大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った。

内務省で勧商局長などを務めて大久保の部下であった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省では、伊藤博文内務卿の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの話をしたり、仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。

以上ウィキペディアより。写真同

 昨年暮れに詠んだ詠史歌です。好悪さまざまでも大久保といふ人は明治以降これまでの政治家中匹敵する人はゐないかと思はれる人傑ではあります。
 有名無名とりどりの人物場面に取材してをりますので、折にふれ自注に替へて画像歌の形で紹介してゆきます
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2009/5/28

マスク  画像歌

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旅行を終えて家路に着く家族連れ=成田空港第1旅客ターミナルビル(平田浩一撮影)
産経ニュース

連休を終へて歸國の一樣にマスク姿よここは島國

ご存知の事態で、かかる折にこそ民族固有の習性行動パターンが鮮明にあらはれるかなと思ひ一首。
メキシコ現地ではマスクして歩いてゐると怪訝な顔をされたとのこと。が自分の国に足踏み入れるとなれば、そこは和を以て貴しとなし一列横並びをよしとする国柄ではあります。
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2009/5/28

島國  日常 時事

連休を終へて歸國の一樣にマスク姿よここは島國

檢疫の過勞氣遣ふ暇もなく雨に終はれる大連休よ

この朝垣の蔓薔薇伐りもちて鞄に入るる夜勤明け一人

鐵路また麻痺との報せに舌打ちす今日は午後よりの勤めなれども

向ひ家のカーテン陰に猫の子の我をうかがふ陰干す靴下
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2009/5/28

収容  讀史つれづれ

ろっきーデしかごデ敵ヲ防遏セム爲ニ日系人ラノ収容ヲ

精勵の雫を捨て値に賣りて至る砂漠のなかの有刺鐡線

父と子の絆に楔打つごとくしぶとく繰り返す忠誠登録

忠誠を誓へる國の銃口は常に我らに向けられしまま

とどこほる物資を前にいがみ合ふ抗議の拳楊ぐる度ごと
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2009/5/28

石蹴り  日常 時事

石蹴りの石拾ひ持ち我を見上ぐ上着を肩脱ぎにせしその少女

藤いまだ咲きかねてゐる棚の下に爭ふごとき聲する夕べ

戦慄の種にこと欠く世界の爲豚媒介の症例報ずれど

歩行器の老いら小道に行き当り互ひに讓り合ふ花水木

テレビ塔下の間道ふとも濃ゆき情を感ずるたづきの歸り足
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2009/5/28

ゼノビア  画像歌

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写真引用不思議館

寶飾のあらむ限り帶び凱旋の大路へ黄金の鎖に縛られ
三世紀シリア中央部パルミラの女王

258年にパルミラ一帯を治める有力者であったセプティミウス・オダエナトゥスの後妻。
ゼノビアはパルミラ軍に同行しただけでなく、軍装を纏い、その智謀でオダエナトゥスを支えた。
267年にオダエナトゥスが甥・マエオニウス(en)によって暗殺、またヘロディアヌスも同時に殺害され、パルミラはNo.1及び後継者を相次いで失う混乱状態に陥った(ゼノビアが仕組んだともされる)。ゼノビアはウァバラトゥスをオダエナトゥスの後継者に据えると共に自らはその共同統治者となることで、一連の事態を収拾することに成功した。

ゼノビアはローマの迷走に乗じる格好で「サーサーン朝の侵略からローマ東部属州を護る」という名目で皇帝直轄領アエギュプトゥス(エジプト)及びカッパドキアやパレスティナ、カルケドン等のローマ東部属州・都市に軍を派遣して次々と「領土」を拡大していった。ゼノビアは自らを「エジプトの女王」と称し、またこれらの事件から「戦士なる美の女王(Warrior Queen)」とも呼ばれた。実際にゼノビアは騎馬術にも優れた才能を示したという。ゼノビアはカルタゴの女王ディドやクレオパトラ7世の後継者を自称したとされる。


内緒
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2009/5/28

昭和の日  戀さまざま

昭和の日の二めぐりする河川敷に思ひ出のごとくそよ風通ふ

肩に頰寄せつつ今はみどりの日よといふ若妻にふとうち笑まる

春惜しむ頃となりつつ別れたる妻は病めりと子の傳へ來る

成長の夢疑はず經ぬる眼に河原一面の草野球の群れ

何もかも手放して今新妻の宿す命に鼓ひ立たむや
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2009/5/28

アンザック兵  画像歌

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写真引用 [http://ww1.m78.com/topix-2/anzac%20corps.html アンザック軍団]

ガリポリに閉ぢ込められしアンザック兵去り際に書き殘せし語

開設初期に詠んだ歴史詠です。古今東西の歴史場面のあちこちつまみ食ひ式に散策してゆく次いでに作因背景を説明して置くべきかと思ひ、適当な画像記事などあらば引用しつつ紹介してゆくつもりです。
このガリポリ半島に上陸した四月二十五日がアンザックデーとしてオーストラリアニュージーランドでは祝はれてゐるやうです、在住邦人の方のブログ[http://blogs.yahoo.co.jp/joyful_shelley/15235254.html オーストラリア的☆日常生活 ]にもその様子が出てをられます。

[http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/ataturk%20front1.htm アタチュルク あるいは灰色の狼]

1916年正月、冬のエーゲ海が荒海の顔を見せ始める前、協商国軍は全てを諦めガリポリ半島からの撤退を開始した。

アンザック入江では、撤退の順番を待つ一人のオーストラリア兵が、手帳に次のように書き、砂浜に銃弾で留めておいた。

「長くお世話になった。ここは、全て君たちトルコ人のものだ。オーストラリアより愛を込めて」

トルコ軍は、捕虜に人道的に接し、また海岸の病院船を一度も砲撃の対象にしなかったので、オーストラリア兵は敵に対して畏敬の気持ちを抱いていたのである。なお、この手紙を拾ったトルコ軍将校は、これを生涯の宝物にしたという。



ガリポリの戦い(英語: Battle of Gallipoli)は、第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指して行ったガリポリ半島への上陸作戦。ガリポリは、ダーダネルス海峡の西側、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたる半島の英語名で、現在トルコ語でゲリボルと呼ばれる。イギリスではこの戦いをダーダネルス作戦と呼ぶ。

連合軍は、当時国家として末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定して挑んだものの、オスマン側の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わった。この戦いは陸・海・空3軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては世界初と言える。また連合国軍に参加したオーストラリアとニュージーランドにとっては初の本格的な海外遠征となった。

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2009/5/28

狼煙  讀史つれづれ

遠ざかる地平の彼方たちのぼる友の狼煙にこころ落ち居ぬ

雁の脚に便り括りて託しやる節をおもへど降人われは

凍土の地に小物商ふデカブりストの妻は問ひ來ぬ都の流行り唄

一杯の酒でもてなし導ける厠で失ふ本能寺の使者

漏るる無き檢地の沙汰におそれつつ不承不承に差し出す隱田
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