ガイドの返品は受け付けませんので、最後までお付き合い下さいませ!発車オーライ♪                                        

2011/5/31

ちょっとイシカリ@伊達邦直  石狩振興局

石狩本町の、ちょっと気になる建物をパパッとカメラにおさめて
お腹が空いた私と母は、厚田へ向かいました。
ちょうど、戸田記念公園の桜が見ごろを迎えていましたが・・・
花より団子・・・
美味しいパンと窯焼きピザが目的でした
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ところが、ところが・・・
そのお店〜
なんと定休日
折角、青空ものぞいてきたのに(涙)
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とりあえず、高台から写真を撮ってると・・・
母は「よもぎ」をつみ始めました。
天ぷらにするんだそうです・・・
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そうそう・・・
また、MIHOさんに会えるかな〜と思い
寄ってみましたが・・・
ここも「お休み」でした。
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泣く泣くあきらめて・・・
来た道を戻ります。

すると・・・
「しっぷ」の辺りで、「伊達邦直主従 北海道移住の地」なる看板を発見!
これは、行くしかありません。
何もない原野に、どんどん車を走らせます(母が・・・)
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ありました!
記念碑が・・・
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『伊達邦直=当別町』のイメージが強いのですが、最初に180人が移住したのがここ石狩のしっぷだったそうです。

当初、新政府から与えられた土地は空知の奈井江。ところが唯一の交通手段である石狩川から遠いために、石狩へ移住したのです。

しかし、石狩は潮風にさらされた砂地で作物は実らない。
あまりの辛さに「故郷に帰りたい」と泣く家臣達も・・・

しかも、船で運んだ食糧等も着かなかったため、一同は困窮を極め開拓使に嘆願したところ、「当別町」に移転することを許されたのだそうです。

↓今なお、こーーんな土地です
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国道からの入り口付近には「開拓之碑」も建っていました。
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新しい発見があり、戻って特した気分!


2011/5/30

ちょっとイシカリ@「無辜(むこ)の民  石狩振興局

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↓クリックして、ご覧下さい
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2011/5/29

ちょっとイシカリ@石狩川  石狩振興局

そうだ!せっかくここ(石狩)まで来たんだから”河口”を見にいこう!と・・・
高台に上がるも・・・
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海に流れ込む”河口”は、見えませんでした
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とても、残念です
いつかはリベンジしたいな〜
せめて、もう少し近くで川面を見たいと思い、思い切りズームにしてみました
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こんな案内板がありました
夕日、きれいです!
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石狩川
北海道の母なる川
大雪山を源に、上川・空知・石狩の平野をうるおし長さ268キロメートル。わが国3番目の長流。

「渡船場跡」にも行ってみました
数人の釣り人が、のんびりと釣り糸を垂れていました・・・

《石狩ファイル》より
石狩川にあった渡船場
石狩川河口渡船場は、石狩川最下流の渡船場です。発祥の時期は明らかではありませんが、安政4年(1857)に場所請負人が渡船場を運営し、渡し賃は無料であったという記録がありますので、それ以前からあったようです。翌5年には石狩役の管轄となり、渡し賃は50文となりました。万延2年(1861)には、「渡船規則」が定められています。
明治に入り、渡船場は、道路の一部として一層重要性が高まりました。運営は当初は開拓使が行い、やがて石狩町営に移管しました。しかし、実際の運航は、個人や会社が請け負う形で行われました。
その後、渡船場の運営は、昭和28年(1953)に石狩町直営となり、同年、札幌から留萌間が国道231号線になったことから昭和30年(1955)には国営渡船場に指定されました。昭和34年(1959)には、それまでの木造船に変わり、鉄製の船が就航して通年運行が可能となり、これに伴って冬の風物詩だった「氷橋」もなくなりました。昭和47年(1972)石狩河口橋の一部が供用され、翌48年、再び町営となりました。そして河口橋の本格運用による利用者の減少に伴って、昭和53年3月31日、20年以上にわたる石狩川渡船の歴史が閉じられました。


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明治17年秋、石狩から樺戸(月形)まで、石狩川を初めての外輪鉄船が就航したそうです。名前は「神威丸」と「安心丸」。この2隻の船は、樺戸集治監(月形刑務所)の物資を運ぶ船として内務省の許可をもらい発注されました。

明治14年に樺戸集治監が設置、2年後の16年には囚人の数が1200人を超えたので、これらに供給する莫大な物資が外輪船によって運ばれたのです。

小樽〜銭函間に道路が開通し、手宮〜幌内まで鉄道が明治15年に延長されると石狩川で運搬する貨物は減少したが、石狩川沿岸の住民にとって、船の運航は重要な交通機関だったので、小樽、石狩、ばらと、対雁(今の江別市)、月形まで航行を続けたそうです。

その後、石狩川の航行事業を民営化。色々移り変わりがあり昭和10年に廃止・・・
石狩川での風物詩・・・「外輪船」とまではいかなくても〜
船で川を下ってみたいな〜

最上川の川下りのように・・・
実現したら、バスから船のガイドにトラバーユしようかな〜(笑)

おまけ

「石狩河口橋」
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2011/5/28

sさんと食事をする  花子よりだんご

今日は土曜日なので、ちょうど一週間前に・・・
Sさんと一緒にイタリアンフレンチレストランにいきました!
ここのお店、3度目の来店です。

はい・・・
ちゃんと予約をしましたよ!
北大前で待ち合わせしたんですが・・・
たまたま同じ地下鉄の同じ車両に乗ってたので、お店に直行(笑)

なのに・・・えらい遠回りして、レストラン到着!



まずは前菜から
目でも楽しみ、バラェティな内容で味もいい。

とうきびの下にジャガイモの一品も隠れています
全5品
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今回はパスタと、初めてのリゾット
二人で半分こにしますと言ったら、一品ずつ出してくれました。
まずはリゾットです。
Sさんが、上手に取り分けてくれます
みんなによそうとか、綺麗に盛り付けるという分野は苦手です・・・

ねちょねちょしてなくて、お米の硬さが私は気に入りました。
盛り付け、上手だな〜
さすが!
お偉い人の近くでお仕事してるだけあるわ〜と、関心する。
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次はパスタ
ソーセージのクリームパスタだったかな?
これは2度目だわ!
ソーセージは、お店で作ったオリジナルかな
スパイシーな味がします。
写真が、黄色くなりました
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食事をしながらの話題は「ツルヤ」さんの大福がどんだけ美味しいか・・・とか
出身地の話とか・・・
たまに仕事の話とか・・・

Sさんと、小樽にいって「ツルヤ」の大福買わないと・・・
でも、私のように歩けないっていう
そーいえば、Kちゃんも「小樽にいくのはいいけど、そんなに歩けない」って言ってた。

私だって多分・・・
もうあんなにバカみたいには歩けない。
あんときは、何かに取り付かれたように歩いてたなぁ〜

でも、いきましょうよ
私今度は、あっち方面もじっくり見てみたいし・・・
あそこにも、ここにも行ってみたい(やっぱり一人旅の方がいいか)
そうだ・・・
一人で行って、お土産に草大福買えばいいんだ

でも、Sさん言ってたな
「やっぱり私も自分で(ツルヤ)いく。そして草大福10個買う」って(笑)
一人+チビ暮らしなのに10個
うちの母の上がいました

確かに冷凍は出来るけどね・・・
って話をしてるうちに、あっという間にクローズの時間です。

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ここ、またいく

近いうちにいきます!予約して・・・



2011/5/28

ちょっとイシカリ@弁天歴史公園  石狩振興局

「弁天歴史通り」の中ほどには「弁天歴史公園」があります
この辺りは、『石狩発祥の地』であったところ。
江戸時代中期から道央地域の政治経済の中心地として栄えてきたのです。
市民長くに親しまれた「旧石狩医院」を石狩市が取得し公園を開設したのです。
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最初に、パッと目に入る建物は「運上屋棟」です
かつて、ここにあった運上屋を復元したもので、観光案内の窓口も併用しています

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建物のすぐ横に、こんなに立派な「市政施行レリーフ」が
名づけて「先人たちの碑」です

石狩市の市制施行は平成8年9月1日です。
「石狩の未来を石狩川の流れに託した先人の歩みを顕彰するもので、石狩川を中央に配し、石狩を象徴する鮭と市花ハマナスをモチーフにデザイン化したものです」(案内板より)
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で、気になるのが向かって左の人物・・・
「荒井金助」さんだそうです。
安政4年(1857年)7月、箱館奉行所石狩詰役所へ赴任。北辺警備と石狩場所の改革を進めた。場所請負人制度を廃止し幕府が直接経営。利益を石狩場所内の開発にあて鮭の保護を進め禁漁区を設けた。石狩へ移住する者には木材を貸し与え住居を建てさせ、アイヌ民族への不当な扱いを止めさせた。
そうそう、石狩で油田を発見した人でもあります。

荒井金助について・・・
色々、詳しく書いたのですが・・・
あれ?気が付いたら「消えて」しまいました
すっかりやる気が失せてしまいました
この御方、個人的にも興味のある人物ですので更に深く探ってみたいと思います(笑)


もう少し、大きくレリーフを見てみましょう
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『石狩川鮭採り』
アイヌ民族が丸木船をたくみにあやつり、鮭を採る様子

『北前船と近代貨物』
かつて、石狩の鮭を北前船で本州へ運んだが、現在は大型貨物船が石狩湾新港に本州からセメントを運んでいる

『運上屋』
場所請負人の交易場所、宿泊施設などもあった

『鮭地引網漁』
石狩川河口では江戸時代から地引網漁が行われてきたが、昭和29年の洞爺丸台風の年の135千尾から減少し昭和45年に廃止(最近は地引網体験が出来るそうですよ!鮭がうまく入ってくれたら感動ものですね!)

『農耕』
砂地水田は昭和2年に花畔(ばんなぐろ)で成功。昭和22年には市内全域に広がる。”砂と戦う豊かな穀倉地帯”なのだそうです

以上、案内分から抜粋!

そして、運上屋の裏手には「楽山居」という建物が
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この建物は「旧石狩病院」の和室部分を昭和12年に増築したものだそうです。
石狩市では、道央地区最古の俳句結社「尚古社」が結成された関係で、本町地区を中心に俳句が大変盛んに行われていました。

建築当時、院長の鈴木信三さんは俳句結社「尚古社」の中心的な社員。この和室は「楽山居」と号され、句会の場として、また石狩を訪ねた画家の画室として文化人の集まるサロンでもありました。
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現在は市民の交流の場として開放されているのです。
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庭がとってもステキです!
車で待機している、母を携帯で呼びました
「すごい庭があるよーー!見においで!」
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石狩市は「俳句のまち・いしかり」を次代に伝えるため、平成17年度から俳句コンテストを実施しております。 俳句コンテスト(一般)で天位を受賞した作品が、句碑(木碑)として石狩発祥の地「弁天歴史通り」に3年間設置されるのです。

こんな句碑も近くにありました
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極めつけは「井上伝蔵」の句碑です

”俤の 目にちらつくや たま祭”

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井上伝蔵は秩父事件の指導者のひとりです。
逃亡するうちに死刑判決を受け、北海道に逃れ石狩には明治22年頃にやってきたと言われています。名を伊藤房次郎(いとうふさじろう)と変えて代書業と小間物商を営んでいました。
井上伝蔵は、石狩で尚古社に入り、いくつかの句を残しています。
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「弁天歴史通り」が別名「俳句ロード」
鮭漁華やかなりし頃のイシカリを偲び・・・
のんびり歴史通りを散策しながら、ぜひ一句ひねってみてください!

そして、毎年開催されている「石狩俳句コンテスト」に応募してみてくださいね!

おまけ
「尚古社」
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2011/5/24

ちょっとイシカリ@弁天歴史通り  石狩振興局

石狩市本町の「弁天歴史通り」をぶらぶら
鮭漁で賑わった頃の面影残る町並みです。

「旧石狩番屋の湯」から石狩川河口方面に向かって歩きます

早速、こんな古い趣のある石蔵が・・・
「旧長野商店」です
明治10年代に建築された、石狩市最古の木骨石造(もっこつせきぞう)建築物です。

日本家屋の瓦屋根に、アーチ型の窓・・・という和洋折衷デザインが目を引きます
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長野商店を創業した長野徳太郎さんは、越後出身者
米・塩・呉服の他に・・・
看板をごらんの通り、明治から大正にかけては「酒造業」も営んでいたそうです。

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あいにく、火曜日に出かけたので「いしかり砂丘の風資料館」は休館でしたが・・・
開館日で希望すると、見学が出来るようです
お天気の良い週末に「ちょっとイシカリ」へドライブしませんか?
どなたか・・・私に代わって見学してきてくださ〜い!

「弁天歴史通り」
こんな親切な案内板が、随所に設置されています!
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すぐ近くに、これまた古い歴史を感じさせる建物が・・・

「出雲教大神社」ですって
先ほどの長野さん始め、この周辺は越後(新潟県)からの移住者が多いようです。
ここも、新潟県から入地した宮下謙吉さんが漁業を営むかたわら布教をして、明治30年代に建立した神社だそうです。
祠は戦争で廃されたようです・・・
海上安全・漁業繁栄の守護神としてまつられていたのですが昭和22年、謙吉さんが亡くなると御神体、神像、御札、鏡、獅子舞などは宮森家に奉祀。
写真(現在)の祠は平成8年に宮森梅仁郎が建立し御神体をまつったものだそうです。
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そのすぐお隣は「曹源寺」
実は、このレンガ造りの門が、とっても気になりました!
ものすごく古さ年代を感じます
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さらに、てくてく歩くと・・・
すでに紹介済みの「石狩弁天社」があります
「弁天社」の手水鉢は文化2年(1845年)に作られたもので、水戸藩主の書と言われるものです。元禄元年(1688年)水戸光圀が「快風丸」を派遣して以来、石狩は水戸藩と交流があったのです!

あの、黄門様が石狩に来てアイヌの人達とも交流していたそうですよ!

「助さん、格さん、懲らしめてやり なさい」
「助さん、格さん、もう良いでしょう」
と言って「印籠」を見せたかどうかはわかりません

「手水鉢」2つ、あったんです。
どちらが水戸藩主の書なのでしょう〜

「北千島沖流網之碑」なるものも!
石狩年表には、1933年(昭和8年)北千島サケ・マス流網漁業出願し、石狩から4隻許可とありましたが・・・
そのことかな?
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事前予約でボランティアガイドさんに、この界隈を案内してもらうことも可能です。
歴男歴女の皆さん、ぜひぜひ一見の価値がありますよ!
私も一度、案内にそって見学しなおしたいところです!

詳しくは「石狩観光協会」へお問い合わせ下さいね⇒こちらです

次回「弁天歴史公園」に続きます

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「歴史通り」に咲いていた水仙
なんとなく、水仙が似合う一本道

あれ?みんな「あっち」向いてるなぁ〜


おまけ
今日は最終日
これから出勤です!
いってきます


2011/5/21

ちょっとイシカリ@石狩といえば  石狩振興局

本町地区(「番屋の湯」のあたり)をぶらぶらする際は、ぜひ「石狩市観光センター」にお立ち寄りくださ〜い!

中には「石狩観光協会」の窓口があり市内のことなら何でも分かっちゃいますし、石狩市の特産品がすべてそろっています!
簡単に言うと「道の駅」のような存在です。


「石狩牡丹蕎麦」や、「蕎麦焼酎」も買えますし・・・

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今が旬の「浜ぼうふう」も入荷していました!
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昨年も今頃、観光センターで「浜ぼうふう」を買って・・・
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天ぷらにして、お腹いっぱい食べたんだった!(昨年の画像)
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今回、母は・・・
どこででも買える「ミルクかすてーら5本入り?」と「ハッカキャンデー」を買っていました。
でも、石狩らしいものも・・・

はい「ミニトマトジュース」です!
かなり、美味しいんだそうです!(沢山買い、ビンの音がガチャガチャいってたのに・・・わけてくれませんでした)「かすてーら」は、くれたけれど・・・
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そうそう、石狩と言えば「鮭」ですね
同じ日本海でも、小樽や留萌のように「ニシン」ではありません。
石狩川へ産卵にのぼってきた鮭の群れがあまりにも多く、棒を投げ入れても倒れることなく、そのまま立っていた〜という昔の言い伝えがあるほど石狩川は鮭で埋めつくされていたようです。

鮭は頭から尾っぽまで、残さず食べることが出来るのです!
アイヌの人達は、鮭の皮で靴などを作っていましたし・・・
今は「鮭の中骨の缶詰」や「鮭の皮チップス」なるものも商品化されています


この界隈でも、気軽に「石狩鍋」を食べれるお店は何店舗かありますが・・・
鮭のフルコース(部位)を楽しめるお店といったら、何と言っても「金大亭」さんでしょう。
創業明治13年という鮭の老舗です(何度か、超ビップなお客様をここへ送迎したことがあります)

新潟県から夫婦で石狩に移り住んだ初代女将石黒サカさんが、漁師の料理を参考に石狩鍋を売り出したのがはじまり・・・
現在は四代目、石黒聖子さんが130年間、変わらぬ味を守っています。


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『石狩鍋』最初は、塩で味付けし三平汁のようにして食べていたらしいのですが、本州から味噌が送られてくるようになると味噌も使われるようになったそうです。

昭和初期の頃は、みそ仕立てで汁の中に鮭を入れたものを「大なべ」(だいなべ)言ったそうです。

その「大なべ」が「石狩鍋」と言われるようになったのは、昭和20年代後半ではないかと・・・

その頃、週末になると石狩河口の鮭地引網漁の見学ツアーで1000人を超すお客さんが石狩に来て、「石狩鍋」に舌鼓をうったそうです・・・
そのことを掲載した、昭和29年9月29日付北海道新聞に初めて「石狩鍋」という名称が使われたそうです。

へ〜〜っ

「石狩鍋」は、お店により具材やだし、味付けも違いがありますが・・・
欠かせないのは、キャベツ・(たまねぎ)・仕上げの粉山椒かな?

これは、我が家の「石狩鍋」(粉山椒は、振ってません)
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私も一度、本場の「石狩鍋」を食べてみたいと思っております・・・汗

そうだ!
本場「石狩鍋」をもっと手軽に家庭でも・・・そして、お土産にも・・・ということで
「石狩観光センター」にいくと「石狩鍋」も販売しています!

じゃーーん!
「石狩鍋」を持って、しっかりPRしている可愛い子ちゃんは「石狩鍋奉行様」なのです!
「石狩鍋」を全国にPRするお奉行様〜
「石狩観光センター」で、しっかりと石狩市民のためにお仕事してますよー!

ぜひぜひ、お立ち寄り下さいね!(最近、テレビの取材もあったようです!)すごい〜
お奉行様のブログもあるようです!⇒こちらから

最後に、お奉行様〜〜「ハイ、ポーズ!」
決まりました

お仕事中に・・・ありがとうございました。
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2011/5/20

ちょっとイシカリ@サメ様  石狩振興局

「ちょっとイシカリ」まだまだ続きます

「能量寺」が安政5年(1858年)に建てられた浄土真宗大谷派では一番古い石狩市にあるお寺です
札幌方面から来て「石狩観光センター」の手前、石狩消防署の向かいにあります。

どこかで昔、聞いたことがあったな〜と思ってると目の前に「能量寺」
寺の前で「ちょっと止まって!」
言われるがままに、寺の前に車を止める母
「ちょっと、前にずれて!写真撮れない(車が写ってしまう)」
言われるがままに、黙って移動する・・・かわいそうな母

で、撮った写真がコレ(たいしたことない)


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石狩は、最初定住する和人が少なく、幕末になってからお寺が建てられるようになったそうです。
そんな中でも、江戸時代に建てられた能量寺、金龍寺、法性寺、曹源寺、全てが本町地区に建てられています

では、石狩市で一番古い神社は?というと「石狩弁天社」です
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今からおよそ300年前の元禄7年(1694年)に松前藩家臣の山下半右衛門がサケの豊漁と海上安全を願って松前神明社に石狩弁天社の御神体を歓請したことに始まります。

当時、山下半右衛門は石狩川を交易船に乗って積み荷を調べたり、船乗りや船頭を監督する仕事をしていましたが、将来石狩が藩にとって重要な場所になると予想し社を建てると決めたのです。
「弁天社」には厳島大明神、稲荷大明神、妙亀法鮫大明神の三神がまつられており、お祭は8月15日に行われていました。

珍しいのは、かつての石狩川の主「チョウザメ」が『妙亀法鮫大明神像』という神様としてまつられていること。
『サメ様』と呼ばれ、本町地区の人たちに親しまれ、お祭りは11月1日にもあり、弁天社のお祭りは戦前は年2回行われていました。

「弁天社」の社殿は、最初は弁天町1番地(現在の八幡神社の場所)に建てられたのですが、社殿の内部はケヤキ、ヒノキ材などを使用しており建築様式からみて新潟地方の寺、宮大工の手法がみられ、らん間の竜の彫刻や唐草模様も見ごたえがあるそうです。なんと!安政5年には、松浦武四郎も石狩を訪ね「川端に弁天社あり。社殿美々立たり」と日記に書いています

武四郎は、チョウザメを見て・・
またまた「どってんこいた」のだろーか・・・(遠い目)

後に弁天社は、石狩場所請負人である村山家の所有地だった現在の場所に移されました。


↓八幡神社に残る、弁天社へ奉納された鳥居
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↓手洗石(寛政元年の文字が!)
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ところが、明治後期になりサケ漁が衰退すると、豪商たちは次々と石狩を去っていきました。
サケ定置網の漁業権を村山家から買い受けた吉田庄助はその時「弁天社のお祭りも続けてもらえないだろうか」と依頼されたそうです。
2つのお祭りは本町地区の漁民たちによって細々と続けられ、昭和23年には「弁天社」も村山家から離れて漁民が中心になり、守られることになりました。年2回の祭りも1回に減らし、11月を弁天社の祭りと決めました。(厳島大明神の8月15日よりも『サメ様』の方が漁民にはなじみ深かったようです)

しかし、昭和51年の終わりごろ、弁天社の祭りをサケ漁の時期をはずして、再びお盆と同じ8月15日に祝うようにしました。更に平成5年には創建300年記念大祭が盛大に行われました。そして、これを機に弁天社に奉納されている遺物や建物を守り、明治期のように町民みんなの祭にしよう!と盛り上がったとき・・・
この年(平成5年)の12月・・・
なんと!石狩川河口に体長1.4メートルのチョウザメがのぼったのです!
弁天社の主、チョウザメが24年ぶりに帰ってきたのです!(「石狩百話」より一部抜粋)

『サメ様、お帰りなさ〜い』

作り話のような、ほんとの話です!

↓これは、平成16年5月に石狩川河口から1キロ上流で捕獲された「チョウザメ」
体長2.3メートル、体重は100キロ以上もあったそうです。
「石狩観光センター」で見ることが出来ます。
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おまけ
《石狩川のチョウザメ》
享保2年(1717年)は幕府にチョウザメを献上していました。
巨大チョウザメは、サケ漁の時期になると網を破ったので、無事に漁が出来るように石狩河口で「サメ」を神様としておまつりました。
みんなでおまいりしたところ再びサケが取れるようになったので、以来「豊漁の神様」としてあがめるようになっとさ・・・めでたし、めでたし

明治末までは盛んに溯上し、初夏になると市場にチョウザメがならんだそうです。
また、河口にはロシア人がキャビアを取りに来ていたそうです。

「いくら」と「チョウザメ」のコラボって・・・どんなんだろ・・・(かなり遠い目)

2011/5/20

「プー横丁」でランチ!  花子よりだんご

まさかの晴天

今年初の草刈正雄・・・
あまりにも、草ボーボー過ぎる庭に・・・10分以上も呆然と立ち尽くす

昨日、母が言った
「あら〜、あんたんちのタンポポ満開だねぇ〜。お花見出来るんでない?」
何気ない、その一言で火が付いた(メラメラ)

そういえば、今朝いよいよ家の暖房を切った。
タロも「もう、いらないでしょう」って・・・
ま、寒くなったらフリースの上着でも着てればいいか・・・

結局、草を45Lのゴミ袋に一つむしって、とりあえずくたびれて家に入った。
遠くから見ても、草刈正雄する前とした後で・・・見た目まったく変わってない(涙)

間もなく、昼12時
今日、タロにおにぎりを作った。
忘れないように、ワイシャツの横に置いたのに忘れていってる
仕方が無いから、そのおにぎりが私の昼ごはん。

雑穀米に梅・・・なかなか美味しいわ
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そういえば、月曜日に同期のKちゃんからメール
「木曜日、ランチどう?」みたいな・・・

木曜日は用事があったので「明日どう?」って返事して即決め

ごはん、食べに行ってきた。
火曜日は午前に歯医者だったので・・・北大まで向かえにきてくれた!
ありがとう〜
で、普段なかなか歩いてはいけない所に連れてってくれた
「プー横丁」(プー太郎でないよ)

ここ、元のたまねぎ倉庫なんですって!
へ〜〜。
ちょうど11時頃、お店に到着したので、まだ一組くらいしかお客さんはいなかったけれど・・・あっという間に満席!
人気店らしいです!
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中に入ると、もろ昭和〜
店のあちこちに懐かしさが込み上げます・・・

倉庫なので、なんとなくひんやりしてたけど・・・
これから夏になると、涼しくて良いかも〜

さて、かなり迷って注文したのは「シーフードドリア」と「豆のピザ」
「豆のピザ」は初めて食べたけれど・・・3種の豆がふっくら〜
気のせいか、ほんのりとレモン風味も感じてお気に入りになりました!
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姉妹店に「のら」「のや」?というお店もあるんですって!

こっちもオススメみたい〜
今度、行こう!と約束!
また、行こう〜〜

なんだか・・・
同期って、ずっと会ってなくても時間の隔たりを感じないのね・・・
やっぱり、18才から苦楽を共にした仲間だから?
この日も、ペラペラ余計なことまでしゃべってて・・・
気が付いたらあっという間に時間が過ぎてた・・・

おまけ
今日はこれから、断捨離日
この前、断捨離しそびれてワヤになってる家の中・・・
何とか人を呼べる状態にまで断捨離するのが目標!

今日のおやつ
♪ホテルてるてる〜〜〜だいへ〜〜えええげん〜〜〜(違うか)
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2011/5/19

ちょっとイシカリ@日本初!  石狩振興局

札幌近郊の石狩市
北区・手稲区と隣り合わせ〜
海だってある!石狩川だってある!
厚田の桜も満開だ!
よし!週末はイシカリへ行こう!

「ちょっとイシカリに行ってくる〜」
そんな距離間なのだから、もっともっと沢山の人に
『イシカリ』を満喫してほしいな〜
『イシカリ』のこと知ってほしいな〜
と思い〜「ちょっとイシカリ」に行ってきました!

地元の人もあまりジックリと歩いたことがないと思われる「石狩本町地区」をぶらぶらです

な・な・なんと〜
石狩本町地区には「日本初」なるものが2つもあったんですよー
その一つが、この「石狩小学校」

日本最初の円形校舎だそうで昭和31年設立!・・・現役校舎です
散歩中、ときどきチャイムが聞こえてきましたよーー
チャイム、なつかし〜
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当時、近代的な鉄筋コンクリート校舎にするには莫大な費用が掛かるということで反対もあったそうです。
しかしながら、小学校のすぐそばは海で、木造建築では吹きさらしの風をまともに受け寒くて授業にならないということで、何度も話し合いが行われた結果、小学校としては全国初の円形鉄筋コンクリート造りの小学校が誕生しました。

今年で築55年?

当時の全校児童320人!(今は何人だろー)
町、はじまって以来の簡易水洗施設の近代的な校舎〜
また、中央玄関と2カ所の生徒通用玄関は全部、教室の出入り口に面していて非常時には生徒の避難も短時間で済むという設計!
なるほど〜

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さて、石狩市の「日本初」2つ目は”西洋式缶詰工場”が設けられたこと

日本で初めて缶詰が作られたのは明治4年・・・
長崎の松田雅典がフランス人のレオン・ジュリーから缶詰を見せられ、その手ほどきでイワシの油づけ缶詰を試作したのがはじまり。
しかしその頃はまだ、ブリキ板も缶をつくる機械も日本にはなく、缶だけを輸入していたので数にも限りがあったのです。

そこで、たくさんの缶詰を製造するには西洋式の機械を導入導した工場が必要ということで、明治新政府は開拓使に官営の缶詰工場建設を命じたのです。

明治10年、石狩に作った「開拓使石狩缶詰所」もそのひとつ。
缶詰工場は、ほかに北海道内と択捉島の5カ所にも作られたのですが、日本で最初にアメリカ製の製かん機や西洋式の製造機械を導入し本格的に缶詰の生産を始めたのは、石狩缶詰工場だそうです!

現在「石狩市観光センター」が建つ辺りに”開拓使石狩缶詰所跡”の碑が建っています
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↓反対側から見た風景(赤い看板が「石狩市観光センター」)
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ちょうど、このあたりに工や氷室など10棟あまりの建物が建っていたそうです。
当時は「缶詰」のことを「筒詰」(つつつめ)と呼び、海外でも人気があったとか・・・
10月10日は「開拓使石狩缶詰所」で操業が開始された日!なので、日本缶詰協会ではこの日を『缶詰の日』としたそうです!

ちなみに・・・
日本最初の缶詰・・・
もちろん、中身は「さけ」です!

実はすぐ近くにある「いしかり砂丘の風資料館」では、”缶詰づくり体験”が出来るのです。
中身は、思い出の品や手紙・・・それとも「さけ」?

残念ながら、私が訪ねた日は「休館日」でした
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おまけ
「開拓使石狩缶詰所」で、あのクラーク博士も缶詰製品を試作したとか!!
話の続きはバスの中で・・・笑
ちなみに・・・
私的、「ごはんのおかず缶詰NO1」はコレです。

マルハ「さんまの蒲焼」
「さけ」ではありません
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