北原鈴淳尺八教室in八王子  音楽

  
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  指導者  鈴慕会 大師範

            
            北 原 鈴 淳







音楽歴  
長野県飯田市立追手町小学校5〜6年で器楽班に入り、小太鼓を担当。

東中学校2年から飯田高校の吹奏楽班でユーホニュームを担当(5年間)

大学の三曲研究部で琴古流尺八を始め、故二代青木鈴慕・人間国宝(2018年8月21日死去)に師事
      
1972(昭和47)年1月 浅草国際劇場の「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」 で10日間「仁義」「盃」「誠」を尺八伴奏
      
1976(昭和51)年 渋谷東邦生命ホールで尺八リサイタル
曲目「みだれ」「一定」「箏四重奏曲」「詩曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」

1991(平成3)年3月 NHKFM放送「邦楽のひととき」
に「明治松竹梅」出演
さらに1991(平成3)年7月「泉」、1992(平成4)年「末の契り」、1992(平成4)年6月「泉」再放送、など出演

      
2007(平成19)年 北原尺八教室をめじろ台に開設

2021(令和3)年、芸歴(芸道・竹道)55年を迎えた

稽古場 東京都八王子市めじろ台2丁目
      (京王線めじろ台駅徒歩6分)
     
      電話 042−668−1278
(お問い合わせは午前8時〜午後8時まで)

稽古日 日曜日・月曜日・火曜日・木曜日(午前10時から午後5時までの予約制)        
    ご希望により他も可能な日(午前中など)があり、ご連絡下さい。
月謝   
月2回、5000円 (1回約50分間)
月3回、7000円 (1回約50分間)
月4回、8500円 (1回約50分間)
ワンレッスン、3000円 (約1時間)

その他、ご希望により特別ワンレッスン2時間を設けます。(5000円)

入門料 3000円(ホームぺージご覧の方は半額の1500円)
      入門者には自費出版のCD1枚差し上げます。

初心者から対面式で一人一人指導します。まずは基本の音出しから。
 古曲を中心に宮城曲、現代邦楽、歌謡曲までご希望にも応じます。

琴古流本曲 三谷菅垣・雲井獅子・虚空鈴慕・鹿の遠音 など

地唄筝曲  黒髪・千鳥の曲・笹の露・残月・八重衣 など

宮城曲   春の夜・春の海・初鶯・泉・虫の武蔵野 など

現代邦楽  風動・詩曲・一定・萌春・出雲路・箏四重奏曲 など

その他ご希望により 童謡・唱歌・歌謡曲(著作権法に触れない曲)など

体験レッスン 500円(約60分) ご予約ください

初めての方には、安価な樹脂製の尺八「悠」(¥16500税込み=本年1月価格改定)を取り寄せます。竹製欲しい方は、別途ご紹介します。
取りあえず、貸し出し用のプラ管あります。

練習の状況により箏や三絃と時々合奏練習をして、年に一度は稽古場でおさらい会をします。

1976年北原康夫尺八リサイタルより、
杵屋正邦作曲・尺八独奏曲「一定」(いちじょう)が聞けます。
長澤勝俊作曲
「独奏尺八のため詩曲」
上記、青色線をクリックしてください。

金曜日・土曜日は箏・三絃教室も開いています。
こちらのホームページをご覧ください。
http://ivory.ap.teacup.com/koto8/


近況と雑感 

お知らせ

このブログは運営会社の都合により、今年の7月末にて終了いたします。
(実際は8月1日午後1時に多分強制終了になると思います)

私のブログをblog.goo に引っ越しました。
新しいブログはblog.goo.ne.jp/reijun-kitayasuまたは左側のリンク集から見られます。

新規のブログは、blog.gooの方をご覧ください。


楽譜を読む  音楽

舩川利夫作曲「出雲路」の合奏練習をした。

尺八、箏演奏者で作曲家の舩川利夫は1931年〜2008年、77歳で亡くなった。
島根県安来市出身。16歳で尺八を習い、24歳で上京して箏を古川太郎に習う。
1956年、東京新聞主催の作曲コンクール1位を受賞して、その後も数多くの作品を残した。

舩川先生には生前、浅草国際劇場の「北島三郎ショウ」の尺八伴奏出演でご紹介いただき、お世話になった。私が23歳の時であった。

その時は共演した郡川直樹とお礼にと、千葉県のご自宅に伺ったこともある。

又、私の尺八リサイタルで先生の「箏四重奏曲」を演奏した時に、一か所分からないところがあり、お電話でお聞きしたことがあった。(27歳)

話が前後するが、「舩川利夫作品発表会」にも賛助出演を依頼された。25歳頃だったと思う。
2本の尺八と群の為の合奏組曲「覚」(さとる)で独奏が「山本邦山」と「横山勝也」。あとは尺八4群だった。

私は第1尺八を演奏。非常に難しい曲で、拍子が複雑だった事を覚えている。

1960(昭和35)年作曲「出雲路」の曲に触発されて、2017年11月に出雲旅行に出かけた。
曲は「清水寺の暮色」「祭」「宍道湖の夕映え」となっており、宍道湖の夕映えを見たかったからだ。

「祭」には「安来節」のメロディーが尺八で演奏される。

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出雲旅行の初日は玉造温泉に宿泊したが、夜8時30分から近くの会館で「どじょうすくいショー」の実演が見られると言われたので見に行った。歌は「安来節」だ。

左後ろの小鼓を打っている人が師匠で「どじょうすくい」も演技した。

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この師匠の前にお客さんでやりたい人を募集をして、何人かおばさんが出ていた。
家内が私にも「出れば」と言ったが、遠慮した。

翌日は出雲大社を見て、宍道湖をバスで通りかかった。確かに夕方だったが、残念ながらカメラには写せなかった。

しかし鮮明にその風景が残像として頭に残っているので、演奏にも生きると思う。

今回の合奏練習に付き、CDやYouTubeを見たり聞いたりしているが、完全に合わすのは難しい。

私の楽譜は尺八だけの五線譜を使用している。(ところが自宅を探したら都山流の楽譜が出て来た)
そこでスコアが欲しくなり、関係者に当たってみた。

その結果、舩川先生宅に直接お電話して、スコアを入手した。
そこで分析を始めたのだ。

スコアは公刊されておらず、先生は望んでいなかったらしい。
清書されていないので、先生の自筆で癖があって見づらく、楽譜を修正しているところである。

こうして箏や十七絃のメロディーが分かり、合わせ易くなった。
邦楽演奏は指揮者がいないので、阿吽の呼吸で合わせる。ところが舩川作品はそれぞれのメロディーが単純ではないので、合奏が難しいのである。

合奏練習は約2時間かかった。過去の練習よりも今回は箏の楽譜を分析して、CDも聞き、タイミングを計った為、幾分上手くいったと思う。

タイトルに掲げたように「楽譜を読む」は大事だ。
ピアノも同じで、今回のショパン国際コンクールで第2位になった反田恭平らもそうである。

図書館で雑誌「ショパン」を見た。先のコンクールの上位出場者全員のインタビューが載っていた。

作曲者に寄り添い、楽譜を分析し曲を作り上げる。
反田氏はショパンの生まれ故郷のワルシャワまで行ってピアノを習っている訳だ。大変な努力家だ。

舩川作品には「尺八三重奏曲」や「飾画」もある。

「飾画」は尺八3本に箏と十七絃の五重奏曲だ。
この曲も大学2年時の学生連盟の演奏会で第1尺八を演奏する予定で練習していたが、私の祖父が亡くなり演奏会には出られなかった残念な思いがある。

「尺八三重奏曲」は、やはり大学の4年時に部内の3人で演奏をした。
演奏会には横山勝也先生も来られ、アンケートのところに大学名が「浮世大学」と書かれていたのが懐かしい。

舩川先生の話を思い出す。
私が学生当時の尺八作品は杵屋正邦作曲の尺八三重奏曲「風動」「第二風動」や独奏曲「流露」「吟游」「一定」などが流行り、盛んに演奏されていた。

それで舩川先生は「正邦さんの曲ばかり演奏して、何故俺の曲を演奏してくれないのかなあ」と言っていた。

正邦作品はメロディーがきれいでよくハモり、概ね明るい曲調。リズムも軽快だ。だから演奏しやすい。

「第三風動」を初演の為、青木先生に頼まれ練習で山本邦山宅に行った時、山本邦山先生は「正調杵屋節だね」と言っていた。

一方、舩川作品は複雑なメロディー、拍子、暗い感じで合奏も難しい。楽しく明るいメロディーもあるが、やがて後半になると暗くなってしまう曲もある。

やはり生まれ育った故郷の影響を受けているのかなと思う。

宮城道雄が歌謡曲に  音楽

2月22日のNHK「うたコン」で氷川きよしが新曲「群青の弦(いと)」を歌った。
この曲は筝曲家、宮城道雄を題材とした歌謡曲である。

歌詞には「美しく織りなす箏の音に」とか、稽古の様子の 「千遍(べん)弾きの荒修行」、最後には「月に謳うは春の海」と出て来る。「春の海」はまさに名曲である。

まさか宮城道雄が歌謡曲で題材になるとは思わなかった。
氷川きよしは今年いっぱいで活動を休止すると発表があった。
この曲がヒットして箏の演奏者が増えるといい。

「春の海」は我々は中学の音楽鑑賞曲だったが、娘たちは小学6年生だった。
本来は箏・尺八の二重奏曲である。しかし尺八に代えて、バイオリンやフルートでも演奏された。

我々が聞いたのは箏奏者は宮城道雄本人で、共演者は先ずバイオリンはルネ・シュメーであり、フルートは吉田雅夫、尺八は吉田晴風を聴き比べたと思う。

この時に私は将来、尺八で「春の海」を演奏したいと思ったのだった。

大学に入り、尺八を手にして青木鈴慕師について習い始めた。
多分、大学2年時に「春の海」を習ったと思う。この時はうれしかった。

先生宅は当時、新大久保駅で降りた「柏木」にあった。今の住居表示は北新宿であろう。

先生は人気で、夕方多い時は10人以上が稽古を待っていた。
1人10分としても1時間半以上待つのである。サラリーマンも来るので「学生は3時から早めに来なさい」と言われた。

二間をぶち抜いていたが、余りにも門下生が多く、ついに私が3年時だったか、代稽古として6畳くらいのタンス部屋でおじさんに「春の海」を教えたことがあった。

会社に入社して、友人や部下の結婚式には独奏で、親類などの結婚式などでは妻の箏との合奏で、何度演奏してきたか分からないほどだ。

尺八を手にしてから、如何に宮城道雄が凄いかが分かるようなってきた。
中学だけでは知りえなかった名曲がたくさんある。

好きな曲「春の海」は当然として、「春の夜」は素晴らしい。
NHK「邦楽のひととき」で演奏した箏・尺八二重奏曲「泉」も好きである。

その他「小鳥の歌」「春の訪れ」「比良」「花紅葉」「軒の雫」「和風楽」「遠砧」「高麗の春」「初鶯」「虫の武蔵野」「秋の調べ」「こおろぎ」「鈴虫」「三つの民謡調」「都踊」などを演奏して来た。

失敗した舞台もあり、様々な思いが頭をよぎる。

宮城道雄は編曲でも才能を発揮し、「尾上の松」の箏の手付けは秀逸である。
箏独奏曲の「手事」や箏と十七絃との「瀬音」なども好きである。

中学の音楽室  音楽

毎週土曜日の朝7時前に、NHKラジオで「サタデーエッセイ」の番組がある。

先日、南伸坊が話していたのが、中学の時の音楽教室に飾ってある、クラシックの作曲家達の肖像画の話であった。

通常は年代順に左からバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンと並んでいる。

私の記憶はここまでか。さらに作曲者名を南伸坊は続ける。

南伸坊は他人と変わっていて、バッハと同じ頃生まれた日本人は誰かと考えたと言う。
それが延々と続くのである。

我らの中学生の時ではそんな事は考えられなかった。ひたすら順番に覚えるだけだった。
面白いのはテストのための覚え方である。

古典派のバッハから頭文字を取って、「バっと、へが出る、ハイ、モー、ベンとう(弁当)」と覚えたのである。これはテストに有効だった。未だに覚えている。忘れられない。

これは級友が言っていた。皆さんはどのように覚えたのだろうか。

作曲家の年代を調べてみた。

バロックとして
バッハ(1685-1750)、ヘンデル(1685-1759)
(調べたところ、古典派のくくりでなくバロックになっていた)

古典派として
ハイドン(1732-1809)、モーツァルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827)

前期ロマン派として
ロッシーニ(1792-1868)、シューベルト(1797-1828)、メンデルスゾーン(1809-1847)、シューマン(1810-1856)、ショパン(1810-1849)、リスト(1811-1886)

後期ロマン派として
ワーグナー(1813-1883)、ヴェルディ(1813-1901)、ブルックナー(1824-1896)、ブラームス(1833-1897)、サンサーンス(1835-1921)、ビゼー(1838-1875)、ムソログスキー(1839-1881)、チャイコフスキー(1840-1893)、ドヴォルザーク(1841-1904)

南伸坊が言っていた同年代の日本人は忘れたが、筝曲家の八橋検校は1614-1685である。
八橋が亡くなった年にバッハとヘンデルが生まれたとすると、日本人も凄い。

八橋検校は「六段の調べ」や「八段の調べ」、「乱輪舌」を作曲した。

日本地図を作った伊能忠敬は1745-1818だから、ハイドンやモーツァルトの時代である。

中学で鑑賞する曲では「ツィゴイネルワイゼン」を作曲したサラサーテ(1844-1908)や、バレエ音楽「ボレロ」を作曲したラヴェル(1875-1937)がいる。


日本の有名な作曲家である滝廉太郎は1879-1903、山田耕筰は1886-1965、宮城道雄は1894-1956だから、ドヴォルザークより後に生まれた事になる。

尺八・琵琶を使って「エクリプス」や「ノヴェンバー・ステップス」を作曲した武満徹(1930-1996)の名前も挙げておこう。


ついでに、中学生の時に英語の曜日も面白く覚えた。
Sunday、Monday、Saturdayはそれぞれ、「すんだわい」「もんだわい」「さつう(砂糖)あーるでい」と笑いながら覚えた。


昭和の巨星墜つ  音楽

小林亜星がこの程亡くなった。88歳である。
彼は作曲家として歌謡曲やCMソングを数多く発表してきた。又、「寺内貫太郎」で役者としても活躍した。

彼の作品で思いが強いのは、都はるみが歌った「北の宿から」、幼児向けの「ピンポンパン体操」「あわてんぼうのサンタクロース」は流行った。

CMで印象深いのは「どこまでも行こう」「明治チェルシーの唄」そして、「日立の樹」であろう。
「日立の樹」は「この木なんの木」で有名だ。

本当に気になっていた木だ。そんな木を見てみたいと思っていた。

それが1988(昭和63)年のNCR米国流通業視察団でアメリカに行った帰りに、ハワイに寄る事が出来た。(サンフランシスコで視察団と別れた)

会社の先輩と二人でオアフ島に行き、ツアーを申し込んで、ラッキーな事に「この木」に遭遇出来たのであった。広い公園の中にあり、「モンキーポッド」と言う名前らしい。

CMでは1本の大きな木に見えるが、実際は周りに何本も生えており、そこだけをクローズアップしたようである。でも感激したよ。この木だったのかと。本当に枝ぶりが良かった。

先日、寺内タケシが亡くなった。82歳であった。
今はちょうど自宅待機中であらゆるYoutubeを聞きまくり、ザ・ベンチャーズなど何回も聞いていて、あっそうだ寺内タケシの演奏もと思い、「運命」「津軽じょんから節」などを聞いていたところである。

最近はどうしているのかなと心配していた。
彼のテクニックはもの凄く上手く、津軽三味線奏者もびっくりの演奏だった。ベートーヴェンが生きていたらさぞかしびっくりした事だろう。 

話はそれるが、ザ・ベンチャーズの有名な曲に「ダイヤモンドヘッド」がある。
上記のとおりハワイに行った時のツアーはオワフ島一周だったので、ダイヤモンドヘッドにも車で行った。

ところが行ってがっかり。中はクレーターで何も無かった。

日本にも三大がっかりがある。
いろいろな説があるが、札幌の時計台、高知のはりまや橋、長崎のオランダ坂らしい。
いずれも訪れたが、まさに行ってがっかりした所だった。

今度は6月21日に原信夫が亡くなった。94歳だった。
ジャズサックスの第一人者で「原信夫とシャープス&フラッツ」のバンドを率いた。

1967年ニューポートジャズフェスティバルに参加した時に、尺八の山本邦山をゲストに迎えて「尺八でジャズ」が人気となり、山本邦山も一世を風靡した。

原信夫は美空ひばりが歌った「真赤な太陽」も作曲して、その軽快な音楽は皆をワクワクさせた。

この曲は実は尺八にピッタリで、ライブやらで何回も演奏をした。
独奏でも演奏したが、飯田在住のギタリストK氏の伴奏での演奏は調子よく気持ちよかった。

昭和の巨星が次々に亡くなって行く。次は誰か?まさか○○か?

黒幕のユーフォニアム  音楽

先月の「題名のない音楽会」に、「地味な黒幕楽器」として、ビオラ、ファゴット、ユーフォニアム、チューバの4楽器が紹介された。

テレビでは「ラデッキー行進曲」を4人で演奏していた。ユーフォニアムは結構、高音域の主旋律を演奏しており、きれいな音だった。

地味ではあるが「黒幕」とは失礼ではないか。辞書によると「陰で指図をする人」とある。政界の黒幕は良いイメージでは無い。陰で支える楽器だ。

元NHK交響楽団の首席オーボエ奏者の茂木大輔氏によると、楽器により性格が分かるなんてえ本がある。ユーフォニアムの演奏者は総じて大人しい。表に出ず主役を引き立てる役だ。

尺八で言えば第一尺八のメロディー吹きでは無く、2尺管当たりの低音だ。

確かにトランペットは金管楽器の花形であり、クラリネットはオーケストラのバイオリンに代わるメロディー楽器である。

私は中学、高校の5年間ユーフォニアムを担当していた。
我々の頃は、ユーホニュームと称しており、小バスやバリトンの改良型である。

何故5年間かと言うと、中学2年時に父兄たちの寄付により楽器を購入して初めて「吹奏楽班」が出来たからである。(1年時は卓球班)

「吹奏楽班」に入るには、試験があった。簡単なリズムが黒板に書いてあり、それを両手を使ってリズムをとった。

担任の先生には「クラスの仕事をしてもらいたいから」と反対された。
友人はそれで諦めた(級長を務めた)が、私は「どうしても吹奏楽班に入りたい」と言って許可された。

楽器選びでは、小学生時にやった小太鼓をやろうとしたら、後輩がもっと上手かったので諦めた。

唇が厚めだから、トランペットはマウスピースから息が漏れてしまう。
クラリネットはリードが吹くときにくすぐったい。

ユーホ二ュームはマウスピースがやや大きく、すぐに音が鳴って、これだと決めた。
運命の出会いであった。ジャジャジャジャーン。

入班を諦めた友人も3年時には「吹奏楽班」に入り、トランペットを担当した。その友人とは高校も同級になって、一緒に「吹奏楽班」で活躍した。

彼は実は、飯田市の長昌寺の住職で立川談四楼とご一緒(私は尺八)の企画をしてくれた人である。

ユーホニュ―ムは中音域を担当する、本当に素晴らしい楽器である。吹奏楽にはあるが、オーケストラではほとんど見ない。それが非常に残念に思っている。

大学に入ってユーホニュ―ムは考えず、持ち運びが出来る尺八と決めていた。

高校を卒業して何年か経ったときに「吹奏楽班」に行って見た時、ユーホニュ―ムのピストンは3個から4個に変わっていた。

我らの頃は、アサガオ(ラッパ状)の部分が長く、大きく開いており、持つのにバランスが悪かった。持ち上げると重いし、膝に乗せると猫背になって姿勢が悪くなる。

中音域だと言ったが楽譜はへ音記号であるから、低音にはなる。
このへ音記号のお陰で、ピアノを弾いた時にスムーズに左手の楽譜が読めた。

チューバは大バスで、その中間の大きさに中バスという楽器もある。
行進する吹奏楽では見栄えのするスーザホンは大バスの改良型だ。

行進曲では、その低音域のグループが大概、ドソミドなどを繰り返し1拍目、2拍目を刻む。

その間にホルンなどが、ウンパウンパとやるのである。
分かったかな?

もちろんそれだけでは無く、対旋律という大事なメロディーを演奏する。
これが大事だ。

タイケ作曲の行進曲「旧友」における対旋律は、すごくきれいだ。
高音から滑らかに下ってきて、再び高音に上がって行く。言葉では難しい。
ぜひYouTubeで聞いて欲しい。

しかしそれだけでは無い、後半には、ちゃんと低音部が活躍する良いメロディーが用意されている。

中学、高校を通じてかなりの行進曲を練習してきた。
大概のメロディーを覚えているし、運指まで分かるくらいだ。

中学では「海兵隊」から「君が代行進曲」「軍艦マーチ」「立派な青年」などを練習した。

高校ではスーザ作曲の「忠誠」「ワシントン・ポスト」「雷神」「士官候補生」「エル・カピタン」「星条旗よ永遠なれ」「海を越える握手」「美中の美」など。

その他、「錨を上げて」「ボギー大佐」「史上最大の作戦」「国民の象徴」「ロレーヌマーチ」「双頭の鷲の旗の下に」。

タイケ作曲にもう一曲「ツエッペリン伯爵」があった。これも低音部の活躍が素晴らしい。ドイツらしく重厚だ。

日本人の作曲では須磨洋朔作曲「大空」やレイモンド服部作曲「コバルトの空」、古関裕而作曲「スポーツショーマーチ」など。(スポーツショーマーチはNHKのスポーツ番組の為に作曲されたそうだ)

前回の東京オリンピックは1964年で、私が高校1年生の時だった。
開会式の行進には古関裕而作曲「オリンピック・マーチ」が採用された。

名曲だが、我が高校は練習しなかった。当時のライバル校の飯田長姫(おさひめ)がかなり上手く演奏していたのを覚えている。

それでもユーホニュームで唯一花形だったのは、高校文化祭3年時での「ベサメムーチョ」のソロであった。

いきなり立ち上がり、メロディーを演奏する。一度も座らない。最後まで立ちっぱなしである。

最後にはカデンツゥア(即興的な完全なるソロ)があり、テクニック的にも難しいが、良く選曲してくれたと感謝している。

「飛躍」の思い出  音楽

「飛躍」の思い出と言ったところで、普通の人には分からないだろう。「跳躍」ではありません。

実はこれから述べる「飛躍」とは、久本玄智作曲の「飛躍」の事である。

長くなるので独立した文章にしたい。
私が大学3年生の頃、飯田市の箏の先生のおさらい会で「飛躍」を箏と合奏した。
その「飛躍」を又今、妻の門下生と合奏しようと言う話が出て来たのだ。

私の頭の中では年中「飛躍」のメロディーが鳴り響いている、と言うくらい印象深い曲である。ある程度は覚えている。

しかし、楽譜を探してみたら無い。発行元の出版社はもう無いと聞いていた。
仕方ないからYouTubeで他人の演奏を聴いて、楽譜を書こうかなと思ったくらいだ。

ところが救世主が現れた。琴古流楽譜を扱っている竹友社が販売している情報を得て、やっとこさっとこ手に入った。

解説では尺八、箏二重奏曲で洋楽のロンド形式。
快活な旋律によって飛躍の気分を表した曲。
近代的な感覚をもった曲で、特に若い人に喜ばれている。

しかし、作曲は1931(昭和6)年で、戦前であり、私は未だ生まれていなかった。

飯田市の箏の先生とは故駒瀬竹子先生である。当時で80歳くらいだったろうか。
知り合ったいきさつの話をしよう。

高校生の頃は自転車で学校まで通っていた。
自宅のある旧飯田市は段丘の上にあり、高校は段丘の下側であるから、行きは広い崖路をスピードを出して下りて行く。

帰りは大変だ、立ちこぎで行きの道を全部は上がれない。途中で横道を行くことになる。

飯田市は碁盤の目のような道路になっており、その後はどこの道を通っても自宅に帰る事が出来る。縦の道が坂になっており、横道はほぼ平らである。

ある時、仲之町なる道を通りかかった時に箏の音が聞こえて来た。高校時代は吹奏楽班だったので未だ尺八に興味はなかった。

ところが、大学に入ってなんと尺八を手にしたのである。
そこで夏休みに駒瀬先生宅を訪ねたのが始まりじゃ。

先ず大学1年生頃から、「六段の調べ」や「千鳥の曲」などの合奏をしてみた。
私が行く時には門下生の上手な人も呼んでくれて、夏休み、正月休み、春休みなど通った。

「ゆき」も先生と合奏したのを覚えている。
そして大学3年の夏休みだろうか、先生のおさらい会で「飛躍」を可愛い小学生とも合奏したのだ。

大学3年生の時は当時あった「太宰楼」の舞台で演奏して、終了後は記念撮影して、打ち上げ。

大学4年生の時は「三宜亭」で演奏と打ち上げを行った。先生から「あなたは学生さんだから、無料で良いよ」と言われた。ギャラは無くて7万円の接待では無い。可愛いものだ。

「三宜亭」では母も親類のおばさんも聞きに来てくれた。
地元の尺八演奏者もいて、酒を飲んだが「健康第一に気を付けてくれや」と言われた。

そのおさらい会で知り合った尺八の中川青童氏に誘われて、正月に市田(天竜川舟下りの出発点)のご自宅に伺った事がある。

当時は75歳位のお爺さんで、尺八の練習ノートを見せてくれてびっくりした。

上段に地唄の曲名が書かれており、その下側に練習した回数の「正」ちゃんマークがいっぱい書いてあったのだ。「八重衣」などかなりの練習回数であった。

正月だから酒、肴もいただいた。
話を伺うと、息子さんも尺八を演奏しており、「息子の残月の演奏テープだ」とカセットテープをいただいた。

驚いた事に箏が小林玉枝、三絃が井上道子だから凄いメンバーだった。
帰ってから何度も聞かせてもらった。息子さんは未だ私にとって見知らぬ人だった。

ところが、その息子さんに東京で7〜8年前に偶然縁があって、一緒に飲んだのである。
しかも、その時のテープをお返しをした。(本当は頂いた物だが)

聞いてみれば私の高校の先輩であり、ちょうど10歳年上だった。本当に不思議な出会いだった。

再び中川青童氏の話である。ほろ酔いかげんで中川宅を出たのだが、もうすっかり暗くなっていた。私の実家は街なかで街路灯がついて明るい。

しかし田んぼの中を通ってJR飯田線の市田の駅まで行くのに、月も明かりもほとんどなく、手探りでやっとこさっとこ市田駅に着いたのだった。側溝に落ちなくて良かったと思ったくらいだ。

東京に戻って当時の青木鈴慕先生に、たまたま何かの時に中川氏の話になり「中川さんは地元で邦楽を広めている大変な功労者だ」と褒めていて、先生までも知っていたとは、どこかで繋がっているのだと思った。

駒瀬先生は品の良いおばあちゃんで、カメラが趣味だった。
私が23歳の頃、つてがあって尺八の門下生が一人出来た。そのYさんも連れて夏休みに浴衣を着て駒瀬先生と合奏し、写真も撮っていただいた。

話がどんどんそれるが、合奏を終わって私の中学の同級生Mさんが経営する居酒屋に行った時の事である。

たまたま彼女に尺八を聞かせようと他のお客様に許可を得て、「仁義」などを演奏したところ、あるお客さんが言い寄って来た。
その人に、えらい褒められたのである。

聞けばT設計事務所の人で、元はテイチクだかのミキサーをしていたから、耳は確かであった。話が合って、ごちそうになり、その上「芸者置屋に行こう」と我々二人を誘い出し、ある料亭に行ったが、もう遅く皆帰ってしまったらしい。

大広間で女将さんと4人で世間話をして帰った。ドラマになりそうな、こんな事を思い出した。

駒瀬先生は趣味のカメラで展覧会をしたり、講演をしたらしい。地元の新聞に掲載された。
その頃、先生と年賀状のやりとりをしていたが、駒瀬先生が講演の最中に突然倒れ、そのまま亡くなったみたいだ。

その事が載った地元紙を母が送ってくれて知ったのだが、暮れも暮れ25日頃の事で、要領の良い先生はもう年賀状を私に出していたから、亡くなった先生から年賀状が届いたのである。

妻を連れて紹介をした後だったので、私が30歳過ぎの話である。合掌。

YouTubeで邦楽  音楽

YouTubeで邦楽の演奏がかなり増えてきた。
大先生達の貴重な映像などもアップされて、参考になる。

最近、藤本昭子の演奏を見た。かなりの数のアップで全てが素晴らしい。

藤本昭子は人間国宝だった藤井久仁江の娘である。(阿部桂子は祖母に当たる)

特に宮城道雄作曲「春の夜」は箏本手藤本昭子、箏替手塚本徳(めぐみ)、尺八田辺頌山の演奏には感激した。

この曲は名曲中の名曲だと思う。
塚本徳さんはNHK育成会で私と同期であり、私のリサイタルでは舩川利夫作曲「箏四重奏曲」の賛助をお願いしたし、木犀会では岩城弘子さんと共に「春の夜」を演奏した仲だ。

この曲を演奏会にかける時、青木鈴慕先生に習い「暗譜で演奏する」旨話したら、目の色を変え「いつ演奏会だ?」と演奏会に来ていただいた。それ程の曲だ。

田辺頌山は都山流の奏者だが、よく考えた演奏で所どころ琴古流の手である「ウ」を使用して陰にこもった音色を聞かせる。

速いところはチのメリのままで、その使い分けが素晴らしい。

それにしても誰か、尺八の稽古の映像を流してくれると、初心者には分かり易いだろう。

古関裕而と朝ドラ「エール」  音楽

作曲家古関裕而(1909年〜1989年)モデルのNHK朝ドラ「エール」が終了した。

朝ドラを最初から最後まで見たのは、初めてである。
最終回には感激した。NHKホールで出演者が古関のヒット曲を歌ってくれたのだ。

私の好きな「イヨマンテの夜」がやっとフルコーラスで聞け、「モスラ」「栄冠は君に輝く」「高原列車は行く」や「長崎の鐘」も聞けた。

ドラマは古関裕而と妻の物語で、窪田正孝と二階堂ふみが立派に演じた。

特に二階堂ふみは迫力ある、感情の激しい「音」役を演じたのは良かった。

ただ全編を見ての感想は、出演者の恋愛から結婚の場面が多すぎた。もう少し古関の曲を流して欲しかった。

今年はコロナの影響もあって撮影が減らされ、私が最大の興味を持っていた「オリンピックマーチ」の作曲場面や、国立競技場でのオリンピック開会式の模様があまりにもあっけなかったのは残念だ。

改めてYouTubeで「オリンピックマーチ」を聞いたが、名曲だ。

NHKの「ビッグショー」を見たところ、作曲家の服部良一も出演していて「マーチじゃ古関さんにはかなわない」と言わしめた。

NHKのスポーツの番組では必ずテーマ曲として「スポーツショー行進曲」もおなじみだし、昔買った行進曲のレコードには軍歌「若鷲の歌」なども、マーチに編曲されてた。

服部良一も「青い山脈」などの名曲がある。

それにしても古関裕而が作曲にあたり、ピアノなどの楽器を使わないで作曲したことには驚嘆した。天才は頭の中で曲が出来上がっているらしい。

気に入ったドラマや映画が終了すると、寂しさで○○ロスとか言うそうだ。
私も朝ドラロスになったみたいだ。

芸能人・作曲家の死亡  音楽

「僕は泣いちっち」を歌った守屋浩が9月に81歳で亡くなった。
1959年のヒット曲だから、私が11歳の時である。

この曲は大学の同級生の親友の十八番だった。「〽僕の恋人東京へ行っちっちーーー」
新潟県出身の彼と、長野県出身の私とは気が合った。

二人は共有する思いがあったのか、上京してこの歌に魅せられた。彼とは疎遠となったが、何故か思い出される。

今度は10月7日、作曲家の筒美京平が80歳で亡くなった。
ヒット曲は「ブルー・ライト・ヨコハマ」「また逢う日まで」「さらば恋人」「魅せられて」他多数ある。

私のバカ話である。当時会社勤めで会社の慰安旅行があり、私が幹事で120名をバス4台に乗せ熱海方面へ行った。その時の宴会は私が司会で、余興は各店(スーパー)の対抗であった。

私は総務部の代表として、「ジュディ・オング」の「魅せられて」の物まねをした。

歌はカラオケで部下の若い女性が歌い、衣装は総務のおばさんがレースで、それらしく作ってくれて、当日は口紅も付けて華麗に(?)舞い、踊った。

そして見事に優勝したのである。証拠の写真もある。とても他人には見せられない。

そのまま舞台から会場内に飛び降りて、駆け回ったところビールまで浴びせられた。苦い思い出である。

今年はベートーヴェン生誕250年でNHKの「らららクラシック」などで特集している。
私はクラシック音楽の中でベートーヴェンが一番好きである。

彼の不屈の精神に共感する。
交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ独奏曲など数多くあるが、何といっても私は交響曲の「田園」が好きである。

二番目は「エグモント」序曲、三番目が「運命」、四番目は「第九」、そして「英雄」である。

大学生の頃「田園」のレコードとスコアを買って、田舎でステレオを聞きながら指揮者の練習をした程である。これを聞くと高校生までの田舎を思い出す。一度はオーケストラを指揮してみたいな。

「エグモント」序曲は私が高校生の時、ブラバンのライバル校の当時「飯田長姫高校」が女子高校の文化祭で演奏をした。これを聴いたときに、凄くかっこいいと思った。未だに好きで時々、YouTubeで聞いている。

「運命」は何と言っても最初の「ジャジャジャジャーン」である。譜面では最初は休止符で始まる。その切迫感が凄い。

しかし、ベートーヴェンの曲は「しつこい」。特に運命は、終わったようでなかなか終わらない。




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