2009/5/28

裏路  戀さまざま

赤坂の裏路を降りみ降らずみの雨の夕べをあひあへるもの

後れ毛をかきやるしぐさ得堪へねど辛くも踏み留まる陸橋よ

わが上を過ぎし男の數思はず雨染む袂にいざなふ君の手

産破れ立ち尽くす辻痴れ眺むかつての女連れ入る宿を

襟ぐりの汚れて首周りの血管めり込み見えぬ昔の夫の
0

2009/5/28

生け贄  讀史つれづれ

生け贄の誓ひぞ重き凱旋の我を眞先に迎ふるはわが娘

藤花の房も涙す埋葬の禁破り生き埋めにせられゆく王女

その間に姦婦も后とそなはれり薔薇が色分けせし敵味方

たはやすく吟遊詩人を招く閨枕の數を刺繍す蘭に

照らし見る鍾乳洞の瀧つ瀬に括り合はせし男女の骸
0

2009/5/28

テロップ  日常 時事

慣れ呆れマスク姿もまばらなる驛に降り立ち見入るテロップ

誰も皆哀號の面堪へ切れぬなかを柩よ誰も恨むな

恨むなと言ひ遺す語を踏みつけし痕まざまざと地震波の規模

一國の尊嚴を踏みにじる徒のやすやす浸透せし「人權派」

裏切りを上書き保存せよとしもミサイル二發日本海へと
0

2009/5/28

寫生の 戀  画像  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

中の島のお堂に至る蓮の布置教へて見下ろす胸の谷間を

不忍池を散策の途次、熟年の写生の群れを眺めつつあらぬ妄想をふくらませてなつた一連の中の一首です。彼ら丁度この写角から弁天堂を写生してゐました。
 素と自分は無趣味無味乾燥な朴念仁に過ぎぬけれど、言葉は大いに運動させてやらなければ、中枢神経が鈍ると憂慮し、あへておふざけの一連を提供して置きます。
0

2009/5/28

寫生の 戀  戀さまざま

肩掛けのバッグの紐がくつきりと際出たせゐる胸のふくらみ

婚運のなきと寫生の趣味あるをよすがと成れる今日の出會ひよ

中の島のお堂に至る蓮の布置教へて見下ろす胸の谷間を

池の端の小瀧に立たせ撮る寫眞プロフに省く脣から上も

涅槃圖の足裏か否浮浪者のほとり犬の子の後足のワゴン
0

2009/5/28

野の花あはれ  画像歌

クリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示します

画像引用上まりっぺのお気楽読書下wikiedia

下賜せむにものなきかつての皇后の摘みてたまへる野の花あはれ

これもひとつの女の一生かと。
皇后時代の肖像はなるほどマリーアントワネットを意識した風姿です。
この歌の題材にした逸話を伝へる外交官の名は只今失念しましたが「煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。」といはれる皇后のお人柄しのばれるところです。
 皇帝と皇太子に先立たれ八十八歳頃のお写真とのことです。

「ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo, 1826年5月5日 - 1920年7月11日)はフランス皇帝ナポレオン3世の皇后。

彼女はテバ伯爵令嬢マリア・エウへニア・イグナティア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック(スペイン語: Doña María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick, Condesa de Teba)として生まれ、結婚にともない、フランス皇后ウジェニー(フランス語: Eugénie, Impératrice des Française)となった。

1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Président)主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。

1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。

ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さおよび伝説的な宝石は数え切れない絵画、特に彼女のお気に入りの画家フランツ・ヴィンターハルターによって記録されている。ウジェニーのマリー・アントワネットの生涯への興味は、ルイ16世の頃に人気があった新古典様式の家具とインテリアデザインが宮廷の装飾に多用された。 「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。また、ウジェニーはマリー・アントワネットの肖像画や遺品をコレクションし、それらを集めた展覧会も開き成功したが、中には悲劇の王妃に傾倒する皇后を心配する人々もいた。

煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも影響があった。1866年には女性を初めて電報局で雇用している。

普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(Chislehurst)に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーのファーンボロー(Farnborough)にある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語でコルシカを意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ近くのカプ=マルタン(Cap-Martin)に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。

ウジェニーは1920年7月に死んだ。94歳であった。アルバ公を訪ねてスペインのマドリードに滞在していた際の死であった。」
0

2009/5/28

誰も恨むな  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

画像引用「朝鮮日報」

誰も皆哀號の面堪へ切れぬ中を柩よ誰も恨むな


 昨夜十時過ぎに仕事先から帰りネットに接続してみればかかる報道に一驚。そそくさと癖付けてゐる五首一連にまとめたところがアクセス異常に増殖して、普段二桁に至れば足れりとしてゐたところを十倍以上の訪問あり、それでゐてコメント・トラックバックの類は一向なきをいぶかしんだ次第です。

 以前仕事先で在日のといふよりは日本語堪能なる滞日の方と知り合ひ親しくなつたことあり談たまたまネポチズムはびこる韓国の政治風土のことに及び、ノムヒョン末期とはいへ未だ大統領職にある時点で、2チャンネルなどでノムヒョン逮捕はいつかなど無責任なとりあげがされて居る例を引いて、さういふ前任者への報復式なことはせずに穏便に済ませられればよいねといつたところが、「いや、徹底的にやるべきだ。臭い物に蓋なんてことするのは日本人だけだよ」といふ答へで彼我の心性の落差にあらためて思ひを致した次第です。

 ノムヒョン氏は自家撞着式な主義主張の下性急に歴史の清算を迫り、親日派の断罪に身命を賭されたやうですが、結局ご自身が歴史に清算さるべき身と悟れる果ての今回の件ではなかつたかとおもへてならぬ。

 「恨」とは日本文芸の「もののあはれ」に相当する韓国民の基本情調といはれますが。今回の件が迫つたことは「恨」の根本的清算ではなかつたか。

0

2009/5/28

「逝去」  日常 時事

滑落と自殺の線引きの難きか嘆息す歸り來てネットを開けば

國柄をとれるゲバ学生としも思へる「恨」の申し子あはれ

おのづから冷めてしづけきまじらひに移りゆく頃むくげも盛るや

窓の外はいつしか雨に移りゐておもふ藤波の伸びゆく丈を

せめてもの清廉のかさぶた剝がれ滑落より他なき宿世か

 ノムヒョン氏の逝去を知りこれを悼む一連ですが、これほどいたましく悔しい悼歌を詠む期も又とないか。ただ合掌。

0

2009/5/28

百五十五音小説  日記と歌論

 米文学にはフィフティファイブフィクションなる極短小説の一分野があつて「五十五語の小説」といふ意味だが、新潮文庫ではこれを日本流に「二百字小説」と訳して収めてあり、小説といふものの素材レシピの展覧会としてみればこれもなかなか面白いかと立ち読みしたことがある。

 その傳でゆくと僕が癖付けて五首一連で詠みついで来た歌はこれ百五十五音小説といへぬこともないかなとふと苦笑する。

日常時事はまあ、私小説心境小説の類であらうか。歴史詠はこだはつて同一素材を連作式に詠むことはしないのでしばらく置く。

 恋の場面は五首一連の同一素材のなかで作主めまぐるしく切り替はる例があるのでご訪問の向きにはその辺を味はつていただければとは思ふ。

最近の作だと「ますら女」は第一首

たわや男に惹かるるますら女の胎に宿る命はたぶん坊やか

はまあ三人称になる客観描写にならう

第二首


縋られてゐることどこか生き甲斐になれりや傍で茶碗拭く君

は「ますら女」本人。
第三首は
耳をあて聞く心音にあやされていつしか膝を枕に寝しか

その夫たる「たわや男」氏

第四第五首が

陣痛にふためく友と奥さん乘せ向かふ車も思案の外か
駈け入りていくばくもなく聞こえ來る産ごゑけだし母そつくりか

 陣痛の場面に来合はせたご夫婦の親友といふ具合に視点が五首のなかで四つに別れてゐる。

愚にもつかぬといへばそれまでだが、これからの歌の方向文学全般の考へ様に一定の刺戟与へるところなくもないかと思へるのでひとこと。

 この先百五十五音劇も可能かどうか試みるつもりである。
0

2009/5/28

サラエヴォ  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します
画像引用wikipedia

足枷のまま胸病みてこと切れし皇太子撃ち殺しし少年


「サラエヴォ事件(サラエヴォじけん、サラエボ事件、サライェヴォ事件)とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝=国王の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領であったサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

爆弾事件で警備を厳重にすべきであったのに無防備のまま、爆弾事件の負傷者を見舞うために病院へ向かったのである。しかも車は道を間違えてUターンしている。ちょうどこの時、すでに暗殺を諦めてサンドウィッチを買おうとしていたプリンツィプが大公の車を発見した。プリンツィプは直ちに車に駆け寄り、オープンカーに乗っていた大公の妃ゾフィーの腹部に銃弾を命中させ、次いで大公フランツ・フェルディナントの首にも銃弾を打ち込んだ。瀕死の夫妻を乗せたオープンカーは総督府官邸に駆け込んだが、夫妻は官邸で息を引き取った。


暗殺者の末路 [編集]
プリンツィプは暗殺成功後、直ちに青酸を飲んで自殺を図ったが、生理的に受け付けず、吐き出してしまった。さらに銃で自殺しようとしたが、取り押さえられたため果たせなかった。犯行当時20歳に達していなかったガヴリロは裁判で未成年者として死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし、第一次世界大戦末期の劣悪な刑務所環境のため結核に罹り、1918年4月28日テレージエンシュタット要塞刑務所(現在のチェコ共和国テレジーン)で死亡した。敗戦によりオーストリア帝国が降伏する数ヶ月前であった。」

長くプリンツィブ逮捕の瞬間とされて居た写真は、実は民衆のリンチにあつたプリンツィブを救けようとしたドイツ人の逮捕の瞬間て゛あると判明したさうですが。それにしても現場の緊迫感が傳はつて来ます。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ