序曲「エグモント」  音楽

作家の村上春樹が、文藝春秋6月号に「ベルリンは熱狂をもって小澤征爾を迎えた」と題して特別寄稿した。

これは本当にたまたまであるが、私が図書館で偶然手にした本の中にあったのである。

村上春樹が小澤征爾とこんなにも近しいとは知らなかったし、対談の本も出版されているようである。誠に音楽に造詣が深い。

(対談の本は、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で2011年11月新潮社で発行。このブログを書いてから図書館で偶然見つけて、読みだした。(6月25日)借りずに、行った時に読むことにしたので、いつ終わるか分からない。ところが6月29日も図書館に行って読もうとしたら本がない。係りの人に聞いてみたら、もう他人が借りたらしい。次に借りたい人もいるらしく、まさか私のブログを見た人ではあるまいが。)

村上春樹は大変な人気作家であるが、私は「ノルウェーの森」と「海辺のカフカ」しか読んでない。しかし「海辺のカフカ」はなかなか理解し難しい本だった。

その村上春樹が今年4月8日と10日にベルリンにて、小澤征爾がベルリン・フィルを7年振りに指揮をした状況を書いている。わざわざドイツまで聴きに行ったのだ。

曲目は モーツァルト作曲「グラン・パルティ―タ」K361(指揮者なし)
      ベートーベン作曲 序曲「エグモント」
      ベートーベン作曲「合唱幻想曲」

実は私はこの序曲「エグモント」が大好きで、ベルリン・フィルのヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のCDまで持っている。

何で好きかと言うと、高校生の時のブラバンでライバル校が女子高での文化祭で華やかに演奏したのであった。その時にすごい曲だと衝撃を受けたくらいだった。

解説によるとゲーテの悲劇「エグモント」の為に作曲をした。
16世紀スペインの圧政下で、オランダのフランドル地方の領主エグモントは、スペインから派遣されたアルバ公と争い、断頭台に引かれる。エグモントの恋人クレールヘンは自殺し、幻影となってエグモントをなぐさめる。

序奏はソステヌート・マ・ノン・トロッポで決然たる意志を示す動機が弦に現れる。
主部は序奏と同じくへ短調だが、アレグロとなり、主要主題の下降旋律はチェロが演奏する。
(この部分は吹奏楽では私のユーホニュームが演奏する)これが私の大好きな旋律なのだ。

終結部はアレグロ・コン・ブリオ、ヘ長調。明るく、そして勇壮な勝利の凱歌である。
単純な諸動機を自由自在に活用した、べートーベンらしい交響的序曲である。

村上春樹は小澤征爾に付き添うように、リハーサル風景、控室での会話、カラヤンとの思い出等を聞きだし、一緒に食事もしている程だ。

リハーサル後の会話が印象的だった。

村上「どうして指示をほとんど出さないんですか」
小澤「出す必要がないから」「彼らは僕の手や身の動き、日本語で言えば『呼吸』(息づかい)を見ていて僕の意図を理解する。」「彼らはそれに合わせて演奏を変えるだけの技術を持っています。」

すなわち、一人一人が超一流だと言うことらしい。マジシャンだね。

小澤征爾は腰やら食道の手術をしていて、体調が悪い。
リハーサルで一曲練習しただけでも疲れて、控室に行く位だ。

それが、村上春樹と食事をした時に無理をして食べたのだろう、お腹を壊したそうである。私も胆嚢の摘出手術を受けており、食べ過ぎや、冷たいもの、辛い物などはダメである。
どうしても見た目で美味しそうだと食べてしまうのは、人間の欲であろう。

本番の批評でドイツ3紙はこぞって「ベルリン・フィルが最近これほど真剣に、そして広がりのある音で演奏するのはほとんど聴いたことがない。ベルリン・フィルのかつての時代の音(カラヤンの華麗さ、バーンスタインの情熱)を、まさに現代の音として再現してくれた」
と絶賛したのである。

小澤征爾は80歳になった。健康を願うばかりだが、村上春樹は演奏会後は日本に帰ったそうだが、小澤征爾はフランスに行くと言う。まさに世界で勝負する小澤である。

YouTubeに他人がヘルベルト・フォン・カラヤンなどの「エグモント」をアップしているので、参考までにお聞きください。

中学校で講話と尺八演奏  音楽

大和市つきみ野に在住の頃、中学校で「地域の人による講話」があった。

2009(平成7)年5月に、つきみ野中学校では日曜参観で「地域の人による講話」の講師を募集しており、先生の家庭訪問時に妻が「主人が尺八をやっており、やってみたいと言っている」と先生に話したところ、採用された。

全学年19クラス一斉に行われ、サリン事件でテレビ出演が多かった大沢孝征弁護士や画家、元NHKアナウンサーもいた。

私は尺八の演奏なので音楽室で行われた。
資料として、自己紹介、尺八について、尺八の構造、尺八の種類、演奏方法、尺八の音階、楽譜(琴古流縦譜)を用意した。

受け持ちは1年4組で、その時に話した内容の小冊子があるので、そのままご紹介しよう。
私のテーマは「尺八と人生」だった。

まず挨拶がわりに北島三郎が歌った「仁義」を演奏。
「カッコいいね」(笑いと拍手)「今日初めて尺八の演奏を生で聞く人?」(多数挙手)「ほとんどの人ですね。予想通りでした。」

尺八は日本の楽器にもかかわらず、一生の間に生で聞く機会がない人もいるかも知れません。私にとっては非常に残念です。今日は良い機会ですので、尺八の演奏を中心に話をしたいと思います。

簡単に自己紹介すると、昭和23年長野県飯田市に生まれました。小さい頃から音楽が好きで、小学校では器楽班で小太鼓をたたき、中学・高校ではブラスバンドクラブでユーホニュームを吹いていました。大学のクラブでは一生の友達になれそうな気がした尺八を手にして、直接先生にもついて習いました。

大学卒業後、北島三郎公演で尺八伴奏をした事もありますが、とても尺八だけでは生活できず、翌年就職しました。
けれども尺八が好きでずっと続けているうち、リサイタルやNHKラジオにも出演できました。
現在は脱サラして自営業(2年前に閉店)のかたわら尺八演奏会の出演や家族の箏と一緒にミニコンサートを時々開いております。

尺八の説明
尺八は中国(原型は中国だが日本で発達した)から伝来し、長さが一尺八寸あるところから尺八と名付けられました。流派は明暗流・琴古流・都山流等があります。
構造は前に四つの穴と後ろに一つあるだけで簡単ですが、吹奏上は半音が出にくいのでむずかしく訓練が必要です。

又、現代では合奏曲の多様化で色々な長さがあり、高音用の一尺六寸管から低音用の二尺三寸管が良く使用されます。(吹奏して音の高低を聞かせる)吹奏上の特徴は一音一音を舌で切らず、指を押して切ったり、ポルタメント奏法が楽にできることです。

楽譜は音程のロツレチリをそのままカタカナで表しており、まるでお経のようですね。

尺八の演奏
@尺八古典本曲の「鹿の遠音」は雄鹿と雌鹿の鳴き合う様子を曲にしたものです。
A八橋検校作曲「六段の調べ」から初段
B宮城道雄作曲「春の海」
C民謡「こきりこ」を二尺管と一尺八寸管で吹き比べる。
D現代曲の一部(長澤勝俊作曲 詩曲)
Eプレスプラード作曲「マンボ5」も出来ますよ。(受けた!)
F田仲先生のピアノ伴奏(主にコード)でぶっつけ本番ですが「アメリカンパトロール」
G北島三郎「与作」(お父さんお母さんにも受けた)

まとめ
私は28年間尺八を吹き続けている訳ですが、吹くことが私の自己表現なのです。こうしていきなりピアノと合奏出来ますし、アメリカでも尺八を吹いた時、喜んでもらえました。

皆さんも若いうちに何か好きな事を見つけてチャレンジするといいと思います。例えば釣りとか、ピアノ、テニスでも良いでしょう。とにかく好きな事を得意にし、それを一生続ける事です。そうすれば仲間も増え、心豊かに充実した人生となるでしょう。

生徒感想 Sさん(女性)
「北原さんが尺八と人生について話して下さる。」と先生は言っていた。
私は近所で尺八を吹いていた人がいたから音は知っていたけど、指や楽譜を見たのは初めてだった。すごいなぁと思ったところは、すごく早く吹いている時だった。

どの指を動かし、どこを押さえているのか全然わからなかった。
それと顔を見た時とっても真剣に私達に尺八の事を教えて下さっているんだな、と思った。

楽譜と言えば、音とリズム、音符がのっているものだとしか思っていなかったけれど、字の音符(楽譜)があるということは、今回とてもびっくりした。それを見て吹ける北原さんはすごい。

最後に少し人生について語って下さったけれど、趣味を持って生きるということは、とても良いことなんだなって思った。この話を聞いて、いろんな事を覚えて、教わったと思う。(原文のまま)

この時、地元紙の記者が取材に来たらしく、地元紙と大和市の広報誌にも記載された。
それは次のようである。

尺八奏者北原康夫氏の講話「尺八と人生」は生の演奏とユーモアを取り混ぜた話ぶりで人気が高く、生徒も参観に訪れた父母も楽しみながら受講していた。

NHKFM出演  音楽

未だ会社勤めだった1991(平成3)年3月、青木鈴慕師のご指名により、FHKFM「邦楽のひととき」(現在は午前11:20〜11:50)に出演させていただいた。
邦楽のうち、箏と尺八は毎週月曜日に放送である。

最初に出演したのは「明治松竹梅」で、箏は米川社中の藤代文津奈、斉藤文香代ら3人の賛助出演だった。(私はNHKに出演出来るオーディションを受けていないが、多分青木先生の推薦だったから出演出来たのであろう)

大田区大森の「米川会館」へ2回程伺って練習し当日も練習後、箏屋さんのワゴン車で一緒にNHKスタジオに入った。
録音は一発録りだった。初めてにしては、あまり極度の緊張はしていなかった。

この「明治松竹梅」が放送された時の、曲の紹介アナウンサーは有名な葛西聖司氏だった。
独特の丁寧で、やさしく包むような声で紹介していただけて、大変光栄だった。

初めて放送されて、名前が出た時は身震いした。

それから15〜16年位経ったのであろうか。飲食店で偶然隣り合わせでお会いした件は、以前グログに記載したが、改めて記すと西新宿の相撲料理「方屋」での昼食時の事である。

葛西氏とは面識は無い。テレビの邦楽番組で顔を知っており、本当に千載一隅のチャンスでここで声をかけなかったら、一生悔いが残ると私の放送時の事を話してみた。

当然、葛西アナはラジオの「ニュ−ス」や「邦楽番組」で忙しく、一つ一つの事は覚えている筈がない。「そうでしたか」で済まされてしまった。止むを得まい。
ただ、お礼を言って邦楽界の世間話をした。

さて、2回目の放送は1991(平成3)年7月の「泉」だった。
箏は上條妙子。青木先生に依頼され、高田馬場の研究所(稽古場)で練習は一回のみだった。

しかし、私はこの曲は習ってなかったので、楽譜の間違いはその場で指摘された。
一通り練習した後、先生に「うん、いいものを持っているね」と褒められて、うれしかった。

録音当日、NHKスタジオには箏の運搬を手伝った青木鈴慕師のご子息、彰時氏も入っていた。

先ず、一回リハーサルしたのだが、音がかすれて出ない。非常事態宣言である。心臓はバクバク、顔面蒼白。

しかし。本番では心を強く持って、開き直り、無事上手く演奏出来た。

この時の状況は1991年9月、高校卒業25周年記念誌に掲載されたので引用する。

NHK録音のこと(6月25日)

「本番行きます。エー泉」NHK509スタジオの広い空間にマイクから太い声が流れる。緊張の一瞬だ。

イントロは箏の独奏で「シャンシャンシャンシャン」と始まる。順調なスタートだ。さあ頑張るぞと自分に言い聞かす。直前のリハーサルでは緊張のため唇がこわばって、尺八の音がスカスカしていた。本番は大丈夫だろうか、不安の気持ちが頭をよぎる。

箏の独奏が終わった。さあ合奏の始めの小節だ。きれいに吹こう、そう思って音を出す。
あっ、リハーサルより音が良い。律も良い。調子は良さそうだ。尺八は本来音の狂い易いことこの上ない。穴が五つしか開いていない。メリ・カリの奏法で♯・♭等正しい音を出すのは困難である。

何がそうさせたのか、尺八が好きだ。楽器の単純さゆえの奏法の難しさ。奥の深さに魅かれる。オーケストラも入る広いスタジオは残響も十分だ。

途中までどうにか来た。さあ次は尺八の独奏だ。気合を入れる。無難だった。再び合奏。テンポを速めてテクニックを必要とする終わりに近づいた。掛け合い良し。後はハのトリルだ。ちょっと短かったが箏がうまくつないでくれた。

「ハイ、御苦労様でした」一発で決めたうれしさがあった。
7月29日NHKFMにオンエア。全国に流れた。


本番で上手く行ったのは幸運だった。お蔭様で多分好評だったのだろうか、1992年6月に再放送された。
残念ながら、あの時以上の演奏がもう出来ないのである。

3回目の放送も米川社中で「末の契」だった。1992(平成4)年3月に放送。
今度は箏 米川文威清(現米川文清)、三絃 五月女文紀の賛助出演である。

米川文勝之(ふみかつ=現米川文子人間国宝)先生の指導の下、やはり2回ほど練習に伺った。
この時、米川先生の調絃時の音に圧倒された。もう音そのものが芸術だった。

この曲は本番で手事に入って高音の連続ヶ所で間が合わず、大変残念だったが録音は一回で終了した。一般の人には判らないかも知れないが、私には悔やまれる演奏となってしまった。



尺八リサイタルの追憶  音楽

5月24日(火)ミューザ川崎シンフォニ―ホールにて「オカリナとピアノ」のランチコンサートを聞いて来た。
オカリナは若き奏者の「茨木智博」とピアノは「森悠也」である。
これがもの凄く上手かったので、紹介したい。オカリナと思えない程のテクニックで、フルートでも難しい「ヴェニスの謝肉祭」や自作の「とおりゃんせ変奏曲」、「アヴェマリア」「アメイジング・グレイス」「チャールダーシュ」などを演奏。

様々な大きさのオカリナを駆使し、もう超絶技巧で感動、感嘆の域だった。中でも驚いたのは一本のオカリナで二重奏をやってのけたから、たまげた。右手でメロディー、左手で低音がハモルのである。素晴らしい。拍手喝采でアンコール、それでも拍手は鳴りやまなかった。

これを聞いたら私の演奏は足元にも及ばない。

しかし、昔話を聞いていただきたい。

1976(昭和51)年6月、渋谷東邦生命ホールにて「北原康夫尺八リサイタル」を行った。
何しろ自分の冠である。

キッカケは前年鈴慕会の1歳上の先輩が、リサイタルしており内心「来年は私かな?」と思っていた。
案の定、先輩のリサイタルが終わって間もなく、青木鈴慕先生から私の高津のアパートに電話があった。「君、来年リサイタルをしなさい」それだけである。

即答したのか「考えておきます」と言ったか定かでないが、とにかく開催することになった。

先ず、段取りとして曲目の選択と、会場決めだ。
「会場は東邦生命ホールが良かろう」で決まり、すぐに予約をした。本業はサラリーマンであり定休日だった木曜日にした。

曲目は最初私は「六段の調べ」か「みだれ」と言ったところ、先生は「みだれの方が良い」とした。

その頃、鈴慕奨励会で演奏していた長澤勝俊作曲、独奏尺八のための「詩曲」と舩川利夫作曲「箏四重奏曲」が候補に挙がった。
さらに、私の希望で杵屋正邦作曲、尺八独奏曲「一定」(いちじょう)と先生との琴古流古典本曲「鹿の遠音」。先生の指示で三曲合奏は「千代の鶯」だった。
欲張った6曲だった。先生は「若いんだからそれ位やりなさいよ」だった。

次は、助演者決めだ。
「みだれ」は古典系から、佐藤親貴先生の弟子である「二宮貴久輔」は先生の推薦だ。
「箏四重奏曲」はNHK育成会の同期で、以前演奏会でやっていた縁で「町田徳」(現塚本徳)を中心としたメンバーで選んでいただいた。ちょうど芸大を卒業したばかりの「岩城弘子」と「熊木早苗」である。
「千代の鶯」は青木先生の指示で箏に「砂崎知子」、三絃に「田島美穂」(現芦垣美穂)だった。

曲目が決まったので、プログラム作りが始まった。
先ず、チラシだが弟子に幸いイラストレイターの斉木磯司がいたのでお願いした。これが凝っていて、六本木のスタジオまで駆けつけて、紋付袴姿で尺八を持って演奏する様を撮影した。

暗闇の中、スポットライトをあて、前と横から陰影のある撮影だった。
チラシはB4と大きく、黒地に横顔は赤く、前面は緑に彩色されていた。しかしほとんどがアウトラインではっきりと私の顔とは解らない。でも斬新なデザインで評判は良かった。
プログラムも斉木氏にお願いした。

青木先生に冒頭の文章をお願いし、次に私の文章を載せた。先生には歯が浮くような文章を書いていただいた。「屈指の吹き手であり、技巧派として、そのテクニックの的確さは非常に楽しみなものがあります」「幅広いレパートリー」「尺八会のホープとして」など。
私は「少年老い易く『楽』成り難し」と心境を述べた。

尺八独奏曲の「詩曲」は宮田耕八郎の素晴らしい演奏を聞いて是非演奏をしたいと思っていた。
ただ7孔尺八の為でもあったが、私は5孔尺八しかなく、どうにかなると思った。
むしろ中間部の速いパッセージは5孔の方が、楽だと思う。

「一定」も尺八独奏曲で、これは山本邦山の委嘱の作品で、邦山のリサイタルで聞いてこれも演奏したいと思った。演奏中、楽譜はめくれないので暗譜することにした。「詩曲」も同様である。

招待状やチケットの印刷も、斉木氏だった。
招待状の宛名の筝曲家や尺八関係者、評論家の名簿は先輩から貸していただき、全部書き写した。今なら個人情報に引っかかかるだろうか?

何しろアパート住まいで独身、字が下手とくれば、宛名は字の上手い姉に筆でお願いするしかなかった。

チラシや印刷物は斉木氏から、渋谷の喫茶店で受け取った。すべて手で運んだから大変だった。
高田馬場の先生の稽古場にも運んで、先生もチラシを置いて「北原を応援して下さい」と書いて下さった。

「箏四重奏曲」はあらかじめ熊木さん宅で練習して、直前には「みだれ」「箏四重奏曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」なども高田馬場で、先生の指導の下合奏練習した。

「箏四重奏曲」の第二楽章だった。一尺六寸管での高音がかすれて出なく、いいメロディーが台無しだった。その時先生に「これじゃあ入場料を貰えないな」と言われ、冷や汗どころか凄く落ち込んだ。

私の竹も音律が悪かった。「千代の鶯」は一尺九寸管だと言う。持ち合わせが無い為、先生は「一尺六寸管は新宿区のN氏の、一尺九寸管は大田区のO氏のを借りなさい」と言われた。

その時に「詩曲」「一定」の演奏も見ていただいたが、特にコメントは無かった。

当日までには、渋谷消防署への届けが必要だし、弁当、ギャラの準備、録音、受付は母校M大三曲研究部の現役にお願いした。
照明のスポットは斉木氏の知人だったし、箏担当は熊木さんが手配してくれた。

以前書いたように、(「アパートで尺八」参照)いよいよ前日というのに会社の人に誘われて、ビアガーデンに行ったのだった。

当日、東邦生命ホールは300人定員の満席で、立ち見や階段に座る人もいた。
音響は余り良いとは思わない。
「みだれ」も暗譜で挑戦した。しかし、似たメロディーがあり不安もあった。
そこは先生、楽譜を手に舞台の袖で見守ったが、やはり私は飛んだ。
空にでは無い。メロディーが先に行ってしまったのだ。すぐ舞台の袖から「ロリウ」と大きな声がした。尺八の音律(符音)の事である。

そこで元のメロディーに収まったのである。これを聞いていた斉木氏に「尺八の演奏会でも歌舞伎みたいに、成田屋とか声がかかるんですね」と言われた。

「詩曲」の中間部は早すぎた。「一定」は途中で少しつっかえ、「箏四重奏曲」はまずまず。
先生との「鹿の遠音」はやや不調で残念だったが、友人に「先生とは全然違うな」と言われた。
表現力や野太さが違った。それを後日先生に話したところ「当たり前だろ」と。

「千代の鶯」の頃はもう疲れていた。リハーサルもやっていたから、もう精神力でガンバった。慣れない一尺九寸管で鳴りも悪かった。

終わって夜、オープンリールのテープを聞いた時の拍手に感激して、興奮状態だった。

ずっと後の17年〜18年後の演奏会で私が作曲した尺八独奏曲「詩曲」へのコメントで、青木先生はこの時の「長澤勝俊作曲『詩曲』を暗譜で演奏し、返す刀で箏四重奏曲を軽快に吹き切り、名を馳せた」と書いてくださった。

口には出さなくとも、本当に良く見てくださった鈴慕先生だった。

「邦楽の友」に掲載された長尾氏の批評は次のとおり。

音はまだかなり小ぶりな感じだし、音楽そのものに大きさがないが、二宮貴久輔との「みだれ」青木との「鹿の遠音」砂崎知子、田島美穂との「千代の鶯」など、古典に正確な感覚を身につけていることを示すよい演奏で、助演にも人を得たと思う。

「鹿の遠音」が、本曲でもあり助演者も大きいので、気魄のある演奏になったし、他の曲では幾分かすれ気味で問題のあった高音がここでは音が立って、本曲に必須の、自己の感覚の奥底へ吹きこんで行く透視力も弱いながら備わっていた。ただ北原の吹いた同じ句を青木が繰り返して吹く部分では、やはり青木の骨格のたくましさを圧倒的なものに感じてしまうのはやむを得まい。

現代曲は長澤勝俊の「詩曲」が理知的な構成力を感じさせ、タンギングを用いるアレグレットの中間部では、スマートさを欠くもののかなりめざましい演奏を示した。
これは洋楽の技法ながら、古典のこまやかな楽句を吹き分ける感覚と結び合ったものを持って居り、むしろ「千代の鶯」の手事に若干気弱な合わせ方をしていたのよりすぐれて古典手事的な演奏に思えた。

杵屋正邦の「一定」や舩川利夫の「箏四重奏曲」になると、音楽的に正確で清新であるにもかかわらず全体に発展がなく、両作曲者の個性を内側から吹き起こして行く迫力がなかった。  
以下省略
 
リサイタルをすることは世に問う訳だから、覚悟しなけばならない。
しかし、厳しくも暖かい批評であった。

尺八独奏曲「一定」の演奏については、HPトップに表示した尺八リサイタル時の「一定」をご覧ください。

宮城道雄記念館で演奏  音楽

5月20日(金)に宮城道雄記念館で尺八の演奏をしてきた。

この催しは「島村洋二郎生誕百周年の集い」で副タイトルが「知られざる天才画家の生涯と音楽」と銘打って行われた。

私は「宮城道雄記念館」は初めて入館した。以前から一度は訪ねてみたいと思っていたところ、縁があっての入館だった。

1階には宮城道雄の経歴や、使用した箏、開発した十七絃、八十絃、使用した尺八や三絃、胡弓、さらに作曲した点字譜や生活用品として、靴や杖までもあった。

私は12時前に入館して、会場の地下一階の講堂で音出しをした。
もうクラリネットの福沢さんは、ピアノとリハーサルをしていた。

島村洋二郎(1916年〜1953年)は信州飯田に疎開していた時もあり、最初の奥さんは飯田出身で、彼は昭和16年に飯田で個展を開いていた。

その後飯田で大火があり、東京に来た時に神楽坂の宮城道雄の住まいの隣だった縁である。

そんな縁で島村洋二郎展を、今回は宮城道雄記念館で開催した訳である。
会場には、島村洋二郎の絵画や、資料が展示されており、作風は「青」を基調とした初期のピカソ的な絵であった。

午後1時から映画「島村洋二郎の眼差し」が上映されて1時間、絵画と時系列に経歴等が分かり易く解説されていた。病により惜しまれて37歳で亡くなった。

そして、島村洋二郎と宮城道雄の関連人脈図の説明が牧内氏によって語られた。
人脈ではさらに寺田寅彦や田辺尚雄らとのつながりが解った。

その後、島村洋二郎が残したノートの「叫び」などの朗読があり、演奏会に移った。

先ず、ピアノとクラリネットによる合奏。クラリネットは同じ飯田高校出身でブラバン先輩の福沢さんだ。福沢さんの本業は、デザイン会社の社長である。

「アメイジンググレース」「G線上のアリア」「霧のサンフランシスコ」「スターダスト」それにベニーグッドマンの曲で、柔らかい音色であった。なにしろ50年以上クラリネットを吹き続けているのだ。

次が私だ。いきなり「仁義」のイントロを演奏、そして仁義を切った。
「手前生国と発しますところ、信州飯田です。天竜川で産湯を使い、姓は北原、名は康夫。人呼んで尺八の北原と発します。」

天竜川で産湯なんて真っ赤なウソである。

宮城道雄記念館だから、当然「春の海」を演奏。私に与えられた時間は10分で、選曲に苦労した。
「春の海」は全曲演奏すれば長いから、一曲でおしまいだ。しかも箏が無いし時間が無いので、最初の部分だけ演奏して次の曲だ。
最低、3曲位は演奏したかったし、尺八の良さを知ってもらいたかった為、少しづつ演奏する事にした。

次はやはり、宮城道雄作曲の「泉」も箏との二重奏曲だが、尺八の最初の部分のみ演奏。(一尺六寸管)
最後は、尺八の流れとして、虚無僧音楽、古典三曲、新日本音楽、現代邦楽、ジャズ、歌謡曲などに使用される話をして、「天城越え」を1番のみ演奏した。ちょうど10分だった。

続いて、飯田出身の笛の美人プロ奏者森田梅泉(ばいせん)による、自作の曲で珍しい木の実の笛や篠笛で、鳥のさえずりや環境的な音楽をバックに、綺麗なメロディーを奏でた。

そして、私の提案で皆さんで「故郷」を3番まで合奏、合唱した。
福沢さんとの合奏は「何と言う事でしょう。ブラバン以来50年振りではありませんか。」
我々はあらかじめリハーサルでちょっと練習していたが、何しろほとんどが初対面であり、異質な楽器の組み合わせである。

ところが、ぴったりはまり盛り上がったので、ついでに長野県歌「信濃の国」を森田さんの笛と尺八でコラボした。もちろんこれはぶっつけ本番である。

流石、森田さんだ。ばっちりと3番まで、楽しく演奏出来た。

終わって、打ち上げと称し5人で神楽坂の「ルブルターニュ」へ行った。
とりあえずフランス産のビールで乾杯し、シードル(リンゴの発泡酒)も飲んだがこれが美味。
そば粉のガレットなる、そば粉のクレープで卵焼きやハムが包んである料理をいただく。

福沢さんと初対面だった私の一番弟子Y氏の挨拶で気が合い、国際情勢まで話が及んだ。

割と軽く済まして、神楽坂散策はY氏の先導で神楽坂の路地裏や石畳を歩いた。ついでに二次会の店も探す事になった。
以前Y氏と来た、名物ばあさんの店は焼失し(ニュースになった)立派なビルになっていた。

又、良く行った「ルバイヤート」はオーナーが代わっていた。いいなと思った店は全て予約で満席だった。
それでもやっと、L字型カウンター席12席ほどの店を見つけて落ち着いた。
二次会は3人になり又、ビールに珍しい地酒冷酒の日本酒を3種類程飲んだ。つまみは主に魚である。
「いさき」焼き、エビ、珍味3種、からすみ、等をいただいた。

割と早くから始められたから、そんなに遅くはならなかった。

演奏会の感想では会場にいたおじさんに「いい音色でしたね」とか「間が良かった」「エンターテイナーだね」と言われた。
ただ良かれと思って演奏した「天城越え」は、「宮城記念館では相応しくなかった」と言う感想もあった。又、「北原らしい演奏だった」とか「北原しか出来ない演奏だった」と言う声もあった。

この是非は後の音楽評論家に判断を委ねよう。

アパートで尺八  音楽

今回は変わったタイトルを付けたものである。
何しろ思い出すと、ただひたすらパソコンに向かいて、書いているだけだ。つれづれなるままに。
時系列に過去のブログを編集すれば、自叙伝になるかも知れない。

さて、M大学三曲研究部に入って尺八を始めて、練習は部室や授業後は週3回、信濃町のお寺を借りていた。その後、同僚の「週3回は経済的負担が大きい」との発言があり、週2回に減った。そこでは割と練習は出来た。
住まいは武蔵境にあった長野県の寮S舎で過ごしたが、練習は寮の理事室で休日に出来た。

理事室と言ったって、離れの六角形の木造で古い建物だったので、外には筒抜けだった。冷房、暖房のエアコンの無い時代だから、夏は暑く窓は開けるし、冬はことさら寒かった。
それでも、音出しが出来たから良かった。

4年間で尺八をものに出来たと思い、NHK邦楽育成会に挑戦して合格した。

4年で卒業して、練馬の江古田の木造アパートS荘に移り住んだ。たったの4畳半である。
1階だったが、トイレは共同で、室内の台所は半畳、風呂は無い。姉に貰った簡単な炊飯器で飯を炊き、惣菜は近くのセイフ―のスーパーで買ったものだった。
そこから渋谷のNHK邦楽育成会に、夏まで毎週火曜日に通った。

なにしろアパートであるから、音が思い切り出せない。仕方ないから楽譜を見て、尺八は吹いたつもりで口にあてがい、指使いの練習をした。

その頃は少し、M大の尺八指導をしたり、たまたまの縁で一人尺八を教える事になった。
アパートでは教えられないから、紹介してくれた南大塚のA君宅を貸していただいた。この人が実質の一番弟子となった。(40年以上の付き合いがあり、先日新宿で飲んでカラオケまでした)

M大では、尺八の演奏家で製管師の先生の紹介で、代田橋のお寺を借りられた。以後連綿と続いているのである。

当然、青木鈴慕先生には尺八を習っていたので、それらが音の出せる練習だったから、そこで音出しのノウハウを確立し、当時は「一週間練習しなくても音は鳴る」と豪語していた。

コツは机上の塵を一気に吹き飛ばす要領で、唇を締め、とんがらないようにして吹く。
この要領は、多分あまたある尺八の教則本には載っていないであろう。お試しあれ。

そして正月も半ばの頃、郡川直樹の紹介で共に「北島三郎ショウ」に出演した。
場所は浅草の「国際劇場」(現浅草ビューホテル)で10日間通った。平日は2ステージ、土日は3ステージと大変だった。
彼が、一度遅刻して一人演奏した事もあったし、彼が一日NHK録音で来られなかった日もあった。

尺八での生活に見切りをつけて、新年度に田園都市線の藤が丘にある、スーパーに入社した。
藤が丘までは遠かった。何しろ西武線の江古田から、池袋。山手線に乗り渋谷。東横線で自由が丘。田園都市線で藤が丘だ。片道1時間30分はかかる。

残業の日は帰って寝るだけだった。心無い先輩に「江古田に愛人でもいるのかい?」と言われた。

身体がきつかったので、25歳頃は「高津」のアパートM荘に移った。
貧乏性だったのか、又も木造アパート2階建の2階、6畳でやはり半畳の台所。トイレは2階の共同(汲み取り式)で風呂は無し。玄関は共同で鍵があり、1階は大家さんが住み、私は2階の部屋でさらに鍵が必要だった。

その頃、様々な人の紹介で弟子も増え、私の定休日の木曜日に併せて弟子の知り合いのマンションや自治会館等で稽古をした。
私も、弟子も若かった。稽古は2時間位で終わって、新宿歌舞伎町を中心として飲み、結構徹夜で飲んでしまった。とにかく話題は尺八の話ばかりであった。

弟子に「どうしたら早く上手くなるのか?」と聞かれた時の答えは「1に練習、2に練習ですね」と言った。
付き合いが濃密となり、新宿の「たこ八」の店で飲んだり、私の信州の実家にも3人が来たこともあった。

こうして、教えるのが私の練習になり、アパートではほとんど音は出さなかった。むしろ出せなかった。

それでも紆余曲折を経て、青木鈴慕師からついに「尺八リサイタルをしなさい」とお達しがあった。27歳の時だった。

1976(昭和51)年6月に私のHPの表紙の通り、リサイタルとなったのである。アパートでは音が出せないので練習は、藤が丘にあったビルの貸し広間を休みの日に借りた。

いよいよ、リサイタル前日だった。もう暑くてビアガーデンもオープンしていた。
明日は休みだと総務部のO君に誘われて「北原さん飲みに行きましょう」と言われた。
会社の入社面接では、尺八を趣味でやっている事は話したし、同僚の結婚式や会社の旅行の大宴会では盛んに尺八は演奏していた。男子社員にはリサイタルの事は言って無かったが、ごく一部の女性社員には内緒で来るように言ってあった。

しかし、「明日は俺の尺八リサイタルだから嫌だ」とは言えなかった。
仕方なく5〜6人でプール沿いのビアガーデンで飲んだ、間違いなく私は「明日のリサイタルは大丈夫かなぁ」とずっと思っていた。
生ビールを2杯と枝豆やポテトチップス、ソーセージ、などで切り上げた。

リサイタルは午後集合であったので未だ良かった。
暗譜で演奏するのは「乱」「一定」「詩曲」で自信と言うか、ある程度の開き直りがあったかも知れない。

尺八リサイタルについては別掲にしないと、とても終わらない。

三木稔の思い出  音楽

作曲家、三木稔(1930〜2011)は81歳で亡くなられた。

万年青年のような三木稔には、学生時代に何回かお会いし、さらにご自宅に伺った事もあった。

洋楽系の作曲家でありながら邦楽作品を数多く作曲されて、ほとんどが有名な作品であるような、凄い作曲家だった。作品はオペラ、マリンバ、合唱曲、映画など多岐にわたる。

恥ずかしながら、今現在その作品のリストを見て曲名だけは知っている曲が多い。

最初にお会いしたのは、現代邦楽が盛んになっていた頃の大学の3年生の時だった。
三木稔は、日本音楽集団を中心として活躍しており、盛んに定期演奏会では新作を発表していた。

1966年には「古代舞曲によるパラフレーズ」1967年には「四群のための形象」を作曲しており、私は演奏会には良く行っていた。

何しろ、我々尺八吹きは古典曲が中心だから、つまらなさを感じていた。そこに現代邦楽にカッコ良さを見付けだし、定期演奏会に冒険をしたくなっていたので、無謀にも「四群のための形象」の楽譜が欲しかった。
我々の定期演奏会は12月であるから夏休み前のことで、もしかしたら間に合うかも知れないと思ったのである。

そこで、狛江の三木先生宅にM大三曲研究部のK君と共に伺った。面白いことに表札は15p位のいびつな輪切りの木で、真ん中に三木稔と書いてあった。

この時にお願いして「四群のための形象」と「グリーンスリーブス」の楽譜をいただいた。
ただし、この「四群のための形象」は我々では技術的に難しく、大太鼓などいくつもの打楽器も無理だと判断して定演ではしなかった。

1969年には二十絃箏の野坂恵子による「天如」(てんにょ)を発表。その演奏を私はNHKFMで聞いて大変感激して三木稔に手紙を出した。
後日、たまたまW大の友人と三木稔にお会いするため、レコード会社のスタジオに伺った。
ちょうど「天如」のレコード化の編集中だったところを見せてくれた。

その時、「天如」の手紙の話が出て「それは私です」と言ったところ「君だったのか」と言われた。

その後、NHK育成会同期のメンバーを中心とした「生韻」(しょういん)と言うグループを作り活動をしたが、「劇団三十人会」の新宿紀伊国屋公演で秋浜悟史作の「おもて切り」(1971年12月17日〜23日)の劇伴に出演した。

劇中歌の「南部よされ節」や秋浜悟史作詞、三木稔作曲「我鬼」(1970年)を尺八伴奏した。

我鬼の詞は「父と母と子は何日も歩き続けた。逃亡だ。脱走せねばならぬ。山越えの道は、しつっこく険しく曲がりくねって回帰するが・・・」今でもそのメロディーは覚えている。

その後割とすぐに何の縁かは忘れたが、M大の「さわらびコール」と言う合唱団に頼まれて「我鬼」の尺八伴奏したこともあった。
どこでこの曲を知ったのだろうか。
不思議な縁だった。

音程の差  音楽

今年の春に放送された、平成27年度NHKのど自慢グランドチャンピオン大会で、中学1年生の小山祐輝君がみごと優勝した。
曲は氷川きよしの「獅子」であった。

並み居る歌うまの激戦だったが、審査委員長の湯川れいこが「最も安定した人を選びました」と言ったそうである。(他人のグログより)
私は「音程の差ですんなり決まりました」と聞こえた。

歌すなわち音楽は、音程もさることながら、リズムや感情表現、強弱、などの総合芸術である。
プロの歌手には、さらに見た目すなわちイケメンか、美人か、容姿端麗かなどが加味されるであろう。

しかし、皆上手かったにもかかわらず、「音程の差」がどんなに大事か分かった気がした。
音程の差が勝敗を決めたのだった。

「カラオケバトル」の番組を見ていると、映像画面にリズムはもちろん音程も表示されるので、合っているか違うかが一目瞭然である。

のど自慢番組のゲスト歌手が「SMAP」であり、音程の悪さは中居君自身、認める程である。
「のどじまんTHEワールド」でも司会をして、自虐的に発言している。
音程が少しくらい悪くても、グループなら歌手になれるのである。

友人とカラオケに行くと、気を使うのはやはり「音程」である。
ある程度、教育を受けてきたので友人とは違うはずである。いやそうで無ければいけないと思って、歌を歌う。
「北原は音程が正しいね」とは良く言われたが、「カラオケ店」での採点を見るとまだまだである。

しかし、尺八の音程は難しい。

箏や三絃と合奏前に調絃しても、演奏中に変化してくるので、音程に敏感で無いと音痴になってしまう。

さらに、5孔尺八におけるメリ・カリなどによる半音の吹奏が難しく、音程が不安定になってしまう。
演奏中にいかに箏や三絃の音の高さに合わせられるかが、問われる。
そこにプロと素人の違いが出てくる。

やはり、超一流のプロの尺八演奏者は音程が正しい、と聞こえる。
テクニックだろうか。
たかが音程、されど音程と言おうか、これを無視すると「雲泥の差」となる。

だが尺八古典本曲はむしろ、音程が不安定と言うか、メリ・カリ・ユリ奏法により平均律でない音程が存在する。半音の半音も存在する。
それらを3人が演奏したら、音程がうねりになって聞こえる事も生じる。

むしろ、そのうねりを狙って作曲されたのが中俣申喜男(なかまたのぶきお)(1932年〜)の「三本の尺八のためのスペース」という曲である。(1969〜1970年作曲)
これは「尺八3本会」が良く演奏をしたが、最近ではあまり聞かない。

素人でも音程が狂わない楽器はピアノであり、大変うらやましい。

弦楽器であるバイオリンも不安定であり、超一流になるとやはりここが違う。
以前、ギターとバイオリンの演奏を聴いたことがあったが、バイオリンの音程が悪く、気持ち悪かった。

バイオリンなどの弦楽器は、ビブラートをかけて演奏するのが当たり前で、それが綺麗に聞こえるし、歌の採点でもビブラートを付けると点数が上がる。

尺八でビブラートが多いのは山口五郎や山本邦山で、青木鈴慕先生は余りのビブラートは嫌っていた

私もビブラートは掛けない演奏するが、音程や息切れ、鳴りをごまかす時には使用している。

のど自慢に戻ると、北島三郎は昔出演した時は鐘2つだったそうだが、平成23年度の「徳永ゆうき」君はグランドチャンピオンになり、YouTubeを見ると「俵星玄蕃」など高校生の時(17歳)でもう完成されている。

その徳永ゆうき君が映画「家族はつらいよ」に「うなぎや」の出前役で出演し、宅配車に乗りながら「寅さん」のテーマ曲を歌うシーンがあったが、やはり上手いものである。

イケメンではないが歌もキャラも良いので、彼の人気も「うなぎ登り」である。


先生の代演  音楽

表題の「だいえん」の漢字変換したら、「大円」とか「大宴」しか出なかった。
「代演」が一般的でないのが不思議だ。

今回は代演、すなわち先生の代わりに演奏会に出演した話である。
又も自慢話になるから、見たくない人はここでパソコンを閉じた方が良いと思う。

最近は物忘れも多くなってきたし、記憶が無くなる前に書いておこうと思った。
青木鈴慕師の代演を2回程行った。

一つは、創作モダンバレーの生演奏であり、もう一つは八木敬二のおさらい会だった。

「創作モダンバレー」の尺八演奏は元々青木鈴慕師に依頼されたもので、私は代わりにリハーサルだけの予定だった。
大学を卒業してNHK育成会に通っている時だったから、たしか1971(昭和46)年である。

曲は東京芸術大学出の作曲家、宮下和夫氏による新曲で、尺八とバイオリン、チェロ、打楽器による4人編成で、楽譜はあらかじめいただいていた。

リハーサルは芸大の教室で行われた。
芸大は初めて中に入ったが、気分が高揚するのを覚えた。

現代曲の小品で、尺八は低音から急に高音になったり、間が大事であった。
弦楽器と合奏するのは初めてだったので、かなり緊張した。

尺八は純音でなく、息使いや奏法でどうしても息と混じりけのある音になる。
その点を指摘されたが、仕方なかった。考えてみれば何故フルートでなく、尺八だったのか。
これも「ノベンバー・ステップス」の影響だったのか?

後日、渋谷のモダンバレーの先生宅で実際に振付と、演奏のリハーサルをした。

邦楽の世界と違って、洋楽の方々は何か話している内容のレベルが高い感じがした。
しかし、それほどの難曲ではなく、私でも務まるかなと思った。

結局、東邦生命ホールでの本番も私が演奏することになったのだが、青木先生から「君で良いと言っている」と言われた。カラオケ大会の時には「北原に仕事を取られてしまったなぁ」と笑いながら話された。

二つ目は、八木敬二のおさらい会での尺八助演であった。
これも24〜25歳の頃だった。

おさらい会には青木鈴慕・山口五郎など錚々たるメンバーが助演だった。

ところが、青木鈴慕先生は、受けた後どうやら群馬県でリサイタルをすることになってしまった。ダブルブッキングである。

おさらい会では、先生は「こんかい」と「青柳」を演奏する事になっており、急遽私に「こんかい」を演奏するよう指名された。ちなみに「青柳」は鈴慕会の他の人だった。

信濃町の八木敬二先生宅に青木先生と伺い「こんかい」の練習をした。
三絃は八木先生で、箏は門下生の第一人者だった。
八木先生は立派な体躯で、素晴らしい低音のとおる声で、難しいリズムの速いカ所を指導していただいたお蔭で、しっかりとこなせた。

玄関を出てから、青木先生に褒められてうれしくなった。
練習はもう一度、私が単独で伺った。

そして当日、プログラムを見て、びっくりした。
「こんかい」は青木鈴慕のままで、私の名前に修正されておらず、結局知らない人は私が青木鈴慕と思ったかもしれない。

前後に、山口五郎、川瀬勘輔の大物先生が演奏していた。
とにかく必死で演奏した。

その時の賛助出演者に井上道子先生もいらしていて、どうも私の演奏を舞台の袖で聞いていたらしい。

終わって楽屋に行くと井上先生が私に「こんかいを演奏した人はどなた?」と聞かれたので、私は名乗った。
「良かったから青木先生に伝えておくわ」と言っていただいた。

これが、本当に伝わっており、後日鈴慕会の一泊合宿をした折に、青木先生から「先日八木先生の会でこんかいを吹いたのは誰だ?」と言われたので、「私です」と言ったら「井上先生が良かったと褒めていたぞ」と言われ、大変感激したのだった。

それで「こんかい」を気に入って「今回」だけでなく、その何年か後の鈴慕会芸術祭にても演奏をした。

題名のある音楽会  音楽

日曜日の朝9時からテレビ朝日で「題名のない音楽会」があり、毎週欠かさず見ている。

私の高校生の頃の1964年8月放送開始だから、50年間も見ている事になる。東京五輪開始の前からだ。
最初は黛敏郎が司会者で、クラシックから現代音楽や、楽曲の解説をしてくれて大変勉強になった。

高校ではブラバンだったので、東京に行ったらオーケストラが聴けるぞとワクワクした。

最近は司会が佐渡裕から、五島龍に交代になったが、邦楽の尺八なども時々やってくれて嬉しい。

今回は「題名のある音楽会」に通っているので書いてみたい。

昨年の2015(平成27)年2月にミューザ川崎シンフォーニーホールのランチコンサート「アメリカ人の尺八奏者が贈る、和と洋の世界」と題して、ジョン・海山・ネプチューンと箏・パーカッション・ビブラフォンの演奏会に行って来た。

最初は、尺八ソロの「五木の子守唄」。だが彼風にアレンジしていたからアレっと思った。続いて「荒城の月」「さくら」尺八本曲「鶴の巣籠り」そして箏との「春の海」だった。
彼の演奏は軽やかで、すごくスウィングした。

その上、お客様に本人が手でリズムを打ったのを、マネさせたのだ。
まず簡単な手拍子から、少し複雑なリズムまでやり、これが客に笑いを産み、十分楽しませた。
流石にエンターテイナーである。

こういう邦楽なら楽しいであろう。

私は彼のCD「トウキョウスクエア」を持っていて、新宿の自営をしていた時に良く聞いていた。
オリジナル作品も多いが、沖縄民謡的な「奔流」はリズムよろしく楽しい。共演者の箏奏者である渡辺泰子さんはNHK育成会時の同期である。

演奏会が終わってすぐ彼はロビーに来て、CDの販売で忙しかった。

私は尺八をやっている手前、CDも持っているので話しかけてみた。
「私も尺八をやっているが、ジョンさんのCDを持っていて助演の渡辺泰子さんはNHK育成会の同期です。とても楽しい演奏会でした」と言った。喜んでくれたようだ。

ミューザ川崎のランチ&ナイトコンサートは昼夜だから効率が良く、ランチは格安のワンコイン500円でナイトは1000円で聞ける。

このコンサートは毎月開催されており、1年分の演奏会のカタログをくれるので、スケジュールが良く解って良い。

今まで聞いたことが無かったパイプオルガン等、何回も聞いた。
ミューザ川崎の特色は何と言ってもパイプオルガンが鎮座ましますので、それを生かさない手はない。
その迫力たるや、ただものではなく、重低音から高音まで重音となってホール全体から伝わってくる。

演奏の組み合わせも趣向を凝らし、パイプオルガンとピアノだったり、パイプオルガンとサクソフォンだったりする。

ここで、若いサクソフォン奏者の上野耕平氏を知ったが、昨年8月に素晴らしい演奏をした。
私も時々演奏するが、息が長い「G線上のアリア」だなと思って聞いていたら、どうも循環呼吸法だった。

口で息を吐きながら、鼻で吸う奏法だから、途切れないのである。

後日、彼は「題名のない音楽会」に出演していた時、コップに水を入れてストローで吹く循環呼吸法を実演してみせた。だから息が長かった訳である。
私には出来ない。

「ジャズ」や「ホルン」のバトルなど楽しい企画もあった。
このブログを見て、興味を持って行かれると「ちと」まずい。満席になると困るからだ。

ちなみにミューザ川崎シンフォ二―ホールは収容人員は1997席で、ヴィンヤード形式のオープンステージ。パイプオルガンはスイス製で、管は5248本もあるから凄い。

演奏会が終わると1時で、ちょうど昼食時である。
隣のビルにラゾーナがあり、レストランが充実している。
最近は4階の「波照間」に決めて、「ゴーヤチャンブル定食」を食べるのが、楽しみである。
ゴーヤの苦みがよろしく、もずくや美味しい「ぜんざい」も付く。

一方、知人の知らせで尺八の演奏会に行ったことがある。

「和魂洋才」尺八・箏・十七絃とフルート・サックスで聴く「和」と「洋」の世界と銘打って開かれた、演奏会に行って来た。

昨年の6月、鶴見区民文化センター「サルビアホール」であった。

尺八の田嶋謙一がレジデントアーティストと何やら分かんない肩書で、メインの司会もやった。
彼は田嶋直士の息子で芸大出だ。

「浜辺の歌」「椰子の実」「ムーンリバー」「雨にぬれても」や共演者の池上眞吾のオリジナル作品も演奏したが、尺八は上手い。

YouTubeを見ると古典本曲も上手いし、今後の尺八界を引っ張っていく存在だと私は認めた。




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