2015/7/30

沢井忠夫とお風呂  音楽

今回は沢井忠夫との関係を書いてみよう。

筝曲家・作曲家の沢井忠夫(1937〜1997)は、その頃ゴールドブレンドのCMで有名であった。

私が大学4年の夏休みの頃、青木鈴慕師に誘われて信州小諸の二葉楽器店主催のニ泊三日合宿に行った。
尺八の講師が青木鈴慕、箏が沢井忠夫、三絃は太田里子らであった。
最初は各パートに分かれてレッスンを受けた。曲目や合奏練習は忘れたが、先生らの模範演奏では、沢井忠夫の「手事」の演奏が凄かった事を覚えている。激し過ぎたのか糸が切れてしまって、すぐ箏糸を張り替えて演奏をし直した。

いつも舞台を見ている時は立派で大きく見えたので、風呂場で一緒になった時、つい「先生はもっと大きいと思いました(背が高い)」と言ってしまった。

次にお会いしたのは、これも学生の頃、W大の友人と沢井忠夫先生宅に伺ったのである。
友人に誘われて行って先生と話している時に奥様もおられて、最初はお茶でも飲んでいたと思う。
その頃、山本邦山と「琴セバスチャン・バッハ」というレコードを出しており、その楽譜を譲ってもらう為だった。
友人は話し好きで、いろいろ話して長くなり夕暮れになった。
当時坊やだった息子さんがぐずり、沢井忠夫先生は「うるさい」と言って彼を外に出して、窓ガラスの鍵も閉めてしまった。申し訳ないと思った。
その上、夕食までいただいたのである。
そこでバッハの「メヌエット」などの楽譜をいただき、W大の新入生のオリエンテーションで友人と演奏した。
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        琴セバスチャン・バッハのレコード

これ又学生の頃、京都で「現代邦楽の祭典」的な演奏会があり、箏は沢井忠夫・一恵夫妻他。
尺八は青木鈴慕師と橋本竹咏(当時は和夫)と私であった。鈴慕師不在の練習時の調絃で尺八のロ(ろ)を吹いた時、音が不安定で沢井先生ににらまれた時はこわかった。プロは凄いと痛感した。

1976(昭和51)年6月、私の尺八リサイタルに招待状を差し上げたところ、代理の人が来られて、沢井先生からと祝いの品をいただいた。これは「足跡形のネクタイピン」で 奇妙奇天烈というか、本当にユニークで遊び心のあるもので、沢井先生の面白さを感じた。
もちろん、これをしばらく愛用していた。沢井先生がお元気ならば、いつかお見せしたいと思っていた。
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あれから何十年経ったであろうか。(たぶん私が40歳の頃)
尺八三本会(青木鈴慕・山本邦山・横山勝也)のメンバーがカラオケ大会の為に関係の先生方や各弟子を集めた時、私は当時某百貨店に勤務していた為、学生の頃の無礼をおわびしようと思って「商品券」を持参して沢井先生にお渡ししたところ「君!もう時効だよ」と笑いながら、やさしく言っていただいた。

ご自宅訪問時は本当にお忙しかったろうに、無礼だったと思う。もう沢井先生はいない。
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2015/7/27

尺八とその弟子  音楽

「出家とその弟子」をもじり、今回は「尺八とその弟子」を題材とした。

私が尺八の弟子を持ったのは、23歳の会社勤めをし始めた時だった。
当時は江古田のアパートに住んでおり、稽古場は南大塚にある箏演奏家A氏の自宅をお借りした。元々はそのA氏が尺八を教えており、専門の尺八家をと言うことで紹介されたのだった。

1番弟子のYT氏は当時大手商社マンのエリートだった。私の定休日が木曜だったので、木曜の夜に通った。ただ覚えているのは、稽古はソコソコにして、近所の居酒屋で飲んだことである。

そのうちつてで、大手出版社のSA氏が2番弟子。さらにその同僚も誘って3番弟子YS氏。マンガサンデーの表紙絵を描いていたイラストレイターが4番弟子SI氏となった。
弟子が増えたため、2番弟子の会社の組合が借りているマンションを借りた。
さらに5番弟子〜7番弟子位まで増えて、マンションでは「うるさい」と苦情が来て、最後は本郷にある会館をお借りした。

彼らと稽古を2〜3時間で終えて、よく新宿ゴールデン街へ飲みに行き徹夜したこともあった。
店は「スガンさん」とか「ノーサイド」が多く、2番弟子の得意の曲は「ギーギー節」と「好きになった人」で「ギーギー節」は物語になっており何番も続き、いづれも私は尺八の伴奏をした。
「スガンさん」のママは珍しい「モグラ祭り」と言う東南アジア系の歌を披露してくれた。

ある時、2番弟子が知っているという、新宿「たこ八郎」の店に行った。我々は2次会でかなり出来上がっていた。そこには出版関係の人もおり「たこ八郎」本人はへべれけ状態で、勝手にお客さんが厨房内に入り、メチャクチャな雰囲気だった。

我々は1番弟子から4番弟子までそろっており、私が当時、加藤茶が流行らせた「チョットだけよ」の名曲「タブー」を演奏したところ、スタイルの良い3番弟子が踊りだし、それにつられて若い女性も踊りだした。2人はふざけて1枚そして1枚とお互いを脱がして行き、ついに女性はブラジャーまで脱いでしまった。私は横目でチラチラと可笑しさをこらえて演奏していたのだが、1番弟子は「ヤンヤヤンヤ」とはやし立て、1番前で見ていた。大変得したのは1番弟子であろう。

「タブー」はセクシーな尺八に良く合う。歯切れの良いリズムと甘味なメロディーをうまく吹くのがコツである。

1976(昭和51)年6月の私の尺八リサイタルには、4番弟子のイラストレイターSI氏が斬新なチラシとプログラムのレイアウトを考えてくれた。プログラムの文章は、編集者であった2番弟子のSA氏が「てにをは」をチェックしてくれたので、大いに助かったのである。

その後は弟子たちとの飲み会は5年に一度位に減っていったが、1番弟子とは続いており、神楽坂の「ルバイヤート」なるフレンチ・ワインバーにはよく行った。ピアノも置いてあり、尺八を演奏したこともある。うまいワインを飲みすぎて、新宿のホテルに泊まったこともあった。
又、2008(平成20)年4月には土砂降りのなか、銀座の「寿司清」に行った後、彼の行きつけの地下1階の「スナック」へ行った時の話だ。

マスターに聞かせるつもりで「風雪ながれ旅」をカラオケ伴奏で尺八を演奏したところ、たまたま来ていた客のH氏に気に入っていただき、それが着物大手の展示会での出演の依頼になった。
H氏は沖縄の織物店の営業マンであり、当日は織物の実演もあった。

新宿エルタワーで開催された展示会のステージでは、あらかじめ「二胡」が呼ばれており、尺八は突然の演奏となったのである。それでも3ステージこなした。
そこでは司会役の「ハイサイおじさん」の歌に合わせて「安里屋ユンタ」を伴奏。女性客が多かったのでソロで「瀬戸の花嫁」「柔」「川の流れのように」「風雪ながれ旅」などを演奏した。
その時、「二胡」の音楽事務所の方に演奏家登録を打診されたが、丁重にお断りした。

もう1番弟子(他も)は稽古をしていないが、3歳年上の1番弟子と言うより、人生の先輩として個人的なお付き合いで飲んでおり、その交遊は40年以上続いている。
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2015/7/22

そば打ち会で尺八  グルメ・クッキング

東京の新宿区で青果店を営んでいるご主人N氏は、そば打ち仲間と毎年「新そばを楽しむ会」を催している。
その仲間は5〜6人で本業ではない。それぞれが主催者になっているので、同じ時期に2〜3回行われることもあると言う。

会津のそば店「和田」の星社長が師匠で、今年正月にはその星社長も招いて「新そばを楽しむ会」がそば処・神田老舗「尾張屋本店」で開催された。

従来N氏担当の会は毎年、上野の丸谷ホテルで行われていたのだが、改装工事のため変更になったのである。
私は上野では過去3回参加し、今回で4回目だった。

いづれも宴会で尺八の演奏を頼まれて来た。
N氏との出会いは、私が新宿で働いている頃、たまたま行きつけの和食店のおばさん達に尺八を聞かせていたところへ、N氏が見えてそこで気に入っていただき出演依頼が来たのである。

上野のホテルの宴会場の時は50人程度入っても、響きが良く、マイクが要らなかった。

今回は「そばやの2階」であり、畳の和室とテーブル席とで部屋が少し離れていて、尺八演奏するにも響きは良くなかった。
出席のメンバーはお年寄りから老若男女、小さなお子さんまでおり、その年代に合わせて文部省唱歌から歌謡曲までリクエストにも応じて20曲位、演奏した。
N氏も私も信州出身で、N氏は同郷のクラスメートらも呼ぶので、「千曲川」「信濃の国」は定番でいつも演奏する。

童謡・文部省唱歌・歌謡曲については私自身歌うことが出来れば大体暗譜で吹ける。
そのコツは曲を覚えるときに、すべてを階名で覚えることである。
そうすれば例えば一番をヘ長調で演奏して、二番をハ長調で演奏すれば曲が盛り上がる。

そこで正月に相応しく「一月一日」と「春の海」を演奏し、次に春にちなんで「春の小川」「早春賦」を演奏。歌謡曲では「仁義」「王将」「天城越え」等を演奏した。

酒は飲み放題だったし「そば」はすべて粉から打ち「江戸そば」「ゆずきりそば」「会津そば」の3種類もいただいた。いづれも「もりそば」だった。
まさに「新そば」を楽しんだのであった。
これはうまい。打ち立てでなかなか普通のそばやでは食べられない味だ。
味わい・風味・食感が何とも言えないおいしさだった。 
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2015/7/20

落語と尺八  芸能

落語と言えば「寿限無」は誰でも知っているであろう。今ではYouTubeでも見ることが出来る。
「寿限無」は前座のネタらしいが、この長い名前を今、私は覚えようとしているが、なかなか覚えられないのである。

落語は以前から好きで、落語の文庫本シリーズで「春」「夏」「秋」「冬」を買って全部読んだ。
中でも「千早振る」がおかしく好きだ。「千早振る神代もきかず竜田川ーーー」という百人一首をもじり、竜田川というお相撲さんに転化して話を進める、面白おかしい落語である。まあ私の好きな分かりやすいダジャレのオンパレードだ。

2010(平成22)年10月、信州飯田の長昌寺で「文七元結奉納落語の会」があった。これは落語に「文七元結」(ぶんしちもっとい・ぶんしちもとゆい)というのがあり、そのモデルの桜井文七のお墓が菩提寺「長昌寺」にあるのである。
桜井文七は飯田の元結を、江戸に出て広めた功績がある。元結は日本髪やお相撲さんのマゲを結う時に使用する細いヒモで、水引が使用される。大変丈夫なのである。

「文七元結」の落語は、その桜井文七が元結の店を始める前の話で、人情話の大ネタらしい。(詳細はウィキペディアでご覧ください)
この「文七元結」を当日、立川談四楼がやった。又、当時二つ目ながら、生前の立川談志に真打を認められた立川談修は「目黒のさんま」。殿様の「さんまは目黒にかぎる」はいつ聞いても笑ってしまう。
両者、熱のこもった迫力ある落語であった。

そして、私は長昌寺の住職とは中学・高校の同級生で友人であった縁で前座として、尺八本曲「三谷菅垣」「奥州薩慈」を演奏した。

打ち上げで、立川談四楼、立川談修、住職、スタッフ、私も円卓を囲んで、中華料理をいただいた。談四楼の滑舌はすごく、止まらなかった。それに紹興酒を軽く1本空け、さらに2次会に行ったようだ。元気そのものだ。
立川談修とは、そこで懇意になり年賀状のお付き合いが始まり、今は真打になって、新聞・テレビに出だした。

昨年(平成26年)12月中旬、上野広小路亭のお知らせを見て、談四楼・談修他の出演の落語を聞きに行った。
昼席は1500円と安く、4時間たっぷり。中には「安来節日本一」(どじょうすくい)の落語家(立川平林)もおり、十分楽しめた。

演目は忘れたが両人に日本酒を差し入れたところ、後日お礼のハガキをいただいた。

談四楼は文才があるので、著述家として何冊も本を出版している。私も「話のおもしろい人、ヘタな人」を購入した。落語家の裏話やうんちくが良く解る。
ツイッターもしており、こまめに更新しているし、某週刊誌に書評も載せている。
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2015/7/17

大相撲との縁  スポーツ・健康

昭和34年、私が小学生の頃は、栃錦・若乃花が横綱で栃若時代と呼ばれ、自宅にはまだテレビが無かった為、ラジオを良く聞いた。そしてマンガで「若乃花物語」を見て「土俵の鬼」と知った。

中学生の時は柏戸・大鵬が横綱で、人気者の大鵬は優勝を重ねて「巨人」「大鵬」「卵焼き」と3大人気に数えられた。もちろん私も好きだった。

時を経て平成15年5月、西新宿に元栃桜が経営する、相撲料理・和食と地酒「方屋」が開店した。
私は開店前に栃桜と知り合いになり、開店日に招待された。
現北の湖理事長・宮城野親方(元金親)・北桜も見えてビールに「ちゃんこ鍋」を頂いた。
会が進み余興として、相撲の歌謡曲は無いので「柔」を尺八で演奏した。宴会終盤の頃、「綾小路きみまろ」も来店。若い頃から栃桜と懇意にしていたそうである。私はきみまろ氏を知っており、一度下げた尺八をもう一度取り出し記念撮影をお願いした。友人たちに写真を見せたところ知らない人が多かったが、今では知らない人はいないであろう。
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栃桜は相撲甚句の名手でCDも出しており、記念品として頂いた。

「方屋」と言えば、夜の宴会に友人を連れて「ちゃんこ鍋コース」を食べたが、鳥のダシがうまく、日本酒の「田酒」を初めて飲み気に入った。
今年の正月に自宅近くの酒屋で1升瓶の「田酒」を売っていることを知り、他の銘柄1本を抱き合わせ販売で2本を買い、長らく楽しんだ。
「方屋」の昼ランチは「サバ焼き」や「ちゃんこ鍋」もあり、特に「サバ焼き」は好きでよく食べた。

ある時、元NHKアナウンサーの葛西聖司氏が、たまたまカウンターの私の隣に座り、ビックリしたが、この機会にと失礼ながら声をかけた。
私の最初のNHKFMラジオ「邦楽のひととき」で「明治松竹梅」を演奏した時の、出演者紹介時の放送アナウンサーが葛西氏だったからだ。
当然だが面識もなく、無名の私を覚えているハズが無いが、その頃筝曲家の沢井忠夫(1937〜1997)が亡くなっており、「残念ですね」と言葉を交わした。
「方屋」は何年か前、惜しまれて閉店された。

昨年(平成26年)初場所の1月20日の9日目だった。突然午後に知人から電話があり「升席4人のところ3人空いているから来ないか?」と言われて当日だったが、あわてて家族も呼び出し4時に両国で待ち合わせをした。
もうすでに館内は、横綱土俵入りを終えてザワザワとしていた。相撲茶屋に案内されて、無事升席に座った。周りの升席は多少空いており、足を投げ出して見ていた。西側の土俵からは遠かった。
ビールは飲み放題だし、何本もの焼き鳥に二段弁当やらで6時終了まで、食べるのに忙しかった。
それでも私は遠藤関に「遠藤ー!」と大声を上げていた。その時、前席のおばちゃんが振り向いて私の顔を見た。
テレビと違って解説や再生ビデオがない為、たんたんと進む。
帰りには、紙袋いっぱいのお土産(うどん・和菓子・急須等)を頂いた。せめて昼頃から見られれば、ゆっくり出来たのだが。

今場所(名古屋場所)十両・御嶽海(みたけうみ)は初日より6連勝と好調が続いている。私と同じ信州で木曾出身。得意な突き・押し相撲を貫いてもらいたい。

日本人の横綱誕生を期待しています。
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2015/7/15

「北島三郎ショウ」への出演  音楽

昭和47年1月、浅草国際劇場(現浅草ビューホテル)において「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」が10日間催された。(1月14日〜1月23日)平日は2ステージ、土・日は3ステージもあった。

出演依頼のキッカケは、尺八仲間が本来1人で演奏するところへ、たまたま本人は期間中にNHKオーディションに合格したので、「録音のために1日だけ代わりに尺八を吹いてくれ」と言うことだった。

公演の前日午後がリハーサルで国際劇場の稽古場に行き、楽団に挨拶をした。そこで初めて楽譜を戴いた。曲は「仁義」「盃」「誠」と劇中音楽「沓掛時次郎」の中の「信州鴉」であった。
尺八仲間は故郡川直樹(1949〜2014)で私と同年齢の23歳であった。
「仁義」のイントロは尺八の独奏で、尺八本曲風なので気持ちがよかった。2人で演奏のため私がメロディを演奏して、それに答えるようにハモリを郡川が担当した。これは郡川のアイデアであった。

やがてサブちゃんこと北島三郎が見えて挨拶したところ気さくに「全日2人で演奏してくれや」と言われた。若造1人では多分心配だったと思う。
リハーサルで気が付いたのは「信州鴉」は2尺1寸管でないと、奏法上うまく吹けない。そこであわてて青木鈴慕先生宅に伺って事情を話して尺八をお借りしたのである。

その夜は国際劇場へと泊まり込み、当日は朝5時に起床ベルで起き、本番さながらのリハーサルを行った。そしてもう10時過ぎには開演だから忙しかった。

国際劇場と言えば信州飯田の中学3年時、東京への修学旅行で「SKD」ダンスを見た、あこがれの場所。そこへ8年後に舞台に立てるとは思わなかった。感激したが予想以上にうまく伴奏が出来た。
場内3000席がすべての公演で超満員であり、すごい熱気であった。

前座は瀬川瑛子で「長崎の夜はむらさき」を歌った。背が高く、すらりとしていたのが印象的で、その後はテレビにも出ていなかった。私はすっかり忘れていたが、何年か後「命くれない」
(1986年)で大ブレーク。それで当時の事を思い出したのだった。

私達でもギャラは1日1万円。所得税を引かれても手取り9万円にもなった。その後尺八だけでは生活が出来ず、サラリーマンになったが4月の初任給は54300円だった。

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千秋楽を終えて「大入り袋」をいただき、中身は5円玉。その日のうちに郡川に「お世話になった舩川利夫先生宅にお礼に行こうぜ」と言われ、それぞれ1万円づつ用意して千葉県のご自宅に伺った。炬燵で酒盛りが始まり、結局ザコ寝した。

翌朝、先生はそのお金で正月気分が残る近くの盆栽展に行って松を買い、それを玄関に飾った。

その後は、今日まで余興で「仁義」を何度吹いたかわからない。北島三郎が現在もずっと第一線で人気があり、活躍しているお蔭で、私もいまだに演奏が続けていられるのである。
今年の高尾山の豆まきに北島三郎が出ると知って、初めて行って見た。本人を見るのは実に43年ぶりだった。

舩川利夫(1931〜2008)は作曲家であり、尺八演奏家、筝曲演奏家だった。郡川直樹は昨年突然亡くなった。あの頃、酒好きで「俺は酒で死んでもいい」と言っていたが、まさかである。脳溢血らしいが残念である。
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2015/7/9

南信州・遠山郷  写真

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南信州遠山郷・日本のチロル 下栗の里 2015/6/22(新緑)

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南信州遠山郷・日本のチロル 下栗の里 2013/11/3(紅葉)
上の写真と比べると春(今年)と秋(2年前)の違いが分かります。
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下栗の里 サンセットポイント 2015/6/22

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下栗の里からさらに登って、南信州「しらびそ高原」展望台は標高1918m 
前方に3000m級の南アルプスを望む。今回は曇ってハッキリ見えないのが残念だった。

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しらびそ高原の「ハイランドしらびそ」で名物、五平餅と蕎麦セットを注文した。美味。
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2015/7/8

「第三風動」の思い出  音楽

杵屋正邦作曲の尺八三重奏曲「第三風動」について書いてみたい。

杵屋正邦は長唄出身の作曲家で「日本のモーツァルト」と言われるくらい多くの作品がある。
長唄出身だけに、長唄三味線や箏、尺八まで作品の範囲は広い。数々の現代邦楽作品はヒットを飛ばし、尺八三重奏曲の「風動」は尺八三本会(青木鈴慕・山本邦山・横山勝也)の初演以来、シリーズとして「第五風動」まである。

尺八三本会の演奏会で「風動」が大人気となり、続けて「第二風動」も人気で、当時学生だった我々はすぐに楽譜を先生からいただいて、演奏会で発表した。その頃、尺八の練習は主に地唄を練習していたが、学生は皆この曲に飛びついた。腕がそこまでいっていないにもかかわらず。
「風動」の人気は分かりやすいメロディーやハーモニー、そして何より尺八本曲風のソロのメロディーがあり、それを横山勝也が派手に演奏したのが受けた。又、3人のソロが平等に入っているし、尺八の長さが違うので個性が発揮できたのが気に入った。
この頃、各地にミニ三本会が結成された。

こうして1970年(昭和45年)秋に青木鈴慕は杵屋正邦に「第三風動」の作曲を委嘱する。
人気の尺八三本会は皆それぞれ忙しく、横山勝也は海外で「ノベンバーステップス」を演奏していた。
やがて演奏会近くに作品が出来上がったが、横山勝也がいない。
そこで青木鈴慕師は私を呼んだ。事前に杵屋正邦に演奏を録音して聞いていただくためだ。
あらかじめ青木先生から楽譜をいただいて練習をして後日、山本邦山(以下邦山)宅に一緒に伺った。
あこがれの邦山は初対面でも大学4年生で22歳の若造を、気さくに迎えてくれた。
ニ階に通され、第一尺八は青木鈴慕。第二尺八は本来邦山だったが、私は長管は吹けないので私が第二尺八で、第三尺八を邦山が演奏した。
少し練習しては、途中の番号までカセットテープに録り、最後までその繰り返しだった。
だから細切れの録音で、全曲通しの録音はなかった。
鈴慕師には「最初の当たりをハッキリと」と言われたくらいで、すんなり終わった。
邦山は「杵屋節だね」と一言。
後日、鈴慕師に「あのテープ、杵屋正邦に聞かせたよ」とニコニコして言われて、うれしかった。

当然、横山勝也を加えた尺八三本会(上野文化会館小)の「第三風動」の演奏は実に素晴らしかった。
   参考
      風   動  尺八三本会委嘱作品  昭和39年
      第二風動  N H K 委嘱作品      昭和43年 
      第三風動  青木鈴慕委嘱作品    昭和45年
      第四風動  作曲者自主作品     昭和56年
      第五風動  尺八三本会委嘱作品  昭和62年

杵屋正邦(1914〜1996)、横山勝也(1934〜2010)、山本邦山(1937〜2014)は既に故人となられて、あのゴールデンメンバーによる演奏が聞けないのは残念である。
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