2009/11/30

水魚問答  日記と歌論

♓歌とはあなたにとつて何

♒いやでもつきまとふもの

♓なんだか陰鬱でなげやりな定義ね。

♒才能とは病気の別名さ。患部を切り捨てるやうに歌も詠み捨てだ。

♓さうやつていくつの患部を、いやさ、歌を読み捨てましたの。

♒一万とまではゆくまいが、八千はくだらぬかな。でもとつておいたことない。はじめてだな今度か。ネットの掲示板に折にふれ詠み捨てたものだけでも二百首はあるかな。

♓それで以て癒されまして。

♒癒されることはないのさ。

♓血縁の方はをられませんの。

♒ああもう天涯孤独。し尽くしたな。不孝の限りは。

♓でもお歌は妙に明るくてドラマティックかとおもふと妙に瓢軽なものもありましてよ。

♒絶望を知るもののみが獲得るをかしみだよ。

♓憑かれたやうに五首一連ですのね。それで総計千二百五十首とはどんな意味がおあり。

♒万葉集の最終歌が詠まれてから今年で一千二百五十年だとふと思ひ返してね。悠久のやまとうたの流れにつけ加へ得たなにがしかはあるかと。今夜にもその数になる。

♓ああ大伴家持に

 あらたしき年の始めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事

とあるあれですね。どうせなら貴方の歌集の最終歌も新年の賀歌になさればよかつたでせうに。

♒満月が照つてゐるのにツイタチだなんていひくるめる暦の下で新年を祝ふ気はさらさらないね。あれは明治初期の政府が官吏の俸給支払ひに迷つた末の歴史的八百長だよ。営々培はれて来た国語の語義語感があれで歪められてしまつた。

♓でもその歴史背景をも含めて今一度深く追究する為にとこぞ結社に所属なさつて、しつかりとご意見と実作を世に問ふ場を確保なされてはいかが。

♒特に教はりたいとおもふやうなのはゐないな。僕は現代の歌は斎藤茂吉くらゐしか読まぬしくだつても土屋文明文明か茂吉の弟子の佐藤佐太郎邊までだ。

♓しつかりした自己定義をおもちのやうで何よりですけど、無視された儘でをられるのはなんだか勿体ないやうな気がしますし。

♒孤立もまた楽しさ。無視して欲しくないのは貴女だ。折角立ち入つて僕に尋ねてくれるんだからついでの事僕の差し迫つて切実な患部を癒してくれはしないかと。

♓あら、おほほほほ。勿体無いお申し出ですけれど。あたくし別れた主人からは女ではないがしに扱はれましたし、子も産めぬ体ですし、その上生憎月の物が。

♒ああ「いなにはあらずこの月ばかり」と古歌にあるね。絶望に重ね塗りしてくれて有難う。
三十一文字の歌はここで一段落だか、歌そのものは形を換へて続けてゆくから、貴女もお体の都合がついたらいつでもどうぞ。こんな定めない世だから。

♓ええ定めない世ですわね。
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2009/11/30

亂射  日常 時事

檢診を立ち待つ丸腰の兵らへ向け亂射す軍醫の彼はムスリム

入植地の立ち退き促す女兵も涙す或いは彼女の家族も然るか

岩鼻に聞こえ來るヘリの羽音へ向けうち振るつぎはぎせしその旗を

鞭打ちを千回の刑月毎に割り振る痴戲をあからさまの果て

革命家の落し胤らのおほよそは港の街に人となれりや
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2009/11/29

年のまぎれ  日常 時事

行き悩む年のまぎれに仕分けられ省かれし無駄の我もそのひとつ

詠み連ね一年を經てふとおもふ一首に費やせし煙草の本數

熊手賣る露店の前に子を負ひて値切る女よ母子共にマスク

お点前の作法のごとき礼をするレジの娘をからかひつ買ふ

洗ふともなき珈琲碗で次々にぐい呑みにして夜はふけにけり
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2009/11/28

鹿鳴館  画像歌

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引用ウィキペディア

遲々として進まぬ条約改正に痺れを切らす夜半の舞踏會

今日の歴史を検索するに鹿鳴館の落成を見た日といふことであれば、鹿鳴館外交の名で今に知られる当時の錦絵に歌を載せて送るも意義なきこととはせぬと思ひ座興まで。



鹿鳴館(ろくめいかん)とは外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ

計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため、井上は日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。
それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地)に決まり、1880年(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月、落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルである。施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織)が担当した(大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。
煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤードも設備されていた。云々
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2009/11/28

舞踏會  讀史つれづれ

遲々として進まぬ条約改正に痺れを切らす夜半の舞踏會

判官を所拂ひの腰越より直ちに諸國の關へ沙汰せる

觀音の流れ着きたる岸邊にてあらたに錢を鑄さしめにけり

白面の金貸しの瞼閉ざしやる昨日青酸カリをあふげる

追ひつきて渡すせめてもの握り飯に涙す彼は復員傷病兵
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2009/11/27

菊がこひ  日常 時事

菊がこひ取り拂はれてふともらす溜息白し銀杏の樹下に

元次官夫婦殺しの初公判と聞けばあれより一年經ぬるか

日本人一名含めムンバイに人あまた死せるよりも一年

放水路の水門見上ぐる汀にて奏づるヰオロンの音も霜ざれて

自轉車の後ろ立ち乘る者およそ肥りたる娘を見るは稀かな
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2009/11/26

サナトリウム  戀さまざま

木枯しのサナトリウムの或る朝を救け呼ぶ間もなくて息絶ゆ

鍵盤を白魚のごとく奏で這ひし指もみほぐしやうやく胸へ

野邊送るほとりの沼の白鳥は己が身に首のせつやすらふ

書き込みを絶やさずありし譜面さへ白き煙りになしはてにけり

愛されて逝けるを謝しつよき縁を得たまへと君が親は願へど
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2009/11/25

送りたる昨日送られゐむ明日  日記と歌論

送りたる昨日送られゐむ明日の間にありてたゆたふ命

今の僕の心境をありていにいへば先日詠んだ歌のごとくであらう。お迎へが来るには早すぎるし、若さには遠すぎる。かといつて暮らし向きの報告を歌に詠む趣味はないので、柄にもない修羅場と濡れ場とを織り交ぜながら生涯唯一となるべき短歌集を編みつつここまで来た。

天窓より覗くためらひ傷しばしとどめてつひに首落ちたるを

折りしも今日は憂国忌か。総監室を見下ろす天窓から一部始終を見届けた自衛官の目撃証言に依りかく作る。あの当時自分は十代の餓鬼であつた。はるけくも経て来たりしものかなと事の理非を超えて今更おもふ。
今の日本の状態に宴のあとといふ彼の小説の題が妙にかさなるところありはすまいか。但しこの作品はモデル問題で三島と出版社が訴へられ敗訴といふいはくつきのものであるが
、筆力自体は本人自負せるごとくバルザックにも劣らぬ力作であると思ふが、初期の「愛の渇き」邊のほうが自分の好みにはあつてゐる。「憂国」は彼のその後にかさなり過ぎていたいたしくて読めぬ。

うは言に「ヘルプ」と叫ぶ銃擊の記憶は未だなまなましきか

案じられた邦人技師真下氏は無事解放せられたやうで何より、しかし以後も何かと上記歌のやうな危難アクシデントをかいくぐつて日本の繁栄は築かれてゆくのであらうか。赴任先から一時帰国した商社マンの妻あるいは恋人の立場からかく詠んでみた。

むつれ寄る鳥らと競ひ柿をもぐ町内会の脚立と長鋏

しかしありのままのところを詠めば僕の家近くの光景はまあこんなもので、到つて単調にして和かなままである。

今年は万葉集最終歌家持の年祝ぎのうたが詠まれてから一千二百五十年になるとのことで僕の歌集も一千二百五十首に達したところでさめにしたい。只今一千二百二十首になる。以後は歌は詠んでも歌文集中におり交ぜる形にならう。
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2009/11/25

天窓  讀史つれづれ

天窓より覗くためらひ傷しばしとどめてつひに首落ちたるを

虎を野に放ちてけるかさま變へて弟は今吉野か不破か

斷交を告げて大使の去れる跡落ちし鉛筆を記念に持ち歸る

后にも先立たれたる宴の後杯投ず鉛色の海

覆面の奥の眼光見覺えあり空に今我等を擒めし徒黨の長
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2009/11/24

代理母  画像歌

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代理母となりたる祖母が抱く孫よ子宮切除のその母と共に

今朝の読売新聞には実母が代理母となつた最近の事例が写真つきで出てゐた。
実母が子の産めぬ娘の代りにといふ事例は日本でも以前二三あつたと記憶するが、写真つきでといふのは、赤の他人の代理母と違ひトラブルの余地少ないとはいへかなりの勇気を要したことであらう。

一歳の時に子宮に大きな腫瘍が見つかり切除したその娘さんが結婚した際、
実母「私は子どもを持てて幸せなのに娘は子どもを産めない。その幸せを味わって欲しいと思い「私に産ませて」といった。」
女性 「母の体を痛めてまで子どもを持つ必要があるのか悩んだ。でもとにかく一歩前に進んでみようと思い院長に相談した。略 最初は親になった実感がなかったが毎日おむつを替え、夜中に授乳し実感が出てきた。
生まれつき子宮のない女性も病気で子宮を失ふ女性もいる。私が悩みを話すことでその方たちの悩みが軽くなればいい。あきらめないでほしい。」
実母 新しい命が生まれるのは素晴らしいこと、代理出産の禁止で子を持つ道を閉ざさないで」

云々新しい命の誕生に直接関つたこともない自分としてはただ敬意を表し、国勢の将来を健全に保つ為にもより多くの新しい健康な命が誕生して欲しいとは思つた次第である。

今手許にスキャナなく携帯カメラはどうも調子が悪いかぼやけるが、例によつて文字載せして一首。
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