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2009/6/22

学ぼう!北方領土  根室振興局

1、千島の発見

千島のことが日本に知られるようになったのは、今から300年以上も前の江戸時代の頃です。その頃はアイヌの人達が住んでおり。1615年〜1621年頃、松前藩と千島との間で交易が行われていました(ラッコを松前藩に納めていた)
1635年には、松前藩の村上広義がえぞ地を探検し、千島列島の北端にある占守島(しゅむしゅとう)までの地図を作りました(千島の島々を描いた世界で最も古い地図で、それには「くなしり」「えとろふ」「うるふ」などの島名がつけられています)
ロシア人が千島のことを知ったのは1697年のことで、アトラゾフという人がカムチャッカ半島で、クリール人から千島の島々のことを聞きました。


2、ロシアの南下

ロシア人が初めて千島に上陸したのは1711年。
ロシアの兵隊が占守島に上陸し、島の住民と戦い征服、翌年にはパラムシル島も征服しました。千島には毛皮になる動物がたくさんいることがわかり、ロシアの進出が活発になりました。そして1795年にはウルップ島にロシア人40人が移り住むようになったのです。そこで、幕府は千島の守りを固めるために1785年、最上徳内や近藤重蔵などの調査団を択捉島とウルップ島へ送りました。1800年には近藤重蔵は択捉島タンネモイの丘(カムイワッカ)に「大日本恵登呂府」(だいにっぽんえとろふ)と書いた標柱を建て、日本の領土であることを示しています。
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日本はその翌年から択捉島に役人を送り、東北地方の兵士に守備を命じたり、漁場を開きました。高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸」に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17の漁場を開いたのもこの頃です。
しかしその後、日本とロシアの間に正式な国境が決まっていなかったので択捉島にあった日本人の村々が襲われるなどの問題がありました。

ラクスマン来航
1792年にはロシア人ラックスマンがエカテリーナU世号に乗りロシア皇帝の国書を持って、日本の漂流民をともない北海道根室に来て日本との通商を求めました。
これに対して幕府の老中松平定信は、鎖国という国法を変えることは出来ないとして松前藩を通して次のように回答しています
●ロシアの国書は受け取れない
●江戸への来航は許可できない
●漂流民の送還については感謝する
●通商の申し込みは長崎で行う
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(路線バスの車窓から・・・根室市内にて)

3、「日露通好条約」国境が決まる

ロシアの南下が強められる一方、幕府の警備が進められ、両国の間に争いや事件が起きるようになりました
1811年、ロシアのゴロー人少佐が国後島に不法侵入したとして役人に捕らえられ、その仕返しとして1812年、高田屋嘉兵衛がロシア側に捕らえられました(ゴローニン事件)これがきっかけとなり、1813年に国境を決めるための話し合いが行われます。

1855年2月7日、下田で「日露通好条約」が結ばれ、国境は択捉島とウルップ島との間と決められました(択捉島から南の島々は日本の領土、ウルップ島から北の島々はロシアの領土、しかし樺太は両国の雑居地として国境は決めないでおくことにしました)
後に、2月7日は「北方領土の日」に制定されました。
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4、「樺太千島交換条約」国境の変更

その後も、樺太での日本人とロシア人の争いがたえなかったので、改めて国境について話し合うことになりました。
樺太をロシアの領土にするかわりに、千島のウルップ島からシュムシュ島までを日本の領土にする条約を結びました。
1875年の「樺太千島交換条約」です。
1876年、初代北海道開拓使長官黒田清隆は、初めて全島を視察して、島々の開拓と警備の重要性を政府に伝え、1880年には色丹島、国後島、択捉島、に村役場を置いて、行政組織もはっきりしました。
郵便局や小学校も建てられ、道路や港も整備されて島民もしだいに増えて生活がしやすくなりました。

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5、「ポーツマス条約」(日露戦争)

1940年に日本とロシアがもとに朝鮮を自分のものにしようとしたことに対して日露戦争が起こります。
1950年に終戦。日本とロシアの間で「ポーツマス条約」が結ばれ、日本はロシアから樺太の南半分(北緯五十度)をゆずりうけました

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6、第二次世界大戦

1941年(昭和16年)、日本はアメリカとイギリスを相手に戦争をはじめました。

日本とソ連は1941年に「日ソ中立条約」を結び、日本とソ連が直接戦争をしないとう約束をしていました。しかし、1945年にアメリカとイギリスは、日本を降伏させるためには、ソ連が日本との戦争に参加することが必要と考え、ソ連が日本と戦争を始めたら、樺太の南半分が返還されること、千島列島が引き渡されることをソ連に約束しました(ヤルタ協定)
そして、ソ連はこの約束に従って「日ソ中立条約」を破り、1945年8月9日に日本と戦争を始めました。
原爆の投下とソ連の参戦により、1945年(昭和20年)8月15日『ポツダム宣言』を受け入れて日本は無条件降伏しました。
「ポツダム宣言」というのは、アメリカ・中国・イギリスが発表したもので、ソ連も日本と戦争を始めたときにこの宣言に参加しています。
「ポツダム宣言」には「中国・アメリカ・イギリスは自分の国の領土を広げるために戦争をするのではない」(カイロ宣言)「日本の領土は連合国の決めるいくつかの島々に限られること」などが書かれています。

7、奪われた島々

日本が降伏して3日後の8月18日、ソ連は突然シュムシュ島への攻撃を開始し、次々と千島の島々に上陸しました。
そして、9月5日までに、千島の島々と歯舞諸島、色丹島はすべてソ連に占拠されてしまいました。
その当時、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島には1万7千人の日本人が住んでいましたが、ソ連の命令で1948年までに日本へ強制的に引き上げさせられてしまいました。
日本ではこれらの元島民を中心に、戦後すぐに返還要求運動が始まりました。

8、サンフランシスコ平和条約

1951年、日本と第二次世界大戦で戦った国々との平和を回復するために会議が開かれ「サンフランシスコ平和条約」が日本と48カ国の間で結ばれました。
日本はこの条約で「千島列島と樺太の南半球に対するすべての権利、権限、請求権を放棄する」ことを認めました。
この会議の中でソ連は「千島列島はソ連のものにする」という風に変えるべきだと言いましたが認められませんでした。
平和条約ではこれらの地域が最終的にどこに帰属するかについては何も定めていません。
また、この条約を締結した同じ日に、日本の安全保障のためアメリカ軍の日本駐留を定めた日米安全保障条約が調印されました。

ここ大事!
●サンフランシスコ平和条約には、単に「千島列島」となっていて、その定義が明確になっていませんが、このことについてわが国は、この条約で放棄した千島列島(クリルアイランズ)とは、『日露通好条約』及び『樺太・千島交換条約』で定義されているように、ウルップ島以北の島々をさしていること、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島は、歴史的にみて一度も他の国の領土となったこともなく、また、日本人以外の人々が定住したことのない地域であることから固有の領土であると主張し、これらの四島を千島列島とは明確に区別して「北方領土」とよび、その返還を求めています。

しかし、ロシア連邦は、千島列島は北方四島を含む島々であると主張しています。

本来、戦後の領土の帰属は平和条約で決定するものなのですが、ソ連はサンフランシスコ平和条約に調印しておりません。したがって、放棄した千島列島が、どの国に属する島かということについては、決まっておりません。

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(千島列島には北方四島は含まれていません!)

9、「日ソ共同宣言」

日本はその後、ソ連と平和条約を結ぶため努力してきました。
1956年に日本とソ連は「日ソ共同宣言」を発表し、国交を再開。その中で「平和条約を結んだあとで歯舞群島と色丹島を日本に引き返す」という約束がされました。
しかし、1960年に日本は日米安全保障条約に改定すると、ソ連は「日本からアメリカ軍が出て行かなければ歯舞群島と色丹島は返さない」と態度を変えました。
その後、ソ連がロシアになってからも日本は平和条約を結ぶために話し合いを続けています。

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参考資料
・北方領土問題研修会テキスト(昭和63年北方領土フォーラム)
・北方領土ガイド(2007、3月北海道)
・われらの北方領土2008年版(外務省)

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