三木稔の思い出 音楽
作曲家、三木稔(1930〜2011)は81歳で亡くなられた。
万年青年のような三木稔には、学生時代に何回かお会いし、さらにご自宅に伺った事もあった。
洋楽系の作曲家でありながら邦楽作品を数多く作曲されて、ほとんどが有名な作品であるような、凄い作曲家だった。作品はオペラ、マリンバ、合唱曲、映画など多岐にわたる。
恥ずかしながら、今現在その作品のリストを見て曲名だけは知っている曲が多い。
最初にお会いしたのは、現代邦楽が盛んになっていた頃の大学の3年生の時だった。
三木稔は、日本音楽集団を中心として活躍しており、盛んに定期演奏会では新作を発表していた。
1966年には「古代舞曲によるパラフレーズ」1967年には「四群のための形象」を作曲しており、私は演奏会には良く行っていた。
何しろ、我々尺八吹きは古典曲が中心だから、つまらなさを感じていた。そこに現代邦楽にカッコ良さを見付けだし、定期演奏会に冒険をしたくなっていたので、無謀にも「四群のための形象」の楽譜が欲しかった。
我々の定期演奏会は12月であるから夏休み前のことで、もしかしたら間に合うかも知れないと思ったのである。
そこで、狛江の三木先生宅にM大三曲研究部のK君と共に伺った。面白いことに表札は15p位のいびつな輪切りの木で、真ん中に三木稔と書いてあった。
この時にお願いして「四群のための形象」と「グリーンスリーブス」の楽譜をいただいた。
ただし、この「四群のための形象」は我々では技術的に難しく、大太鼓などいくつもの打楽器も無理だと判断して定演ではしなかった。
1969年には二十絃箏の野坂恵子による「天如」(てんにょ)を発表。その演奏を私はNHKFMで聞いて大変感激して三木稔に手紙を出した。
後日、たまたまW大の友人と三木稔にお会いするため、レコード会社のスタジオに伺った。
ちょうど「天如」のレコード化の編集中だったところを見せてくれた。
その時、「天如」の手紙の話が出て「それは私です」と言ったところ「君だったのか」と言われた。
その後、NHK育成会同期のメンバーを中心とした「生韻」(しょういん)と言うグループを作り活動をしたが、「劇団三十人会」の新宿紀伊国屋公演で秋浜悟史作の「おもて切り」(1971年12月17日〜23日)の劇伴に出演した。
劇中歌の「南部よされ節」や秋浜悟史作詞、三木稔作曲「我鬼」(1970年)を尺八伴奏した。
我鬼の詞は「父と母と子は何日も歩き続けた。逃亡だ。脱走せねばならぬ。山越えの道は、しつっこく険しく曲がりくねって回帰するが・・・」今でもそのメロディーは覚えている。
その後割とすぐに何の縁かは忘れたが、M大の「さわらびコール」と言う合唱団に頼まれて「我鬼」の尺八伴奏したこともあった。
どこでこの曲を知ったのだろうか。
不思議な縁だった。
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万年青年のような三木稔には、学生時代に何回かお会いし、さらにご自宅に伺った事もあった。
洋楽系の作曲家でありながら邦楽作品を数多く作曲されて、ほとんどが有名な作品であるような、凄い作曲家だった。作品はオペラ、マリンバ、合唱曲、映画など多岐にわたる。
恥ずかしながら、今現在その作品のリストを見て曲名だけは知っている曲が多い。
最初にお会いしたのは、現代邦楽が盛んになっていた頃の大学の3年生の時だった。
三木稔は、日本音楽集団を中心として活躍しており、盛んに定期演奏会では新作を発表していた。
1966年には「古代舞曲によるパラフレーズ」1967年には「四群のための形象」を作曲しており、私は演奏会には良く行っていた。
何しろ、我々尺八吹きは古典曲が中心だから、つまらなさを感じていた。そこに現代邦楽にカッコ良さを見付けだし、定期演奏会に冒険をしたくなっていたので、無謀にも「四群のための形象」の楽譜が欲しかった。
我々の定期演奏会は12月であるから夏休み前のことで、もしかしたら間に合うかも知れないと思ったのである。
そこで、狛江の三木先生宅にM大三曲研究部のK君と共に伺った。面白いことに表札は15p位のいびつな輪切りの木で、真ん中に三木稔と書いてあった。
この時にお願いして「四群のための形象」と「グリーンスリーブス」の楽譜をいただいた。
ただし、この「四群のための形象」は我々では技術的に難しく、大太鼓などいくつもの打楽器も無理だと判断して定演ではしなかった。
1969年には二十絃箏の野坂恵子による「天如」(てんにょ)を発表。その演奏を私はNHKFMで聞いて大変感激して三木稔に手紙を出した。
後日、たまたまW大の友人と三木稔にお会いするため、レコード会社のスタジオに伺った。
ちょうど「天如」のレコード化の編集中だったところを見せてくれた。
その時、「天如」の手紙の話が出て「それは私です」と言ったところ「君だったのか」と言われた。
その後、NHK育成会同期のメンバーを中心とした「生韻」(しょういん)と言うグループを作り活動をしたが、「劇団三十人会」の新宿紀伊国屋公演で秋浜悟史作の「おもて切り」(1971年12月17日〜23日)の劇伴に出演した。
劇中歌の「南部よされ節」や秋浜悟史作詞、三木稔作曲「我鬼」(1970年)を尺八伴奏した。
我鬼の詞は「父と母と子は何日も歩き続けた。逃亡だ。脱走せねばならぬ。山越えの道は、しつっこく険しく曲がりくねって回帰するが・・・」今でもそのメロディーは覚えている。
その後割とすぐに何の縁かは忘れたが、M大の「さわらびコール」と言う合唱団に頼まれて「我鬼」の尺八伴奏したこともあった。
どこでこの曲を知ったのだろうか。
不思議な縁だった。

トロッコの思い出 随想・徒然竹
地震・雷・火事・親父とは昔から言われる怖いものである。
地震は気象庁の無い頃から、一番に怖いものだったのであろう。何しろ未だに日時の予測が出来なく、突然下からドカーンと来るからである。
熊本は、会社退職時に一人旅行をして、熊本城、水前寺公園など感激したものであるが、熊本城がまさか崩れるとは思わなかった。
火事と言えば、歌舞伎町のゴールデン街火事は以前飲んだ近くだし、3月初旬に見学に行ったばかりである。
親父はもう怖くない。オオカミでは無くなった。やさしい。妻に負ける。これは俺だけであろうか。
今なら、地震・原発・テロ・ミサイルなのか。
さて、本題の「トロッコ」である。
「トロッコ」と言えばもう、芥川龍之介の短編小説「トロッコ」である。
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平が八つの年だった。・・・で始まる。(明治41年12月に開通)
あらすじは・・その工事現場で使う土砂運搬用のトロッコに良平は興味を持っており、ある日、トロッコを運搬している土工と一緒にトロッコを押すことになった。
どんどん進んで遠くまで来てしまったが、途中で土工に遅くなったから帰るように言われて、良平は一人暗い坂道を駆け抜けた。家に駆けこんだ時、泣き出してしまう。
その時のことを、大人になった良平が回想するシーンが、最後に出て来る。
この題材はジャーナリスト力石平三の実体験の潤色らしい。
この「トロッコ」を題材に尺八家の堀井小二郎が朗読と邦楽器のコラボレーションの作曲をした。(堀井小二郎は福沢諭吉の孫だった)
言わば交響的物語「ピーターと狼」みたいな作曲だ。
私が大学3年の時だった。ラジオでこの曲を聴いて演奏会でする積りだった。
堀井小二郎宅は大田区池上にあり、一人で出かけた。
7孔尺八演奏家でもあり、尺八曲も何曲か作曲していた。
頼み込んで「トロッコ」と尺八二重奏曲「流転」などの楽譜をいただいた。
この「トロッコ」を2年生にやらせたが、少し難しかったかも知れない。
すっかり忘れていたが、46年振りに楽譜が見つかった。
それによると楽器編成は、尺八4本、箏3面、十七絃、打楽器として、鉄琴、やすり、ギロだった。
鉄琴、やすり、ギロは堀井先生からお借りした。これは土木作業の工事現場の音としての効果音である。
なかなか考えたものである。
先ず、箏のトリルで始まり、尺八がメロディーで加わる。そして尺八のカデンツァもある曲調から、工事を思わせる打楽器が入ってやっと朗読の「小田原熱海間に」と始まる。
トロッコに乗って走るシーンは箏の「シューシュー」の技法で段々早くして行くところは、本当に走って行く感じが上手く表現されていた。
多分、私が指揮者をしたと思う。
朗読は男性のイケメンであり、声も透き通ってきれいだった。
あらかじめ楽譜上に、ここから朗読の目安が書いてあったが、実際にはところどころ鉛筆で書き直してあった。放送のテープを参考にしたのか、あるいは独自に考えたかも知れない。
小説の最後の大人になっての回想シーンの朗読は無かったと思う。
さて、実は、私にこのような実体験があったのだ。
まさしく私も同じ思いだった。それは七つの年だった。
正月に父の小学校同級生の新年会が、生まれ在所の信州時又の割烹「油屋」であった。
時又は当時竜丘村で今は飯田市。「油屋」は今でも存在するらしい。
私の実家は旧飯田市内で、飯田駅から電車で時又駅まで約20分位で着いた。
途中、酒屋に行き父は酒を買い、その時にお年玉として、小さな徳利を貰った。
これを私にくれると言われて、嬉しくてたまらなく自宅に帰っても「僕のだ」と言い張って大事にしていた。それで酒を飲んだ事は無い。
大学生になって帰飯した時にもあり、懐かしかった。
父の実家がある竜丘村長野原までは、時又駅から田んぼや坂道、藪の中を登って20分位かかった。先ず、私を親類に預けるのである。親類には一歳上のいとこがいた。
そこで、かるたなど遊んだと思う。
しかし、帰る時は一人である。その時までは何も考えてもいなかった。
夕方、別れを告げて「時又」の駅に向かったところちょうど、結婚の行列に出くわした。
そのお嫁さんに見とれてしばらく見ていた。時計など持ち合わせてはいない。
おばさんはちょうど良い時間に送り出してくれたはずだ。
お嫁さんを見終わって、「時又駅」に着いた時はもう電車は出発してしまった。
飯田線は本数が少ない。路頭に迷って、少し引き返してはみたものの、途中まで戻っても仕方がない。
行き場所に困って一人寂しさを覚えた。山の中の夕暮れは早い。
次の電車に乗り、悔しさと反省もしただろう。悲しさを電車の中で窓際に立って、ひたすらこらえていた。
自宅に着き、母の顔を見て一気に泣き出した。まさに良平と同じである。
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地震は気象庁の無い頃から、一番に怖いものだったのであろう。何しろ未だに日時の予測が出来なく、突然下からドカーンと来るからである。
熊本は、会社退職時に一人旅行をして、熊本城、水前寺公園など感激したものであるが、熊本城がまさか崩れるとは思わなかった。
火事と言えば、歌舞伎町のゴールデン街火事は以前飲んだ近くだし、3月初旬に見学に行ったばかりである。
親父はもう怖くない。オオカミでは無くなった。やさしい。妻に負ける。これは俺だけであろうか。
今なら、地震・原発・テロ・ミサイルなのか。
さて、本題の「トロッコ」である。
「トロッコ」と言えばもう、芥川龍之介の短編小説「トロッコ」である。
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平が八つの年だった。・・・で始まる。(明治41年12月に開通)
あらすじは・・その工事現場で使う土砂運搬用のトロッコに良平は興味を持っており、ある日、トロッコを運搬している土工と一緒にトロッコを押すことになった。
どんどん進んで遠くまで来てしまったが、途中で土工に遅くなったから帰るように言われて、良平は一人暗い坂道を駆け抜けた。家に駆けこんだ時、泣き出してしまう。
その時のことを、大人になった良平が回想するシーンが、最後に出て来る。
この題材はジャーナリスト力石平三の実体験の潤色らしい。
この「トロッコ」を題材に尺八家の堀井小二郎が朗読と邦楽器のコラボレーションの作曲をした。(堀井小二郎は福沢諭吉の孫だった)
言わば交響的物語「ピーターと狼」みたいな作曲だ。
私が大学3年の時だった。ラジオでこの曲を聴いて演奏会でする積りだった。
堀井小二郎宅は大田区池上にあり、一人で出かけた。
7孔尺八演奏家でもあり、尺八曲も何曲か作曲していた。
頼み込んで「トロッコ」と尺八二重奏曲「流転」などの楽譜をいただいた。
この「トロッコ」を2年生にやらせたが、少し難しかったかも知れない。
すっかり忘れていたが、46年振りに楽譜が見つかった。
それによると楽器編成は、尺八4本、箏3面、十七絃、打楽器として、鉄琴、やすり、ギロだった。
鉄琴、やすり、ギロは堀井先生からお借りした。これは土木作業の工事現場の音としての効果音である。
なかなか考えたものである。
先ず、箏のトリルで始まり、尺八がメロディーで加わる。そして尺八のカデンツァもある曲調から、工事を思わせる打楽器が入ってやっと朗読の「小田原熱海間に」と始まる。
トロッコに乗って走るシーンは箏の「シューシュー」の技法で段々早くして行くところは、本当に走って行く感じが上手く表現されていた。
多分、私が指揮者をしたと思う。
朗読は男性のイケメンであり、声も透き通ってきれいだった。
あらかじめ楽譜上に、ここから朗読の目安が書いてあったが、実際にはところどころ鉛筆で書き直してあった。放送のテープを参考にしたのか、あるいは独自に考えたかも知れない。
小説の最後の大人になっての回想シーンの朗読は無かったと思う。
さて、実は、私にこのような実体験があったのだ。
まさしく私も同じ思いだった。それは七つの年だった。
正月に父の小学校同級生の新年会が、生まれ在所の信州時又の割烹「油屋」であった。
時又は当時竜丘村で今は飯田市。「油屋」は今でも存在するらしい。
私の実家は旧飯田市内で、飯田駅から電車で時又駅まで約20分位で着いた。
途中、酒屋に行き父は酒を買い、その時にお年玉として、小さな徳利を貰った。
これを私にくれると言われて、嬉しくてたまらなく自宅に帰っても「僕のだ」と言い張って大事にしていた。それで酒を飲んだ事は無い。
大学生になって帰飯した時にもあり、懐かしかった。
父の実家がある竜丘村長野原までは、時又駅から田んぼや坂道、藪の中を登って20分位かかった。先ず、私を親類に預けるのである。親類には一歳上のいとこがいた。
そこで、かるたなど遊んだと思う。
しかし、帰る時は一人である。その時までは何も考えてもいなかった。
夕方、別れを告げて「時又」の駅に向かったところちょうど、結婚の行列に出くわした。
そのお嫁さんに見とれてしばらく見ていた。時計など持ち合わせてはいない。
おばさんはちょうど良い時間に送り出してくれたはずだ。
お嫁さんを見終わって、「時又駅」に着いた時はもう電車は出発してしまった。
飯田線は本数が少ない。路頭に迷って、少し引き返してはみたものの、途中まで戻っても仕方がない。
行き場所に困って一人寂しさを覚えた。山の中の夕暮れは早い。
次の電車に乗り、悔しさと反省もしただろう。悲しさを電車の中で窓際に立って、ひたすらこらえていた。
自宅に着き、母の顔を見て一気に泣き出した。まさに良平と同じである。

北海道旅行記[・阿寒湖編 旅行
1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目の阿寒湖
阿寒湖に到着した続き。
さて、今晩の宿を探そうとウロチョロしているうち、今朝ウトロで別れたSさん家族と再び偶然に出会った。これからバスで美幌峠に向かうとの事。余りにも偶然なので、お互いの住所を知らせて年賀状の交換を申し出た。そこでSさん家族とは別れた。
さあ宿だ。今まで民宿だったので有終の美を飾るべくホテルにしようと腹に決めていた。
予約してなかったが、ぶっつけでニュー阿寒ホテルなる立派なホテルに行ってみた。残念ながら満室で特別室なら空いているとの事。仕方なく次のホテルへ行ったが、ここも満室。
さて困ったなあ、旅館にでもするかなあと歩いていると、空き室ありという表示があるホテルの前へ出た。「くまやホテル」と言うホテルで見た目は旅館で名ばかりのホテルと思ったが宿泊をあせっていたのでそこにした。
木造で二流旅館と言う感じ。一泊7000円だと言ったが、せっかくの場所だから「阿寒湖の見える部屋を」と言う事で8000円だった。
三階建ての三階、一番端で確かに阿寒湖を望めた。
荷物を降ろし、くつろいでいると私服の女中が来てお茶を入れてくれた。
遊覧船に乗りたかったので聞いてみると、30分毎に出ていて次は5時だと言う。
急いで船着き場へ行く事にした。
もう夕やみせまっていた。半袖で乗り込んだが動き出すと風は涼しく、寒さで震えてしまった。
右側に雄阿寒岳、後ろに雌阿寒岳がそびえ立ち、阿寒湖の遊覧船はまっすぐマリモのある島へと向かった。
マリモ・・・それは不思議な自然の産物だ。直径20p位もあるマリモは正直言ってびっくりした。すべて4〜5p位だと思っていたからである。藻類が湖の波に揺られながら湖底で回転運動をし、徐々に丸くなって成長しているのだ。
水族館では大小様々なマリモが上がったり下がったり回転運動をしていた。阿寒湖のマリモだけでなく、他の山中湖等のマリモと比較していたが、やはり阿寒湖のものが最大である。
船は阿寒川の水門などを経て、夕日が沈む様を映しながら進んだ。
乗船中、スピーカーから「毬藻の唄」(マリモのうた)が盛んに大音量で流れるので、覚えてしまった。
〽 水面をわたる風さみし・・・マリモよマリモ 緑のマリモ
自分への土産として阿寒湖の状差しを買ったので、それにその歌詞が書いてある。
ホテルに着くと部屋に入り、暮れて行く阿寒湖の素晴らしさを眺めていた。
6時50分夕日が完全に山の麓に没した。空の雲に反射した夕焼けが私の心を感傷的にさせたが、辺りが段々暗くなりやがて阿寒湖らしさだけが残ると、私は風呂に入るべく部屋を出た。
大浴場は私以外誰もいなかった。壁などは温泉地特有の汚れで匂いは確かに温泉の匂いであり、温度は適温でゆっくりつかった。
部屋の外にもう食事は届いていた。7時の指定だったからである。
電話を入れ女中を呼び、食事の用意をしてもらった。小さな鍋物とフライであまり美味しいとは言えず、印象は良くなかった。ビールを飲んだが、とにかく急いで食べた。
それには理由がある。アイヌ部落で8時からアイヌ踊りが上演される由の宣伝カーが回っていたからである。
急いで浴衣に下駄をつっかけてアイヌ部落へと歩き出した。
あちらこちらからも浴衣姿でアイヌ部落の方へ向かっている。失敗したのは下駄だった。
浴衣に似合うのだけれども、その下駄がやや小さいので、かかとが外に飛び出して足の裏が痛くて仕方ない。しかも暗い夜道を一人カランコロン歩くのは、気持ち良いものでは無かった。
アイヌ部落に入って8時を回っていたが始まる気配が見られない。周りは土産物店がいっぱいあり、ほとんど木彫りの熊とブローチ類だった。
8時30分にスピーカーでの呼びかけで小屋に入った。500円。造りはアイヌ的でかやぶきである。一目散に一番前の席を取った。
このアイヌの踊りは無形文化財に指定されており、小屋は釘一本も使ってないとの事。
やがて、アイヌ語での歓迎の歌があり、踊りが始まった。歌は聞いていてもさっぱり解らないが、踊りは描写的で解り易かった。
特に松の木を人間が演じ、風が吹いて揺れる様は、髪の毛を前後にゆすって上体を大きくゆらす白熱の演技であった。
珍しく竹で作った原始的な楽器「ムックル」を聞かせてもらえた。それは20p位のもので、竹を切って真ん中をリードにし、それに紐をつけてひっぱる事によってそのリードが振動し、音がするのである。
そのリード状の所を口にあてがう事により、口の中で共鳴し増幅され音楽として表現される。
極めて原始的にビーンビーンと多少の音程をつけ一曲演奏された。
やがて一時間位の上演を終わると、外の広場でも上演すると言う。ただしこちらは無料。
興味を持ったので再び外で鑑賞、今度は火を燃やして踊りが始まった。先程の踊りと変わらないものをやったが、その他「剣舞」もあった。男と男が刃物で戦うものでその男の裏に女性が一人づつついている。戦いに勝った男と結婚するというものだ。
残念だが「北海道旅行記」はここで終わってしまっていた。
記録に無いともう思い出せない。多分、翌朝阿寒湖からバスで釧路に行き、釧路から空路羽田経由で帰って来たのは確かである。
フィルムの写真がどこかにあるはずで、それには日付けも表示されている事だろう。
北海道には翌年、縁があって「きたみ東急」開店時に旭川まで飛行機に乗りA君と会い、又彼の旭川での結婚式1984(昭和59)年11月にも出席して披露宴で尺八を演奏した。
上記の「北海道旅行記」を見れば解る通り、A君には多大なお世話になり、感謝しきれない程の恩を感じており、上京でもたまに会うが、本当にありがとう。感動はいつまでも忘れない。
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阿寒湖に到着した続き。
さて、今晩の宿を探そうとウロチョロしているうち、今朝ウトロで別れたSさん家族と再び偶然に出会った。これからバスで美幌峠に向かうとの事。余りにも偶然なので、お互いの住所を知らせて年賀状の交換を申し出た。そこでSさん家族とは別れた。
さあ宿だ。今まで民宿だったので有終の美を飾るべくホテルにしようと腹に決めていた。
予約してなかったが、ぶっつけでニュー阿寒ホテルなる立派なホテルに行ってみた。残念ながら満室で特別室なら空いているとの事。仕方なく次のホテルへ行ったが、ここも満室。
さて困ったなあ、旅館にでもするかなあと歩いていると、空き室ありという表示があるホテルの前へ出た。「くまやホテル」と言うホテルで見た目は旅館で名ばかりのホテルと思ったが宿泊をあせっていたのでそこにした。
木造で二流旅館と言う感じ。一泊7000円だと言ったが、せっかくの場所だから「阿寒湖の見える部屋を」と言う事で8000円だった。
三階建ての三階、一番端で確かに阿寒湖を望めた。
荷物を降ろし、くつろいでいると私服の女中が来てお茶を入れてくれた。
遊覧船に乗りたかったので聞いてみると、30分毎に出ていて次は5時だと言う。
急いで船着き場へ行く事にした。
もう夕やみせまっていた。半袖で乗り込んだが動き出すと風は涼しく、寒さで震えてしまった。
右側に雄阿寒岳、後ろに雌阿寒岳がそびえ立ち、阿寒湖の遊覧船はまっすぐマリモのある島へと向かった。
マリモ・・・それは不思議な自然の産物だ。直径20p位もあるマリモは正直言ってびっくりした。すべて4〜5p位だと思っていたからである。藻類が湖の波に揺られながら湖底で回転運動をし、徐々に丸くなって成長しているのだ。
水族館では大小様々なマリモが上がったり下がったり回転運動をしていた。阿寒湖のマリモだけでなく、他の山中湖等のマリモと比較していたが、やはり阿寒湖のものが最大である。
船は阿寒川の水門などを経て、夕日が沈む様を映しながら進んだ。
乗船中、スピーカーから「毬藻の唄」(マリモのうた)が盛んに大音量で流れるので、覚えてしまった。
〽 水面をわたる風さみし・・・マリモよマリモ 緑のマリモ
自分への土産として阿寒湖の状差しを買ったので、それにその歌詞が書いてある。
ホテルに着くと部屋に入り、暮れて行く阿寒湖の素晴らしさを眺めていた。
6時50分夕日が完全に山の麓に没した。空の雲に反射した夕焼けが私の心を感傷的にさせたが、辺りが段々暗くなりやがて阿寒湖らしさだけが残ると、私は風呂に入るべく部屋を出た。
大浴場は私以外誰もいなかった。壁などは温泉地特有の汚れで匂いは確かに温泉の匂いであり、温度は適温でゆっくりつかった。
部屋の外にもう食事は届いていた。7時の指定だったからである。
電話を入れ女中を呼び、食事の用意をしてもらった。小さな鍋物とフライであまり美味しいとは言えず、印象は良くなかった。ビールを飲んだが、とにかく急いで食べた。
それには理由がある。アイヌ部落で8時からアイヌ踊りが上演される由の宣伝カーが回っていたからである。
急いで浴衣に下駄をつっかけてアイヌ部落へと歩き出した。
あちらこちらからも浴衣姿でアイヌ部落の方へ向かっている。失敗したのは下駄だった。
浴衣に似合うのだけれども、その下駄がやや小さいので、かかとが外に飛び出して足の裏が痛くて仕方ない。しかも暗い夜道を一人カランコロン歩くのは、気持ち良いものでは無かった。
アイヌ部落に入って8時を回っていたが始まる気配が見られない。周りは土産物店がいっぱいあり、ほとんど木彫りの熊とブローチ類だった。
8時30分にスピーカーでの呼びかけで小屋に入った。500円。造りはアイヌ的でかやぶきである。一目散に一番前の席を取った。
このアイヌの踊りは無形文化財に指定されており、小屋は釘一本も使ってないとの事。
やがて、アイヌ語での歓迎の歌があり、踊りが始まった。歌は聞いていてもさっぱり解らないが、踊りは描写的で解り易かった。
特に松の木を人間が演じ、風が吹いて揺れる様は、髪の毛を前後にゆすって上体を大きくゆらす白熱の演技であった。
珍しく竹で作った原始的な楽器「ムックル」を聞かせてもらえた。それは20p位のもので、竹を切って真ん中をリードにし、それに紐をつけてひっぱる事によってそのリードが振動し、音がするのである。
そのリード状の所を口にあてがう事により、口の中で共鳴し増幅され音楽として表現される。
極めて原始的にビーンビーンと多少の音程をつけ一曲演奏された。
やがて一時間位の上演を終わると、外の広場でも上演すると言う。ただしこちらは無料。
興味を持ったので再び外で鑑賞、今度は火を燃やして踊りが始まった。先程の踊りと変わらないものをやったが、その他「剣舞」もあった。男と男が刃物で戦うものでその男の裏に女性が一人づつついている。戦いに勝った男と結婚するというものだ。
残念だが「北海道旅行記」はここで終わってしまっていた。
記録に無いともう思い出せない。多分、翌朝阿寒湖からバスで釧路に行き、釧路から空路羽田経由で帰って来たのは確かである。
フィルムの写真がどこかにあるはずで、それには日付けも表示されている事だろう。
北海道には翌年、縁があって「きたみ東急」開店時に旭川まで飛行機に乗りA君と会い、又彼の旭川での結婚式1984(昭和59)年11月にも出席して披露宴で尺八を演奏した。
上記の「北海道旅行記」を見れば解る通り、A君には多大なお世話になり、感謝しきれない程の恩を感じており、上京でもたまに会うが、本当にありがとう。感動はいつまでも忘れない。

北海道旅行記Z・ウトロ〜阿寒湖編 旅行
1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目のウトロ
午前4時頃、あまりの明るさに起きてしまった。しかし間違いなく4時だった。・・・そうだ知床半島はアメリカに近いのだ。とすると朝日はもうすでに昇っているのか?カーテンもない窓からは太陽が差し込みそうだ。しかしあまりに早いので再び寝た。
ところが6時30分頃ガタガタ音がしだしたと思ったら、ご夫婦家族のお出かけだった。たまたまトイレに行きたかったので部屋の外へ出ると、再び会い阿寒湖で又お目にかかれる様、お互い祈った。
男連れ二人は車で羅臼に抜けるのだと言う。ちょうどその日の午後、長い冬の沈黙を破って道路が開通するのだ。
私は8時15分発の知床半島見学の遊覧船に乗るべく港に急いだ。途中には木彫りのアクセサリー等の土産物屋がたくさん並んでおり、時々小熊が鎖につながれいて道路にチョロチョロ出て来るとビックリする。
小さくても猛獣なのだ。
団体客と一緒に遊覧船に乗り込んだ。1時間30分の硫黄山折り返しだ。
流石、オホーツク海の風は冷たく、薄い長袖を必要とした。
船は左をオホーツク海、知床半島の絶壁を右にして進んで行った。スピーカーからは名調子の解説が流れる。知床半島はなだらかな山々を想像していたが、全く違った荒々しい岩々であった。
下側が流氷に削られて上の方が海に飛び出している様は、ぶきみだ。
あまりにも見事なので船室から甲板に飛び出したが、すでに若い人で満員だった。果てしなく続く岩々は間違いなく巨大なもので、層雲峡と共に北海道のすごさを見せつけてくれた。
知床岬行きの遊覧船は3時間以上かかるので、この硫黄山折り返しで私には十分だった。
スピーカーからは戸川幸夫の秘境知床の名文が流れたり、最後には知床旅情の歌が出たりで郷愁を誘った。9時40分港に着く。
今度は最終目的地の阿寒湖に向かうのだ。
10時15分発のバスに乗り、ウトロをあとにした。斜里駅には1時間で着いた。
斜里駅発の急行は12時47分なので、1時間半の待ち時間がある。そこでどうするか考えるべく駅前の「ちるちるみちる」なる喫茶店へ行って「アイスコーヒー」を注文した。
斜里町はこじんまりとしており、田舎的なたたずまいを見せていたがウエイトレスは中々の可愛子ちゃんであった。この近くで見るべきところはないか、聞いてみたが「判りません」とつれなかった。
ここでしばらく休憩すると12時を回ったので、昼食をとるべく外に出た。
駅に戻る途中に大衆的な店があり、そこで「カニラーメン」を注文した。塩味でラーメンの上にはたっぷりサービス良く、タラバガニが乗っていて美味かった。750円支払い駅に向かった。
急行しれとこ3号で弟子屈(てしかが)に向かう。13時55分に弟子屈着。ここから定期観光バスに乗るのだが、そのバス停に行く為に違うバスに乗って行った。
出発は3時なので1時間のロスがある。やはり一人旅はつらい。車ならロスがないのに。
近くにパチンコ店があったので入ったが、あっと言う間にすってしまい、面白くないので止めた。
阿寒湖まで定観光バスで1時間ちょっと。だんだんと山の中に入って行った。
途中運転手さんが、エゾマツ、トドマツの見分け方をなまり言葉で言い、その見分け方が解らない人はオソマツとシャレが出た。
雄阿寒岳が徐々に大きくなり、双湖台でペンケト−、パンケトーの湖を眺めた。
このペンケトー、パンケトーは元々阿寒湖と続いていたが、雄阿寒岳の噴火により分断されたとの事。静かに山と山との間に横たわっている湖を見て、バスは一路阿寒湖へ向かった。
女性のアナウンステープで阿寒湖を紹介してくれる。
16時10分、阿寒湖のバス停に到着。
続く
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午前4時頃、あまりの明るさに起きてしまった。しかし間違いなく4時だった。・・・そうだ知床半島はアメリカに近いのだ。とすると朝日はもうすでに昇っているのか?カーテンもない窓からは太陽が差し込みそうだ。しかしあまりに早いので再び寝た。
ところが6時30分頃ガタガタ音がしだしたと思ったら、ご夫婦家族のお出かけだった。たまたまトイレに行きたかったので部屋の外へ出ると、再び会い阿寒湖で又お目にかかれる様、お互い祈った。
男連れ二人は車で羅臼に抜けるのだと言う。ちょうどその日の午後、長い冬の沈黙を破って道路が開通するのだ。
私は8時15分発の知床半島見学の遊覧船に乗るべく港に急いだ。途中には木彫りのアクセサリー等の土産物屋がたくさん並んでおり、時々小熊が鎖につながれいて道路にチョロチョロ出て来るとビックリする。
小さくても猛獣なのだ。
団体客と一緒に遊覧船に乗り込んだ。1時間30分の硫黄山折り返しだ。
流石、オホーツク海の風は冷たく、薄い長袖を必要とした。
船は左をオホーツク海、知床半島の絶壁を右にして進んで行った。スピーカーからは名調子の解説が流れる。知床半島はなだらかな山々を想像していたが、全く違った荒々しい岩々であった。
下側が流氷に削られて上の方が海に飛び出している様は、ぶきみだ。
あまりにも見事なので船室から甲板に飛び出したが、すでに若い人で満員だった。果てしなく続く岩々は間違いなく巨大なもので、層雲峡と共に北海道のすごさを見せつけてくれた。
知床岬行きの遊覧船は3時間以上かかるので、この硫黄山折り返しで私には十分だった。
スピーカーからは戸川幸夫の秘境知床の名文が流れたり、最後には知床旅情の歌が出たりで郷愁を誘った。9時40分港に着く。
今度は最終目的地の阿寒湖に向かうのだ。
10時15分発のバスに乗り、ウトロをあとにした。斜里駅には1時間で着いた。
斜里駅発の急行は12時47分なので、1時間半の待ち時間がある。そこでどうするか考えるべく駅前の「ちるちるみちる」なる喫茶店へ行って「アイスコーヒー」を注文した。
斜里町はこじんまりとしており、田舎的なたたずまいを見せていたがウエイトレスは中々の可愛子ちゃんであった。この近くで見るべきところはないか、聞いてみたが「判りません」とつれなかった。
ここでしばらく休憩すると12時を回ったので、昼食をとるべく外に出た。
駅に戻る途中に大衆的な店があり、そこで「カニラーメン」を注文した。塩味でラーメンの上にはたっぷりサービス良く、タラバガニが乗っていて美味かった。750円支払い駅に向かった。
急行しれとこ3号で弟子屈(てしかが)に向かう。13時55分に弟子屈着。ここから定期観光バスに乗るのだが、そのバス停に行く為に違うバスに乗って行った。
出発は3時なので1時間のロスがある。やはり一人旅はつらい。車ならロスがないのに。
近くにパチンコ店があったので入ったが、あっと言う間にすってしまい、面白くないので止めた。
阿寒湖まで定観光バスで1時間ちょっと。だんだんと山の中に入って行った。
途中運転手さんが、エゾマツ、トドマツの見分け方をなまり言葉で言い、その見分け方が解らない人はオソマツとシャレが出た。
雄阿寒岳が徐々に大きくなり、双湖台でペンケト−、パンケトーの湖を眺めた。
このペンケトー、パンケトーは元々阿寒湖と続いていたが、雄阿寒岳の噴火により分断されたとの事。静かに山と山との間に横たわっている湖を見て、バスは一路阿寒湖へ向かった。
女性のアナウンステープで阿寒湖を紹介してくれる。
16時10分、阿寒湖のバス停に到着。
続く

北海道旅行記Y・摩周湖〜ウトロ編 旅行
1981(昭和56)年6月24日水曜日の北海道旅行4日目、摩周湖
摩周湖には12時20分到着。霧の摩周湖とは言うが幸い良い天気なので、その湖が真っ青。
静かで神秘そのものだ。透明度が世界第二位とのこと。吸い込まれそうな濃い青だ。
湖の周りはすべて山で、人工的な不純物は入っていない。ただ自然の雨だけが溜まったものであろう。
(布施明が1966年にヒットさせた「霧の摩周湖」で有名になった。私は当時上手く歌えなかったが、35年経った今はカラオケで必ず歌う程好きな曲だ)
展望台は第一と第三があり、個人客が次から次へと来ていた。
記念撮影に余念が無く我々も摩周湖が良く写る場所では、どうしても他人が入ってしまい、仕方なく他人も一緒に撮ったりした。摩周湖だけの方がかえって素晴らしい。
摩周湖の清さを目に焼き付け、そこを離れた。これから下り坂で曲がりくねり、徐々に下界に降りて行った。
1時10分、川湯駅着。近くの食堂で昼食。(何を食べたか記録が無いし、記憶も無い)
北海道へ来て4日目。4日間世話になったA君と別れる時が来た。
私はこれから知床へ、彼は車で旭川まで引き返すのだ。
今まで世話になった礼を言い、彼と別れた。別れた途端、言い知れぬ寂しさに襲われた。
無理も無い。今まで北海道へ来てからずっと二人だったが、ここで北海道の原野に放り出されたようなものだったから。
しかし、地図と鉄道の時刻表を片手に持っていれば必ず、道は開けると確信していた。
川湯駅2時16分発、急行で斜里方面行きに乗る。
急行とは言ってもまるで鈍行みたいな走り方だ。たった2両で時速40`位。
山の中に入ったと思うと30`位のノロノロ運転。後で聞くと1000分のなにがしかの急勾配だそうで、それにしても遅い。
やがて平野が開けて来て、3時7分斜里駅に着く。川湯から斜里まで急行券込みで1040円だった。
駅前からウトロ行きのバスがすぐ出発するところ。時間はあらかじめ見ていたのでスムーズにいった。ウトロまで1050円。
路線バス風の定期観光バスといった感じで、各停留所に止まりながらも音声による景色の解説をしてくれた。
網走から眺めた知床半島の山々が目の前にそびえ立っており、右から斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳へと連なっている。
やがて知床半島に入って行く。すぐ左はオホーツク海。真冬は寒いだろう。冬この道は閉鎖される。途中オシンコシンの滝等を眺めさせてくれて、バスはさらに知床半島の中へと進む。
4時10分ウトロに着くとすぐ宿探しだ。民宿と腹は決まっている。
運よく近くに案内所があり、斡旋してもらったのはバス停近くの「うみべ荘」だった。
ひとまず宿へ行き荷物を降ろし、散歩に出かけた。そこは「うみべ」と名が付いていたが残念ながら海は見えなかった。
歩いて10分位で海に出られた。オホーツク海である。幸い天気に恵まれ半袖シャツで十分間に合った。
海岸には高さ30mもある岩がボロボロで、今にも崩れそうにちょっとした山を形作っていた。
周りは網で囲ってある。珍しいので写真に収める。
そこには森繁久弥の「知床旅情」の碑があった。
〽知床の岬にハマナスの咲く頃・・・という歌が彫ってある。
その小高い山をぐるっと回ると目の前はオホーツク海で、真冬を想像してみた。一面雪と氷であろう。鳥肌が立つ寸前だった。
30分程海岸で気を休めて宿に戻る。旭川で買った絵葉書に友人らに、とにかく北海道の素晴らしさを文にしたためる。
明朝、ウトロのバス停前のポストに投函すれば9時に集配にくるはずだ。
入浴後夕食。魚はホッケと鮭でいかにも民宿らしい料理であった。
食堂では他に男連れ二人と夫婦子供一人の家族がいた。
夫婦ペアは明日は阿寒湖に行くと言う。私とコースが同じなので話を始めたら、笛をやっているとかで、話がすっかり合ってしまった。
彼はN市で「蕎麦屋」をやっており、縁なもので来てくださいと言う。
又、3泊4日位の北海道旅行で先ずここに来たのだと言い、「知床最高!」と絶賛していた。
午後8時30分、大和市の自宅と信州の実家に、赤電話に10円玉を投入しながら話をした。
(未だテレフォンカードも携帯電話が無い時代である)
とにかく遠いからポトリポトリと10円玉が落ちて行くので落ち着いて話せない。
結局400円と200円かかった。
実家は父が出たが、もう北海道から帰ったものと錯覚していた。
今、北の最果てに来ているのだと強調して電話を切った。
9時、明日のコースを検討して持参した本を読もうと思ったが、疲れているので早く寝る事にした。
9時30分、就寝。
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摩周湖には12時20分到着。霧の摩周湖とは言うが幸い良い天気なので、その湖が真っ青。
静かで神秘そのものだ。透明度が世界第二位とのこと。吸い込まれそうな濃い青だ。
湖の周りはすべて山で、人工的な不純物は入っていない。ただ自然の雨だけが溜まったものであろう。
(布施明が1966年にヒットさせた「霧の摩周湖」で有名になった。私は当時上手く歌えなかったが、35年経った今はカラオケで必ず歌う程好きな曲だ)
展望台は第一と第三があり、個人客が次から次へと来ていた。
記念撮影に余念が無く我々も摩周湖が良く写る場所では、どうしても他人が入ってしまい、仕方なく他人も一緒に撮ったりした。摩周湖だけの方がかえって素晴らしい。
摩周湖の清さを目に焼き付け、そこを離れた。これから下り坂で曲がりくねり、徐々に下界に降りて行った。
1時10分、川湯駅着。近くの食堂で昼食。(何を食べたか記録が無いし、記憶も無い)
北海道へ来て4日目。4日間世話になったA君と別れる時が来た。
私はこれから知床へ、彼は車で旭川まで引き返すのだ。
今まで世話になった礼を言い、彼と別れた。別れた途端、言い知れぬ寂しさに襲われた。
無理も無い。今まで北海道へ来てからずっと二人だったが、ここで北海道の原野に放り出されたようなものだったから。
しかし、地図と鉄道の時刻表を片手に持っていれば必ず、道は開けると確信していた。
川湯駅2時16分発、急行で斜里方面行きに乗る。
急行とは言ってもまるで鈍行みたいな走り方だ。たった2両で時速40`位。
山の中に入ったと思うと30`位のノロノロ運転。後で聞くと1000分のなにがしかの急勾配だそうで、それにしても遅い。
やがて平野が開けて来て、3時7分斜里駅に着く。川湯から斜里まで急行券込みで1040円だった。
駅前からウトロ行きのバスがすぐ出発するところ。時間はあらかじめ見ていたのでスムーズにいった。ウトロまで1050円。
路線バス風の定期観光バスといった感じで、各停留所に止まりながらも音声による景色の解説をしてくれた。
網走から眺めた知床半島の山々が目の前にそびえ立っており、右から斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳へと連なっている。
やがて知床半島に入って行く。すぐ左はオホーツク海。真冬は寒いだろう。冬この道は閉鎖される。途中オシンコシンの滝等を眺めさせてくれて、バスはさらに知床半島の中へと進む。
4時10分ウトロに着くとすぐ宿探しだ。民宿と腹は決まっている。
運よく近くに案内所があり、斡旋してもらったのはバス停近くの「うみべ荘」だった。
ひとまず宿へ行き荷物を降ろし、散歩に出かけた。そこは「うみべ」と名が付いていたが残念ながら海は見えなかった。
歩いて10分位で海に出られた。オホーツク海である。幸い天気に恵まれ半袖シャツで十分間に合った。
海岸には高さ30mもある岩がボロボロで、今にも崩れそうにちょっとした山を形作っていた。
周りは網で囲ってある。珍しいので写真に収める。
そこには森繁久弥の「知床旅情」の碑があった。
〽知床の岬にハマナスの咲く頃・・・という歌が彫ってある。
その小高い山をぐるっと回ると目の前はオホーツク海で、真冬を想像してみた。一面雪と氷であろう。鳥肌が立つ寸前だった。
30分程海岸で気を休めて宿に戻る。旭川で買った絵葉書に友人らに、とにかく北海道の素晴らしさを文にしたためる。
明朝、ウトロのバス停前のポストに投函すれば9時に集配にくるはずだ。
入浴後夕食。魚はホッケと鮭でいかにも民宿らしい料理であった。
食堂では他に男連れ二人と夫婦子供一人の家族がいた。
夫婦ペアは明日は阿寒湖に行くと言う。私とコースが同じなので話を始めたら、笛をやっているとかで、話がすっかり合ってしまった。
彼はN市で「蕎麦屋」をやっており、縁なもので来てくださいと言う。
又、3泊4日位の北海道旅行で先ずここに来たのだと言い、「知床最高!」と絶賛していた。
午後8時30分、大和市の自宅と信州の実家に、赤電話に10円玉を投入しながら話をした。
(未だテレフォンカードも携帯電話が無い時代である)
とにかく遠いからポトリポトリと10円玉が落ちて行くので落ち着いて話せない。
結局400円と200円かかった。
実家は父が出たが、もう北海道から帰ったものと錯覚していた。
今、北の最果てに来ているのだと強調して電話を切った。
9時、明日のコースを検討して持参した本を読もうと思ったが、疲れているので早く寝る事にした。
9時30分、就寝。

北海道旅行記X・網走〜美幌峠編 旅行
1981(昭和56)年6月24日水曜日、北海道旅行4日目の網走
我々を待っていたかの様な良い天気。一人3700円と安い。彼には世話になっているので宿泊代は私が払った。
8時25分「かもめ荘」を出る。車で走ってすぐ網走刑務所があり、橋を渡って門の前で記念写真を撮る。
言わずと知れた高倉健主演の「網走番外地」や「黄色いハンカチ」で有名だ。これも目的で高倉健になった気持ちだった。
(黄色いハンカチで、網走刑務所から出て、ビールとラーメン・かつ丼を食べた店はどこかな?)
太陽がまぶしいくらいだ。近くに見晴らしの良い天都山があると、タクシーの運転手に聞いたので、先ずはそこに行ってみる事にした。
小高い山で途中はどうと言う事もなかったが上に登ってみると、はるかオホーツク海上に知床半島がかすかに見えるではないか。私はあそこまで行くのだ。
四方が見渡せるこの展望台にずっと居たい気持ちだった。知床をバックに撮った写真は、これ又最高。気に入っているのだ。
展望台の下にオホーツク館と呼ばれる資料館があり、中には本物の流氷が冷ケースに入っていた。
又、イヤホーンで聞くと流氷のきしみの音がぶきみに聞こえ、思わずオホーツク海の真っただ中にいる錯覚がして身震いした。
9時30分に資料館を出る。
さあこれからだ。どうしようか。駐車場にたむろしているタクシーの運転手が「今日は美幌峠コースが最高。明日の天気はわからない」との事で心が揺らぐ。
近くに案内所があったので、聞いてみたが我々の条件に合うコースが無かった。
とにかくA君とは別れる日だし、私は26日釧路から帰る予定である。
総合的に判断して、美幌峠、摩周湖、川湯へ車で行き、そこで別れて私は急行で斜里〜ウトロのコースとした。
先ず美幌峠だ。コースが決まれば早い。
10時20分、網走をあとにする。昨日来た道とは違うコースで女満別に向かう。
右側には網走湖、空はさわやか。ライトバンなので乗用車よりはるかに見晴らしが良いのだ。
右に大きくカーブして少し登った所に町があり、ここが女満別。
ここを通り抜け、今度は直角に左に折れる。さあここからはまっすぐの一直線だ。飛ばしても飛ばしても一直線だ。こんな道は長野県には無い。
地図でみるとおよそ10`はあるだろう。
やがて美幌町の手前で左に折れた。車はどんどん山道を登っている。
そもそも峠とは山道の登りつめた所なのだから、標高がだんだん高くなって来ている訳だ。
11時10分美幌峠の駐車場に着く。未だ何も見えない。
団体客がバスを連ねて来ている。アイヌの貸衣装で身をつつみ、アイヌ人らしき人と記念写真をあちらこちらで撮っている。老人が多い。
小高い山を登ると眼下に大パノラマが広がった。メルヘンである。
屈斜路湖が雄大に静かに横たわり、北海道の広さを見せつけてくれた。色はスカイブルー。
中央に中島が見え、遠くには斜里岳、標津岳、カヌイヌプリが見える。
A君がここだけは推薦していた理由が判った。とにかく素晴らしい眺めだ。
天気も良し。見渡せば遠く大雪山も見えそう。言葉に言い尽くせない美しさがある。自然の美しさだ。
フィルムを入れ替え、美幌峠を下って一路屈斜路湖へ向かう。
11時40分、私は摩周湖にも行きたかったが、彼は修学旅行で行ったと言う。
そこは無理を言って行ってもらう事にした。何しろ有名な「霧の摩周湖」である。歌の世界に触れたかった。
続く
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我々を待っていたかの様な良い天気。一人3700円と安い。彼には世話になっているので宿泊代は私が払った。
8時25分「かもめ荘」を出る。車で走ってすぐ網走刑務所があり、橋を渡って門の前で記念写真を撮る。
言わずと知れた高倉健主演の「網走番外地」や「黄色いハンカチ」で有名だ。これも目的で高倉健になった気持ちだった。
(黄色いハンカチで、網走刑務所から出て、ビールとラーメン・かつ丼を食べた店はどこかな?)
太陽がまぶしいくらいだ。近くに見晴らしの良い天都山があると、タクシーの運転手に聞いたので、先ずはそこに行ってみる事にした。
小高い山で途中はどうと言う事もなかったが上に登ってみると、はるかオホーツク海上に知床半島がかすかに見えるではないか。私はあそこまで行くのだ。
四方が見渡せるこの展望台にずっと居たい気持ちだった。知床をバックに撮った写真は、これ又最高。気に入っているのだ。
展望台の下にオホーツク館と呼ばれる資料館があり、中には本物の流氷が冷ケースに入っていた。
又、イヤホーンで聞くと流氷のきしみの音がぶきみに聞こえ、思わずオホーツク海の真っただ中にいる錯覚がして身震いした。
9時30分に資料館を出る。
さあこれからだ。どうしようか。駐車場にたむろしているタクシーの運転手が「今日は美幌峠コースが最高。明日の天気はわからない」との事で心が揺らぐ。
近くに案内所があったので、聞いてみたが我々の条件に合うコースが無かった。
とにかくA君とは別れる日だし、私は26日釧路から帰る予定である。
総合的に判断して、美幌峠、摩周湖、川湯へ車で行き、そこで別れて私は急行で斜里〜ウトロのコースとした。
先ず美幌峠だ。コースが決まれば早い。
10時20分、網走をあとにする。昨日来た道とは違うコースで女満別に向かう。
右側には網走湖、空はさわやか。ライトバンなので乗用車よりはるかに見晴らしが良いのだ。
右に大きくカーブして少し登った所に町があり、ここが女満別。
ここを通り抜け、今度は直角に左に折れる。さあここからはまっすぐの一直線だ。飛ばしても飛ばしても一直線だ。こんな道は長野県には無い。
地図でみるとおよそ10`はあるだろう。
やがて美幌町の手前で左に折れた。車はどんどん山道を登っている。
そもそも峠とは山道の登りつめた所なのだから、標高がだんだん高くなって来ている訳だ。
11時10分美幌峠の駐車場に着く。未だ何も見えない。
団体客がバスを連ねて来ている。アイヌの貸衣装で身をつつみ、アイヌ人らしき人と記念写真をあちらこちらで撮っている。老人が多い。
小高い山を登ると眼下に大パノラマが広がった。メルヘンである。
屈斜路湖が雄大に静かに横たわり、北海道の広さを見せつけてくれた。色はスカイブルー。
中央に中島が見え、遠くには斜里岳、標津岳、カヌイヌプリが見える。
A君がここだけは推薦していた理由が判った。とにかく素晴らしい眺めだ。
天気も良し。見渡せば遠く大雪山も見えそう。言葉に言い尽くせない美しさがある。自然の美しさだ。
フィルムを入れ替え、美幌峠を下って一路屈斜路湖へ向かう。
11時40分、私は摩周湖にも行きたかったが、彼は修学旅行で行ったと言う。
そこは無理を言って行ってもらう事にした。何しろ有名な「霧の摩周湖」である。歌の世界に触れたかった。
続く

北海道旅行記W・石北峠〜網走編 旅行
北海道旅行3日目、石北峠の続き。
1981(昭和46)年6月23日火曜日。
石北峠で「じゃがいも焼き」と「割りチョコ」を買う。じゃがいもは大きなのを3つ割りばしに差して焼いてある。歯ごたえがあり、甘くとてもおいしい。本州ではちょっと食べられない味だ。
割りチョコはホワイトチョコで牛乳たっぷりの甘いチョコレートだ。簡易包装で中にいくつもあり、おいしくて300円は安い。
峠を越えると下り坂。風は涼しい。
蛇行しながら段々と下の方に降りて行く。私は地図を見ながら道案内だ。左に見えて来たのが北見富士で1291m。道路は相変わらず空いていて、スイスイと北見方面へ向かっている。
道はやがて石北本線を横切り、「るべしべ」(現在は北見市)の町に入って行く。
北海道の雄大な景色を堪能しているうちに、やがて街並みになったと思ったら北見市である。
そこでは「きたみ東急百貨店」が1982年に開店予定で、建築中であった。
(実はその開店時に後日出席をしたのだが、残念ながら2007年に閉店した)
北見市をあっと言う間に通り過ぎた。端野町に入って大きく右にカーブし、やがて田んぼの中を通って行く。幹線では無くなったのか、車の量がほとんど無く、夕やみ迫っていた。
網走まで40`。1時間弱で着く予定。
途中山道から突然下り坂になると目の前には間違いなく、オホーツク海が左手から右手にかけて横たわっていた。
ついに来たのだ。北の果てまで。そう考えると身震いした。
空にはうろこ雲。かすかに見える知床半島。幻想的な夕やみである。
5時40分、双鏡台展望台にて、近くは能取湖、網走湖、遠くはオホーツクを感慨深く眺めた。
車は右に網走湖を見て、6時3分網走市内に入った。あこがれの網走だ。
早速、宿探しで電話帳にて民宿「かもめ荘」と決定。かもめ荘へ直行する。
夕食ではカレイ、イカ刺身が出た。
入浴後、街見学とシャレてみた。
思った程大きな街ではなく、地方都市を感じさせた。
とにかく魚の旨いもの、取り分け毛ガニを食いたい。安くてうまい処は無いか?
タバコ屋のおばあちゃんに聞いてみた。ところが「良く知らない」と言いだし、向かいの鮨屋に行って聞いてくると言いだした。
こうなると鮨屋に入らざるを得ない。しかし若いお兄ちゃんが出てきて「カニならそこの角から二軒目の底曳ですね」と親切に教えてくれた。
底曳では「内地から来て是非毛ガニを食いたい」由を告げると、とびきり新鮮な・・・今朝獲れたもの・・・毛ガニを一匹都合してくれた。水が滴る珍味そのもの。
冷酒で毛ガニを堪能した。
その後であるハプニングが起きたのは。
A君が主人に尺八を聞かせようと言うのである。彼は急いで宿に戻った。
やがて、私の尺八と楽譜を持って来た。
私はお得意の「春の海」と「仁義」を演奏した。座敷にいた地元の三人のおじさん連中も一緒で喜んでくれた。すると主人が珍しいものを持って来た。
「うちこ」である。どろっとして紫色で、これが何とタラバガ二の受精したばかりの卵とかで、見た目には紫色だから変な感じがしたが、味は最高の珍味であった。
言い忘れたが、お通しにウニが出た。生ウニで水分があり、柔くトロッとして美味。
さらなるものは「めふん」・・・サケの背中のちあい(神経)・・・これは塩辛みたいにぬるっとして黒ずんでいた。
それに鮭の頭・・・「氷頭」(ひず)・・・酢付けにしたものが出た。珍味、これ又珍味づくしで、冷酒も6合位飲んだらしい。すっかりごちそうになって底曳を出たのだが、又又、先程の鮨屋「福尚」(ふくひさ)に寄らなくてはなるまい。刺身が食べたい。
ガラッと開けると今さっき案内をしてくれた若いお兄さんが「いらっしゃい」「やっぱり来たよ。さっきはありがとう」今度はチーフが「どこへいらしたんですか?」「底曳です」と言う訳で、底曳で出なかった物をもらう事にした。
福尚ではルイベ(紅鮭)、イカの沖漬・・・生きたイカを油漬けにしたもの、タラバ蟹の肉の厚い部分、ボタンエビ、北寄貝、エバラ貝、クジラのスネ肉といった具合で、全てが初めてと言う位珍しい食い物であった。
酒はもう入らなかったが、彼は日本酒をやっていた。
いい気分になって、静かな北国の街を歩き宿に戻った。
早速、明日の打ち合わせ。彼はどこまで来てくれるのか未だ決めて無く、とにかく明日の夕方6時頃までに旭川に戻れば良いとの事。
明日は先ず、網走市内を見て、お天気次第と言う事で就寝。
北国と言っても6月下旬。お天気が良いので全然寒くは無くカラッとして快適。
網走の夜も寝つき良し。
(網走を今現在検索したところ、かもめ荘と福尚は存在したが、底曳は閉店したようだ)
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1981(昭和46)年6月23日火曜日。
石北峠で「じゃがいも焼き」と「割りチョコ」を買う。じゃがいもは大きなのを3つ割りばしに差して焼いてある。歯ごたえがあり、甘くとてもおいしい。本州ではちょっと食べられない味だ。
割りチョコはホワイトチョコで牛乳たっぷりの甘いチョコレートだ。簡易包装で中にいくつもあり、おいしくて300円は安い。
峠を越えると下り坂。風は涼しい。
蛇行しながら段々と下の方に降りて行く。私は地図を見ながら道案内だ。左に見えて来たのが北見富士で1291m。道路は相変わらず空いていて、スイスイと北見方面へ向かっている。
道はやがて石北本線を横切り、「るべしべ」(現在は北見市)の町に入って行く。
北海道の雄大な景色を堪能しているうちに、やがて街並みになったと思ったら北見市である。
そこでは「きたみ東急百貨店」が1982年に開店予定で、建築中であった。
(実はその開店時に後日出席をしたのだが、残念ながら2007年に閉店した)
北見市をあっと言う間に通り過ぎた。端野町に入って大きく右にカーブし、やがて田んぼの中を通って行く。幹線では無くなったのか、車の量がほとんど無く、夕やみ迫っていた。
網走まで40`。1時間弱で着く予定。
途中山道から突然下り坂になると目の前には間違いなく、オホーツク海が左手から右手にかけて横たわっていた。
ついに来たのだ。北の果てまで。そう考えると身震いした。
空にはうろこ雲。かすかに見える知床半島。幻想的な夕やみである。
5時40分、双鏡台展望台にて、近くは能取湖、網走湖、遠くはオホーツクを感慨深く眺めた。
車は右に網走湖を見て、6時3分網走市内に入った。あこがれの網走だ。
早速、宿探しで電話帳にて民宿「かもめ荘」と決定。かもめ荘へ直行する。
夕食ではカレイ、イカ刺身が出た。
入浴後、街見学とシャレてみた。
思った程大きな街ではなく、地方都市を感じさせた。
とにかく魚の旨いもの、取り分け毛ガニを食いたい。安くてうまい処は無いか?
タバコ屋のおばあちゃんに聞いてみた。ところが「良く知らない」と言いだし、向かいの鮨屋に行って聞いてくると言いだした。
こうなると鮨屋に入らざるを得ない。しかし若いお兄ちゃんが出てきて「カニならそこの角から二軒目の底曳ですね」と親切に教えてくれた。
底曳では「内地から来て是非毛ガニを食いたい」由を告げると、とびきり新鮮な・・・今朝獲れたもの・・・毛ガニを一匹都合してくれた。水が滴る珍味そのもの。
冷酒で毛ガニを堪能した。
その後であるハプニングが起きたのは。
A君が主人に尺八を聞かせようと言うのである。彼は急いで宿に戻った。
やがて、私の尺八と楽譜を持って来た。
私はお得意の「春の海」と「仁義」を演奏した。座敷にいた地元の三人のおじさん連中も一緒で喜んでくれた。すると主人が珍しいものを持って来た。
「うちこ」である。どろっとして紫色で、これが何とタラバガ二の受精したばかりの卵とかで、見た目には紫色だから変な感じがしたが、味は最高の珍味であった。
言い忘れたが、お通しにウニが出た。生ウニで水分があり、柔くトロッとして美味。
さらなるものは「めふん」・・・サケの背中のちあい(神経)・・・これは塩辛みたいにぬるっとして黒ずんでいた。
それに鮭の頭・・・「氷頭」(ひず)・・・酢付けにしたものが出た。珍味、これ又珍味づくしで、冷酒も6合位飲んだらしい。すっかりごちそうになって底曳を出たのだが、又又、先程の鮨屋「福尚」(ふくひさ)に寄らなくてはなるまい。刺身が食べたい。
ガラッと開けると今さっき案内をしてくれた若いお兄さんが「いらっしゃい」「やっぱり来たよ。さっきはありがとう」今度はチーフが「どこへいらしたんですか?」「底曳です」と言う訳で、底曳で出なかった物をもらう事にした。
福尚ではルイベ(紅鮭)、イカの沖漬・・・生きたイカを油漬けにしたもの、タラバ蟹の肉の厚い部分、ボタンエビ、北寄貝、エバラ貝、クジラのスネ肉といった具合で、全てが初めてと言う位珍しい食い物であった。
酒はもう入らなかったが、彼は日本酒をやっていた。
いい気分になって、静かな北国の街を歩き宿に戻った。
早速、明日の打ち合わせ。彼はどこまで来てくれるのか未だ決めて無く、とにかく明日の夕方6時頃までに旭川に戻れば良いとの事。
明日は先ず、網走市内を見て、お天気次第と言う事で就寝。
北国と言っても6月下旬。お天気が良いので全然寒くは無くカラッとして快適。
網走の夜も寝つき良し。
(網走を今現在検索したところ、かもめ荘と福尚は存在したが、底曳は閉店したようだ)

北海道旅行記V・旭川〜石北峠編 旅行
1981(昭和45)年6月23日火曜日、北海道旅行3日目の旭川。
夜中に目を覚ましたものの、再び寝て気が付いた時には8時を回っていた。
今日の予定は層雲峡経由網走で224`の道程である。天気は朝から小雨模様。
私は晴れ男だが、彼の母親は雨女という。それが当たっているから面白い。
朝食には鮭と大きな筋子等の北海道の旨いものをごちそうになってから、彼の母を伴って10時10分出発して旭川駅まで送る。札幌まで急行で行くと言う。
車にガソリンを入れ、旭川からややはずれた高台にあるユーカラ館に行く。
ユーカラ織の展示館で衣類から、アクセサリー、家具までユーカラを使用している。素晴らしい芸術を見たと思って館を出ると、そこは土産売り場だった。
団体客が土産物をあさり、混雑で大変な騒ぎである。私も騒ぎにつられ何か買わなくてはとあせり、絵葉書とコースターを買った。彼曰く「最高のデートコースがあるとは知らなかった」と。
次はアイヌ記念館。場所はやはり旭川市内でアイヌ人達の狩猟の道具等が展示されていた。
雨は降ったり止んだりしていた。
次は「比布」の駅である。ちょっと前TVCMで「ピップエレキバン」でこの駅が出て有名になったらしい。
(出演した当時ピップ会長の禿げたお爺さんの顔が思い出される)
A君はわざわざ連れて行ってくれたのだ。
早速、駅員にことわり、中に入り線路を渡って例の駅名のところで「比布」を指し記念撮影をした。
時刻は12時40分。腹も減ってきた。考えて見れば北海道へ来て3日目だが、未だラーメンを食べていない事に気が付いた。
昼は次の目的地とした。雨はいよいよ激しくフロントガラスにたたきつけていた。
雨は時折強くそして弱くを繰り返しているうち、行く手は段々と晴れ上がって来た。
母を降ろしたので晴れるぞと二人で大笑い。
やがて「ポンモシリ」へ着く。
もう1時を回っている。早速昼食だ。やっとラーメンを注文する。
醤油味で、味は薄かった。ラーメンの上の具はほとんどない。
これは旭川ラーメン」で札幌は具が多いと言う。油分が多かった。
腹が減っていたので旨く、チャーハンは山分けとした。
そこには大雪山観光資料館があり、さらに奥の公園には日本に二頭しかいないと言う熊「コデアックグマ」5歳がいた。
その大きさはライオン位あり、もし山の中で襲われたらあっと言う間に食い殺されてしまうだろう。オリの中で幸いである。躰は茶色である。
午後2時にポンモシリを出発して、層雲峡に向かう。もう雨は小雨どころか霧状態である。
左前方に断崖絶壁の岩が近くの山の上に現れ、やがて全ての絶壁が見えてきた。
コケさえ生えぬその岩に圧倒されてしまう。
やがて層雲峡のロープウェイ入口に差し掛かった。私の父母も父の還暦旅行でこの地に来たと言う。この辺りは大函、小函だ。
断崖絶壁がしばらく続き、やがて右手に「流星の滝」が見えた。
空に突き刺した様な岩と岩の間から滝が出来ていて、スマートな滝だ。
突然、足元近くリスが矢の如く走り抜けて行った。滝は続けて3つ程あった。その内の一つ「ライマンの滝」でA君が録音すると言い出した。滝の音をである。
録音を仕掛けて、散歩に行った。30分程して戻って録音を聞いてみると、シャーシャーしているだけで、気が休まる自然の音楽とは言い難かった。
3時20分に層雲峡をあとにする。天気は晴れたり曇ったり。
川の流れに沿って走る。川は石狩川の上流。大雪ダムを右に見て車は石北峠へと進む。
徐々にだが上がって来ているらしい。石北峠は標高1050mで北見まで70`のところにある。
3日目続くーーー。
0
夜中に目を覚ましたものの、再び寝て気が付いた時には8時を回っていた。
今日の予定は層雲峡経由網走で224`の道程である。天気は朝から小雨模様。
私は晴れ男だが、彼の母親は雨女という。それが当たっているから面白い。
朝食には鮭と大きな筋子等の北海道の旨いものをごちそうになってから、彼の母を伴って10時10分出発して旭川駅まで送る。札幌まで急行で行くと言う。
車にガソリンを入れ、旭川からややはずれた高台にあるユーカラ館に行く。
ユーカラ織の展示館で衣類から、アクセサリー、家具までユーカラを使用している。素晴らしい芸術を見たと思って館を出ると、そこは土産売り場だった。
団体客が土産物をあさり、混雑で大変な騒ぎである。私も騒ぎにつられ何か買わなくてはとあせり、絵葉書とコースターを買った。彼曰く「最高のデートコースがあるとは知らなかった」と。
次はアイヌ記念館。場所はやはり旭川市内でアイヌ人達の狩猟の道具等が展示されていた。
雨は降ったり止んだりしていた。
次は「比布」の駅である。ちょっと前TVCMで「ピップエレキバン」でこの駅が出て有名になったらしい。
(出演した当時ピップ会長の禿げたお爺さんの顔が思い出される)
A君はわざわざ連れて行ってくれたのだ。
早速、駅員にことわり、中に入り線路を渡って例の駅名のところで「比布」を指し記念撮影をした。
時刻は12時40分。腹も減ってきた。考えて見れば北海道へ来て3日目だが、未だラーメンを食べていない事に気が付いた。
昼は次の目的地とした。雨はいよいよ激しくフロントガラスにたたきつけていた。
雨は時折強くそして弱くを繰り返しているうち、行く手は段々と晴れ上がって来た。
母を降ろしたので晴れるぞと二人で大笑い。
やがて「ポンモシリ」へ着く。
もう1時を回っている。早速昼食だ。やっとラーメンを注文する。
醤油味で、味は薄かった。ラーメンの上の具はほとんどない。
これは旭川ラーメン」で札幌は具が多いと言う。油分が多かった。
腹が減っていたので旨く、チャーハンは山分けとした。
そこには大雪山観光資料館があり、さらに奥の公園には日本に二頭しかいないと言う熊「コデアックグマ」5歳がいた。
その大きさはライオン位あり、もし山の中で襲われたらあっと言う間に食い殺されてしまうだろう。オリの中で幸いである。躰は茶色である。
午後2時にポンモシリを出発して、層雲峡に向かう。もう雨は小雨どころか霧状態である。
左前方に断崖絶壁の岩が近くの山の上に現れ、やがて全ての絶壁が見えてきた。
コケさえ生えぬその岩に圧倒されてしまう。
やがて層雲峡のロープウェイ入口に差し掛かった。私の父母も父の還暦旅行でこの地に来たと言う。この辺りは大函、小函だ。
断崖絶壁がしばらく続き、やがて右手に「流星の滝」が見えた。
空に突き刺した様な岩と岩の間から滝が出来ていて、スマートな滝だ。
突然、足元近くリスが矢の如く走り抜けて行った。滝は続けて3つ程あった。その内の一つ「ライマンの滝」でA君が録音すると言い出した。滝の音をである。
録音を仕掛けて、散歩に行った。30分程して戻って録音を聞いてみると、シャーシャーしているだけで、気が休まる自然の音楽とは言い難かった。
3時20分に層雲峡をあとにする。天気は晴れたり曇ったり。
川の流れに沿って走る。川は石狩川の上流。大雪ダムを右に見て車は石北峠へと進む。
徐々にだが上がって来ているらしい。石北峠は標高1050mで北見まで70`のところにある。
3日目続くーーー。

北海道旅行記U・旭川編 旅行
1981(昭和45)年6月22日月曜日、北海道旅行2日目の札幌。
朝6時頃目が覚めたが、まだ眠い。二日酔いの感じでまだ起きられず、再び目を閉じる。
札幌の一夜は思った程寒くはなかった。気が付くと8時半。
階下に降りてA君が作った目玉焼きで朝食をいただく。その後皿を洗うとその水の冷たさには参った。あの私の故郷・・・信州飯田・・・の冬の水の冷たさ。手の切れる様な冷たさだった。
今日のコースは札幌〜旭川で見るべき所があったら見たい、という気楽で十分時間のあるコースである。余裕を持って10時10分彼の親類宅を出発。
札幌市内をやっとのことで抜け出すと、やがて石狩川にぶつかる。
「石狩川エレジー」を思い出しながら川を渡ると当別に入る。道路はタイヤの跡が付くところだけがへこんでいて、ところどころその上にアスファルトをのせている。
北海道は雪が積もる為に、タイヤをラジアルにする。雪解けになってもラジアルタイヤで走るので削られてしまうと言う。
当別で給油し、月形町を経て滝川市へ向かう。地図を片手に照らし合わせながらの進行は良く解った。ほとんど線路づたいで周りは緑一色。放牧された牛や馬が実にのどかに見える。
地図によると札幌〜旭川間は138`だから普通で3時間かかる。
これだけでも北海道は広いと思った。
やがて滝川市に入る。時計は12時を回り昼食時。A君のおすすめで有名な手打ち蕎麦の「そば嘉」に寄って天婦羅そばを注文する。本当の手打ち蕎麦で、シコシコしており、歯ごたえがある。
納豆蕎麦が有名らしい。マンガ家のおおば比呂司が絶賛した新聞の切り抜きが柱に貼ってあった。もちろんイラスト入りである。
車は深川市を経由して旭川市に入って行く。道路のすぐそばを石狩川が流れており、その川も我々を導いてくれた。
しばらく走って小高い丘に登ったなと思った瞬間、突然目の前に旭川市が飛び込んで来た。
山と川を見ていた私にはとても新鮮であったので、思わず大きな声で「すごい」と叫んでしまった。「そんなに驚いた?」と聞かれた程だった。
想像以上に大きな街で人口40万人と言う。
神居にある彼の家に午後1時30分着。早速コーヒー一杯飲みながら次の行動を計画した。
大雪山連峰の中の旭岳にロープウェイがあるからそこまで行こう。
出来れば勇駒別温泉にでもつかって疲れをとろう、とリュックを置きカメラを持参してそこを飛び出した。
畑の向こうに、草原の向こうに見える大雪山の山々が段々と姿を現し、残雪が夕日に照らし出され、青い空とみごとに調和を保っている。ところどころで記念写真を撮っていたら、結構時間がかかってしまった。
やがて着いたところは旭岳ロープウェイ旭岳駅。時刻は4時10分でロープウェイに乗るべく時間を聞くと、今度の4時20分が最終だと言われた。あやういところだった。せっかく来たのだ。
20人乗り位のロープウェイに我々が貸切で乗る。一人2400円と、ちょっと高い気がしたが仕方あるまい。
女性のガイド付きで遠くの山々、旭岳について説明してくれる。
途中乗継駅があり、再び乗り込む。ロープウェイでどんどん昇り、ついに標高1600m地点までくる。下を見ると、ところどころに残雪があり森林地帯はエゾマツ、トドマツが姿を現している。
見晴らしは最高。終点まで来ると15分しか余裕がないという。
ところがちょうど36枚撮りのフィルムが終わってしまったので、又新たにフィルムを買ったりしていたら5分経過。時間がないのに何をしているのか。
急いで長靴を借り(200円)すぐ近くにある見晴台まで走っていった。
すぐそこから雪があり、足をとられてうまく走れない。厚さ30pはあるだろう雪はサクサクとまるでシャーベットの様で足がのめり込んでしまう。しかも登りで日頃走り慣れていない私には、とてもつらく息が切れる。やっとの思いで着くと3分経過。
とにかく写真をと必死で4〜5枚旭岳を目の前にして撮る。
標高2290mの旭岳は夕日に照らしだされ茶色の肌を現している。
ゆっくり眺めている時間は無く、すぐ放送で最終便が出るとのこと。
再び走って降りて行く。距離にして50m。スキーのように滑りながら、今にも転びそうになりながら、二人はかけ降りて行った。
雪が長靴の中に入り、靴下は濡れている。
ロープウェイの真横には出来たばかりの川がきれいな透き通った水を徐々に集めてだんだん大きくなっていった。まだ高山植物は咲いてないが、雪解けと共に咲くのであろう。
終点には5時に着く。すぐ近くに温泉があるので入って行こうと「えぞ松荘」の風呂に向かう。
風呂代一人400円、タオル250円。ここは本当の温泉だ。弱食塩泉で適温。健康に良いと水も飲む。広い浴場を二人貸切でゆっくりつかる。
およそ1時間でA君宅に着いた。
今度は夜の旭川に繰り出すことになった。タクシーでちゃんこ鍋の「北の富士」へ行った。
二階の座敷に案内される。下足箱は昔銭湯にあったものと同じでそれぞれ力士の名前が入っており、私は栃ノ海、彼は琴桜であった。
「九重鍋」を二人前、注文した。先ずはビールジョッキである。
小皿には白いゴマがあり、これをすってスープを入れたがこの味は忘れられない。未だかつて食べたことがない位おいしい鍋だった。
スープは塩味で中には毛ガニ、大きなエビ、ホタテ貝、つくね、タラ、鶏肉、春菊、はるさめが入っていた。
最後には平べったいうどんがあったが途中牛肉を特別注文したので、もう腹はいっぱいであった。ビールは大ジョッキ2杯で締めて二人で9760円はおいしさ、腹いっぱいを考えれば安いものである。
8時半過ぎに出て、旭川の街を歩く。からっとして気持ちの良い天気だから汗も出ず、気分が良かった。
9時頃、「ナイトアンドディー」に入った。ここは音楽の生が出来るスナックだ。
彼のなじみの店だったが、マスターはちょうど東京に行っていなかった。
素人の集まりで時々ドラム、ギター、ベースを演奏するらしい。私は尺八を持参しており、ここで吹かせたかったらしい、がその機会はなく、ただ何となく時間が流れて店を出た。
もう午前0時を回っていたが、もう一軒「あすか」というスナックに向かった。
カラオケが出来る店で、もうママは酔いが回りどうしようもなかった。何人かの客がいたのだが、いつしか私達だけになっていた。
他に従業員が二人いたので、カラオケをセットしてくれた。
K君は「浪曲子守唄」を歌い、私は「私祈ってます」。又「別れても好きな人」等のデュエット曲を店の女の子と歌い、気分良くしてそこを出たのはもう2時近かった。
K君宅では2階の彼の部屋を当ててくれた。
彼は中国語の勉強をしており、朝早いNHK中国語講座を聞いているとの事。筋が良いらしく盛んに謝謝、ニーハオとやっていた。そのうれしそうな顔が忘れられない。
さて、翌日どうするかの検討をした。彼の気持ちとしては網走まで一緒に行きたいらしい。
層雲峡経由、網走とコースが決定。午前2時ベッドに就く。
酔いのせいか気持ち良くバタンキュ―だったらしい。
0
朝6時頃目が覚めたが、まだ眠い。二日酔いの感じでまだ起きられず、再び目を閉じる。
札幌の一夜は思った程寒くはなかった。気が付くと8時半。
階下に降りてA君が作った目玉焼きで朝食をいただく。その後皿を洗うとその水の冷たさには参った。あの私の故郷・・・信州飯田・・・の冬の水の冷たさ。手の切れる様な冷たさだった。
今日のコースは札幌〜旭川で見るべき所があったら見たい、という気楽で十分時間のあるコースである。余裕を持って10時10分彼の親類宅を出発。
札幌市内をやっとのことで抜け出すと、やがて石狩川にぶつかる。
「石狩川エレジー」を思い出しながら川を渡ると当別に入る。道路はタイヤの跡が付くところだけがへこんでいて、ところどころその上にアスファルトをのせている。
北海道は雪が積もる為に、タイヤをラジアルにする。雪解けになってもラジアルタイヤで走るので削られてしまうと言う。
当別で給油し、月形町を経て滝川市へ向かう。地図を片手に照らし合わせながらの進行は良く解った。ほとんど線路づたいで周りは緑一色。放牧された牛や馬が実にのどかに見える。
地図によると札幌〜旭川間は138`だから普通で3時間かかる。
これだけでも北海道は広いと思った。
やがて滝川市に入る。時計は12時を回り昼食時。A君のおすすめで有名な手打ち蕎麦の「そば嘉」に寄って天婦羅そばを注文する。本当の手打ち蕎麦で、シコシコしており、歯ごたえがある。
納豆蕎麦が有名らしい。マンガ家のおおば比呂司が絶賛した新聞の切り抜きが柱に貼ってあった。もちろんイラスト入りである。
車は深川市を経由して旭川市に入って行く。道路のすぐそばを石狩川が流れており、その川も我々を導いてくれた。
しばらく走って小高い丘に登ったなと思った瞬間、突然目の前に旭川市が飛び込んで来た。
山と川を見ていた私にはとても新鮮であったので、思わず大きな声で「すごい」と叫んでしまった。「そんなに驚いた?」と聞かれた程だった。
想像以上に大きな街で人口40万人と言う。
神居にある彼の家に午後1時30分着。早速コーヒー一杯飲みながら次の行動を計画した。
大雪山連峰の中の旭岳にロープウェイがあるからそこまで行こう。
出来れば勇駒別温泉にでもつかって疲れをとろう、とリュックを置きカメラを持参してそこを飛び出した。
畑の向こうに、草原の向こうに見える大雪山の山々が段々と姿を現し、残雪が夕日に照らし出され、青い空とみごとに調和を保っている。ところどころで記念写真を撮っていたら、結構時間がかかってしまった。
やがて着いたところは旭岳ロープウェイ旭岳駅。時刻は4時10分でロープウェイに乗るべく時間を聞くと、今度の4時20分が最終だと言われた。あやういところだった。せっかく来たのだ。
20人乗り位のロープウェイに我々が貸切で乗る。一人2400円と、ちょっと高い気がしたが仕方あるまい。
女性のガイド付きで遠くの山々、旭岳について説明してくれる。
途中乗継駅があり、再び乗り込む。ロープウェイでどんどん昇り、ついに標高1600m地点までくる。下を見ると、ところどころに残雪があり森林地帯はエゾマツ、トドマツが姿を現している。
見晴らしは最高。終点まで来ると15分しか余裕がないという。
ところがちょうど36枚撮りのフィルムが終わってしまったので、又新たにフィルムを買ったりしていたら5分経過。時間がないのに何をしているのか。
急いで長靴を借り(200円)すぐ近くにある見晴台まで走っていった。
すぐそこから雪があり、足をとられてうまく走れない。厚さ30pはあるだろう雪はサクサクとまるでシャーベットの様で足がのめり込んでしまう。しかも登りで日頃走り慣れていない私には、とてもつらく息が切れる。やっとの思いで着くと3分経過。
とにかく写真をと必死で4〜5枚旭岳を目の前にして撮る。
標高2290mの旭岳は夕日に照らしだされ茶色の肌を現している。
ゆっくり眺めている時間は無く、すぐ放送で最終便が出るとのこと。
再び走って降りて行く。距離にして50m。スキーのように滑りながら、今にも転びそうになりながら、二人はかけ降りて行った。
雪が長靴の中に入り、靴下は濡れている。
ロープウェイの真横には出来たばかりの川がきれいな透き通った水を徐々に集めてだんだん大きくなっていった。まだ高山植物は咲いてないが、雪解けと共に咲くのであろう。
終点には5時に着く。すぐ近くに温泉があるので入って行こうと「えぞ松荘」の風呂に向かう。
風呂代一人400円、タオル250円。ここは本当の温泉だ。弱食塩泉で適温。健康に良いと水も飲む。広い浴場を二人貸切でゆっくりつかる。
およそ1時間でA君宅に着いた。
今度は夜の旭川に繰り出すことになった。タクシーでちゃんこ鍋の「北の富士」へ行った。
二階の座敷に案内される。下足箱は昔銭湯にあったものと同じでそれぞれ力士の名前が入っており、私は栃ノ海、彼は琴桜であった。
「九重鍋」を二人前、注文した。先ずはビールジョッキである。
小皿には白いゴマがあり、これをすってスープを入れたがこの味は忘れられない。未だかつて食べたことがない位おいしい鍋だった。
スープは塩味で中には毛ガニ、大きなエビ、ホタテ貝、つくね、タラ、鶏肉、春菊、はるさめが入っていた。
最後には平べったいうどんがあったが途中牛肉を特別注文したので、もう腹はいっぱいであった。ビールは大ジョッキ2杯で締めて二人で9760円はおいしさ、腹いっぱいを考えれば安いものである。
8時半過ぎに出て、旭川の街を歩く。からっとして気持ちの良い天気だから汗も出ず、気分が良かった。
9時頃、「ナイトアンドディー」に入った。ここは音楽の生が出来るスナックだ。
彼のなじみの店だったが、マスターはちょうど東京に行っていなかった。
素人の集まりで時々ドラム、ギター、ベースを演奏するらしい。私は尺八を持参しており、ここで吹かせたかったらしい、がその機会はなく、ただ何となく時間が流れて店を出た。
もう午前0時を回っていたが、もう一軒「あすか」というスナックに向かった。
カラオケが出来る店で、もうママは酔いが回りどうしようもなかった。何人かの客がいたのだが、いつしか私達だけになっていた。
他に従業員が二人いたので、カラオケをセットしてくれた。
K君は「浪曲子守唄」を歌い、私は「私祈ってます」。又「別れても好きな人」等のデュエット曲を店の女の子と歌い、気分良くしてそこを出たのはもう2時近かった。
K君宅では2階の彼の部屋を当ててくれた。
彼は中国語の勉強をしており、朝早いNHK中国語講座を聞いているとの事。筋が良いらしく盛んに謝謝、ニーハオとやっていた。そのうれしそうな顔が忘れられない。
さて、翌日どうするかの検討をした。彼の気持ちとしては網走まで一緒に行きたいらしい。
層雲峡経由、網走とコースが決定。午前2時ベッドに就く。
酔いのせいか気持ち良くバタンキュ―だったらしい。

靖国神社・バスタ新宿 写真
やっと、お天気が良くなった4月6日靖国神社へ桜見学に行って来た。
おそらくもう満開過ぎて見納めだろうと予想した通り、満開から桜ふぶきだった。
やはり、花見客で混雑していた。


境内の能楽堂では夜桜能があると言う。


靖国神社南門。

靖国通りも桜並木が満開で、道路に花びらが舞う。

南門前の大妻通りも桜が満開。

そのちょっと左側に和食「さくらさくら」がある。この時期に相応しい店名である。
実は高校の後輩が経営している店で、ランチは「サバ定食」をいただいた。
これも目当てであり、おいしかった。刺身と2鉢を選べてデザート付きで1300円。

市ヶ谷から総武線で新宿へ行く。4月4日、「バスタ新宿」がオープンした。
日本一のバスターミナルで、新宿から全国に発着するバスを集約した。

甲州街道のエントランスが2階となっている。
エスカレーターに乗り、バス乗り場は4階だ。

3階はタクシー乗り場。

4階の切符売り場。自動券売機がある。

全国に行くから以前より探すのが大変だ。信州飯田行はここを見る。

窓口でも購入できる。バス乗り場は、右側に表示されて、飯田行はC8番乗り場だった。

飯田行はここから乗るんだに。間違わんようにな。

4階から見た、北側JR新宿南口とルミネ2。

南側に高島屋・東急ハンズが見える。
ちなみに中央高速飯田行の旧新宿バスターミナルはもう、撤去作業が始まっていた。
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おそらくもう満開過ぎて見納めだろうと予想した通り、満開から桜ふぶきだった。

やはり、花見客で混雑していた。


境内の能楽堂では夜桜能があると言う。


靖国神社南門。

靖国通りも桜並木が満開で、道路に花びらが舞う。

南門前の大妻通りも桜が満開。

そのちょっと左側に和食「さくらさくら」がある。この時期に相応しい店名である。
実は高校の後輩が経営している店で、ランチは「サバ定食」をいただいた。
これも目当てであり、おいしかった。刺身と2鉢を選べてデザート付きで1300円。

市ヶ谷から総武線で新宿へ行く。4月4日、「バスタ新宿」がオープンした。
日本一のバスターミナルで、新宿から全国に発着するバスを集約した。

甲州街道のエントランスが2階となっている。
エスカレーターに乗り、バス乗り場は4階だ。

3階はタクシー乗り場。

4階の切符売り場。自動券売機がある。

全国に行くから以前より探すのが大変だ。信州飯田行はここを見る。

窓口でも購入できる。バス乗り場は、右側に表示されて、飯田行はC8番乗り場だった。

飯田行はここから乗るんだに。間違わんようにな。

4階から見た、北側JR新宿南口とルミネ2。

南側に高島屋・東急ハンズが見える。
ちなみに中央高速飯田行の旧新宿バスターミナルはもう、撤去作業が始まっていた。
