2009/12/22

アザレア花言葉「節制」  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します
画像引用wikipedia

この花に似しマフラーの娘は歌へり昨夜アカシアの電飾の下



cdを手売りの、自作ニューミュージック系の恋歌でした。茶髪つけ睫毛、白のハーフコートにライトグレーのジーンズ、毛糸帽子とマフラーが丁度この色だつたか。この寒いに頑張つてるねと思ひつつ通りすぎたまでですが花言葉を引くに「節制」この季節に合ふかと思ふべきか、季節の箍を外して色を競はうとする意欲を読むべきか。関西地方の平野部では越冬するとのこと。


続きを読む
0

2009/12/21

プロテア 花言葉 自由自在  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します


引用元誕生花366日 花言葉

ソビエトが消滅したる日と注記す今日の花言葉は自由自在

今日の誕生花、花言葉は何だつたらうかとふと知りたくなり、検索すればプロテアといふ珍しい花に行き当たり、しかもその花言葉が「自由自在」といふに興をそそられて一首

そのサイトの歴史データベースには「カザフ共和国の首都アルマアタで、グルジア共和国を除くソ連11共和国の首脳会議が開かれ、「独立国家共同体」の設立とロシア共和国など4共和国による核兵器の統一管理などで合意する。これにより、ソヴィエト連邦は正式に消滅する。 」といふなんとも歴史的な日であることを思ひあはせて歌にし文字載せて送る。

小画像故拡大すると画素粗くなつてしまふが自由自在の雰囲気はそれとなく味はへるかと思ふ。
今日の世界がそれ以後の自由自在を正しく使ひ得たかとなるとこれはおのづと別問題であるが。

来年はこの花の原産地であり且これを国花と愛でる南アフリカでワールドカップが開催される年でもある。

科名 ヤマモガシ科の常緑低木。
原産地  

 栽培方法 挿し木、実生で増やします。
 南アフリカのケープ地方の原産で、酸性の強い砂壌土に自生しています。
 寒さには弱く、無霜地帯の暖地であれば露地で栽培できますが、一般地
 での栽培は困難です。花博以降、切り花として人気があります。

0

2009/12/6

「鳥の歌」  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

鳥の歌流るる丑三つ時の窓遠過ぎ行きぬ貨車のはためき

カザルスの「鳥の歌」をかけ流しながら。晩年プエルトリコに定住してからの映像のやうです。伴奏してゐるのは彼の若い奥さんでせう。木々の緑まばゆい朝の窓辺でのそれこそ琴瑟相和した一齣か。奥さんはこの地の出身のお弟子さんでした。

年齢を重ねるにつれて早起きになるものです。朝に聞いてこそふさはしい曲を丑三つ時に聞くはちと趣味悪いかと思ふが起きた時間が即ち朝といふことにしてゐます。
琴瑟相和するもへつたくれもなく経来たつた人生でしたが、かかる光景を意地悪く眺めてもなるまい。実際ささくれだつた心をもみほぐしてくれる悠々として情感の籠つた調べです。
0

2009/12/5

愕然と動員明けの娘の掌  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

愕然と動員明けの娘の掌つぶれし肉刺に藥塗れるかな

小津安二郎は滅多に原作物を撮らない監督であつた。「文学作品とはそれ自体で完結してゐる物ですから」とて渇仰措く能はぬ志賀直哉の作品も取り上げることはなかつた。

映画は上映時間の制約からしても原作に対する絵本程度のものにしかならぬは当然であり、僕も何度か名作の映画化されたものを見て幻滅した経験がある。

分をわきまへたあり方といふべきであり、又それに徹した人であつた。

おそらく映画監督にして小津より面白いとか目を楽しませるとかダイナミックである等の点で立ち勝る作家はいくらもゐようが、分をわきまへたといふ点では一人の匹敵するものも見出し得ぬのではあるまいか。世界各国に敬愛私淑する仁を持ちしかも多くがそれぞれの国に於ける指導的映画人であるといふ事実。映画で出来ることと出来ないこととのけぢめに一際苦悩するところあつたであらう彼等が何がしかの救ひの糸口を小津に求めるに到る経緯はそれぞれではあつたらうが。

一語たりとも書き加へや削る余地ないまでに磨き上げた脚本で臨む彼の映画は、逆にこれを文藝作品に翻案昇華させようとしてもまさしくそれ自体で完結してゐるものであり、感興の割り込む隙はない。無理に捏ねあげてもそれこそ「わからせようとする下衆」の思ひ入れにしかならぬ。

九月頃詠んだ歌がからうじて間接的ながら小津の余白への書き入れ程度にはなつてゐるかと思ひ提示し置く。
早くに妻を亡くしたらしい鰥夫の父教授と戦時中の動員で体を壊し婚期を逸しかけながら家事と父の助手の務めとを無上の幸福と信じて嫁ぎたがらぬ娘との穏やかな日常が、叔母にほのめかされた父の再婚話を機にややさざ波立つて来る場面に載せて送る。

訪ねて来た女学校の同級生と語らふ娘の部屋へ珈琲とサンドイッチを運んでやる風な教授であるから、まして勤労動員明けた最初の日にはきつとこんな場面もあつたのであらうかと余計なお世話である。
周吉の呼びかけをむくれて無視し立ち上がらうとする紀子が「まあ、こつちへお座り」といはれて振り向く場面と届けられた服部助手の結婚写真を周吉が見つめてゐる以前の場面とがダブつてゐる。編集ソフトのいたづらであるが、父娘の互ひを思ひやる心の微妙な揺れやすれ違ひを描き得てゐるかと思ふ。

この映画では又原節子の表情の変化が実に見所多い。能面打ちの方々は泥眼といふ嫉妬に狂ふ女人の面を作るに、ヒステリーを起こした原節子の表情を何度も見て霊感得られてよいかとおもふ。

小津の死と前後して映画と訣別し今は一般人となられてゐる原節子氏が幽明を別たれる頃には先の森繁の逝去にもまして昭和の終りを実感するのであらうか。

何度もとりあげようとして躊躇して来た小津をここで取り上げたのは彼の命日が近いからであらうか。
0

2009/11/28

鹿鳴館  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

引用ウィキペディア

遲々として進まぬ条約改正に痺れを切らす夜半の舞踏會

今日の歴史を検索するに鹿鳴館の落成を見た日といふことであれば、鹿鳴館外交の名で今に知られる当時の錦絵に歌を載せて送るも意義なきこととはせぬと思ひ座興まで。



鹿鳴館(ろくめいかん)とは外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ

計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため、井上は日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。
それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地)に決まり、1880年(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月、落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルである。施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織)が担当した(大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。
煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤードも設備されていた。云々
0

2009/11/24

代理母  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します
代理母となりたる祖母が抱く孫よ子宮切除のその母と共に

今朝の読売新聞には実母が代理母となつた最近の事例が写真つきで出てゐた。
実母が子の産めぬ娘の代りにといふ事例は日本でも以前二三あつたと記憶するが、写真つきでといふのは、赤の他人の代理母と違ひトラブルの余地少ないとはいへかなりの勇気を要したことであらう。

一歳の時に子宮に大きな腫瘍が見つかり切除したその娘さんが結婚した際、
実母「私は子どもを持てて幸せなのに娘は子どもを産めない。その幸せを味わって欲しいと思い「私に産ませて」といった。」
女性 「母の体を痛めてまで子どもを持つ必要があるのか悩んだ。でもとにかく一歩前に進んでみようと思い院長に相談した。略 最初は親になった実感がなかったが毎日おむつを替え、夜中に授乳し実感が出てきた。
生まれつき子宮のない女性も病気で子宮を失ふ女性もいる。私が悩みを話すことでその方たちの悩みが軽くなればいい。あきらめないでほしい。」
実母 新しい命が生まれるのは素晴らしいこと、代理出産の禁止で子を持つ道を閉ざさないで」

云々新しい命の誕生に直接関つたこともない自分としてはただ敬意を表し、国勢の将来を健全に保つ為にもより多くの新しい健康な命が誕生して欲しいとは思つた次第である。

今手許にスキャナなく携帯カメラはどうも調子が悪いかぼやけるが、例によつて文字載せして一首。
0

2009/11/11

屋根の上の三味線彈き  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します


屋根の上に彈けるはヴァイオリンか三味線かうやむやになれる儘に彼逝く


昨夜帰宅したところ森繁久彌死去の報道あり、日本の成長期を象徴した名優の訃報に感慨覚えたが、ニュースの枕が「屋根の上のヴァイオリン弾きなどで知られる俳優の森繁久弥さんが今朝都内の病院で老衰の為」と判で押した様にふつて寄越すはちと考へ物かと思つた。今朝の新聞の写真も果たして「屋根の上のヴァイオリン弾き」の舞台姿であつた。

 しかしあの芝居はウクライナに代々住み着いて来たユダヤ人一家の牛乳屋テヴィエが
娘達の結婚問題なり彼女等の恋愛沙汰にあれこれ頭を悩ます中にやがてポグロムに飛び火するユダヤ人排斥の波に流されて代々住み慣れた土地を三日の中に出て行けと迫られて仕立て屋の青年と結婚した長女夫妻と孫と共にアメリカへ移住するに到る粗筋である。

 次女は革命を志す青年と恋に落ち、捕らへられ流刑にせられた恋人を追つてシベリアへと発つ。これには反対してゐたテヴィエもやむなく祝福を与へて送り出す。

が、ロシア人の中でも異端のカトリックらしき青年を恋した三女は無断で改宗の上結婚してポーランドへ向かふ途中にアメリカへ去る一家の許へ立ち寄り、テヴィエに自分の勝手を侘び、別れに際して祝福を与へて欲しいと願ふが、テヴィエは頑として背を向けた儘ややあつてやうやく「幸運を祈る」と声を絞り出すやうにいふのみであり、これが原演出である。

しかし森繁テヴィエはなんとこれを振り向いて抱き寄せていふのである。いかに人情浪花節式の観客の嗜好に投じ、森繁の持ち味に添ふとはいへこれではヴァイオリン弾きの看板が台無しである。外題は屋根の上の三味線弾きにでも替へてくれといひたくなる愚にもつかぬ演出である。


ヴァイオリン弾きとはその演奏姿勢で判るやうに不屈排他のあり方をいふ。楽器はこれを左手と顎で支へる。つまりは最初から声を奪はれてある立場である。ましてそれを屋根の上で弾くのだ。何代住み着かうと統治者の都合国内不穏の徒の不満を沈静する捌け口・便法としていつ何時追ひやられるか知れないユダヤ族の不安な位置づけ。

 なればこそその神の教へに命ある限り一層より頼む他無いのに何故娘は改宗などしてくれたか、一族の宗旨を背く者に振り向いては瞬時に塩の柱にでもされるか、白癩にでも変ぜられかねぬ憤りと恐怖の中に辛うじて萌す人情の自然がやつとこれだけはいはせたのである。

その邊を森繁には背中だけであらはして欲しかつたと望むは所詮無理であつたらうが。

つれて想起したは小津安二郎が東宝に単身乗り込んで「小早川家の秋」を撮つた時短いカットを重ねる小津の手法に自分が絵の具にされたと感じ、同じく演技に一過言ある山茶花究と共に
「松竹の下手な俳優ならば、あんな撮り方もやむを得まいが、ここは東宝なんだ。三分でも五分でも保たせてみせます。」
と談じ込んだが、小津に
「無礼者。俺の写真に軽演劇の演技はいらないんだ。」
とにべもなく撥ね付けられ、彼を三顧の礼で迎へた専務のとりなしでことををさめたといふ逸話である。
スターシステムとディレクターシステムの衝突であつたらうか。高橋治 絢爛たる影絵

スターシステムの頂点にある森繁であればこそあの「屋根の上」演出も自らさうなつたのであらうと思ふが、小屋を長期にわたり一杯にするには向いても、正しい国際理解への視野を培ふには寧ろ害がある。日本人が何かを理解したつもりで結構な誤解を上滑りにさせていらぬ軋轢を招きかねぬ。軽演劇の根ざしもつ仁の限界でもあつたらう。
映画ならば駅前・社長・次郎長等のシリーズ物はあるが代表作は「夫婦善哉」であらう。

テレビであれば「七人の孫」「だいこんの花」等がなつかしい。
ラジオの日曜名作座などは癖にして聞いてゐたがそれも絶えて久しいか。
一段と昭和が遠くなり行くを実感させられる報せであつた。





0

2009/11/4

「笛を吹く少年」と婦人音楽家  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します
引用 奥村多絵子公式ブログ
昨日の文化の日は晴れの特異日たる例に漏れず雲ひとつない日和であつた。

樂想のよれる畫家の名とちり笑むを見ればふと思ひ出すマネの繪を

昨日の文化の日は晴れの特異日たる例に漏れずやや肌寒いが雲ひとつない日和であつた。

上野に出て噴水前の陶器市を素見し、ややあつて弁当をしたためさて動物園にでも行つて入つてすぐの獏の柵の前でどてかい脱糞のさまでも眺め日頃のストレスをガス抜きせうかと思つてゐたところへ園内放送が池之端野外音楽堂でのクラシックコンサートの案内を流して来たので、蓮の末枯れの池をよぎつてボトルの茶で体を温めながら聴いた。

第一部は普段ささやかな音楽教室を個々に営んでゐるとおぼしき更年期のご婦人方が、技芸のメンテナンスをかねて結成したらしきグループでいかにもそれなりに落ち着いた出来であつた。歌と器楽を適宜交代させてまあ気が利いてゐたしチャイコフスキーのメドレーなどは肩が凝らなくてよかつた。

第二部はメゾソプラノにピアノ・フルート・ヴァイオリンの組合せで舞台慣れした面々。
エルガーの愛の挨拶はピアノ曲とばかり思つてゐたがフルート・ヴァイオリンを含む編曲版を聴くのははじめてである。或いは彼等のオリジナルか。

メゾソプラノ嬢の和洋五曲ばかりは結構めりはりがあつてよかつた。生きた声といふものはどこか心を揉みほぐしてくれる。

傑作だつたのは「亡き王女のためのパバーヌ」だ。進行司会役を兼務のフルート嬢がラベルがこの曲を着想するに到つた絵画の作者をいはうとしてその上半分を一瞬忘れたらしく、周りに聞き返してからベラスケスのマルガリータ王女の絵といつた。おかげで彼女のコスチュームが何かに似てゐないかと見ながら思ひ出しかねてゐた疑問は氷解して連想はマネの笛を吹く少年に行き当たつた。彼女の黒のセーターに緋色のスカートといふ扮装が黒のチョッキに赤い洋袴といふ鼓笛手の少年の影とダブつてゐたのである。

ついでその絵がプラドにあるベラスケスの道化の絵の背景を没化して人物を平面に浮き立たせる技法の影響を受けた物であることを想起し、マネが彼を画家の中の画家とまで絶賛してゐたことをも想起した(但しあの絵の色彩処理は日本の浮世絵に触発された面があるとも思ふが)何分バロックの時期にあつて印象派を先取りしたといはれる画家である。マルガリータ皇女の絵とルノワールの絵と見比べてもいづれがルノワールなのかベラスケスなのか見間違ひさうになることしばしばである。

が、しかし結構な演奏で、続くヴァイオリンとの協奏「エトピリカ」と「鮫」も力演であつた。

とはいへ今年は寒さの到るが早い。続くタイスの瞑想曲にかかる前にヴァイオリン奏者が調弦に一分近くもかけてゐたのはそのせゐでもあるか。或いは前曲の鮫のごとき不協和音をまじへた激しい音を使つた後に甘美な曲に移る際には必要なことなものか。フルート嬢も寒いところではブレスが管先に行つてから液化する筈が途中で液化して指に漏れてしまふのでと、途中で楽器を交換してゐた。まして一挺何千萬円もする楽器である。多湿の日本では保存も神経を使ふであらう。先月一日に同じ上野で野外コンサートを開いてゐたクラシックグループのヴァイオリンは初めて見るエレキヴァイオリンであつた、演奏会用の本式は野外では使ひたくなかつたのであらうなと思ひつつ待つ間に、調弦の甲斐あつてか演奏は満足の拍手を以て受け入れられたし僕もこのフルート嬢のいはゆる「佐々木君」の演奏を堪能した。

終はつて寸志を置いて出たところで聞けばフルート嬢奥村さんは奏者としてかなり有名らしい。そこでブログぐらゐあらうと思ひ検索して「あのコスチュームは意識してさうしたのですか」と愚問書き込んだが、舞台は一つの絵として色彩を放つべきものと思つてゐますので笛を吹く少年を想起して頂いて嬉しいとのことであつた。音楽家のまして女性とあれば当然のたしなみであらうか。

ついでのことコラージュに画像歌を文字乗せして置かうと自分の撮つた画像を見るにどうも携帯ではぼやけて使へぬ、そこで早速その日の内に掲載のブログ写真を無断借用してマネと貼り合せて歌を載せて送る次第である。

突合せてみるとマネの洋袴は緋色といふより煉瓦色か、奥村嬢のスカートは紫がかつて見えるが光線の加減のせゐであらう。同じポーズの写真をトリミング拡大してみたがサイズが小さくてぼやけるので、フルートを脇挟み、マイクに向けて曲の紹介をしてゐる方に切り替へた。
それでもよき一対にはなつてゐると思ふ。

不都合の旨お申し出あらば当然削除せねばなるまいが。


0

2009/10/29

ともに大家といはるる百年祭  画像歌

処女作は彼の情死と同じ歳ともに大家といはるる百年祭

 今年もさまざまな紀年行事あるわけですが、生誕没後さまざまに祝はれる文化人政治家等かあるなかでこの両人が同年生まれといふは意外でした。
ともに愛読した時期も疎んじた時期もありますが、精神史社会史にさまざま及ぼすところあつた人らではあります。他に大岡昇平も同年の生まれで、「野火」などはまた鮮烈な戦争文学として永く伝へられてゆくでせうが。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2009/10/10

平和賞懲りぬ先物買ひ  画像歌

クリックすると元のサイズで表示します

msnニュース 受賞の報せを受け支持者からの祝福の電話に応へるオバマ大統領

平和賞懲りぬ先物買ひをして待つは茶番か大団円か

 故金大中氏の受賞で批判にさらされ大概懲りてゐるかと思ひきや、平和賞選考委員会はまたスタンドプレーに走つてくれたかとしか思へぬ。まだ政治上の実績もなく、「核兵器廃絶宣言」も実効を伴つてをらぬ緒についたばかりのものである。「賞」も政治といふ観点からすれば以後の米国の政治決断に足枷を嵌めようとする欧州勢の思惑に出たものとするは穿ち過ぎか。
 かつて佐藤栄作元首相が平和賞に決まつた折には国民は川端の文学賞を素直に喜んだに引き換へて呆れたものである。その実授賞の本音は佐藤氏の師匠たる故吉田元総理の代理といふにあつたやうだが、血で失つた領土を無血で取り戻した功績はやはり代理以上の資格があつたか知れぬ。
 むしろ文学賞のほうが、選考側は川端でも三島でもよかつたものを三島の出世を手引きした川端が三島に露骨に働きかけて「私は後でもよいから川端さんに先に授賞を」といつた趣旨の公的メッセージまで送らせたといふ茶番があつたもののやうである。
 結果文学に一義的目的意識を失つた三島は国粋主張に傾き楯の会事件で割腹死するに至り、「賞」の重圧にひしがれた川端はその後二年ならずしてガス自殺を遂げてゐる。
 三島が貰つてをれば三島も川端も死なずに済んだと皮肉つぽくかへりみられる始末である。

 故金大中氏が、その太陽政策結果として世界情勢上多大な迷惑を及ぼしたにも関らず死んで国葬になつたは平和賞授賞者といふ肩書きが大きかつたであらう。国葬は通常は現職の大統領に対して行なはれるが韓国の規定であつた。これを現政権が国民葬にて行なはんするとおそらく遺族はこれを拒否して抗議の市民葬にでもしてゐたのであらうか。

 「賞」の流れからすると今年の暮には村上氏あたりが該当するか、或いは他にもと憶測するもやや眉に唾つけがちである。

0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ