2009/6/17

恨みのメール  画像歌


待ち呆けに合つたと思ひ帰る部屋に待つてたのにと恨みのメール

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本日は番外編。

時には自分も恋歌の登場人物にならうかと素見しで登録して居た出会系サイトの女性とアポをとり、雨の降るハチ公前で携帯写真を参考に待つたところが一向あらはれず。隣にやや太めで肌浅黒い人見知りげな娘さんがアプリケを沢山提げた緑の携帯を手にこれも人待ちげでしたが、髪型から年恰好から写真とあはぬやうで声かけそびれて居る間に失望したげに去り、自分もほどなく帰つて部屋でパソコンを開けばなんと「思ってました。。もう来ないって思ったほうがいいって事ですよね?」と恨みのメールが来て居ました。つくづく出会とは難しいものかな。
不良熟年慣れぬことはせぬものか。自分はすることよりも見ることそして客体素材を構成し造型することの方が合つて居るのかなと思はれたことでした。実際その娘さんでしたらごめんなさい。




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2009/6/9

「やってません」  画像歌

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インタビューに答える菅家利和さん(6日夜、横浜市内で)=田中秀敏撮影


強ひられし自供を前に泣きじやくりヤケを起こして握る刑事の手

今日の一連で詠んだのは足利女児殺人の冤罪晴れて自由の身となられた菅家さんのその折の心理状況を歌にしてみればかうなるであらうかといふ試みです。日常時事のカテゴリーは自分のことを詠むやうにこころがけてゐるのですが稀にかういふ代述心緒も挟むことにします。
犯罪捜査といふは実に難しい、それが殺人事件とあつてはなほさら。普段人に向かつては言ひたいことの半分もいへないやうな人だつたことがその後の苦境を避けがたくしたのでせうが、自由を取り戻された今は心やすらかな人生を送つていただきたいものです。
当時の県警幹部が自己ブログでこの事件に触れて「最善をつくしたとおもっている」とこめんとしたところが抗議の書き込み千件以上殺到して炎上削除する事態になつてゐるとのことです。

「栃木県警の捜査員が自宅を訪れたのは1991年12月1日午前7時頃。「いきなり上がり込んできて、『子供を殺したな』と迫られ、女の子の写真を示され『謝れ』と言われました」。その日は知人の結婚式だったが、求められるまま警察署に向かった。

 署では「やったんだな」「やってません」といった押し問答が夜まで続いた。体液のDNA鑑定結果などを示されてもすぐには認めなかったが、「日は暮れ、心細くなって、このまま家に帰れないかもしれないと思うようになった」という。


 気持ちが折れてしまったのは、取り調べが始まって約13時間たった午後9時ごろ。「刑事の両手を力いっぱい握りしめ、泣いてしまった」

 「刑事は私がやったから泣いたと思ったらしいが、本当は、いくらやっていないと言っても聞いてもらえなくて、悲しくて泣いた。やけになってしまった」。容疑を認めたのは、その後だ。後は「何か(話を)作らないと前に進まない」と、報道された内容に想像を交えて、犯行状況を話した。

 「小さい時から、人からものを言われると何も言えなくなってしまう。相手の機嫌を損ねることが嫌い」と自己分析する菅家さんについて、弁護人の佐藤博史弁護士は、「捜査官に納得してもらわないといけない、と迎合的に考える傾向がある」とみる。
その上で2007年に富山県氷見市の男性の冤罪(えんざい)が発覚した婦女暴行・同未遂事件との類似性を指摘、心理学者などを交えての事件の検証を訴える。」

なほ写真記事とも讀賣新聞によつてをります。不都合の旨お申し出あらば削除致します。

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2009/6/7

墓場の孤兒  画像歌

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ドラクロワ 墓場の少女 画像引用 タイムライン 旧art@drian

片袖の脱げかかりつつ夕空をあふげる墓場の孤兒をおもふや

 絵画そのものにについて思ひを凝らしたたといふよりは、自分が落ち込んでゐる時にふと思ひ起こすことがある絵です。作者は実在の孤児に何がしかの小遣与へてモデルとした由です。
 絶望にのみ向けられた眼が却て自分にかうあつてはいけない、と何かはたらきかけられてゐるやうで不思議な癒しを覚えたものです。
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2009/6/5

葵  画像歌

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消息の至らず久しいつの間に丈高くなる辻の葵よ

至らず久しと歎ずるほどに友誼を交はした者多くあるわけでもありませんが、やがて梅雨に入らむとする頃の無聊はまたとなく身にこたへます。
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2009/6/4

アンリ四世  画像歌

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画像文章引用wikipedia

新舊の隙を癒せとみことのり昨日宗旨をひるがへしたる


一昨日開港百五十周年を迎へた横浜を練り歩いてゐる奇抜な蜘蛛ロボットを拵へた技術者集団の所在地が
丁度ナントの勅令のナントでした。

新教徒のアンリがあへて国内多数派たる旧教に改宗してまで両宗教の宥和を図り国内の統一をめざした意図はその後に生かされず、フォンテーヌブロー勅令によつて新教への寛容令が廃されると勤勉で産業の中核たる新教徒が多く国外追放となり、結果として国庫の枯渇を招き、フランス革命の遠因になつたとするが歴史の定説のやうです。


1572年8月18日、アンリは摂政カトリーヌ・ド・メディシスの娘で、国王シャルル9世の妹でもあるマルグリット・ド・ヴァロワと結婚した。ところが、8月24日、結婚式参列のためパリに集まっていたコリニー提督をはじめ多くのプロテスタント派貴族は、カトリック派のギーズ公アンリの兵によって虐殺されてしまった(サン・バルテルミの虐殺)。惨殺はフランス国内にも広がり、死体がパリ市内の至る所に放置された中で、アンリは宮廷に幽閉されて強制的にカトリックに改宗させられた。

同年、母の急死(カトリーヌ・ド・メディシスによる暗殺の噂がある)によってナバラ王(エンリケ3世)を継承する。1576年、宮廷からの逃走に成功したアンリはプロテスタントに再改宗する。1574年にフランス王位に就いたアンリ3世(在位:1574年 - 1589年)がカトリーヌ・ド・メディシスの摂政退任により親政を開始すると、国内の政局はアンリ3世、ギーズ公アンリ、ナバラ王アンリが鼎立する三アンリの戦いの時代に入った。

1584年、アランソン公フランソワ(アンリ3世の弟)の死に伴い、アンリはフランス王位の継承者となった。1588年12月、アンリ3世はギーズ公とその弟のルイ枢機卿を暗殺した。アンリも身の危険を感じてパリを脱出した。しかし、1589年にアンリ3世もまた熱狂的なドミニコ会士の凶刃に倒れたことでヴァロワ朝は断絶した。

アンリ3世の命によってブルボン家のナバラ王アンリがフランス王位を継承し、アンリ4世となった。しかしスペインの後ろ盾を持つカトリック同盟は、ローマ教皇から破門されていたアンリ4世を認めず、アンリ4世に戦いを挑んだ。アンリ4世はいったんパリを脱出し、同盟に対する勝利を重ねて軍事的優位に立つことに成功。しかし、肝心のパリを陥落できなかった。

ここに至ってアンリは、最愛の女性ガブリエル・デストレの勧めもあって1593年6月25日に「Paris vaut bien une messe」(「パリはミサをささげるに値する都市である」)と宣言、カトリックへの改宗を発表した。これによってなおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年2月27日にシャルトル大聖堂で正式に戴冠式を執り行うことができた。さらに1598年4月30日にナントの勅令 を発表した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。
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2009/6/3

GM  画像歌

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ミシガン州デトロイトのGM本社

中産の夢破れしか三代の勤めかさねし五大湖のほとり

つくづく栄枯盛衰を思はせられます。
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2009/5/30

エフタとその娘  画像歌

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画像引用  愚者の侃々諤々 ヽ(´∞`)ノ 
生け贄の誓ひぞ重き凱旋の我を眞先に迎ふるはわが娘

古代にあつて誓約といふものがかくも重いものであつたかとかつて文語訳聖書で読んだ際の衝撃と感銘を思ひ起しつつ。


主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ついで、ギルアデのミツパを通って、ギルアデのミツパからアモン人のところへ進んで行った。
エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。
ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。

エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」

すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」

そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」
エフタは、「行きなさい。」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。
二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行なった。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、
毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。

文書引用  日ごとの糧
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2009/5/28

寫生の 戀  画像  画像歌

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中の島のお堂に至る蓮の布置教へて見下ろす胸の谷間を

不忍池を散策の途次、熟年の写生の群れを眺めつつあらぬ妄想をふくらませてなつた一連の中の一首です。彼ら丁度この写角から弁天堂を写生してゐました。
 素と自分は無趣味無味乾燥な朴念仁に過ぎぬけれど、言葉は大いに運動させてやらなければ、中枢神経が鈍ると憂慮し、あへておふざけの一連を提供して置きます。
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2009/5/28

野の花あはれ  画像歌

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画像引用上まりっぺのお気楽読書下wikiedia

下賜せむにものなきかつての皇后の摘みてたまへる野の花あはれ

これもひとつの女の一生かと。
皇后時代の肖像はなるほどマリーアントワネットを意識した風姿です。
この歌の題材にした逸話を伝へる外交官の名は只今失念しましたが「煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。」といはれる皇后のお人柄しのばれるところです。
 皇帝と皇太子に先立たれ八十八歳頃のお写真とのことです。

「ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo, 1826年5月5日 - 1920年7月11日)はフランス皇帝ナポレオン3世の皇后。

彼女はテバ伯爵令嬢マリア・エウへニア・イグナティア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック(スペイン語: Doña María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick, Condesa de Teba)として生まれ、結婚にともない、フランス皇后ウジェニー(フランス語: Eugénie, Impératrice des Française)となった。

1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Président)主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。

1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。

ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さおよび伝説的な宝石は数え切れない絵画、特に彼女のお気に入りの画家フランツ・ヴィンターハルターによって記録されている。ウジェニーのマリー・アントワネットの生涯への興味は、ルイ16世の頃に人気があった新古典様式の家具とインテリアデザインが宮廷の装飾に多用された。 「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。また、ウジェニーはマリー・アントワネットの肖像画や遺品をコレクションし、それらを集めた展覧会も開き成功したが、中には悲劇の王妃に傾倒する皇后を心配する人々もいた。

煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも影響があった。1866年には女性を初めて電報局で雇用している。

普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(Chislehurst)に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーのファーンボロー(Farnborough)にある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語でコルシカを意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ近くのカプ=マルタン(Cap-Martin)に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。

ウジェニーは1920年7月に死んだ。94歳であった。アルバ公を訪ねてスペインのマドリードに滞在していた際の死であった。」
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2009/5/28

誰も恨むな  画像歌

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画像引用「朝鮮日報」

誰も皆哀號の面堪へ切れぬ中を柩よ誰も恨むな


 昨夜十時過ぎに仕事先から帰りネットに接続してみればかかる報道に一驚。そそくさと癖付けてゐる五首一連にまとめたところがアクセス異常に増殖して、普段二桁に至れば足れりとしてゐたところを十倍以上の訪問あり、それでゐてコメント・トラックバックの類は一向なきをいぶかしんだ次第です。

 以前仕事先で在日のといふよりは日本語堪能なる滞日の方と知り合ひ親しくなつたことあり談たまたまネポチズムはびこる韓国の政治風土のことに及び、ノムヒョン末期とはいへ未だ大統領職にある時点で、2チャンネルなどでノムヒョン逮捕はいつかなど無責任なとりあげがされて居る例を引いて、さういふ前任者への報復式なことはせずに穏便に済ませられればよいねといつたところが、「いや、徹底的にやるべきだ。臭い物に蓋なんてことするのは日本人だけだよ」といふ答へで彼我の心性の落差にあらためて思ひを致した次第です。

 ノムヒョン氏は自家撞着式な主義主張の下性急に歴史の清算を迫り、親日派の断罪に身命を賭されたやうですが、結局ご自身が歴史に清算さるべき身と悟れる果ての今回の件ではなかつたかとおもへてならぬ。

 「恨」とは日本文芸の「もののあはれ」に相当する韓国民の基本情調といはれますが。今回の件が迫つたことは「恨」の根本的清算ではなかつたか。

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