2009/9/16

彼岸花  戀さまざま

彼岸花咲ける木下を赤蜻蛉群がり寄れば君ししのばゆ

契りをば背くなかりき若くして我に先立ちたるを除きては

子ら既に人としなれば萩叢の奥の墓苑に孫のこゑやさし

亡骸もかへらぬ父の不在をばあやしめる子の髪はや白き

日と夜とややにひとしくなりゆかむ曼珠沙華の果ての夕棚雲よ
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2009/9/14

百人一首應答歌 四十六  日記と歌論


きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む

後京極摂政前太政大臣


いとどしくつのる戀路のつれなきに霜をかたしくきりぎりすかな

ながれのおも

これは報われぬぬ戀のかたちにとらへて見ました。
作者良経は新古今選者の一人で、定家は彼に仕へてゐたわけです。




わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし

二条院讃岐


磯浪のたよりぞ遠き沖の石を藻狩り舟さへ寄せもかぬれば
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2009/9/14

「道」  讀史つれづれ

「道」の字のおのづから籠むる警しめか首晒されし野盗姦婦ら

宦官が忘れ得ざりし先帝の腋の�劼茲気湍里悗燭泙悗ノ

中風を逃れて壞血の海に堪へ梅毒にめぐりあふ新大陸

燒跡にのべつに立てる私有地の札に泣き寝入りせしはいくばく

切り開く道を無斷の停車場の札拔き捨てて固む遮斷機
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2009/9/14

百人一首應答歌四十五  日常 時事


玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする


式子内親王

堪えてこそ忍ぶる身の名遂げなむと君玉の緒のたばしりのこゑ

ながれのおも

作者は初期に平家追悼の兵を挙げられて討たれたまふ以仁王の妹御といふことで「忍ぶ」要素には事欠かぬ御境遇でしたでせう。その辺もおもひやつて。
不遇の内親王に家司として仕へた百人一首の選者定家が懸想して云々の逸話伝説も後世文芸に影響を与へてゐます。



見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず

殷富門院大輔


雄嶋なる海女が磯家に交はす袖濡れにぞ濡れし色は忘れず

ながれのおも

実際にその「海女」と袖を交はした気分になつて。
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2009/9/12

百人一首應答歌四十四  日記と歌論


村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮

寂蓮法師


村雨の涙しのばむ須磨を出て槙立つ山に霧湧く夕べ

ながれのおも


本歌は山郷の秋の夕の光景を歌つて間然するところない叙景歌ですが、返しは能楽の松風村雨の連想して、今は因幡の守として任地にある在原行平が、須磨配流の折に契り交した松風村雨の姉妹の純情をしのぶ形につけました。




難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 身を尽くしてや恋ひわたるべき

皇嘉門院別当


みをつくしかけむ袖かはかり寝さへ難波江の世を戀ひしわたれば

ながれのおも


一夜ぎりの契りなりにそれぞれにこめられた純情を詠む本歌にさばけた遊冶郎の立場から詠み和します。
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2009/9/11

池の端  日常 時事

蓮の葉のひしめく中洲を荻の穗は伸びつつやがて吹く風思はむ

日のかげをおほひわたれる薄雲も日暮れとなれば夕燒けにけり

いささかの更新をして送りやる樂堂裏の小瀧を前に

日は今し落ちしばかりに袖を引く女を見るか池の端には

無造作に路べたの籠に盛られゐる猪の爪今宵は購入はず
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2009/9/11

百人一首應答歌四十三  日記と歌論

夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり
俊恵法師



蚊帳去りて夜長となれば物思ふ身にいやひろき閨のひまかな
ながれのおも

空閨を嘆く女の身の上を思ひやり詠んだ法師の歌です。多年かかる境遇とみて、蚊帳のある夏の間は身じろぐごとに蚊帳の揺れが時に無聊をなぐさめたらうが、蚊帳の要らなくなつた秋となつてはさぞかしと余計なお世話ですが。



嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな
西行法師


己が身を愛しみもかねし涙落ちて月を嘆きの友とするかな
嘆きとは他と分かち合ふ嘆きであり外向きのものですが、かこつとは嘆くわが身への憐憫といつた趣が涙としてあらはれるおのづと内向きのもの。西行はその辺を十分わきまへて類義語を上下句に措辞した筈です。



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2009/9/10

交換船  讀史つれづれ

寄港地へ近づく船中に沒したる懷疑派の君を土に葬る

まざまざと身にしむ彼我の物量差交換船をゴアに乘り換へ

櫻島の煙りを遠く望みつつやうやく涙わき出でにけり

結ばれて久しく住めど青き眼を怪しまれ竝ぶ配給の列

愕然と動員明けの娘の掌つぶれし肉刺に藥塗れるかな
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2009/9/10

百人一首應答歌四十二  日記と歌論

世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

皇太后宮大夫俊成


分けて入る山の奥にもかもしかのごとき子の目に遭ひつときめく

ながれのおも


道歌めかしてもこれは俊成若き頃の作で当時から多くの妻子をかかへてゐた色好みといふオチもありますから完全なバレ歌で返して置きます。む


長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき

藤原清輔朝臣


ながらへて憂さつれづれをたのしまむあきらめわく身こほしかりけり

ながれのおも

本歌の口調にならひ今の自分の心境といつたところです。
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2009/9/9

掃部山  日常 時事

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画像引用 横浜線沿線散歩  

身は江戸に眞向きつ湊を見下ろせる掃部山なる銅像あはれ


横浜の開港百五十年祭りははかばかしい盛り上がりもなく、市長の辞任といふ後味悪いオチまでついて踏んだり蹴ったりのやうでしたが、井伊大老は評価の別れる人物とはいへ開港の恩人をしつかり顕彰する事業を前段に置いてかかるべきであつたのではと思ひます。

その上でこそかの蜘蛛ロボットも生きた筈です。


開港五十周年に当り、旧彦根藩士らが買取つて井伊家私有地とした「鉄道山」に、旧攘夷派の圧力に発した中止命令を無視して建立された像は一夜の内に首が切り落とされてゐたとのこと。

降つて大東亜戦中には国粋気分昂揚と物資の欠乏と相俟つて、維新の先駆者らを惨殺した朝敵の像だとて金属回収指示により最初の像は取り払はれ行方不明、再建されたのは戦後九年も経過してからでした。


革新する側にも保守する側にもそれぞれの受難があつたといふべきでせう。


私は短い期間でしたが掃部山へは徒歩五分といふ場所に住んでゐたことあり、公園の背後にはコンサートホールあり能楽堂あり、茶室も図書館もありで、休養と心の涵養とを兼ねて通ふ度ごとに思ひ入れることありげな像を眺めたものです。

あたかもその年は日教組の大会がそこで開かれて期間中山全体を機動隊が取り囲む始末で許可証所持の山上の住民以外は立ち入り禁止にされたことなど憶ひ起こされます。当然私の部屋の周囲をつき物の街宣車が大音量で行き交つてをりました。

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