流れの面 序  




 短歌は基本的に、齋藤茂吉もいふごとく「詠嘆の形式」でありアイゲンの聲かも知れぬ。

 そこから彼の有名な「實相に觀入して自己自然一元の生を寫す」といふその實甚だ多元的融通自在な寫生の説も導きだされてゐる次第であるが、私は他を思ひやりこれに成り代はつてする詠嘆も又一つの意義なしとせぬと思ひ、萬葉以來の「代述心緒」の形式を大幅に取り入れて歴史事象」や愛戀の現場を語りではなく、ドキュメントとしてなるべくその場に居合せた者の視点での詠嘆として提供してゐる。これ又立派に茂吉の知られた論たる「生のあらはれ」ではあるまいか。

 全く順不同到つてランダムな代物ではあるが、飽くまで意識に浮かんだ順序によつてなるこれらの歌をば、自身の日常嘱目や時事詠等を生地とし、これに織り込み綯ひ交ぜる模様として鑑賞する中に、おのづから過去と現在・有情と非情或いは幽明の間の常住不斷の交感を觀取していだければよいかと思ふ。



 古今和歌集假名序には縷々和歌の徳を説いて「およそ生きとし生けるもの誰かは歌を詠まざりつる」と結ぶ。 この歌集はいはばその範囲を生きとし生きてありしものにまでおよぼしたものである。


 詠み初めてから若干の例外を除き、五首一連で詠むが癖になつた。これは歌集全體の流れを壮大な連歌として鑑賞して貰ひたいからである。文藝には何かと修羅場と濡れ場はつきものである、あたかも連歌に月の座花の座恋の座あるやうなものとして、視点の移動作主の転換等を連歌の付け合ひのごとく味はへるものにしてみたつもりである。

 歴史詠は水瓶座の♒恋は魚座♓のそれぞ星座記号を本文表題上に付してあらはした。



この我を見つむるごとし砂押の流れの面に來てゐたりけり

と十八歳の頃に詠んだ歌をふと思ひだしこの歌集の題とした。

 「流れに浮かぶうたかたの消えかつむすびてはつひにはゆくへも知らぬごと」き速い流れではなく、「逝くものはかくのごときか晝夜を舎めず」と歎ずるほど壮大ではないかも知れぬが、誰しもが不斷に向きあふ流れである。
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