2015/9/26

飯田・木曽・昼神温泉の旅  旅行

誰が名付けたのか、シルバーウィークの9/21〜9/23に飯田・木曾・昼神温泉に行って来た。
中央高速バスで日野バス停から乗ったのだが大渋滞。飯田には2時間半も遅れて着いた。
大学生の頃には新宿駅から飯田駅まで急行があったのだが、今は直通が無く、中央高速バスに代わってしまった。

飯田市座光寺にリニア駅が出来るのは随分先の話であり、私としては新宿駅から今流行りの特別観光列車を1本でも走らせて欲しいと切に思う。JRの方、よろしくお願いします。

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JR飯田駅。1992(平成4)年完成の3代目。リンゴのイメージデザインである。

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新しく出来た飯田市庁舎。狭かった箕瀬町の道幅を広げた。

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飯田最古の道標。400年以上前から大横町と殿町の交差点にある。

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南は三州街道、北は甲州街道、西は大平街道を越えて木曾に通ずる旨。

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馬籠にある「是より北 木曽路」の道標。木曽路はすべて山の中だね。

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名勝地「寝覚の床」
実は当初、妻籠に行く予定だったが、旅行会社経営の友人T君の提案により、急遽変更した。

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途中で見つけたテングタケ。毒だから食べてはいけません。写真は良いです。パチリ。

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「寝覚の床」は浦島太郎が玉手箱を開けた場所という伝説で有名。
長野県歌「信濃の国」の4番に「尋ねまほしき 園原や 旅のやどりの 寝覚の床」と歌われる。

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巨岩・奇石がいっぱい。右側手前の巨岩の上で撮ったのが次の写真。

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まるで軍艦みたいです。手前の巨岩の上に人が小さく見える。

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右上の方に浦島堂があるのだが、岩に足を滑らせ、すってんころりで退散。帰りのビューポイントでパチリ。
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「道の駅」木曽福島で五平餅と信州サーモン丼が美味。残念ながら木曾御嶽山は雲で見えなかった。

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開田高原。開田嫁入唄の碑。
すぐ左隣に長蛇の列があったので何かと思って行って見たら、「開田高原ソフトクリーム工房」だった。我々はバニラとトウモロコシのミックスとリンゴソフトクリームを買った。残念ながら写真は撮りそこなったが、清里の清泉寮を思い出させる、高原の新鮮な味だった。

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開田高原の木曽馬は妊娠で腹がふくらんでいるのではなく、盲腸が長く大きく、草の繊維消化が十分だという。昔は農耕馬で、今は大切に保存活動をしている。体高は平均133p。足は短くサラブレットとは大違いだ。

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非常におとなしい。触ってもほとんど動かない。乗馬体験も出来ます。

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そばの花、赤そば畑。
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我々が泊まった旅館・薬師館は昼神温泉郷、国道256号の右坂上にある。(阿智村)

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二階建ての木造だが、露天風呂もある。朝市まで歩いて10分の所。

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夕食は「自然の恵みプラン」。まずビールと前菜。右は鮭の白子。

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馬刺しは柔らかく、うまい。てんぷらもおいしく、漬物は自家製。

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岩魚の塩焼き、千代幻豚の鍋、女将の手打ちした蕎麦。その後にカボチャパイやデザートで腹いっぱいだった。

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昼神温泉名物の朝市。6月にも来たので、顔なじみのおばさんも元気で売っていた。朝6時から。

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帰りの昼食のためにパンを買う。珍しいベーコンとジェノベーゼ入りパンを買い「記念に撮影を」と言ったら、しっかりと看板まで出し、手に持ったお兄さん。アピール性のある面白い人だ。

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右は信州名物「蜂の子」のビン詰め。(クロスズメバチ)「蜂の子」は私の小さい頃、正月に良く食べた。炊き込みご飯は最高のおいしさだった。蜂の幼虫とサナギが入っている。
大学生の時、遊びに来た友人に土産として高価な缶詰をあげたら、帰って「開けてびっくり」して捨ててしまったそうだ。そりゃあ誠にもったいない話だに。

早速食べたが甘露煮の懐かしい味だった。酒が進みますに。
左は「道の駅」で購入した開田高原の「黒米」である。

追記 「阿智村騒動記」 (映画の大鹿村騒動記をもじる)
妻が昼神温泉で買い物をした折、「鞄に入れた財布がなくなった」と大騒ぎになった。結局、直前に買ったビニール袋の中にあり一件落着。

第二弾は帰りのバスで、昼食として買っておいた3人分の「おやき」が無いと言われ、実家に忘れて来たかと電話するも、バスの座席下にビニール袋ごと落ちていた。

最後までとんだ騒動でした。
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2015/9/10

フォークソングと尺八  音楽

飯田でライブをしてから随分経って、2008(平成20)年9月に「夕顔楽歴40周年記念コンサート」に賛助出演した。

「夕顔」は飯田市で活躍する3人組フォークグループで高校同級生の田中悦雄君がメンバーである。彼は高校卒業後にフォークグループ「夕顔とほおずき」を結成して、長野県大会での優勝もある。
飯田でのライブではお世話になった人だが、ステージで共演した事はなかった。同級会に行った時にスナックで彼のフォークギターと尺八で合奏した事はあった。そこに上記のコンサートの賛助出演依頼が来たのである。

場所は飯田人形劇場で満員の200人。

彼らの自作曲2曲に尺八の伴奏をつけたが、彼らはコードで作曲して演奏しているので五線譜が無い。
事前にデモCDを送ってもらったが、五線譜にするにもなかなか大変だった。

曲目は「しゃくやく塚」と「高遠の子守唄」。いずれも民話を題材とした物語になっている。「しゃくやく塚」は下條のお殿様に姫様があり、お籠に乗って出かけたが腹痛で死に、手厚く葬ったという話。
「高遠の子守唄」は、ねんねんよおころりよと歌い出すが、18歳の子守りは山越え、谷越え馬に揺られてお嫁に行ってしまっていた。そこで坊や会いに連れて行くからねんねしなと歌う。

当日は、ほとんどぶっつけ本番だったし、邦楽の演奏会とは違った雰囲気にのまれ、私の体調も悪かったのか出来は今一つで、特に独奏で演奏させてもらった「川の流れのように」は途中で高音がかすれて出なくなり、大層苦しんだ。
終わって落ち込んだのは言うまでもないし、田中君にもお客さんにも申し訳なかった。

後日、ベース奏者が上京した折に演奏会のCD とDVDをいただいた。
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同期会などで飯田に行くときは、彼と2次会で飯田駅前のスナック「S路」に行き、歌はもちろん尺八とギターで大いに歌いまくり、吹きまくるのである。
私もマスターと懇意になり「春の海はいいねえ」と言っていただいた。マスターは歌もうまく、特に石原裕次郎は絶品である。又、一般のお客様も裕次郎オンリーが多い。

最近は6月の高校同窓会の後、定休日にもかかわらず店を開けてくれて同級生らで貸し切りとした。
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2015/9/8

飯田でライブ  音楽

1997(平成9)年1月、飯田市下久堅公民館で「新春邦楽鑑賞会」に出演したが、これは私が飯田で初めて尺八を披露した会だった。

それを見た高校同期生らが、私のライブ演奏会を企画してくれた。

ライブの運営は、同級生だった田中悦雄君が窓口となった。彼は高校卒業後、フォークギターをこなし、その縁で「飯田にいるプロのギタリストの桑原利彦氏と組んでライブをしないか」と依頼が来た。

動きは早く、同じ年の5月4日に昼・夜2回公演を桑原氏が経営するライブハウス「キャンバス」で行った。会場は40〜50人程度で、いずれも満員だった。

曲目は尺八本曲「鹿の遠音」、箏と合奏で宮城道雄作曲「泉」「春の海」、私の作曲で「木曾節による幻想曲」そして、日本の抒情歌と桑原氏と「コンドルは飛んでいく」「虹のかなたに」他を演奏した。

箏は大平睦先生。実は1971(昭和46)年5月に大平先生の「筝曲おさらい会」が吉祥寺であり、その時私は賛助出演で「六段の調べ」「春の訪れ」を演奏していた。私はまだ22歳だった。
大平先生とは26年ぶりの再会だったが、初共演だった。

大平先生は、その当時は東京で箏を教えていたが、その後結婚と同時に地元飯田市に戻り、飯田高校の「邦楽班」を指導している。
その卓越した指導力により、コンクールでは毎年県代表で全国大会に行き、2010年には文化庁長官賞を受賞。そして2013年には肥後一郎作曲「絃歌」で、ついに念願の優勝の文部科学大臣賞を受賞した。

話を戻すと、ライブ会場には尺八製作者で演奏家でもあったトム・ディーバー氏も来られていた。私はトム氏の事を朝日新聞の本多勝一氏の文章で、「伊那谷で尺八製作をしてるアメリカ人」であると知っていたし、トム氏は逆に私の演奏会を地元の新聞で知ったらしい。
遠いところ車で駆けつけてくれた。

私は初めてトム氏にお会いしたが、私に「録音しても良いか?」と聞かれたのでOKした。
彼は最新機器のDATで録音していた。

演奏会は好評につき、高校同期生の応援を得て秋にも市内峯高寺の庫裏で、夕やみ迫る庭園を借景に3人で演奏会をしたが、この時もトム氏は来られた。
この時は長澤勝俊作曲「二つの田園詩」を演奏したが、箏の部分をギターで演奏したのは珍しかった。
私は「クラシックもやって」と言う希望を受け入れて「G線上のアリア」や「タイスの瞑想曲」等も独奏で演奏した。

その後、松川町にあるトム氏のご自宅(山の中だった)に伺ったり、彼が栽培していた無農薬のブルーベリーを毎年買っていた。
残念ながら2010年に亡くなられたが、そのブルーベリー畑を引き継いだ人からも継続して購入している。
農園の名は「ブルーベリーフィールド」で毎年2s買い、生食とジャムにしている。

ジャムはパンにつけながら、ときどきトム氏を思い出している。
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2015/9/2

牧野由多可作曲「相剋」の初演  音楽

牧野由多可(1930〜2005)は日本を代表する洋楽系の作曲家であり、特に邦楽作品には現代的な発想で取り組み「茉莉花」「琉球民謡による組曲」「春の海幻想」等の名曲が多い。その他たくさんの曲があるのだが、私は四重奏曲「相剋」の初演に恵まれた。

1971(昭和46)年3月、大学を卒業と同時に第17期NHK邦楽技能者育成会に合格したものの、夏休み前にリタイアしてしまった。
同期の尺八仲間には、三橋貴風・橋本竹咏(和夫)もいた。彼らは大学の4年生だった。

17期生は1年間勉強後に同期で邦楽グループ「宮」(キュウ)を結成して、何回か演奏会を開催した。
私は卒業出来なかったが温情により、仲間に入れていただいた。
そうした中でグループは新しい曲を牧野由多可に依頼した。直接の担当者は三橋貴風だったが、何故か尺八の初演は私だった。1977(昭和52)年の事である。

「相剋」は第一箏・第二箏・十七絃・尺八の四重奏曲である。
斬新な作曲法により、独特のメロディーとリズムで心地よく演奏出来た。
中間部には曲名のとおり、まさに戦いを思わせる各奏者のアドリブ任せの部分があり、その後は一体化して行く。必死で演奏した事を覚えている。

この時の様子を、「邦楽の友」の雑誌に長尾先生が批評している。

『牧野由多可の極めて流動的かつ魅惑的な新作(この人の「風」を超える佳作である)を箏町田徳、宮倉さよ子、十七絃熊木早苗、尺八北原静淳(鈴淳)で初演した最終曲目などはかなり立派な舞台で、特に町田徳の澄んだ感性と技巧には、将来注目すべき才能が十分示されていた』とある。大変うれしい批評であった。

練習にも牧野先生はお見えになったが、特に注文はなかった。
当日のプログラムには「私の若い友人の三橋貴風氏からの依頼で作曲----」とあり、私は後ろめたさを感じていた。
これは何故、私が初演者だったのか不思議で長く疑問であった。

最近、三橋貴風に聞いたところ、彼はすでに箏の大嶽氏と別の曲を演奏する事に決まっていたから、譲ってくれたみたいだった。いわばグループとして依頼したという事だろう。

その後、何ケ月か後に「さわらび会」の演奏会でも「相剋」を演奏されて、尺八は宮田耕八郎だった。私よりさっぱりと演奏していた。

私は、この曲を気に入っており、いつか再演したいと思っていた。
初演から15年経った1992(平成4)年9月、鈴慕奨励会でもう一度この曲に挑戦してみた。

この時、牧野先生に招待状が届けられて、当日お見えになった。
この曲はあまり演奏されていなかったようで、牧野先生は「何故、相剋は余り演奏してくれないのかな?」と首をかしげていた。
初演者の私の演奏がヘタだったのかも知れない。

もう、この曲は誰も演奏しないのかなと思っていたら、2012(平成24)年、第5回牧野由多可作曲コンクール発表会で尺八は、私も面識のあるブルース・ヒューバナー氏が演奏したと雑誌で知った。

もっと演奏される事を切に願う。
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