「スマホ」デビュー  携帯

2月に、ついにスマホデビューした。もちろん初めてのスマホである。

前回購入した携帯電話の賞味期限が切れ、いや2年契約が切れて、晴れてスマホデビューである。

他人より先んじて1996(平成8)年にPHSを使用したのだけれど、スマホでは随分遅れをとった。この24年間いったい何台の携帯電話を使用したのだろうか。

スマホ購入が遅くなったのは、決して安くはない利用料金に躊躇していたからでもある。費用対効果である。

ここで踏ん切りがついたのは、外でもない月額料金が下がって来たからである。さらに携帯電話ではインターネット接続が困難だった。このブログも見られない。

今度のスマホは5分間無料で電話が出来る。

スマホ教室に今まで8回通って、アプリやらメール、LINE、カメラについて習っている。

買ってすぐにこのアイコンは何かなと触ると、3人程誤って電話がかかってしまい、あわてて終了させて、SMSで「間違いでした」とメールする始末。

以前、夜中に電話が鳴ってあわてて出たのだが、スマホを買ったばかりの人が操作を誤ったらしい。まったく同じことを私はしたのである。

スマホ教室は予約制で一日3回行われている。
スケジュール表を見て予約すると、私のスマホに予約受付しました、とメールが来て、ご丁寧にスマホ教室の前日と、当日に確認のメールが来る。

それを当日、教室でスマホの画面を見せるのである。
ある時、「電話のかけ方教室」の定時の10分前に行ったところ、定員3名がもう座っている。私は間違っていないと係員にスマホを見せ話をしたところ、あるおじさんが違うらしい。

ところがそのおじさんが、「俺は店頭で言ったのよ。何回か来て言ったんだ」と激しく抵抗して、挙句の果てに「こんなスマホは捨てちゃうぞ」とか言って、スマホを手に持ち上げた。
「電話の仕方が分からないから来てるんだ」とか。

私が予約制の話をしてスマホを見せて「このような予約のお知らせが来るんです」と言ったが納得がいかないらしいので、「じゃあ、私は帰りますからおじさんそこにいていいですよ」と、なだめた。「いいよ。俺は帰るよ。だけど電話の仕方が分かんねえのよ」

そこで女性の係員が来て他の席に案内して、説明を始めた。
結局は私が座って事なきを得た。

未だスマホ教室に通う予定がある。

さて、20日は彼岸である。
16日に義弟の車で4人で墓参りをした。コロナ禍で本当に久しぶりに行った。
枯れた草や落ち葉を取り除き、墓石を丁寧に洗う。
管理事務所で仏花を買い、花瓶にいける。

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初めてのスマホカメラデビューである。バシャリの音が何とも心地よい。
ここは高尾山のふもとである。やや高台の見晴らしの良い墓地である。

この墓は義父系列と我が家の共同の墓地である。
この中にはもうすでに、義父の祖先、義父、義母が入っており、やがて私が入る予定の墓である。

墓石には書道の先生だった義父の字入れで「天道」と彫ってある。
義父は東日本大震災の4日前に亡くなったからもう10年になる。その直後にこの墓を作ったのである。

左隣は元空き地だったが、いつの間にか墓石が立っていた。それが我が家とほとんど同じ作りだから、参考にしたのだなと思った。

私は常にカバンを持ち歩く癖になっている。取り合えず反対側の墓の所に置いていた。
お参りを済ませて時計を見ると、もう12時10分前だった。

実は12時に行きつけの和食店の予約をしていたのだ。「アッ!もう時間がない」と号令をかけ、掃除道具を片付けて急いで車に乗った。

普通に行っても5分位は遅刻だ。もう半分位走ったところで、私のカバンが無い事に気が付いた。和食店に遅刻の連絡をしようにも、スマホに電話番号を入力してなかった。

あわてて墓に戻ってもらった。カバンは私を寂しそうに待っていた。

結局15分位遅れて和食店に着いた。お詫びを申し上げ、膳についた。
天気も良く「エビスビール」は格別旨かった。

「飛躍」の思い出  音楽

「飛躍」の思い出と言ったところで、普通の人には分からないだろう。「跳躍」ではありません。

実はこれから述べる「飛躍」とは、久本玄智作曲の「飛躍」の事である。

長くなるので独立した文章にしたい。
私が大学3年生の頃、飯田市の箏の先生のおさらい会で「飛躍」を箏と合奏した。
その「飛躍」を又今、妻の門下生と合奏しようと言う話が出て来たのだ。

私の頭の中では年中「飛躍」のメロディーが鳴り響いている、と言うくらい印象深い曲である。ある程度は覚えている。

しかし、楽譜を探してみたら無い。発行元の出版社はもう無いと聞いていた。
仕方ないからYouTubeで他人の演奏を聴いて、楽譜を書こうかなと思ったくらいだ。

ところが救世主が現れた。琴古流楽譜を扱っている竹友社が販売している情報を得て、やっとこさっとこ手に入った。

解説では尺八、箏二重奏曲で洋楽のロンド形式。
快活な旋律によって飛躍の気分を表した曲。
近代的な感覚をもった曲で、特に若い人に喜ばれている。

しかし、作曲は1931(昭和6)年で、戦前であり、私は未だ生まれていなかった。

飯田市の箏の先生とは故駒瀬竹子先生である。当時で80歳くらいだったろうか。
知り合ったいきさつの話をしよう。

高校生の頃は自転車で学校まで通っていた。
自宅のある旧飯田市は段丘の上にあり、高校は段丘の下側であるから、行きは広い崖路をスピードを出して下りて行く。

帰りは大変だ、立ちこぎで行きの道を全部は上がれない。途中で横道を行くことになる。

飯田市は碁盤の目のような道路になっており、その後はどこの道を通っても自宅に帰る事が出来る。縦の道が坂になっており、横道はほぼ平らである。

ある時、仲之町なる道を通りかかった時に箏の音が聞こえて来た。高校時代は吹奏楽班だったので未だ尺八に興味はなかった。

ところが、大学に入ってなんと尺八を手にしたのである。
そこで夏休みに駒瀬先生宅を訪ねたのが始まりじゃ。

先ず大学1年生頃から、「六段の調べ」や「千鳥の曲」などの合奏をしてみた。
私が行く時には門下生の上手な人も呼んでくれて、夏休み、正月休み、春休みなど通った。

「ゆき」も先生と合奏したのを覚えている。
そして大学3年の夏休みだろうか、先生のおさらい会で「飛躍」を可愛い小学生とも合奏したのだ。

大学3年生の時は当時あった「太宰楼」の舞台で演奏して、終了後は記念撮影して、打ち上げ。

大学4年生の時は「三宜亭」で演奏と打ち上げを行った。先生から「あなたは学生さんだから、無料で良いよ」と言われた。ギャラは無くて7万円の接待では無い。可愛いものだ。

「三宜亭」では母も親類のおばさんも聞きに来てくれた。
地元の尺八演奏者もいて、酒を飲んだが「健康第一に気を付けてくれや」と言われた。

そのおさらい会で知り合った尺八の中川青童氏に誘われて、正月に市田(天竜川舟下りの出発点)のご自宅に伺った事がある。

当時は75歳位のお爺さんで、尺八の練習ノートを見せてくれてびっくりした。

上段に地唄の曲名が書かれており、その下側に練習した回数の「正」ちゃんマークがいっぱい書いてあったのだ。「八重衣」などかなりの練習回数であった。

正月だから酒、肴もいただいた。
話を伺うと、息子さんも尺八を演奏しており、「息子の残月の演奏テープだ」とカセットテープをいただいた。

驚いた事に箏が小林玉枝、三絃が井上道子だから凄いメンバーだった。
帰ってから何度も聞かせてもらった。息子さんは未だ私にとって見知らぬ人だった。

ところが、その息子さんに東京で7〜8年前に偶然縁があって、一緒に飲んだのである。
しかも、その時のテープをお返しをした。(本当は頂いた物だが)

聞いてみれば私の高校の先輩であり、ちょうど10歳年上だった。本当に不思議な出会いだった。

再び中川青童氏の話である。ほろ酔いかげんで中川宅を出たのだが、もうすっかり暗くなっていた。私の実家は街なかで街路灯がついて明るい。

しかし田んぼの中を通ってJR飯田線の市田の駅まで行くのに、月も明かりもほとんどなく、手探りでやっとこさっとこ市田駅に着いたのだった。側溝に落ちなくて良かったと思ったくらいだ。

東京に戻って当時の青木鈴慕先生に、たまたま何かの時に中川氏の話になり「中川さんは地元で邦楽を広めている大変な功労者だ」と褒めていて、先生までも知っていたとは、どこかで繋がっているのだと思った。

駒瀬先生は品の良いおばあちゃんで、カメラが趣味だった。
私が23歳の頃、つてがあって尺八の門下生が一人出来た。そのYさんも連れて夏休みに浴衣を着て駒瀬先生と合奏し、写真も撮っていただいた。

話がどんどんそれるが、合奏を終わって私の中学の同級生Mさんが経営する居酒屋に行った時の事である。

たまたま彼女に尺八を聞かせようと他のお客様に許可を得て、「仁義」などを演奏したところ、あるお客さんが言い寄って来た。
その人に、えらい褒められたのである。

聞けばT設計事務所の人で、元はテイチクだかのミキサーをしていたから、耳は確かであった。話が合って、ごちそうになり、その上「芸者置屋に行こう」と我々二人を誘い出し、ある料亭に行ったが、もう遅く皆帰ってしまったらしい。

大広間で女将さんと4人で世間話をして帰った。ドラマになりそうな、こんな事を思い出した。

駒瀬先生は趣味のカメラで展覧会をしたり、講演をしたらしい。地元の新聞に掲載された。
その頃、先生と年賀状のやりとりをしていたが、駒瀬先生が講演の最中に突然倒れ、そのまま亡くなったみたいだ。

その事が載った地元紙を母が送ってくれて知ったのだが、暮れも暮れ25日頃の事で、要領の良い先生はもう年賀状を私に出していたから、亡くなった先生から年賀状が届いたのである。

妻を連れて紹介をした後だったので、私が30歳過ぎの話である。合掌。




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