北原鈴淳尺八教室in八王子  音楽

  
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  指導者  鈴慕会 大師範

            
            北 原 鈴 淳







音楽歴  
長野県飯田市立追手町小学校5〜6年で器楽班に入り、小太鼓を担当。

東中学校2年から飯田高校の吹奏楽班でユーホニュームを担当(5年間)

大学の三曲研究部で琴古流尺八を始め、故二代青木鈴慕・人間国宝(2018年8月21日死去)に師事
      
1972(昭和47)年1月 浅草国際劇場の「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」 で10日間「仁義」「盃」「誠」を尺八伴奏
      
1976(昭和51)年 渋谷東邦生命ホールで尺八リサイタル
曲目「みだれ」「一定」「箏四重奏曲」「詩曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」

1991(平成3)年 NHKFM放送「邦楽のひととき」
に「明治松竹梅」出演
その後も「末の契り」「泉」など出演

      
2007(平成19)年 北原尺八教室をめじろ台に開設

2016(平成28)年、芸歴(芸道・竹道)50年を迎えた

稽古場 東京都八王子市めじろ台2丁目
      (京王線めじろ台駅徒歩6分)
     
      電話 042−668−1278
(お問い合わせは午前8時〜午後8時まで)

稽古日 日曜日・月曜日・火曜日・木曜日(午前10時から午後5時までの予約制)        
    ご希望により他も可能な日(午前中など)があり、ご連絡下さい。
月謝   
月2回、5000円 (1回約50分間)
月3回、7000円 (1回約50分間)
月4回、8500円 (1回約50分間)
ワンレッスン、3000円 (約1時間)

その他、ご希望により特別ワンレッスン2時間を設けます。(5000円)

入門料 3000円(ホームぺージご覧の方は半額の1500円)
      入門者には自費出版のCD1枚差し上げます。

初心者から対面式で一人一人指導します。まずは基本の音出しから。
 古曲を中心に宮城曲、現代邦楽、歌謡曲までご希望にも応じます。

琴古流本曲 三谷菅垣・雲井獅子・虚空鈴慕・鹿の遠音 など

地唄筝曲  黒髪・千鳥の曲・笹の露・残月・八重衣 など

宮城曲   春の夜・春の海・初鶯・泉・虫の武蔵野 など

現代邦楽  風動・詩曲・一定・萌春・出雲路・箏四重奏曲 など

その他ご希望により 童謡・唱歌・歌謡曲(著作権法に触れない曲)など

体験レッスン 500円(約60分) ご予約ください

初めての方には、安価な樹脂製の尺八「悠」(¥11000+税で、良く鳴ります)を取り寄せます。竹製欲しい方は、別途ご紹介します。
取りあえず、貸し出し用のプラ管あります。

練習の状況により箏や三絃と時々合奏練習をして、年に一度は稽古場でおさらい会をします。

1976年北原康夫尺八リサイタルより、
杵屋正邦作曲・尺八独奏曲「一定」(いちじょう)が聞けます。
長澤勝俊作曲
「独奏尺八のため詩曲」
上記、青色線をクリックしてください。

金曜日・土曜日は箏・三絃教室も開いています。
こちらのホームページをご覧ください。
http://ivory.ap.teacup.com/koto8/


近況と雑感(10/22) 

「僕は泣いちっち」を歌った守屋浩が9月に81歳で亡くなった。
1959年のヒット曲だから、私が11歳の時である。

この曲は大学の同級生の親友の十八番だった。「〽僕の恋人東京へ行っちちーーー」
新潟県出身の彼と、長野県出身の私とは気が合った。二人は共有する思いがあったのか、上京してこの歌に魅せられた。彼とは疎遠となったが、何故か思い出される。

今度は10月7日、作曲家の筒美京平が80歳で亡くなった。
ヒット曲は「ブルー・ライト・ヨコハマ」「また逢う日まで」「さらば恋人」「魅せられて」他多数ある。

私のバカ話である。当時会社勤めで会社の慰安旅行があり、私が幹事で120名をバス4台に乗せ熱海方面へ行った。その時の宴会は私が司会で、余興は各店(スーパー)の対抗であった。
私は総務部の代表として、「ジュディ・オング」の「魅せられて」の物まねをした。

歌はカラオケで部下の若い女性が歌い、衣装は総務のおばさんがレースで、それらしく作ってくれて、当日は口紅も付けて華麗に(?)舞い、踊った。そして見事に優勝したのである。証拠の写真もある。とても他人には見せられない。

そのまま舞台から会場内に飛び降りて、駆け回ったところビールまで浴びせられた。苦い思い出である。

今年はベートーヴェン生誕250年でNHKの「らららクラシック」などで特集している。
私はクラシック音楽の中でベートーヴェンが一番好きである。

彼の不屈の精神に共感する。
交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ独奏曲など数多くあるが、何といっても私は交響曲の「田園」が好きである。
二番目は「エグモント」序曲、三番目が「運命」、四番目は「第九」、そして「英雄」である。

大学生の頃「田園」のレコードとスコアを買って、田舎でステレオを聞きながら指揮者の練習をした程である。これを聞くと高校生までの田舎を思い出す。一度はオーケストラを指揮してみたいな。

「エグモント」序曲は私が高校生の時、ブラバンのライバル校の当時「飯田長姫高校」が女子高校の文化祭で演奏をした。これを聴いたときに、凄くかっこいいと思った。未だに好きで時々、YouTubeで聞いている。

「運命」は何と言っても最初の「ジャジャジャジャーン」である。譜面では最初は休止符で始まる。その切迫感が凄い。しかし、ベートーヴェンの曲は「しつこい」。特に運命は、終わったようでなかなか終わらない。

門下生の皆さんへ

尺八の練習が出来なくても、楽譜を見ることでイメージが沸き、演奏がスムーズにいきます。
夜でも尺八を取り出して、音は鳴らさずとも口に構えて、練習できます。

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昔取った杵柄 そのA  音楽

私が生まれ育った信州飯田の実家は、私が高校受験までテレビが無かった。
それまではラジオを聞いていた。

中学生の頃、ビクターの横幅が広いステレオをやっと買った時の衝撃は今でも覚えている。
視聴盤をもらい、蒸気機関車が汽笛を鳴らしながら走って来るのだが、はっきりと左のスピーカーから段々大きな音になって、「シュッシュポッポ」と右側のスピーカーに通り過ぎて行ったのだ。

迫力満点で、すっかりうれしくなった。
その時は中学でブラバンに入っていたので、陸上自衛隊中央音楽隊のマーチやアメリカのミリタリーマーチのレコードを買い、頻繁に聞いた。

祖父は三波春夫が好きだったので民謡レコードを買い、これも良く聞いたものだから、曲をそらんじる事が出来、その後の民謡尺八につながっている。

視聴盤には「アイーダ」など色々あったが、中でも「べサメ・ムーチョ」が原語で歌われており、何となく覚えた。
新宿で商売している頃、スペイン語関係のお客さんが来た時に、実は「ベサメ・ムーチョ」がめちゃくちゃ歌える旨を話して歌ったところ、大体発音があっていると言われた。

話は戻すが、夕食後のNHKラジオ「一丁目一番地」などを、ラジオにかじりついて聞いていたのを思い出す。
「さえこ」さん役の黒柳徹子は上手く、面白かった。

テレビを買ったのは高校一年生の1964(昭和39)年の東京オリンピックに合わせてで、感激した。

テレビは歌謡曲中心に見ていたのだが、やがてエレキギターブームとなる。
御多分に漏れず、私もギターを弾きたくなった。

隣のおじさんは「湯の町エレジー」「影を慕いて」をきれいに弾いていた。
それに触発されて、父にギターを買ってもらった。

父行きつけの「古道具屋」だと思うが、音楽に詳しくない父は中古の「スチールギター」を買ってきた。

隣の息子は私の小学校と高校生の同級生で、彼もギターをやって、「テケテケ」もやった。
ベンチャーズの「ダイヤモンドヘッド」や「パイプライン」などである。
「歌謡曲」の楽譜も買い、「湯の町エレジー」「影を慕いて」も練習した。

1966(昭和41)年、ついにNHKで阿部保夫のギター教室が始まった。

そのテーマ曲にすっかり魅せられてしまった。ソル作曲で今でも覚えている。
その曲をずっと探していたのだが、最近やっと見つける事が出来た。

それはソル作曲「魔笛の主題による変奏曲」でYouTubeでやっと聞けた。

上京して大学生になるとガットギターを購入して「カルカッシ教則本」で基本の練習をした。
大学の同級生にスペインギターに入った友人がいて、一緒に「禁じられた遊び」や「アルハンブラの思い出」も練習した。

めじろ台に引っ越して来て、「もう弾かない」と処分してしまったが、最近また弾きたくなったので困っている。

めじろ台にはプロの小川和隆氏が住んでおり、何回か聞きに行った事がある。
引っ越して間もなく、尺八の橋本竹咏(鈴慕会の時の後輩)と小川氏の演奏会も聞きに行った。

小川氏は小原聖子の弟子であり、私が飯田市のライブでギターと合わせた桑原利彦氏と同門だった。
私も体験レッスンでギターを一回習い、その縁で一緒に食事がてらビールを飲み交わした。

彼は10弦ギターを使用しており、やはり「禁じられた遊び」や「アルハンブラの思い出」をいい音で聞かせてくれる。 

お弟子さんのおさらい会にも行ったが、皆上手い。11月にも発表会をするそうだ。

また、YouTubeで村治佳織などを聞いていると、本当にしみじみする。

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昔取った杵柄  音楽

自宅にいる時はYouTubeで良く音楽を聴いている。
邦楽から吹奏楽、オーケストラ、ピアノなど、何でも聞くうち自分もピアノを弾きたくなった。

現在ヤマハのアップライトピアノが自宅2階にある。
それはつきみ野にいる頃、家内の友人Mさんが使っていた中古を買ったのだ。
一般的な黒色でなく、木目が美しくいい音がして時々弾いていた。

12年前、家内の両親と2世帯同居する時に、義母の古いピアノを処分して、そのピアノを2階に置いたのだ。
義母はシルバー教室でピアノ練習しており、発表会ではかなり難しい曲を弾いていた。

「子犬のワルツ」や「ノクターン」など弾きこなしたから、私より上手い。
したがって同居してからは義母がピアノをほぼ独占していた。

私の娘も弾きたかったので、別に電子ピアノ「KORG」を購入していた。

2年前に義母は亡くなり、今度は娘がアップライトピアノを弾くので、電子ピアノは使用していなかった。
そこで今度はいよいよ私が弾きたがったのである。

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(置いてある楽譜はモーツァルトのピアノソナタNo11 K331)

実は独学で昔ピアノを弾いたことがあったので、またソナチネや「エリーゼのために」「乙女の祈り」を練習しだした。昔取った杵柄である。

バイエルもそうだが、若いうちに覚えたものは今でも出来るから不思議だ。

母は音楽好きで実家には「オルガン」があった。
ペダル式で、それでも「フルート」とか「チェンバロ」などの7個のレバーがあり、手前に引くと色々音色が変わって面白かった。

かなり貴重なリードオルガン(三省堂製)で、今ではどこかに保存されていると聞いた。

調べてみると三省堂が長野県の海保オルガンに、明治から大正にかけて作成依頼したようだ。
小学校の教室にあったオルガンより立派であったが、ソナチネなどを弾くようになったら高音の鍵盤が少なかった。

私が最初にオルガンを弾いたのは、小学校6年生時の音楽会で「金婚式」だった。
パート譜を母に教わって、どうにか演奏会で弾けた。

その頃、小学校の昼休みに音楽教室にあったピアノで「ねこふんじゃった」を弾いたりしていたところ、音楽の担当先生に「黒鍵ばかり弾いているとピアノが壊れてしまう」と注意された。

その音楽担当の先生は、山中先生で実はすごい先生だったのだ。
全国NHK合唱コンクール小学校の部で、わが追手町小学校は全国優勝した時の指揮者をしたのである。昭和31年度の課題曲「わかいおじさん」で、逆算すると私が小学2年生だった時である。

2重唱の曲で、よく母に歌わされ?二人でハモった。私が高音、母は低音だった。
母が90歳の頃、認知症になり「わかいおじさんを歌わまいか」と言ったら、忘れて悲しくうつむいていたのが、気の毒だった。

何年か前、西新宿で自営業の時、突然NHKラジオで追手町小学校の「わかいおじさん」が流れてびっくりし、そして感動した。
今YouTubeで聞けます。

姉は小学校の担任に習い、妹は高校の音楽の先生について習った。
私は妹の演奏している曲に興味を持ち、やたらと練習していた。

「バイエル8番」の生徒が妹で、先生が母の連弾がうらやましく、私も練習した。
「ドミドミ ソドドド レレレレ」という曲である。

高校生の頃は「バイエル」から「ソナチネ」を独学で練習していたが、自宅は商売をしており、お客様が来てもガンガン弾いていたので父には「うるさい」と怒鳴られた。

しかし母は成長を楽しんでいたのか、一言も文句は言わなかった。
荒々しくペダルを踏むもんだから、よく布部分が破れて、母は頻繁に修理していて大事に使い、処分の話が出ても頑として受け付けなかった。

しかし最終的には実家の建て替え時に処分して、その後母は電子ピアノを購入した。

高校では吹奏楽班に属しており、練習は「講堂」であった。
講堂には古くて音程の悪いピアノが一台置いてあり、それを休憩時にソナチネ1番などを良く弾きだした。

それを聞いていた同期の友人は「その曲を聞いたら、将来きっと君の事を思い出すよ」と言われたが、昨年電話した時にそんな話もしたのだった。

そんなおんぼろピアノだったが、実はそのピアノは1902年ヤマハ製だった。
2000年に飯田高校創立100周年記念式典があり、その時にそのピアノを修復してピアニストが演奏を披露した。とにかく大変貴重なピアノだったらしい。

写真にあるモーツァルトピアノソナタ11K331の楽譜は、中学で音楽の時間に聞いた曲だ。
テーマと5つの変奏曲、3楽章は有名な「トルコマーチ」である。

つきみ野にいる頃、家内は第1楽章は弾いていた。(若い頃は習っていた)
それを聞いて発奮して挑戦してみた。ろくに出来ないのにトルコマーチまで触ってみた。
私は基礎が出来ていないから出来る訳がない。

しかしYoutubeでプロの演奏を聴いていると、いとも簡単に弾いているので、なんか出来そうな気がするのである。

モーツァルトピアノソナタK545など、ピアニストのラン・ランなんて素晴らしい。
彼は5歳の時ピアノリサイタルで弾いたそうだ。まさに天才だね。

私が弾くと指が突っかかってばかりで、家内に笑われる。

バッハ、ショパン、シューマン、ドビュッシーなどの高尚な楽譜があるが、私はやはりソナチネやモーツァルト、そして「詩人と農夫」も弾きたい。
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「春の海」幻想  音楽

正月は箏と「春の海」の合奏練習をした。やはり「春の海」は良い曲だ。
まだまだしばらくは自信を持って、この曲が演奏出来そうだ。

「春の海」で思い出したが、図書館で「週刊文春」を見たところ、哲学者でコラムニストの土屋賢二が「春の海」の題でコラムを書いていた。

何しろ数十年前の20歳台の話だが、母が箏の先生で、正月に「春の海」を演奏する事になった。
当時リコーダーしか演奏したことがなかった土屋氏が、500円の尺八を買って数週間猛練習をして、本番の舞台に立った。

しかし、音が出ない。ヒューヒューなるだけで、必死に吹いたが最後までヒューヒューだったと言う。実に可哀そうな話で、その気持ちが良く解るのである。今だから笑える話で、尺八吹きなら皆経験している。

そもそも私が尺八を始めたのは中学校の音楽鑑賞で「春の海」を聞きすごく感動して、いつかは尺八を習いたいと思っていたからだ。

その時のレコードは箏の宮城道雄とバイオリンのルネ・シュメーだった。
尺八は吉田晴風、フルートは吉田雅夫も演奏して世に広めた。

ごく最近まで神社や百貨店内で流れる「春の海」のほとんどは、箏宮城喜代子と尺八は二代青木鈴慕であった。

我々は中学の授業で聞いたのだが、娘達は小学校で鑑賞している。

私は大学に入って尺八を始め、「春の海」はおさらい会や結婚式、田舎でのライブなどで演奏して来た。

ところで表題の「春の海」幻想だが、宮城道雄作曲「春の海」をモチーフに牧野由多可作曲「春の海幻想」という曲がある。

数多くの尺八演奏家が舞台で演奏している。
ある演奏会のパンフレットに牧野が「もし宮城先生が生きておられたら褒めてくれるかな」と書いていた。

手元に楽譜はある。練習していつか演奏したいと思っている。
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津軽三味線 輝&輝  音楽

7月14日(日)ラドンナ原宿で行われた津軽三味線デュオ「輝&輝」(キキ)のライブに行って来た。
ラドンナ原宿はミュージックレストランで、原宿にある。

家内、娘と行ったのだが、新宿で軽く昼食を取ってしまい失敗したと思った。

ラドンナは食事を取りながら演奏を聴くライブハウスで、他人の食事が美味そうだったのだ。
我々は、コーヒーなどで済ましたので、私は反省をした。

ライブは12時から始まった。輝&輝は白藤ひかりと武田佳泉(かなみ)の2008年結成のデュオで、共に数ある津軽三味線のコンクールで優勝の経験のある、若手実力派の演奏家である。

最近は売れっ子で、毎日のように演奏会があるし、NHKテレビ火曜日の「うたコン」にも出演していたから知っている人もいよう。

今回は武田佳泉の「三十路祭」と題して、30歳をお祝いしての演奏会だった。


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不思議な縁であるが、私は9年前に通りすがりの新宿西口広場で、白藤ひかりの津軽三味線を聞いていたのである。


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2010年、これが偶然私の携帯で撮った写真で、いずれ出て来る人だと大事にしていた。したがって私は9年振りに彼女に会った事になる。
その上、娘が何年も前から輝&輝のライブに行っていたのだった。

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そんな縁で行って見ると会場は満席。もちろん我々は1か月前に予約をしていた。

第一部は民謡を中心として、津軽じょんから節や、熊本出身の民謡歌手「平山美里」を迎えて、おてもやんを聞く。可愛くもあり、美声である。

輝&輝の色違いの浴衣も良いし、太鼓まで交互にたたいていた。

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こちらのゲストは民謡の「先生」と呼ばれていた、梁川氏(NHK出演者名鑑によると福士豊桜)で斉太郎節を、きれいな透き通った高音の声で、上手に歌った。

今度、私もカラオケ店で歌おうと思う。

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第二部は服装も洋装のドレスに変わり、ピアノ、パーカッションも交えてノリの良い演奏をした。

武田佳泉の誕生日祝いにとメンバーがメイプルウィスキーをプレゼント。「うれしい」とだきしめる。

修了後は白藤ひかりさんと面識のある娘は話をしたが、私も「9年前新宿の西口広場で聞きました」と喜ばせた。

♪♫♩♭♯♮♪♫♩♭♯♮♪♫♩♭♯♮♪♫♩♭♯♮(音楽の記号)以下話が変わっていきます。

ところで私は津軽三味線と縁が深い。かなり演奏会を聞きに行っていた。

津軽三味線と言えば初代高橋竹山(1910年〜1998年)で、私が20歳台の頃、渋谷のジャンジャンで脚光を浴びていたので、レコードを購入し当時、川崎市のアパートで毎日出勤の前に聞いていた程である。

竹山は北島三郎の「風雪ながれ旅」のモデルであるし、映画「竹山ひとり旅」(林隆三主演)はDVDを借りて見た。

昨年、映画「津軽カマリ」(カマリ=匂い)を見たが、初代高橋竹山とその弟子たちの話や演奏が聞けた。
二代高橋竹山がメインで出演しているが、彼女が竹与を名のった頃からの知り合いである。

当時、尺八を教えていた預かり弟子の親類が竹与さんで、大和市つきみ野に住んでいる頃、自宅にいらっしゃった。

その竹与さんに未だ小さかった娘が、だっこされた写真もある。

そのおかげで、初代高橋竹山と竹与さんの演奏会を新宿厚生年金会館で聞いたのは貴重だった。
竹山の話す津軽なまりが懐かしい。

津軽三味線は叩き三味線と弾き三味線があるが、竹山は弾き三味線である。
野太くも繊細なきれいな音色で、感動した。

竹与さんは二代高橋竹山を許され、渋谷ジャンジャンでの演奏会を聞きに行ったし、CDもいただいた。

津軽三味線の大御所は、木田林松栄(?〜1979年)、三橋美智也(1930年〜1996年)、山田千里(1931年〜2004年)、沢田勝秋(1944年〜)などがおり、若手では木乃下真一(1965年〜)、上妻宏光(1973年〜)、踊正太郎(ようしょうたろう)(1977年〜)、吉田兄弟らがいる。

踊正太郎は全国大会で優勝もしているが、つきみ野の町内のKさん宅の敷地内に「やまぼうし」なるプチホールを作った時に聞きに行った。

さらに女性デュオの「あんみ通」がいる。1999年結成。
安仲由佳と金田一公美である。

公美ちゃんは私の大学の先輩M氏の仲間の金田一氏の姪で、最初は大田区のアプリコホールに聞きに行った。

(M氏とは不思議な縁で、大学生の時に長野県の寮に入っており、その時の先輩でもある。2006年には稲荷町龍谷寺で、柳家福治の古典落語勉強会をM氏が企画した時に私は、尺八演奏を頼まれて何曲か演奏をした。その時は他に相撲甚句、かっぽれの踊りなども出演して、打ち上げもご一緒出来た)

津軽じょんから節やテイクファイブ、オリジナルまで演奏。公美ちゃんは歌も上手い。

次は渋谷クラシックス、そしてめぐろパーシモン、お江戸日本橋亭まで聞きに行った。
毎回ゲストが変わり、箏や笛、長唄三味線も楽しめた。

さらに演奏会後はM氏や金田一氏らと飲み会で、楽しさは倍増した事は事実だった。

六本木のバーでは尺八のゲストが私ではなく、ブルース・ヒューバナー氏。
彼は芸大出で上手く、二代青木鈴慕師にも習ったと言う。
休憩時に話を聞いたところ、青木先生は「厳しいね」と言って笑っていた。

知り合った金田一氏からあんみ通のCDを2枚もいただいたし、私が西新宿の印章店を経営していた関係で、年賀状の印刷を何年も承った。
さらに、公美ちゃんの母から封筒の印刷を何回か頼まれた事もある。

上妻宏光は「題名のない演奏会」に良く出演するし、サントリーホールで藤原道山の尺八リサイタルで共演したのを聞いた。誠に器用である。

公美ちゃんと上妻氏は同じ先生に習ったそうで、そんな関係か、私の店に奥様が見えて、シャチハタネームの特注をされた。

「上妻」と聞いて私は条件反射で「あの津軽三味線の上妻さんですか?」と。

こうした縁も尺八をやっていたお蔭である。
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カラオケ店  音楽

このブログを書きだしたのは平成で、完成が令和とは。

若い頃は「スナック」でカラオケを楽しんでいた。

会社勤めの頃は一次会で飲んだ後、二次会でよくスナックに行きカラオケで歌を歌った。
ある所では店内の音響機器で「カセットテープ」に録り、その場で聞かせてもらったが、私の歌はヘタで二度と聞きたくはなかった。

その後、自営業をしていた新宿では、新宿駅西口のパレットビルにあった「日本海庄や」が経営するカラオケ店「歌うんだ村」の会員になり、何回か通った。

ある時、友人と「日本海庄や」で飲んで同じフロアの「歌うんだ村」へ行こうと思い、飲み会の前に予約をしておいた。飲み会を1.5時間として1.5時間後にカラオケの予定だった。

ところが「日本海庄や」でコース料理を頼んでしまった為、混んでいたようで、最後の料理が来ない内にカラオケの時間になってしまった。仕方ないから理由を言って代金の精算をして、あわててカラオケに行った事があった。

そこには何回か通ったが、会員カードは作って1年で有効期限が来てしまう。そこは期限が切れても無料で更新出来た。

その後に新宿西口では「カラオケマック」を見つけて会員になった。
ここには随分と通った。何しろ24時間営業だから、いつ行ってもカラオケが出来るし、いつも割引券をくれるので安い。

私一人で行くときには尺八を持参して2時間予約して、最初の1時間はたっぷり歌を歌い、残りの1時間はカラオケで尺八演奏するのが常だった。

何回も友人などを連れて行った事があるし、飲んだ後にも小1時間歌う事もあった。

私は今現在、歌うリストを作り、それによって選曲をしているから効率が良い。
一人なら恥ずかしくないと時々採点してみると、最高で三橋美智也の「古城」が91点だった。

よくテレビでカラオケバトルを見るが、99点とか、中には100点も出るからすごいね。
新妻聖子は本当に上手いと感心するし、感動する歌手だ。
最近では吉木りさが、タレント部門で優勝したが、小さい頃から民謡で鍛えていた。やはり基礎が大事で、音程、リズムの正しさが必要だ。

カラオケ店で自分一人だとマンネリしてきて、若い人と一緒だと「ミスチル」などの知らない曲を歌われるので新鮮だ

新宿の自営業をやめてから自宅近くを探したところ、高幡不動駅近くに「歌うんだ村」を見つけた。

ここで又新規に会員になり、カードを作製したが、すぐに店名が「ファンタジー」に変更になった。しかし、カードはそのまま使用できる。

何回か通ったが、今度は少し足を延ばして、西八王子に行ってみたところ「シダックス」を見つけた。
会員になり二回ほど通ったところ、昨年「カラオケ館」に変わってしまった。
そのまま会員カードは使用できるらしいが、八王子に行った時に「カラオケ館」を見つけて、そこでも会員カードを作製してしまった。

それでいて今度は西八王子に「カラオケの鉄人」を見つけた。ここも結構安い。
三か月以内の特別優待割引券があるので、早く行かなくっちゃ。

従って、会員カードが五枚もある。

そうした中、4月に王子で尺八演奏会があった時に門下生二人と聞き終わった帰り、「カラオケマック」を見つけ、会員カードと割引券を示して3人で1時間程歌いまくり、居酒屋で喉を潤した。

Yさんは私が23歳の時に教えた門人であり、飲む方だけは継続している。一方、E君は今23歳だから奇遇である。

若い人の歌は元気が良い。「ミスチル」など難しくて、とても歌えない。やはり私は演歌で勝負だ。

カラオケ店では某落語家は、門下生に落語を教えるのに良いとか。尺八の練習にも良い。
近所迷惑にならないところが良い。

余談であるが、3月飯田市で所用があった折に、高校同級生T君を呼び出しスナックでカラオケを楽しんだ。

彼は飯田市でフォークグループ「夕顔」を結成して活躍しており、彼の楽歴40周年記念コンサートに私は招待されて、彼らのオリジナル曲に尺八の伴奏を入れたり、尺八の独奏を演奏させていただいた。

「夕顔」は長野県大会で優勝した事もある実力派で、T君はギターのコードを弾き、歌ももちろん上手い。

そんな縁で呼び出したのだが、もう一人カラオケ好きがいた。O君は高校同期生ばかりか、実は小学校の同級生だったのだ。随分前、高校同期会の二次会のスナックで偶然会い、カラオケが上手いと知ったのでついでに呼び出した。

私も何回か行った、T君行きつけの飯田駅前のスナック「信濃路」へ向かった。
一足早く私が地下一階の店内に入ると10人位の人に「ワー!」と歓迎を受けた。
どうやら、T君が前もって言ってくれたようで、全員が常連さんだった。

やがてT君、O君も来て、早速私はカラオケで尺八を手にして「仁義」でご挨拶をした。
1番を尺八で2番を歌で歌ったところT君は「歌はいいよ」と言われてしまった。

T君は主にフォークを、O君はムードあふれる選曲で、かなり盛り上がった。
お客さんは81歳から85歳が元気いっぱいに歌っていた。

「信濃路」は石原裕次郎を心酔するお客が多い。マスターがそうであるし、マスター自身裕次郎の歌も上手い。

そう思って裕次郎の「北の旅人」の尺八楽譜を持参したところ、運よくT君が選曲したので、あわてて尺八を出して合わせたところ、キーがぴったりでむしろ私がびっくりしたくらいだった。

しばらくするとO君が「いいマイクがある店に行こう」と言いだし、近くのスナックTに移った。
そこは凄かった。画面が4カ所もあり、音響が素晴らしかった。
ママが美人で歌が凄く上手く、O君とデュエットでハモリ、まったくうらやましかった。

O君とは小学校の一度だけの同級会で会ったり、中学、高校同期会で会う事はあったが会話は余り無く、こうして親しくカラオケや話が出来たのは幸いだった。

最後に3人で「快傑ハリマオ」を交代で歌ったのが圧巻であった。やはり同時代に生きた証である。
心残りは、私もフォークを歌ってT君とハモリたかったとT君にメールした。
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北島三郎と高尾山  音楽

2月3日は節分で、各地では豆まきをしており、毎年北島三郎ファミリーは高尾山薬王院で豆まきを行っている。
私は3年前の高尾山薬王院の節分の豆まきに行ったので、今回は混むだろうから翌日の4日高尾山に登った。

天気よく、都心では20°C近くまで気温が上昇した日である。

京王線めじろ台駅から高尾山口駅までの往復切符と、リフト往復付きで980円だった。

リフトの清滝駅前には北島三郎の銅像が鎮座する。

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再三ブログに書いているが、私が23歳の時に浅草国際劇場で「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」の尺八伴奏を10日間務めた。あれから47年経っているが、今日まで「さぶちゃん」が第一線で活躍されているのが嬉しい。

豆まきの喧騒を逃れた翌日の10時前にリフトに乗ったが、ガラガラだった。

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北島三郎は杉苗の大口奉納者である。

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前日の豆まきには、大相撲初場所で優勝した「玉鷲」や、北島ファミリーの原田悠里、北山たけし、大江裕が参列したようだ。

北島三郎本人は息子さんの喪中につき欠席だった。

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薬王院の境内に入ると、手水舎のすぐ左に北島三郎が歌った「高尾山」の石碑があり、右下の手形に手を当てると、歌が聞こえてくる。私は薬王院に来る度に手をかざして聴く。

少し藻が発生して、汚れが出て来たのが残念だ。

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こちらは「若いお巡りさん」の石碑で、作詞者の井田誠一は八王子出身である。
この曲は私が小学生の頃(1956年曽根史朗歌)流行っていた曲だが、今の若い衆は知らないだろう。
調子の良い曲だから、一番だけならそらんじて歌える。

境内では携帯用ストラップを買う予定があった。
実は最近、携帯電話を買い替えたのだが、以前薬王院で買ったストラップが古く、ヒモが切れそうになっていた。

それは「無病息災」を願う、無病にかけて「六びょう」(6個のひょうたん)である。気に入っているから同じ物を求めた。(昔、親父も自宅に本物の大きなひょうたんを飾っていた)


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ゆっくりと新鮮な空気を吸いながら、頂上を目指した。
高尾山頂の標(599.3m)は3年程前に見た時はきれいだったが、今では銅板の汚れや、下側のペンキがはがれてみっともない。

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富士山は最近では良く見えた方だ。最初は11時頃見たが雲がかかり、昼食を済ませた後、もう一度見てもほとんど変わらなかった。
周りは青空で良かったのに、富士山だけが雲がかかっていたのは残念である。

ここで北島三郎に縁があるので、北島三郎をちょっと書いてみたい。
図書館で調べると、彼には自叙伝的な本が2冊あった。それを参考にしてみた。

1936(昭和11)年10月生まれの82歳。(本名は大野穣=みのる)
昭和29年、函館西高校を出て、歌手を目指して上京。
東京声専音楽学校に入学。昭和30年から渋谷で流し。3曲で100円だったそうだ。
住まいは新宿大久保の下宿で3畳間。のちにそこのアパートの大家さんの娘さんと結婚することになる。

「渋谷に流しの上手いのがいる」と評判になり、昭和35年秋、コロンビアレコードの林部長と会い、作曲家の船村徹に預けられた。
昭和37年6月「北島三郎」と名のり、「ブンガチャ節」でデビュー。9月に「なみだ船」がヒットして、レコード大賞新人賞を獲得した。

昭和38年9月にクラウンレコードに移籍して、昭和39年「函館の女(ひと)」が大ヒット。
ここで「函館の女」の逸話を記そう。

「函館の女」はもともと作詩者星野哲郎が「東京の女」を作詞しており、それに作曲者島津伸男が曲を付けた。
しかし、曲の流れからどうしても詞が一行分足りない。

しかも北海道から東京へではなくて、逆に東京から函館へにしたらどうか、という話になり「函館の女」へと詞を変えることにした。

そこで作詩者星野哲郎を呼び、「何とかして欲しい」と頼み混んだ。
星野哲郎はちょうど、小水に行きたくなりトイレに駆け込んだ。
そこで出来た詞が「とても我慢が出来なかったよ」であり、嘘のような本当の話である。

もう一つ、作曲のペンネームは原譲二。「腹が丈夫だった」から名づけたそうだ。

昭和41年に中野に自宅を建て、昭和47年には八王子に豪邸を2億円かけて建てている。
三郎にかけて36部屋あり、すごいね。

昭和46年7月「北島三郎公演」を新宿コマ劇場で行い、以後3月と6月に新宿コマと梅田コマで公演を行うようになった。

私が尺八伴奏を務めたのは、昭和47年1月に浅草国際劇場で「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」の10日間だった。

初日は泊まり込みで朝5時起床で芝居のリハーサル。いきなり10時開演とハードだった。
平日は2ステージ、土日曜は3ステージで忙しく、それでも絶頂期の北島三郎の会場はいつも満席の熱気だった。

この浅草国際劇場は中学3年生の修学旅行で、SKDの「東京踊り」ラインダンスを見学したところだ。
我々は3階席のはるか遠い所から、胸をときめかして華やかな舞台を見つめた。きれいな女性が見事な足をそろえて上げるのを見て、恥ずかしさを覚えた。

終演後、担任の先生は1階席で見たそうで、大変うらやましかった。

あれから8年後、私が浅草国際劇場の舞台に立つとは、夢にも思わなかった。
感慨ひとしおである。私は23歳で、北島三郎も35歳と若かった。
しかし、演奏は若さと怖いもの知らずで、上がるような感じではなく、聞いてくれという感じで、堂々と演奏出来た。

北島三郎も浅草国際劇場での公演時の初舞台は、感激したそうだ。

前座は瀬川瑛子の「長崎の夜はむらさき」。その後、私も名前を忘れそうになったが「命くれない」で大ヒット。びっくりしたものだ。

専属司会者は及川洋で実に上手く、名人気質であったと北島三郎も褒めている。
芝居は「沓掛時次郎」でイントロの司会は「信濃路を流れてみせるは白い雲〜」低音で抑揚があり、ぐっと感じるものがあった。

前日に北島三郎、オーケストラ、尺八の音合わせがあり、そこで初めて北島三郎専用の五線譜を渡された。初見で演奏するのである。
「さぶちゃん」は気さくで、最初の「仁義」は舞台の袖から出て来て欲しいと言われたが、畏れ多く丁重にお断りした。

芝居の「沓掛時次郎」の劇中歌の「信州鴉」で演奏するには2尺1寸管が必要であり、私は持っていないので、青木鈴慕先生に出演の許可を取ると同時に2尺1寸管をお借りした。今では考えられないが、気さくに貸していただいた。

この時は慌てて浅草から青木先生のご自宅の新大久保まで行って、尺八をお借りしてすぐに浅草国際劇場に戻った。

尺八の楽屋は特に無く、「大江戸助六太鼓」のメンバー3人と同じ出入口の守衛部屋だった。
尺八の音出しをするもんだから守衛さんは、さぞうるさかった事だろう。

各自夕食後、時間を持て余した太鼓のメンバーが私に麻雀をやろうと言い出し、雀荘に向かった。
大学の寮で少しはやった事があるが、案の定コテンパンにやられた。

この時のゲストは「由利徹」と「佐山俊二」で、劇中の寸劇が面白かった。寝ている由利徹のガマ口を佐山俊二が抜き取ろうとしたが、ゴムひもが付いていて取れない。そこで、佐山俊二がパチンコみたいに手を放すと、股間に当たるという仕掛けで、何回見ても笑った。

何年かしてテレビで同じ物を見たし、私が札幌に旅行に行った時、バスで偶然一緒になり、ある劇場に二人の看板が掲示されていた。

残念ながら私が伴奏した時の思い出は自叙伝に書かれていなかったが、その時の指揮者は演奏しづらかった。何しろ指揮棒が上から来るのでは無く、下から来るので合せるのに面食らった。

開演時に先ず演奏した曲は「仁義」だった。この時はエプロンステージなる舞台の前にせり出したオーケストラボックス内で演奏した。
未だ暗転の中、開演のベルが鳴り終わるのを見計らって、イントロからしばらくは尺八のソロで途中からオーケストラが入ってくる。古典本曲風に演奏出来て、気持ちが良かった。

オーケストラボックスの中から舞台はすぐ左上に見えた。やがて「さぶちゃん」が登場。
それは仕立ての良い白地の紋付に、緑色の袴でバッチリと決まっていた。

「お控えなすって!手前 生国と発するところ関東です」とイントロで仁義を切り、「天に一つの陽(ひ)があるように〜」と歌い出す。私は今でも時々カラオケ店に行って、「仁義」を演奏している。

続いて第二部は芝居の「沓掛時次郎」で劇中歌「信州鴉」もボックスで演奏。

第三部は舞台に上がって「盃」「誠」を演奏。着物は紋付袴である。正面のスポットライトがやけにまぶしかった事が思い出される。

この時以後「仁義」は私の十八番になる。

何と言っても青木先生が気に入ってくれて、鈴慕会の新年会や、日本三曲協会の新年会、さらに現青木鈴慕がヒルトンホテルでの結婚式で、私に「仁義を演奏してくれ」と名誉なことにご指名を受けた。

出席された尺八界、筝曲界の錚々たる大御所達の前での演奏には緊張した。

その後私は会社勤めになり、グループ慰安会で「北島三郎ショー」を見に行ったことがある。
もうその時のバックバンドは「鈴木操とジャズキングス・オーケストラ」となっており、バンマスの鈴木操は尺八まで演奏して、たまげた。
彼は東京芸大出でサックス、フルート、尺八と何でもござれだった。

浅草国際劇場を調べてみたら松竹が経営して会場は3860席。SKDとは松竹歌劇団だった。
1982(昭和57)年に閉鎖して、その3年後の1985(昭和60)年に浅草ビューホテルとなった。

目の前の広い通りはその名残で、浅草「国際通り」と名付けられている。
私は夏に行われる浅草サンバカーニバル見学の折り、45年振りに現地に行って高層ビルとなったホテルを見たが、これ又、感慨ひとしおであった。
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青木鈴翁先生の告別式  音楽

8月21日、私の尺八の師である青木鈴翁先生{1935(昭和10)年10月〜2018(平成30)年8月}が肺炎で亡くなられた。82歳。

青木鈴翁先生は二代青木鈴慕であり、琴古流尺八の人間国宝であった。

今年5月に息子さんの彰二氏が三代青木鈴慕を襲名したのに伴い、鈴翁(以下青木先生)と名乗った。

青木先生の告別式が10月3日に青山葬儀場で行われ、午後1時開始の連絡を受けたが、早めにと12時前に到着した。

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式場は「乃木坂」駅から歩いてすぐだった。

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鈴慕会の方々が受付などを担当しているので、懐かしい面々ばかりである。
式場に入ると、青木先生の遺影が大きく飾られ、先生の演奏である、素晴らしい「奥州薩慈」「鹿の遠音」が聞こえて来た。私も購入したレコードを流しているようだった。

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葬儀委員長は筝曲の人間国宝である富山清琴師がつとめ、弔辞をやはり筝曲の人間国宝の米川文子師と、鈴慕会代表の竹内鈴白氏がつとめた。

献笛として鈴慕会のメンバーが「三谷菅垣」を演奏。正面向かって左側が1尺8寸管で、僧侶の裏側が三代青木鈴慕である。

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右側は2尺管である。
マイクの音量が大き過ぎたのは残念に思った。むしろマイクが無くても良く聞こえた。

式場内は満員で、場外にも並んでいたので300人位は出席したのではないだろうか。
最後は全員によるご焼香で、7人ずつ並んで出来た。

私は尺八界、筝曲界にご無沙汰していたので、知人や先生方などを見つけると懐かしさで胸がいっぱいとなった。

式場を後にした時に、大橋鯛山など5人の知り合いがいたので、式場前の「デニーズ」でコーヒーでもと乗り込んだ。
あまりの久しぶりで話が尽きず、一杯だけのコーヒーで1時間30分も粘ってしまった。

先生の思い出は尽きない。今日こうして尺八を吹いていられるのも、先生のお蔭である。

高校時代はブラバンだった。大学合格と同時に三曲研究部に入って尺八を習った。その時の先生が二代青木鈴慕師であった。

2年生の時だった。M大の「お茶の水」にある学生会館での合同練習で、一人づつ「千鳥の曲」を演奏した時、先生に「いいね」と言われ、すぐに「直接習いたいんですが、よろしいですか?」と言い、門下生になった。

この項続く。
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若手の台頭  音楽

先日(5/30)日本テレビの深夜放送(23:59〜)で「ナカイの窓×楽器の世界」の番組があった。
私は寝ている時間なので録画して、後日見た。

これに若手女流尺八奏者の辻本好美が出演していた。今や尺八界の売れっ子ナンバーワンであろう。

彼女は16歳で尺八を手にして、東京芸大の邦楽科の尺八専攻へ入学。現在は30歳の尺八プロ演奏家である。

美人で上手いとくればメディアに引く手あまたで、海外公演が53回だと言う。
NHKの「正月番組」ではモモクロと共演したり、つい先日のNHKうたコンに出て、福田こうへいの「天竜流し」の尺八伴奏を務め、しかもオーケストラの前でスタンドプレーで、いずれも和服の長い振り袖で演奏していたから、目立つ。

「天竜」と聞けば「天竜川」の事だし、私の地元の飯田市は天竜下りで有名である。
天竜にゆかりのある私に、出演の依頼があったら喜んでお受けするのになぁ、と夢を見た。

「ナカイの窓」では、尺八の紹介で琴古流尺八本曲の「鹿の遠音」の冒頭部分を演奏したり、殺陣の時の効果音としてよく使われる尺八の「ムラ息」で中居達をびっくりさせ、「六段の調べ」の楽譜を見せれば「まるでお経のようだね」と陣内智則・新妻聖子ら。

さらにレディー・ガガの曲「BORN THIS WAY」を独奏して、びっくりさせた。「歌うように演奏している」と評判が良かった。

楽器の値段にも答え、六寸管、八寸管、二尺管も披露していた。

さらにその後はピアノの牛田智大やバイオリン、ギター、パーカッションとコラボレーションをして、絶賛だった。

私は東京新聞だが、番組の投書欄に「ナカイの窓は、とても素晴らしい演奏で良かった」と載っていたから、深夜でも見ている人がいるもんんだなと思った。

芸大と言えば6月20日(水)テレビ朝日の「あいつ今なにしてる?」の番組に芸大の邦楽科の尺八専攻を卒業した人が出演していた。

フリーアナウンサーの馬場典子の友人である、市川佐保子さんだ。
有名女子学院の同級生で、中学3年で尺八を習い、芸大に進学したらしい、とその後が知りたかったそうだ。

市川さんは尺八の才能に見切りをつけ、アメリカ・ニューヨーク州のコーネル大学で日本語の先生をしていた。たまには尺八も演奏してくれるといいな。

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これは5月19日の演奏会のチラシである。場所は調布のグリーンホール小だった。
調布駅近くの「大西楽器店」に楽譜を買いに行った時に頂いたので、興味を持って行って来た。

タイトルは「竹と風の音を楽しむ会」で、サブタイトルが「竹で楽しむ唱歌・演歌・民謡・JAZZ」であった。無料だから損は無い。

平成尺八塾(門傳良男)の主催となっており、18人くらいの出演者がいた。
中学生らしい女性が二人いて、ほとんど出ずっぱりで演奏していた。

曲目は「見上げてごらん夜の星を」で始まり,「聖者の行進」「与作」「星影のワルツ」「竹田の子守唄」「Danny Boy」等だった。

その後は若手の風間禅寿(ぜんじ)が自作の曲をピアノと合奏した。
彼は藤原道山の門下で東京芸大出の尺八演奏家である。

流石に道山ゆずりのテクニックで上手かった。

我が門下にも若手がおり、23歳のE君、33歳のF君がいる。
日増しに上手くなって行くのが嬉しい。

断捨離をしていたところ、かつて私がインタビューされた雑誌が出て来た。
「ビクター6・7」と表紙にあるから、二か月毎に発刊する雑誌であろう。
その中に「ヤング第一線 音に生きる若者たち」のページがあり、音にくわしいヤングの中から4人にインタビューとあり、私が最初に出ていた。

実は自由が丘のとある喫茶店でインタビューを受けたのだが、写真撮影はトイレの中というさえないバックだった。当時は若干25歳の若さであった。

内容は「尺八を握って8年。正座での精神統一のせいか、そこはかとなく落ち着きがある。」

「首振り3年をマスターし、間の取り方や表現力の養成に心を奪われている」「3人の弟子を持つ先生でもある」「サラリーマンとして勤めているが、尺八で身についた根性で辛い仕事を苦も無くやりとげる」

最後の「大学では法学を勉強したが、方角違いで邦楽の世界に魅せられたヤングといえよう」は、実は私のダジャレで言った言葉であった。
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三代青木鈴慕襲名披露演奏会  音楽

雨も上がった5月3日(祝)、国立小劇場で行われた「三代青木鈴慕襲名披露尺八演奏会」に行ってきた。「鈴慕会創立110周年記念演奏会」でもあった。

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私も鈴慕会会員であり、本来は出演すべきだったが、都合により欠演した。
10年前の100周年記念演奏会には出演して、本曲など2曲くらい演奏したのだった。

今回は二代青木鈴慕の長男である彰時氏が三代青木鈴慕を名乗り、二代は青木鈴翁となった。

招待状をいただいたので開演から終演まで、7時間以上も聞いていた。

開場の11時30分前から並び、門下生の分も席を確保した。真ん中前から7列目のいい場所だった。
ロビーで昼食の「カツサンド」を頬張り、コーヒーも流し込んだ。

開演は12時。先ずは壮観な人数(95人)による古典本曲「雲井獅子」で始まった。

全26曲の長丁場である。
途中どこかでトイレに行く必要あり、加えて切符を買っていただいた門下生など5人を探そうとした。

メールで席を教えた1番弟子は1時30分過ぎに合流出来た。

何しろお祝いだから曲目は「獅子物」が多かった。
「八千代獅子」「御山獅子」「越後獅子」「吾妻獅子」など。「笹の露(酒)」「尾上の松」「松竹梅」「都の春」「楓の花」など、めでたい曲もずらりと並んだ。

各曲の箏・三絃はほとんど家元で、誠に素晴らしい演奏で、それにも負けないくらいの鈴慕会員の演奏であった。

懐かしい面々が演奏をしている。
私もそうだが、すっかり歳を召された会員がしっかり演奏しているのをみると、感心する。
演奏者同士が50年振りに会ったとも聞いた。

たまたま休憩時には、他の門下生に会えたし、演奏者にも会えた。

かつて私の尺八リサイタルでご一緒した箏奏者や、NHKFM放送で共演した先生方を見て、感慨無量である。

最後は三代青木鈴慕(本手)による琴古流本曲「巣鶴(そうかく)鈴慕」だったが、その息子である青木滉一郎が「替手」を演奏した。

この曲で立方「花柳輔太朗」が舞踊を舞った。自分を鶴に見たてて着物の両袖をつかみ、何度も羽ばたいていた。

事前に東京新聞にも掲載されたが、当日は総勢400人の出演だそうだ。

舞台は回り舞台で、次の曲は舞台裏で準備をするのだが大変な騒ぎだったことだろう。
三代青木鈴慕はほとんど出ずっぱりで、その体力は凄いものがある。
演奏も素晴らしく、性格も良く皆さんに気に入られている。

ご長男の滉一郎氏は東京芸大邦楽科尺八の大学院で尺八を学んでおり、ほとんどを暗譜で演奏出来るくらいの凄い才能の持ち主であり、鈴慕会は連綿と続く筈だと確信を得た。

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パンフレットに写真が掲載されており、初代青木鈴慕が右頁の写真の真ん中右に写っている。

経歴によると彰二氏は6歳で尺八を習い出したとあるが、考えてみれば私が大学を卒業して、NHK邦楽育成会に通っていた頃である。

二代目先生宅に稽古に伺った頃は小学生で、可愛らしかった。
ちなみに左頁の上は鈴慕会100周年の記念演奏会の写真(10年前)で、前列左から4番目のひときわ光かがやいているのが私である。

左頁下の写真は、平成28年の二代青木鈴慕師が「旭日小綬章」を受賞された時の、鈴慕会関係者での祝賀会の様子である。(この時は北島三郎も同時に受賞されている)

今回の鈴慕会演奏会に、私がお世話になった二代青木鈴慕師がお見えにならなかったのは、寂しい限りである。

予定通り7時半過ぎに終り、私と門下生ら3人と「九段下」に出て「さくら水産」で一杯やった。
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