母校が日本一  音楽

私が在籍した飯田市立大手町小学校が合唱コンクールで日本一になった事を思い出した。

1956(昭和31)年度の「全国唱歌ラジオコンクール小学校の部」で優勝したのだった。
当時の大会名は、その後の昭和37年に「NHK全国学校音楽コンクール」と変更している。

課題曲は「わかいおじさん」で自由曲が「ゆめよぶ春」だった。
指揮は山中邦夫先生で、のちに私の音楽担当の先生である。

私は未だ小学2年生の時だから知らなかったが、7歳上の姉や母が歌っていたから自然に覚えた。
当時はテレビは未だ無く、専らラジオから曲が流れてきた。

「わかいおじさん」は与田準一作詞、牧野統作曲の同声2部合唱の曲である。
与田準一は童謡の作詞家で、小学校で習う「小鳥の歌」などの作品がある。

「わかいおじさん」の歌詞は

1、 広い肩をした私のおじさんが やって来た。
  熊が出ると言う 山の話をした。
  低い声だけど 歯がきらきら、
  万年雪の歯がきらきらした。 

2、 赤ら顔をした私のおじさんが やって来た。
  ふかが住むと言う 海の自慢をした。
  波の向こうから 帆がゆらゆら、
  パイプの先に 帆がゆらゆらした。

3、 太い腕をした私のおじさんが やって来た。
  空に組むと言う 鉄の響きをさせた。
  でかい声だして ガンガラガラ、
  ゆかいな歌をソレ ガンガラガラガン。  

これがどう言う事だろう、私が自営業していた新宿の店舗でラジオを聞いていたら、その「わかいおじさん」が流れてきたのである。

もちろん、NHKラジオだったが「それでは聞いていただきましょう。昭和31年度優勝校の飯田市立大手町小学校の皆さんで『わかいおじさん』です」と聞いたときは鳥肌が立った。

運命を感じた時だった。一生のうちに聞けるとは思っていなかっただけに、感激した。
あわてて、実家に電話をしたくらいだった。

その上、幸運が続くのである。

今の時代、誰かがYouTubeにアップしてくれて、聞けるのである。
kojiito2138さんがアップしたのを発見したので、ぜひ聞いていただきたい。

見事な演奏である。音程、ハーモニー、メリハリ、言葉の鮮明さはどれも素晴らしく、流石と思った。
当時は中央高速道も無く、本当の田舎でよくぞ東京に出て堂々と歌ったもんだと感心した。

歌詞と曲が一体となった名曲で分かりやすいし、歌い易い。

私が小学校4年生の時の担任の先生の謝恩会で、母の低音と私の高音のデュエットで「わかいおじさん」を歌った記憶がある。

田舎に帰る度に母と合唱したもんだが、今は96歳になったので残念だが「忘れた」と言われる。

我の母校と言ったが実は小学4年生までは大久保小学校で、廃校になったので5年生から大手町小学校に通った。
その後、大久保小学校の跡地は飯田市役所になった。

大手町小学校5年の時の課題曲は「秋は白い馬にまたがって」だった。
作詩は薮田義雄、作曲は京嶋信。

1. 秋は秋は来るよ
  白い馬にまたがってーーー

小学校6年生の時の課題曲は「世界の希望」で作詩は与田準一、作曲は佐野量祥。

1. 僕の好きなのは緑、
  君の好きなのも緑、
  緑はみんなの希望。

実はクラスにあこがれの「みどりさん」がいたのだから、この歌を歌うと恥ずかしくて、とても声を出しては歌えなかった。

何処の小学校もそうらしいが、コンクール時には各クラスから歌の上手い人が選ばれて、合唱団を形成するらしい。

私もひそかに狙っていたのだが、選ばれなかった。

多分、選ばれた同僚たちは関東甲信越大会で、東京九段会館まで行ったようである。
晴れ晴れしい顔を見て、うらやましく思っていた。


小学校の合唱コンクールの曲の中に有名な曲もある。
例えば「花のまわりで」である。
江間章子作詞、大津三郎作曲で1955(昭和30)年、第22回大会の課題曲である。
1964年4〜5月のNHK「みんなのうた」にも放送されたから、知っている人もいるであろう。

歌詞は

1、 花のまわりで 鳥がまわる
  鳥のまわりで 風がまわる まわれまわれ
  こまのように 歌いながら
  地球のように まわろうよ 

歌詞に余り深い意味は無いが、曲と相まって素晴らしい作品となっている。

小澤征爾がグラミー賞  音楽

この度(2016年2月)、小澤征爾がグラミー賞を受賞した。

小澤征爾指揮、ラヴェル作曲・歌劇「こどもと魔法」のアルバムがグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞したのだった。

誠におめでたい事であり、共に喜びを分かち合いたいと思う。

尺八を演奏する私にとって、オペラは余り分からないので、小澤征爾について私との接点を考えてみたら、結構あった。

それは、本であり、CDであり、演奏会である。

まず、本は「僕の音楽武者修行」と武満徹との共著「音楽」が手元にある。
「僕のーーー」には、ブザンソンの指揮者コンクールで優勝した時の事などが書かれており、26歳の時の著作だ。
「音楽」は2人の対談形式になっており、2人の年譜もあるので当時の事が良く解る。

CDはベートーベン作曲「第九」と、ウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」で指揮した時のCDもある。
ウィーン・フィルのは、2002年正月にテレビの実況も見ていた。

CDにあるヨハン・シュトラウス2世作曲「美しく青きドナウ」は好きだし、ヨハン・シュトラウス1世作曲の「ラデツキ―行進曲」は、客席も一体となって手拍子するし、私もどうしても手拍子をするのである。

私が書きたかった事は、小澤征爾の指揮を見に行った事である。

武満徹が「ニューヨーク・フィル・ハーモニック」125周年記念に委嘱されて作曲した「ノベンバー・ステップス」は1967年11月、ニューヨーク・リンカーン・センターで初演された。
指揮は小澤征爾。

この曲は、琵琶と尺八、オーケストラの編成で日本初演は1968年6月4日上野文化会館大ホールだった。この演奏を聴きに行ったのだ。私は大学2年生の19歳だった。

これは、「オーケストラル・スペース'68」現代音楽祭で演奏され、指揮は小澤征爾。
現代音楽の演奏会で超満員になったのは、珍しかったそうだ。

琵琶は鶴田錦史で尺八は横山勝也。2人が前に出て客席から見て指揮者の左側が琵琶、右側が尺八で、オーケストラは裏側に座る。

武満らしく、きれいな弦達の響きと独特の難解さがあり、不協和音的な感じもする。
途中から琵琶の響きと尺八が対峙する様が凄い。曲は「ノベンバー」の11にこだわり、構成は11段で楽譜は図形のようになっている。(邦楽曲の段ものを参考にしたのか?)

琵琶の余韻と撥で胴を叩く音、尺八長管のムラ息奏法。オーケストラ共に3者が戦いのようでもあり、融合するような協奏曲風である。

超満員の会場は、熱狂的に拍手をして終了したが、終了後の事だった。
小澤征爾がステージから降りて、客席に向かったと思ったら、客席真ん中辺りにいたアメリカンフォークソングの「パフ」などで有名な「PPM」がいたのだった。特にマリーの手を取り膝まづいて挨拶をしていたのが印象的だった。

時を経て25年程前、渋谷オーチャードホールで「ノベンバー・ステップス」の演奏会があった。
当時会社勤めをしており、会社の役員からこの演奏会に行くようチケットを譲っていただいた。

家内といそいそと出かけたのであるが、ロビーで作曲者の武満徹を見つけた時に私は、家内に「あそこに武満徹がいる」と指を差したら、武満徹が気が付き、面識が無かった私にどうやら間違えてお辞儀をされてしまい、恐縮したのだった。

実はこの「ノベンバー・ステップス」は中学の鑑賞曲になっており、娘も聞いたのだが、どうやら音楽の先生は皆の反応を見てか、途中で終わらせたらしい。

最近、たまたまNHKFMで放送中を知り、途中から聞き出した。
武満徹は亡くなったが、その後もかなり演奏されており、鶴田錦史に続いて横山勝也も亡くなったので、若手演奏家が演奏している。

昨年は、藤原道山のサントリーホールでの尺八リサイタルで聞いた。

横山勝也はかつて「この曲を演奏すると一週間位身体がガタガタする」と言っていた程、息使いが大変で疲れる曲だ。

初稽古  音楽

2016(平成28)年が始まった。
皆様、あけましておめでとうございます。

前回「ヒトカラ」を書いたのだが、その後テレビで新宿西口の「ワンカラ」を放送していた。
「ワンカラ」も一人でカラオケをするのだが、そこは個室で、ヘッドフォーンをして歌うのだ。
中にはぶっ通しで8時間も歌う人がいると言う。フルートの練習する人もいるらしい。大声を出しても、文句言われなくて誠に都合が良い。

元日早々、年賀状を頂いた。ほとんどが元旦の表示がしてある。
内輪で新年会をした時に聞いてみた。「元旦」と「元日」の違いは?と。

以外に知らない人がいる。私は小さい頃から知っているので、答えた。元旦とは元日の朝の事である。従って元日の朝とは言うが、元旦の朝とは言わないのである。

私が教える尺八の稽古は4日に始まった。先ずは音出しである。

今月は24日に「新そばを楽しむ会」で尺八を演奏するので、曲目の選定に入らねばならない。
毎年行っているので、少しは変えたいと思うが、主催者は「1年経てば皆忘れているから、同じ曲でもよい」と言う。

確かに良い曲は、何回聞いても良いものだ。

今、策を練っているのは、「早春賦」と「知床旅情」のコラボだ。
コラボってなんだ?

最初の出だしが似ているので、交互に演奏したら面白いのではないかと思ったのである。
楽譜をみると8分の6拍子と、4分の3拍子の違いがあるが、演奏用に楽譜を書いてみたところ、何とかなりそうである。

その他、信州出身が多いので、毎年「千曲川」を演奏している。

話は変わって、大相撲初場所も始まった。信州出身の「御嶽海」が予想より早く幕内に上がって来た。
大変、楽しみである。突き押しが得意だが、組んでも良しとしないと、大関クラスにはなれない。簡単ではない。必ず壁にぶつかる。怪我もするだろうし、上に上がるには四つ相撲も出来るかに尽きる。

土俵の「しきり」の乱れが「シキリ」に言われて久しいが、制限時間になったら、行司が「位置に付いて、用意、ハッケヨイ」で力士が、両手を付いて立ち上がれば、陸上競技の様に一斉にスタート出来ると思うが、ダメだろうか?

私の知っている元力士の「栃櫻」さんは、「そんなの面白くない」と言う。「呼吸や駆け引き、勢い等いろいろあって、素人には分からないだろう」と。だからなかなか改善出来ないのだろう。

相撲通はどこかにいるもので最近、近所の寿司屋に行ってたまたま相撲の話になり、何と「栃櫻」を知っていると言う。これは通だろう。彼の最高位は「十両」である。

昨年、北の湖元理事長が62歳で亡くなった。全盛期は本当に強かった。
栃櫻が西新宿に「方屋」を開店した時に、お披露目に北の湖、北桜、元金親、忍の山が見えた。
私も招待されて、北の湖の前で「柔」を演奏した。話は出来なかったが、おとなしい方だった。

北の湖が筆字で「方屋」と書いたのを、店の看板や衝立にも使用していた。
実は私は当時、西新宿で自営業をしており「方屋」の名刺も作った。
そこにロゴとして北の湖の「方屋」を入れたのである。

北の湖が入門の頃から、栃櫻は先輩として随分悪い事を教えたと言っていた。
北の湖は最後まで、相撲の事を考え、相撲を全うした人生だった。

ヒトカラ  音楽

一人でカラオケをするのを、「ヒトカラ」と言うのだそうだ。

パソコンでは「ひとから」とインプットすると「人から」と最初に表示される。未だトップ表示ではない。
いま時、何でも省略で「セクハラ」「マタハラ」は、当たり前の表現になってきた。

その「ヒトカラ」を最近、新宿のカラオケ店「マック」でやってきた。
マクドナルドのマックではありません。

元々新宿では、新宿西口のパレットビル内の「歌うんだ村」の会員になっていたが、しばらく行っていなくて一年が過ぎてしまった。

そこで、もっと便利な「マック」を見つけた。会員登録をして、結構通っている。
ここでカラオケで歌うし、何より尺八でカラオケバックに演奏するのは、随分気持ちが良い。

私のヒトカラは大概2時間で、先日はたっぷり歌った。以前は最初の1時間が歌で、残りの1時間は尺八の練習をした。

「マック」は24時間営業で朝からやっているので、平日の11時から行けば会員で安い。
さらに、いつも割引券をくれて、室料20%引きや1月には60分無料券もくれる。

私が歌いたいのは、三橋美智也や北島三郎などの演歌である。

先日は23曲歌えた。
これは、以前から自分が歌うリストを作成してあり、その中から好きな曲を歌う事にしている。

先ずは三橋美智也の曲は
 「哀愁列車」「赤い夕陽の故郷」「石狩川エレジー」「岩手の和尚さん」「おんな船頭歌」「ハリマオの歌」「古城」「武田節」「星屑の街」「達者でな」「夕焼けとんび」。

今回は採点の表示が出なかったが、以前「古城」が91点でこれが私の過去最高点で、なかなかそれを越える事が出来ないでいる。

三橋美智也のキーは高いが、私は彼に合わせている。そうしないと低音が出なくなってしまうからだ。
  
最近、テレビで「カラオケバトル」を見ていて99点なんてすごいなぁ。
優勝した新妻聖子は、本当に上手いと思う。

春日一郎の「別れの一本杉」そば打ち会に来られるオジサンが好きで私の尺八伴奏で歌うので、私も練習してみた。

三波春夫の「俵星玄蕃」これは、本人の浪曲入りが好きだが、最近は島津亜矢が良い味で歌っている。

井沢八郎の「ああ上野駅」これを歌っていると、どうしても田舎を思い出して泣けてくる。

布施明の「霧の摩周湖」これは難しかったが、段々慣れてきた。もちろん歌う時には、旅行した「摩周湖」を思い出して歌う。

北島三郎の「兄弟仁義」これと、以前北島三郎ショウで尺八伴奏した「仁義」。これは私のおはこである。

クールファイブの「長崎は今日も雨だった」「噂の女」これはもう前川清の物まねである。
青木鈴慕先生は、私にいつも「長崎はーー」をリクエストして、最後の「雨だったの部分を強調しろ」とよく言われた。例の裏声になる部分である。

前川清は音質的には高音と感じないが歌ってみると、とても高くて歌えない。だから彼のキーの一音下の設定である。

細川たかしの「心のこり」は調子よく「私バカよね」と歌うと中学の友人は間髪入れずに「そうだ」とヤジを飛ばす。「浪花節だよ人生は」尺八の伴奏がいいね。

五木ひろしの「千曲川」これは毎年、蕎麦打ち会で私が尺八演奏を行っているのだが、メンバーは信州人が多く、歌ってくれる人が上田市のスナック経営者で、気持ちよく歌ってくれる。
今回は、自分が歌おうと思ったのである。
「よこはまたそがれ」は作詩者、山口洋子の追悼の意味で歌った。

カラオケで尺八を演奏するのは、慣れていないと難しい。
特にキー設定だ。尺八で演奏しやすい調を瞬時に探すのだが、歌の最初の長く伸ばす部分で音を探してみる。

そこで♯か♭を上げたり、下げたりして演奏しやすいキーを探す。
これは、カラオケの機種によっても最初のキー設定が違うだろうから、毎回同じ機種ならそのキーをメモしておけば、正しく演奏が出来る。

何事も小まめさが必要である。

西新宿シニア活動館で演奏  音楽

11月18日に西新宿シニア活動館にて、尺八ミニライブをしてきた。40席がほぼ満席。

月に一度「つのはず友遊カフェ」という催し・イベントがあり、地元の角筈地区の方々が参加できる。会費は200円で飲み物とお菓子がいただける。

昨年も縁がありそこで演奏をしたのだが、今年も楽天からでは無いが「オコエ」がかかり、演奏をしてきた。トークと尺八独奏である。

簡単に内容を知らせようと思う。もちろん演奏そのものでないのは勘弁願いたい。

プログラムは民謡の「こきりこ節」で始まった。
今回は尺八で民謡・文部省唱歌・ポピュラー・クラシック・歌謡曲・邦楽曲の中から選曲してみた。

「こきりこ」は長さ7寸5分(約23p)の竹で作った民族楽器。2本持って打ち鳴らして踊り歌う。

2、「月の砂漠」 加藤まさを作詞、佐々木すぐる作曲。千葉県の御宿海岸に、2頭のらくだに乗った王子様とお姫様が建てられていると言う。一番をニ短調で二番をト短調で演奏。

3、「秋の夜半」ウエーバー作曲。オペラ「魔弾の射手」序曲で佐々木信綱作詞。一番をヘ長調で二番をハ長調で演奏。尺八に良く合う。

4、「アメイジング・グレイス」 イギリスの牧師が作詞した讃美歌

5、「ラ・ノビア」 チリの作曲家ホワキン・プリエートが作曲。1962年ペギー葉山がブラジルでこの曲を知り、あらかわひろしが日本語に翻訳してヒットした。本意でない結婚を前にした女性の悲しみを歌った曲。演奏している私が泣かないように頑張った。

6、「G線上のアリア」 バッハ作曲。バッハの死後の1871年、管弦楽組曲をバイオリンのG線のみで弾けるようにドイツのバイオリニストが編曲した。
この曲を本年8月にミューザ川崎で上野耕平氏のソプラノサックスで聞き、実に素晴らしい曲だと深く感銘して、是非演奏したいと思った。

7、「王将」 餃子の王将ではありません。
村田英雄が西条八十宅に何度も足を運んで作詞してもらった曲。尺八に合っているので昨年に続いて演奏。前奏と間奏もあり、二番まで。

8、「浪花節だよ人生は」 歌詞を「肩を抱かれて」と歌いだすと途中で「アレ?」となるから注意。前奏と間奏もあり、二番まで。

9、「春の海」 言わずと知れた宮城道雄作曲の名曲。もちろん箏の前奏部も尺八で演奏。この曲は一尺六寸管で前半の部分まで。

ここで、「皆で歌おう」という訳で、あらかじめ歌詞を配っていただいた「四季の歌」と「ふるさと」。

最初に一通り尺八で演奏をして、「四季の歌」は当然4番まで。「ふるさと」も同様に演奏した。皆さんしっかりとした歌声だった。

私の演奏は午後2時30分から始め、3時15分に無事終了した。

私もコーヒーをいただき皆さんと歓談したのだが、中には長野県出身者もおり大相撲の御嶽海の活躍の話で盛り上がった。昨年まで西新宿で働いており、知り合いもいらっしゃったので、楽しかった。でも、「まさか尺八をやっているとは知らなかった」と言う人もいた。

外へ出ると雨がポツポツと降り出していた。

その後は急いで、新宿から中央線で友人が待つ国分寺に行く。国分寺は初めてで4時30分の約束にピッタリ。

調べてあった南口の地下の居酒屋に行く。久しぶりの再会を楽しんだ。

ところが、若い女子会の4人が近くで大ジョッキを立て続けに2杯くらい飲んでおり、甲高い大声と笑いがうるさく、こちらも負けじと大声で話したので疲れてしまった。

当方、共に近況と愚痴を言いながらも、周りが余りにもうるさくて7時前には退散を余儀なくされた。

外に出たら、雨は土砂降りであった。


高校同窓の尺八吹き  音楽

高校の同窓生で何人尺八をしているか興味を持っていた。
一学年下の山口五郎門下の宮島源盟は以前から知っていた。

私が大学生の頃であったが、駒瀬竹子という高齢の箏の先生と知り合い、おさらい会に賛助出演した事があった。
その時、尺八の中川青童と宮島氏の父親(浩童)を知った事から、様々な交流があった。

中川氏には、ある時の正月に市田のご自宅に呼ばれた。
市田は市田柿で有名な場所で、当時は天竜下りの乗船場があった。

余談だが、天竜下りの船会社は2社あり、そのうちの一社に我が家の2階を貸していた。
ごく普通の民家だったので、和室のふすまで仕切られたままであった。何人か来られてガイドさんの練習をしており、私達の家族は皆、自然にガイド案内を覚えた。

「天竜の流れが皆さん方をお待ちしていたかのようでございます。これより天竜峡まで1時間30分。船頭は誰々、ガイドは私、誰々でございます。」と言う感じである。次に「伊那節」や「天竜下れば」の歌の練習もしていた。

従業員のおじさんがポマードをたっぷりつけており、座椅子に座ってふすまに寄りかかるので、母は「ふすまが汚れて困る」とぼやいていた。2〜3年で出て行ったようだ。

話を戻すと、中川青童は爺さんだったが感心したのは、自分で作成した稽古帳があり、例えば曲目を横に並べて、縦に練習した回数の正マークをつけておられた。「八重衣」等、かなり正マークが並んでいた。
誠に、こまめである。

その時、三絃の井上道子先生と合奏した息子さん(当時30歳前後の中川雄之助)のカセットテープ「残月」をいただいて、何回も聞いた。

その雄之助さん(私より10歳年上だった)本人に私は、約45年後に初めてお会いしたのである。
まるで、幻のような出来事だった。

あれから何年経ったであろうか。我が母校に邦楽班(ほとんど箏)が出来て、長野県大会に毎年のように優勝するほど力をつけた。そして今年まで16年連続で、長野県代表として全国大会に出場。

優秀賞は数多く、2010(平成22)年には文化庁長官賞、そして2013(平成25)年には文部科学大臣賞を受賞した。実質の全国大会優勝である。

後日、東京国立劇場大ホールで披露演奏会があり、聞きに行った。肥後一郎作曲「絃歌」は一糸乱れぬ、素晴らしい演奏だった。

終了して楽屋に、指導者で知り合いの大平睦先生を訪ねたところ、同じ同窓生の尺八竹友会所属の石川優輔氏を偶然知った。

話を聞けば、石川氏は中川雄之助氏と同期であると分かり、さらに我が母校に貴重な箏5面を寄贈した竹村孝生氏の存在も地元紙で知り、これで首都圏に私も入れて4人いる事が分かった。

そこで示し合わせて4人で、新宿の居酒屋で飲んだのである。
点と点が結ばれて、線で結ばれた瞬間である。線も丸くなり円となり、それよりも縁を感じたひと時だった。

その時、中川氏に父親の青童氏からいただいた、くだんのカセットテープ「残月」のいわれを説明してお返し(?)した。

竹村孝生氏は柳内調風の弟子で86歳でありながらお元気で、年賀状には「無聊(ぶりょう)をかこっている」と書かれていた。
辞書で知らべてみたところ「退屈で不平・不満がある」と言う意味だった。

そこで竹村氏とお付き合いしだしたが、いつも焼酎はボトルを注文し、お湯割りで軽く5〜6杯は空ける程強い。
「100歳まで生きようと思う」と誠にお元気な人であるが、どうやら尺八の演奏はリタイヤしたらしい。

別の尺八竹友会の知り合いによると、さらにもう一人同窓の尺八吹きが海外にいるらしいから、都合6人と言うところだろうか。

邦楽界のコロッケ そのU  音楽

尺八三本会の先生方(青木鈴慕・山本邦山・横山勝也)が当時、暮れの懇親会で各門下生や縁のある箏の先生方をお呼びして、カラオケなどをしていた。

都内のスナックを借り切って、筝曲家の沢井忠夫・宮下伸・中井猛先生方もお見えになった。

そこで、私の余興の時に宮下伸先生の目の前で、宮下秀冽作曲「三十絃・尺八二重奏曲」の物マネを口と動作でした。対象の三十絃は宮下伸で、尺八は横山勝也である。

宮下先生の演奏方法で絃を爪でこする「シュー」や、箏の裏面を左こぶしで叩く、竜角の外側を「カリカリ」と弾く方法と、横山先生の長管での「ムラ息」奏法をマネた。

その時、宮下先生が私のところに来て「違う。私の演奏方法はこうだ」と実演してくれた。もちろん「エアー箏」である。
「腰を入れて、シューとした後は絃のところで止めるんだ」と、ノウハウを教わった。直伝である。鈴慕師は笑って見ていた。「君、直接教わって凄いね」と言われた。

これを後日、日本三曲協会の新年会でやったのである。
新年会は家元を中心に、かなりの先生方がお見えになっていた。

次は尺八三本会の「風動」で三人の特色を出そうとした。
曲は「起承転結」で出来ており、「承」の部分から始めた。口尺八である。
青木鈴慕は迫力のある演奏で、山本邦山は実際以上の速さと、横山勝也は長管による「ムラ息」をオーバーに演奏してみた。

続いて、山本邦山作曲「壱越」。山本邦山はテクニッシャンだから、普通の人よりテンポが速い。
それを強調する為に、もっと速く尺八で演奏をした。

一楽章は途中で止め、続いてワザと邦山作曲「尺八二重奏曲第二番」の三楽章の冒頭を演奏して、誤ったふりをして頭を掻き、再び「壱越」の三楽章へ行き、もの凄い速さで演奏して途中グリッサンドで終わらせた。

会場にいた山本邦山本人に「すみません」と謝ると「君ィ、気持ち悪いよ」と笑っていたので受けたと思った。私のやりたい趣旨は分かってくれたハズだ。

鈴慕会の人に今でも、「山本邦山より手が回る」と言われる時もある。
どうもその時の印象が強かったらしい。「コロッケ」が森進一や美川憲一、五木ひろし、野口五郎、淡谷のり子らを物マネする時に、本人以上に本人らしく見えるのは「芸」だろう。
特徴を強調するためにオーバーな表現にはなる。

実際、邦山より手が回るかは分からない。

宮下伸先生も喜び「青木先生も喜んでいるだろう」と言われた。

後日、渋谷の東邦生命ホールにおける筝曲家の演奏会で宮下先生にお会いした時に、招待席から手招きをされて「隣に座れよ」と言われたが、畏れ多く遠慮した。

邦楽界のコロッケ そのT  音楽

「邦楽界のコロッケ」とは自称であり、他称ではない。

今や「コロッケ」と言えば、食べる「コロッケ」より物マネの「コロッケ」を思い出す程である。
私の物マネは邦楽界の筝曲家や尺八奏者の物マネで、二通りある。
一つは口でメロディーを奏でて、動作で物マネをする事と、もう一方は尺八演奏そのものでマネする事である。

最初の物マネのキッカケは、野坂恵子の二十絃筝「天如」の演奏を見た時に感じた時のを「六段の調べ」に置き変えて、口譜で「テーント−ンシャン」と歌い(これがいい加減な歌い方)、奏法をマネたのである。陶酔するように。

これは23歳位の時に、京都で演奏会があり、尺八は青木鈴慕師、橋本和夫(竹咏)と私の3人が出演した時の事だ。
演奏会終了後、鈴慕先生の部屋で酒盛りに呼ばれ、そこに箏奏者も何人かおられて、そこで野坂恵子の物マネが受けたので、その後、日本三曲協会の新年会で何度か披露をしたのである。

ある時、新年会でエレベーターで遭遇した女流筝曲家の大御所の先生に「あなた又、今日物マネやるんでしょ。楽しみにしているわ」と言われた。

日本三曲協会では毎年新年会をホテルで行っている。
ある時、赤坂プリンスホテル旧館での新年会は、青木鈴慕師が幹事で、山口五郎もそうだったと思う。

あらかじめ余興の打ち合わせで、鈴慕先生に高田馬場の研究所に呼ばれた。
そこで、私は青木鈴慕と山口五郎の「鹿の遠音」を口で演奏する案を示して、実際にやってみた。私が感じた二人の演奏の違いを、ものすごく強調することにした。

比較する為に山口五郎はキレイなメロディーで、スリ手は艶っぽく、ビブラートをオーバーにかけて、青木鈴慕は力強く、強力な立ち上がりの音「ツレー」を強調し、ボリュームを上げるところは、右手でクレッシェンドの表示をした。
笑いながら見ていた鈴慕師のOKが出た。

そして、当日の「鹿の遠音」は山口五郎の前で、本人の物マネ演奏(?)したのである。
これが山口五郎本人にも受けて、すぐにビールを持って私のところに見えたので、私の方が驚いた。

鈴慕師には「あの位偉い先生でもマネされると嬉しいんだよ」と言われた。
これに気を良くして、物マネが続く事になった。

尺八仲間と合宿  音楽

私が大学3年生だったから、1969(昭和44年)年の時だった。

私のM大一つ先輩のS氏、2年生のS大のK君、1年生のM大のY君、H大のA君と私の5人で、渋谷のJ女子大の筝曲部定期演奏会に賛助出演することになった。
我々は琴古流で、A君のみ都山流だったが、違和感はなかった。

S氏が関東学生三曲連盟(関学三)の委員長を務めた関係で、J女子大との縁が出来たようだ。
その人脈で他大学の尺八演奏者でも気に入った者を集めて、グループとして出演することになった。

賛助出演の曲目は、我々5人で山川園松作曲の「抒情詩曲」「夏の組曲」「稔りの秋」とS氏のもう一曲だった。筝曲家の山川園松だが尺八のメロディが抒情的で、大変美しい。演奏しやすく気に入っている。
その後、山川園松と縁が出来て、作品発表会のスコアをパート譜に移し替える写譜をする為、ご自宅に何日か通った事もある。一人住まいの私にとって昼食に出されたカツ丼は、最高の美味しさだった。

J女子大は定期演奏会の練習の為、夏合宿を長野県蓼科で行った。我々も一緒に合奏練習だと言って、合宿に参加した。

ホテルは別のホテル(我々は横谷温泉)で練習して、箏の合宿所に出かけ何度か合奏練習をした。当時はミニスカート全盛の頃で、尺八は後ろ側に座るので、目のやり場に困ったものだった。

我々のホテルにはT大学オーケストラ部も合宿しており、偶然だが私の高校のブラスバンド部の後輩も来ていた。彼は打楽器で高校と同じであった。打楽器を極めたかに思ったが、卒業後随分経って飯田市で会った時は「学校の先生をしている」と言っていた。ただ細かった体型がすっかり変わっており、びっくりした。

とにかく楽しい合宿だった。

無事、合奏練習を終え、東京までの帰りは何と、J女子大と同じバスに乗り、当時流行った由紀さおりの「手紙」を歌いながら帰京した。

秋の定期演奏会は、もちろん大成功であった。

のちにK君とA君は関学三の委員長を務めた。

その後、皆卒業してA君は北海道に戻った。
私はA君を訪ねて27歳頃、北海道の旅行をしたが、さらにその後、彼の結婚式の披露宴にも参加して尺八を演奏したが、これは後日記載する事にする。

あれから、46年も経つのにA君が上京する度に連絡があって、皆と会うのは不思議な縁だ。

竹管独奏曲の尺八初演  音楽

青木鈴慕師の主催で、我々が若いころ「鈴慕奨励会」があり、若手セミプロ集団の演奏会を開催していた。
各人が競って古典を中心とした三曲合奏曲など、日頃の勉強振りを披露してきた。

そうした中で、現代邦楽作品も演奏するようになり、「鈴慕コンソート」と名付けて3回くらい演奏会があった。
鈴慕師主導による曲目の選択により、大概は尺八二重奏曲や尺八三重奏曲から、箏、三絃、十七絃も入るかなりの編成の曲もあった。

第3回の1987(昭和62)年10月、新宿モーツァルトサロンで、「杵屋正邦作品による」と題しての会で、私は鈴慕師お気に入りの「竹管独奏曲」を演奏する事になった。
元々は篠笛の為の曲であった。それを「尺八では初めてだから北原やれ!」と言われたのである。

鈴慕師から福原百之助の演奏したカセットテープをいただき、もの悲しい演奏ながら素晴らしい演奏に接し、不安も出てきた。

この曲は一尺六寸管を用い、サイドドラム、ボンゴとコンガなどが必要であった。
そこでジャズバンド二人に賛助出演していただいた。ジャズバンドは松下通信工業のカウントセイノウオーケストラ(C・S・O)と言い、横浜市の佐江戸工場(JR中山駅)にあり、そこへ練習に行った。

元々私は高校の時、吹奏楽班でボンゴを練習したこともあり、違和感はなかった。
ただ、邦楽曲は「序破急」で出来ており、ジャズの一定の速さでは無いので合わせるのに難しかった。

鈴慕師に言われ、杵屋先生宅にも尺八のみ練習を見ていただいたが、先生はボンゴとコンガの代わりにウチワのような太鼓を叩いていた。
ただしこの曲は本来、篠笛の為の曲であり、尺八で演奏するには、なかなか困難でオクターブ上げたり下げたりして演奏したところ、先生は「青木さんみたいだな」と言っておられた。どうやら自分で演奏しやすいように許可を得ずにやったからだと思う。

ジャズ奏者2人は邦楽の「間」が取りにくかったかも知れない。所謂「あうん」の呼吸だ。
それでも私は、リズム的な打楽器が伴奏でジャズでも演奏しているかのような気分で、もの悲しさとは程遠く、うれしさいっぱいの演奏であった。

杵屋正邦(1914〜1996)の解説
昭和35年5月作曲、篠笛と打楽器の為に作曲された。
曲はアンダンテで始まり、アンダンティーノ、アレグレットと徐々に速くなり、レントで終わる。
打楽器は、サイドドラム、タムタム、ボンゴ、コンガ、シンバル等を使用して曲に変化を与えている。これらの打楽器の使用は邦楽作品では極めて珍しい。
もの悲しく、寂しいメロディは、篠笛の特徴である。(杵屋正邦記)




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