尺八とその弟子  音楽

「出家とその弟子」をもじり、今回は「尺八とその弟子」を題材とした。

私が尺八の弟子を持ったのは、23歳の会社勤めをし始めた時だった。
当時は江古田のアパートに住んでおり、稽古場は南大塚にある箏演奏家A氏の自宅をお借りした。元々はそのA氏が尺八を教えており、専門の尺八家をと言うことで紹介されたのだった。

1番弟子のYT氏は当時大手商社マンのエリートだった。私の定休日が木曜だったので、木曜の夜に通った。ただ覚えているのは、稽古はソコソコにして、近所の居酒屋で飲んだことである。

そのうちつてで、大手出版社のSA氏が2番弟子。さらにその同僚も誘って3番弟子YS氏。マンガサンデーの表紙絵を描いていたイラストレイターが4番弟子SI氏となった。
弟子が増えたため、2番弟子の会社の組合が借りているマンションを借りた。
さらに5番弟子〜7番弟子位まで増えて、マンションでは「うるさい」と苦情が来て、最後は本郷にある会館をお借りした。

彼らと稽古を2〜3時間で終えて、よく新宿ゴールデン街へ飲みに行き徹夜したこともあった。
店は「スガンさん」とか「ノーサイド」が多く、2番弟子の得意の曲は「ギーギー節」と「好きになった人」で「ギーギー節」は物語になっており何番も続き、いづれも私は尺八の伴奏をした。
「スガンさん」のママは珍しい「モグラ祭り」と言う東南アジア系の歌を披露してくれた。

ある時、2番弟子が知っているという、新宿「たこ八郎」の店に行った。我々は2次会でかなり出来上がっていた。そこには出版関係の人もおり「たこ八郎」本人はへべれけ状態で、勝手にお客さんが厨房内に入り、メチャクチャな雰囲気だった。

我々は1番弟子から4番弟子までそろっており、私が当時、加藤茶が流行らせた「チョットだけよ」の名曲「タブー」を演奏したところ、スタイルの良い3番弟子が踊りだし、それにつられて若い女性も踊りだした。2人はふざけて1枚そして1枚とお互いを脱がして行き、ついに女性はブラジャーまで脱いでしまった。私は横目でチラチラと可笑しさをこらえて演奏していたのだが、1番弟子は「ヤンヤヤンヤ」とはやし立て、1番前で見ていた。大変得したのは1番弟子であろう。

「タブー」はセクシーな尺八に良く合う。歯切れの良いリズムと甘味なメロディーをうまく吹くのがコツである。

1976(昭和51)年6月の私の尺八リサイタルには、4番弟子のイラストレイターSI氏が斬新なチラシとプログラムのレイアウトを考えてくれた。プログラムの文章は、編集者であった2番弟子のSA氏が「てにをは」をチェックしてくれたので、大いに助かったのである。

その後は弟子たちとの飲み会は5年に一度位に減っていったが、1番弟子とは続いており、神楽坂の「ルバイヤート」なるフレンチ・ワインバーにはよく行った。ピアノも置いてあり、尺八を演奏したこともある。うまいワインを飲みすぎて、新宿のホテルに泊まったこともあった。
又、2008(平成20)年4月には土砂降りのなか、銀座の「寿司清」に行った後、彼の行きつけの地下1階の「スナック」へ行った時の話だ。

マスターに聞かせるつもりで「風雪ながれ旅」をカラオケ伴奏で尺八を演奏したところ、たまたま来ていた客のH氏に気に入っていただき、それが着物大手の展示会での出演の依頼になった。
H氏は沖縄の織物店の営業マンであり、当日は織物の実演もあった。

新宿エルタワーで開催された展示会のステージでは、あらかじめ「二胡」が呼ばれており、尺八は突然の演奏となったのである。それでも3ステージこなした。
そこでは司会役の「ハイサイおじさん」の歌に合わせて「安里屋ユンタ」を伴奏。女性客が多かったのでソロで「瀬戸の花嫁」「柔」「川の流れのように」「風雪ながれ旅」などを演奏した。
その時、「二胡」の音楽事務所の方に演奏家登録を打診されたが、丁重にお断りした。

もう1番弟子(他も)は稽古をしていないが、3歳年上の1番弟子と言うより、人生の先輩として個人的なお付き合いで飲んでおり、その交遊は40年以上続いている。




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