2009/6/1

第二楽章を了へて  日記と歌論

 流れの交響楽の第二楽章「春」は昨日で終はりにした。

 「冬」は三百二十首で「春」は三百五首。歌集をまとめるに充分な量に達したので「夏」の歌を案じつつ「春」までの歌の推敲にかかつてゐるところである。

 先日久々に歌論を投稿したその晩、盧武鉉韓国前大統領を悼み詠んだ歌を投稿する直前から急にアクセスが増え出して何のことやらんと思ひつつまあ直ぐ旧態に戻るさなどと多寡を括つてゐたものだが、その後も同様で、その癖コメント・トラックバック・ファン登録等は一向になくてどこか狐につままれたやうなままに推移してゐる。

 文世光事件を詠んだ http://blogs.yahoo.co.jp/jungleroad91/15244581.html ">「演壇」を画像歌に投稿した時は、その晩の内に百件を越えるアクセスを得たが翌日からは又元のごとく十数件平均に戻つてゐる。

 アクセス増殖ウィルスなどといふ新種のウィルスにでもやられたかなどとおもふも、ヤフーブログは全体への解析タグが貼り付けられぬ構造のやうでじれつたいことこの上ない故、以前からいろは歌のログ保管用にとつてあるここをミラーとした。

意図して古今東西の歴史現場に立ち入つて詠むこと多いは将来日本語を学ぶ外国人にして自分も歌詠まうといふ向きに一の足がかりになりはすまいかと思ふからである。

 俳人は大いに海外に進出して指導にあたる例あるやうだが、飽くまでそれぞれの国の言葉でハイクを為す上での媒介補助としてであり、小説家が村上春樹氏を筆頭に太いに翻訳されて読まれ他国に影響を及ぼしてゐるといつてもそれは日本語そのものへの関心には繋がらぬが難である。大江健三郎のごとくはじめから露骨に翻訳文体で日本語を踏み台にしてかかる輩は論外であるが。

 村上春樹氏の場合はさすがに、国民学校世代のトラウマに根ざした大江のごとき露悪趣味はないし、それこそ文科省おすすめの現代用語の範囲で実に高次な内容を盛る手腕には一驚を喫するが、反面日本語の伝統の奥行きとひろがりを正当に反映してをらぬ物足らなさを感ずる。あまりにも模範的に官の罠に嵌りまたそれ以上のものたり得てゐる。

 しかし、文芸とは言語をその生成理念に根ざして成就あらしめる技の義である。

 この視点からすると大江・村上の類も己名を成して国語を枯れしめる手合に過ぎぬしこの時期の文芸全般、この期をおほつた一の気分から世界が脱け出た時にその評価いかならむと思ふ時甚だ心もとないといはざるを得ぬ。

 今後の日本の進展は日本語の進展を欠いてはあり得ぬし、勘違ひ誤読せられてゐる仮名遣の意義の正しき再発見と普及なくしてはあり得ぬ。

 その展望を開くに未だささやかな試みに過ぎぬか知れぬながらこのブログを送り、やがていろは歌に立ち返つて韻文劇か物語をものせうかといふ心積もりである。

日本語を諸文明ゴミ集積所にしてはならじと思ひ詰めむや
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