尺八でジャズ・ポピュラー  音楽

尺八でジャズ・ポピュラーの先駆者は村岡実(1923〜2014)や山本邦山(1937〜2014)であろう。
この卓越した両人の演奏がレコード化されて、我々の知るところとなった。
村岡実は知る人ぞ知る、美空ひばりの「柔」の伴奏や「遠くへ行きたい」の尺八で有名である。

1968(昭和43)年、大学2年生の春だった。私は村岡実のレコードから「子象の行進」の曲を知った。映画「ハタリ」の中の曲である。この曲のメロディーとアドリブを2本の尺八で演奏するべく編曲して、大学の春の文化祭で演奏する予定であった。

ところが、星野仙一投手活躍の六大学野球の春のリーグ戦で我が母校が優勝してしまい、急遽提灯行列に皆行ってしまった。もちろん私もである。
文化祭は当然キャンセルした。
知らないうちに新宿京王百貨店や小田急百貨店の屋上ビアガーデンを乗っ取り、校歌の大合唱であった。生バンドも仕方なく伴奏してくれた。

一方の山本邦山は1967年、有名なニューポート・ジャズ・フェスティバルに日本のバンド、「原信夫とシャープス・アンド・フラッツ」と共に参加して一躍、時の人となった。
YouTubeに邦山演奏が出ているが、難しい「テイク・ファイブ」を難なく吹きこなしている。
何しろ5孔尺八であるし、4分の5拍子のリズムで、その難しさは尋常では無い。

ただサックス奏者などに言わせると、世間的には批評は厳しいものがある。楽器の難しさを知らないからだ。
私も練習だけはしている。

1995年、大和市の中学校でクラス毎に父兄の講話があり、私は音楽室で尺八を演奏した。
何曲か演奏したが、音楽担当の先生のピアノと、ぶっつけ本番で「アメリカン・パトロール」をジャズ的にコラボし、私がメロディーで、ピアノはコードを弾いていただいた。
この時の状況はタウン誌に演奏写真と文が掲載された。

ジャズ映画の、「ベニイ・グッドマン物語」や「グレン・ミラー物語」のDVDを見たが、私は「茶色の小瓶」が好きである。

この曲を、在京高校同窓会でのアトラクションに呼ばれて演奏した。
この時、会場にいた方々を2つに分けて、交互に手拍子を打たせたが、思うようにそろわず、もくろみは失敗した。
誠に乗りが悪かった事を反省している。

さらにジャズと言えば、「A列車で行こう」や「サマータイム」「ハーレム・ノクターン」等が好きである。もちろん楽器はサックスがいい。尺八と同じようにポルタメントが出来るからである。
(ポルタメントとは下の音から一音上の音までを切らずに、スリ上げてつなげて演奏する方法)

村岡実について記すと以前、新宿朝日生命ホールで演奏を聞いたし、何年か前に高円寺の尺八ライブにも行った。
その後、「本曲演歌独奏集」のCDを発売したので購入した。

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その時宮崎のご自宅に、そのCDの楽譜を送っていただくようにお電話した。そして「先日ライブに行った」由を伝えたところ「又、やるからよろしく」とおっしゃっていたが、それが最後に聞いた言葉だった。

ブラバンでユーホニューム  音楽

小学校5〜6年では器楽班に入り、小太鼓を叩いていた。だからリズム感はあると思う。
クラスごとの音楽会の器楽合奏では母に習って「金婚式」のオルガンを弾いた。

中学2年の時に吹奏楽班が出来て、入部した。担当の楽器を決める時に、小太鼓は一つ下の後輩がうまく、とても無理だった。トランペットは鳴りにくく(私は唇が厚くマウスピースからハミ出した)結局、鳴りやすかった低音楽器のユーホニュームを選んだ。小バスである。

ユーホニュームは、ユーホニアムとか、アニメにあるように「響け!ユーフォニアム」とか表示される。

練習では、ヤマハ楽器から津金五郎なるカリスマ先生が見えて、熱血指導してくれた。
独特の指揮法で、解りやすく、面白いように上達した。
だが、その後の発表演奏会で「浜辺の歌」を演奏した時、母が聞きに来て「ヘタで音痴で泣けてきた」と言われた。無理もない。2〜3か月じゃあ上手くならない。

高校に入ってもユーホニュームを担当出来た。ブラバンと言えば大概、行進曲であり、「海兵隊」に始まり、日本の「君が代行進曲」「軍艦マーチ」などから、スーザ作曲の「星条旗よ永遠なれ」「エル・カピタン」「美中の美」「雷神」「ワシントン・ポスト」、タイケ作曲「旧友」など、かなりの曲を演奏してきた。
いまだにメロディーは浮かんできて、楽器の指使いが自然と動く。

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写真の左側は中学生の時に最初に買った「日本行進曲集」の陸上自衛隊中央音楽隊のレコード。何回聞いたか解らない。右側はアメリカ・ミリタリーバンドの行進曲集で、主にスーザ作曲の曲が入っている。

ユーホニュームは対旋律と言って、トランペットやクラリネットが主旋律を演奏する時に、違うメロディーを演奏するので、これが結構カッコ良いのであり、経験者なら誰でもそう言うであろう。

同僚のH君は作曲の才能があり、テレビの主題歌「鉄腕アトム」や歌謡曲を片端から編曲して、野球の応援でも演奏した。私は「君といつまでも」を球場で立ち上がってソロ演奏した事もある。

文化祭では「べサメムーチョ」がユーホニュームのソロで、ほとんどスタンドプレーだった。独奏部分はカデンツァと呼ばれるが、本当に難しかった。

1965(昭和40年)年、高校2年生の時の吹奏楽コンクールの課題曲はブルック作曲・歌劇「パリスとヘレナ」序曲で、自由曲はシベリウス作曲「フィンランディア」だった。
優れたメンバーが揃っており、長野県大会で25人編成以下の部で見事優勝した。

3年生の時の課題曲は大栗裕作曲「吹奏楽のための小狂詩曲」で、この時の全国大会で優勝したのは天理高校でYouTubeで見られる。

便利な世の中になったもので、すっかり忘れていた曲目がネットで調べれば、音源まで検索出来て、まさに50年振りに曲と再会したのである。

その後、わが母校の編成はかなり大きくなり、オーケストラ的になった。
いつか演奏会のお知らせがあり、聞きに行ったところ、私達とは比べ物にならない位うまく、女性も増えていた。ジャズ的な曲も軽やかで見事だった。
大編成になってしばらく経つが、今年は長野県大会で最優秀になり、東海大会で銀賞だったようだ。

新宿に勤務している頃、新宿三井ビル広場で「木曜コンサート」が昼に時々あり、無料で聞けた。コンサートは継続している。
ほとんどが自衛隊のブラバンで、陸上自衛隊や海上自衛隊など行進曲やポップス、ラテン、アニメソング、ディズニーメドレー等の演奏を得意としている。
「エル・クンパンチェロ」を楽しそうに演奏していると、こちらまでが楽しくなる。
海上自衛隊の演奏では歌姫の「三宅由佳莉」さんの歌を聞いたとき、素晴らしいと思った。その後、立て続けにテレビに出演していたから、知っている人もいると思う。

1964年の東京オリンピックの時の古関裕而作曲「オリンピックマーチ」を、2020年東京で開催が決まった時に随分聞いた。まずトランペットのファンファーレで始まり「オリンピックマーチ」を聞くと、あの時の事を思い出す。私は高校1年生だった。私たちも練習をした。
いつ聞いても感動・感激する。けだし名曲である。

ブラバンのお蔭で、簡単な五線譜なら初見で尺八演奏できるのはうれしい。

古関裕而(1909〜1989)は「若鷲の歌」など戦前は軍歌で有名だが、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」や、NHKスポーツ番組のテーマ曲「スポーツショー行進曲」や、夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」、NHKラジオ「ひるのいこい」と「日曜名作座」のテーマ曲など幅広く使用されている。

フォークソングと尺八  音楽

飯田でライブをしてから随分経って、2008(平成20)年9月に「夕顔楽歴40周年記念コンサート」に賛助出演した。

「夕顔」は飯田市で活躍する3人組フォークグループで高校同級生の田中悦雄君がメンバーである。彼は高校卒業後にフォークグループ「夕顔とほおずき」を結成して、長野県大会での優勝もある。
飯田でのライブではお世話になった人だが、ステージで共演した事はなかった。同級会に行った時にスナックで彼のフォークギターと尺八で合奏した事はあった。そこに上記のコンサートの賛助出演依頼が来たのである。

場所は飯田人形劇場で満員の200人。

彼らの自作曲2曲に尺八の伴奏をつけたが、彼らはコードで作曲して演奏しているので五線譜が無い。
事前にデモCDを送ってもらったが、五線譜にするにもなかなか大変だった。

曲目は「しゃくやく塚」と「高遠の子守唄」。いずれも民話を題材とした物語になっている。「しゃくやく塚」は下條のお殿様に姫様があり、お籠に乗って出かけたが腹痛で死に、手厚く葬ったという話。
「高遠の子守唄」は、ねんねんよおころりよと歌い出すが、18歳の子守りは山越え、谷越え馬に揺られてお嫁に行ってしまっていた。そこで坊や会いに連れて行くからねんねしなと歌う。

当日は、ほとんどぶっつけ本番だったし、邦楽の演奏会とは違った雰囲気にのまれ、私の体調も悪かったのか出来は今一つで、特に独奏で演奏させてもらった「川の流れのように」は途中で高音がかすれて出なくなり、大層苦しんだ。
終わって落ち込んだのは言うまでもないし、田中君にもお客さんにも申し訳なかった。

後日、ベース奏者が上京した折に演奏会のCD とDVDをいただいた。
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同期会などで飯田に行くときは、彼と2次会で飯田駅前のスナック「S路」に行き、歌はもちろん尺八とギターで大いに歌いまくり、吹きまくるのである。
私もマスターと懇意になり「春の海はいいねえ」と言っていただいた。マスターは歌もうまく、特に石原裕次郎は絶品である。又、一般のお客様も裕次郎オンリーが多い。

最近は6月の高校同窓会の後、定休日にもかかわらず店を開けてくれて同級生らで貸し切りとした。

飯田でライブ  音楽

1997(平成9)年1月、飯田市下久堅公民館で「新春邦楽鑑賞会」に出演したが、これは私が飯田で初めて尺八を披露した会だった。

それを見た高校同期生らが、私のライブ演奏会を企画してくれた。

ライブの運営は、同級生だった田中悦雄君が窓口となった。彼は高校卒業後、フォークギターをこなし、その縁で「飯田にいるプロのギタリストの桑原利彦氏と組んでライブをしないか」と依頼が来た。

動きは早く、同じ年の5月4日に昼・夜2回公演を桑原氏が経営するライブハウス「キャンバス」で行った。会場は40〜50人程度で、いずれも満員だった。

曲目は尺八本曲「鹿の遠音」、箏と合奏で宮城道雄作曲「泉」「春の海」、私の作曲で「木曾節による幻想曲」そして、日本の抒情歌と桑原氏と「コンドルは飛んでいく」「虹のかなたに」他を演奏した。

箏は大平睦先生。実は1971(昭和46)年5月に大平先生の「筝曲おさらい会」が吉祥寺であり、その時私は賛助出演で「六段の調べ」「春の訪れ」を演奏していた。私はまだ22歳だった。
大平先生とは26年ぶりの再会だったが、初共演だった。

大平先生は、その当時は東京で箏を教えていたが、その後結婚と同時に地元飯田市に戻り、飯田高校の「邦楽班」を指導している。
その卓越した指導力により、コンクールでは毎年県代表で全国大会に行き、2010年には文化庁長官賞を受賞。そして2013年には肥後一郎作曲「絃歌」で、ついに念願の優勝の文部科学大臣賞を受賞した。

話を戻すと、ライブ会場には尺八製作者で演奏家でもあったトム・ディーバー氏も来られていた。私はトム氏の事を朝日新聞の本多勝一氏の文章で、「伊那谷で尺八製作をしてるアメリカ人」であると知っていたし、トム氏は逆に私の演奏会を地元の新聞で知ったらしい。
遠いところ車で駆けつけてくれた。

私は初めてトム氏にお会いしたが、私に「録音しても良いか?」と聞かれたのでOKした。
彼は最新機器のDATで録音していた。

演奏会は好評につき、高校同期生の応援を得て秋にも市内峯高寺の庫裏で、夕やみ迫る庭園を借景に3人で演奏会をしたが、この時もトム氏は来られた。
この時は長澤勝俊作曲「二つの田園詩」を演奏したが、箏の部分をギターで演奏したのは珍しかった。
私は「クラシックもやって」と言う希望を受け入れて「G線上のアリア」や「タイスの瞑想曲」等も独奏で演奏した。

その後、松川町にあるトム氏のご自宅(山の中だった)に伺ったり、彼が栽培していた無農薬のブルーベリーを毎年買っていた。
残念ながら2010年に亡くなられたが、そのブルーベリー畑を引き継いだ人からも継続して購入している。
農園の名は「ブルーベリーフィールド」で毎年2s買い、生食とジャムにしている。

ジャムはパンにつけながら、ときどきトム氏を思い出している。

牧野由多可作曲「相剋」の初演  音楽

牧野由多可(1930〜2005)は日本を代表する洋楽系の作曲家であり、特に邦楽作品には現代的な発想で取り組み「茉莉花」「琉球民謡による組曲」「春の海幻想」等の名曲が多い。その他たくさんの曲があるのだが、私は四重奏曲「相剋」の初演に恵まれた。

1971(昭和46)年3月、大学を卒業と同時に第17期NHK邦楽技能者育成会に合格したものの、夏休み前にリタイアしてしまった。
同期の尺八仲間には、三橋貴風・橋本竹咏(和夫)もいた。彼らは大学の4年生だった。

17期生は1年間勉強後に同期で邦楽グループ「宮」(キュウ)を結成して、何回か演奏会を開催した。
私は卒業出来なかったが温情により、仲間に入れていただいた。
そうした中でグループは新しい曲を牧野由多可に依頼した。直接の担当者は三橋貴風だったが、何故か尺八の初演は私だった。1977(昭和52)年の事である。

「相剋」は第一箏・第二箏・十七絃・尺八の四重奏曲である。
斬新な作曲法により、独特のメロディーとリズムで心地よく演奏出来た。
中間部には曲名のとおり、まさに戦いを思わせる各奏者のアドリブ任せの部分があり、その後は一体化して行く。必死で演奏した事を覚えている。

この時の様子を、「邦楽の友」の雑誌に長尾先生が批評している。

『牧野由多可の極めて流動的かつ魅惑的な新作(この人の「風」を超える佳作である)を箏町田徳、宮倉さよ子、十七絃熊木早苗、尺八北原静淳(鈴淳)で初演した最終曲目などはかなり立派な舞台で、特に町田徳の澄んだ感性と技巧には、将来注目すべき才能が十分示されていた』とある。大変うれしい批評であった。

練習にも牧野先生はお見えになったが、特に注文はなかった。
当日のプログラムには「私の若い友人の三橋貴風氏からの依頼で作曲----」とあり、私は後ろめたさを感じていた。
これは何故、私が初演者だったのか不思議で長く疑問であった。

最近、三橋貴風に聞いたところ、彼はすでに箏の大嶽氏と別の曲を演奏する事に決まっていたから、譲ってくれたみたいだった。いわばグループとして依頼したという事だろう。

その後、何ケ月か後に「さわらび会」の演奏会でも「相剋」を演奏されて、尺八は宮田耕八郎だった。私よりさっぱりと演奏していた。

私は、この曲を気に入っており、いつか再演したいと思っていた。
初演から15年経った1992(平成4)年9月、鈴慕奨励会でもう一度この曲に挑戦してみた。

この時、牧野先生に招待状が届けられて、当日お見えになった。
この曲はあまり演奏されていなかったようで、牧野先生は「何故、相剋は余り演奏してくれないのかな?」と首をかしげていた。
初演者の私の演奏がヘタだったのかも知れない。

もう、この曲は誰も演奏しないのかなと思っていたら、2012(平成24)年、第5回牧野由多可作曲コンクール発表会で尺八は、私も面識のあるブルース・ヒューバナー氏が演奏したと雑誌で知った。

もっと演奏される事を切に願う。

金田一春彦と宴会  音楽

青木鈴慕師の推薦を受け1975(昭和50)年、邦楽木犀会という邦楽演奏集団に所属した。
この邦楽集団は琵琶の普門義則を中心に、相談役に金田一春彦や伊福部昭らが名を連ねていた。

金田一春彦(1913〜2004)は言語学者・国語学者・国語辞典の編纂者であり、私も「新明解古語辞典」を愛用している。1975年には琵琶学協会の会長であった。
伊福部昭(1914〜2006)は日本を代表する作曲家で「ゴジラ」を初めとする映画音楽が有名である。
その他、日本雅楽会会長の押田良久(1908〜1999)も相談役であった。

メンバーとして、琵琶には薩摩琵琶の普門義則と錦琵琶宗家2代目水藤五郎(1944〜2005)ら。
一絃琴に新倉凉子、生田流箏の砂崎知子、山田流箏の和田祐子・鈴木美恵子。雅楽に使用する阮咸(げんかん)の阿部源三郎や長唄、それに尺八の私であった。

第一回目の演奏会は1975年9月、第一証券ホールで行われた。
私は慣れない山田流の中能島欣一作曲「赤壁の賦」(一尺六寸管)で練習の時、最初のソロ的な部分の音程が下がりうまく吹けないので、本番ではカットされてしまった。恥ずかしい限りである。 

「六段の調べ」は箏・三絃・琵琶・阮咸・一絃琴・尺八という珍しい編成で、最初は一絃琴の独奏で始まり、徐々に楽器を増やして演奏していくというスタイルだった。しかし思ったような効果は疑問だった。金田一先生の挨拶文には、邦楽器の紹介を目的として音色や楽器を見ていただきたいとあった。


第二回目は1976(昭和51)年10月、農協ホールで私は長澤勝俊作曲の「萌春」を砂崎知子と合奏。ちょうどその頃、山本邦山も砂崎先生と「萌春」を演奏予定があり、その練習テープを参考にいただいた。ある部分「邦山先生みたいに、もっとファーとやって」と言われ、下から音をスリ上げる奏法で吹いた。

私はさらに尺八本曲「吟龍虚空」も演奏し、この模様は雑誌「邦楽の友」に「独奏楽器としての尺八の存在感を誇示した」と長尾先生の評があった。

第三回目は1978(昭和53)年3月、ABCホールで生田流の箏は砂崎先生がやめて、代わりに塚本徳(めぐみ)と岩城弘子が入った。両名は1976年私の尺八リサイタルで賛助出演していただいた仲でもある。

私は彼女らと宮城道雄作曲「春の夜」を演奏。青木先生との練習時に「尺八は暗譜でやります」と言ったら、先生の目の色が変わり「いつやるんだい?」と聞かれ、日時をお知らせしたところ当日会場へかけつけていただいた。誠に恐縮した事を覚えている。

後日、打ち上げと称して銀座第一ホテル裏側の料亭で宴会が持たれた。
二階の和室で伊福部先生が中国に関するうんちくを述べて、金田一先生がうなづいておられたのが印象的だった。金田一先生は誠に温厚な方だった。

時が過ぎ、私が30歳頃、押田先生より電話があり、「日本を海外に紹介したいプロモーションビデオを作りたく、是非尺八の演奏を頼む」と言われた。

都心のスタジオで、「京都の竹林の中で尺八を吹く男がいる」という設定で紋付袴姿、曲は琴古流尺八本曲「鹿の遠音」で、右横から撮り始めて正面で終了した。

残念ながらそのビデオの完成を知らず、見たことが無いので海外でどの様な反応があったのか分からない。もし外人さんがあのビデオを見て日本を感じ、さらに尺八に興味を持って演奏までしていただければ幸いである。

愛用尺八と修理  音楽

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私の愛用尺八は写真のとおり、上から真山銘の1尺6寸管、秋月銘の1尺6寸管、静夫銘(現鈴慕)の1尺8寸管、旭童銘の1尺9寸管、竹治銘の2尺管である。

二番目の1尺6寸管と1尺9寸管は、私が26歳の時、実業之日本社発行の雑誌に「趣味がうみ出す宝の山」のコーナーがあり、そこに掲載されて、たまたまその雑誌をご覧になった女性から、ご主人が使用していた尺八をご主人が亡くなられたので、譲っていただいたのだった。

しかし、割れたり、音程が悪くひどかった。

そこで、大学の後輩で「尺八工房船明ふなぎら」の船明君に修理をしてもらった。
当時彼は、狛江にある「泉州尺八工房」で働いていた。
私の通勤途中にあり、便利な場所だった。

彼は相当数の尺八を修理しており、安心出来た。
私の演奏方法に合わせて、チューニングをしながら正しい音程で吹けるようにしてくれた。
誠に吹き易い。

1尺6寸管は筒音の音程が低かった為、管尻はラッパの様に削って広げてある。当然5孔の手穴も直してくれた。
歌口の黒水牛も虫食いで傷んでおり、入れ替えた。
新品同様となり、まさにビフォーアフターの番組のように感激したのである。

1尺6寸管については、最初に購入したのは大学2年の時だった。稽古が進みついに念願の「春の海」を練習することになった。そこで先生から尺八を買ったのだが、当時はほとんど道夫銘だった。
しばらく使用するうちに音程がやや高いことに気が付いた。「小6寸」とか誰かが言っていた。

仕方がないから中継ぎを全部はめないで、5ミリ位伸ばして吹いた。結局、すべての音が狂いナイフでゴリゴリ手穴を削り、下側は白いパテを塗って調整した。みっともない事この上ない。
我慢して、しばらく使っていた時に上記の尺八が手に入ったのである。
その頃、尺八友人が「1尺6寸管が2本あるなら、1本いらないだろう」と持っていっちゃった。

その他にも、真山銘の1尺8寸管を新宿三越の展示会で練習用にと購入した時の話だが、自営業していた新宿の店に置いていて、時々練習をしていた。
しかし、寒い時期エアコンでかなり乾燥して、しばらく尺八を吹いていなかったと思い出してみたところ、ほんの少しヒビが入っていた。こらはヤバいなと思いながら吹いてみた。
そこで、すぐ止めて脇へ置いてしばらく経った時、突然パンと乾いた音がしたと思ったら、上の半分は完全に中まで二つに割れていた。

早速、船明君に直してもらったのだが、やはり尺八は乾燥に弱いのである。



沢井忠夫とお風呂  音楽

今回は沢井忠夫との関係を書いてみよう。

筝曲家・作曲家の沢井忠夫(1937〜1997)は、その頃ゴールドブレンドのCMで有名であった。

私が大学4年の夏休みの頃、青木鈴慕師に誘われて信州小諸の二葉楽器店主催のニ泊三日合宿に行った。
尺八の講師が青木鈴慕、箏が沢井忠夫、三絃は太田里子らであった。
最初は各パートに分かれてレッスンを受けた。曲目や合奏練習は忘れたが、先生らの模範演奏では、沢井忠夫の「手事」の演奏が凄かった事を覚えている。激し過ぎたのか糸が切れてしまって、すぐ箏糸を張り替えて演奏をし直した。

いつも舞台を見ている時は立派で大きく見えたので、風呂場で一緒になった時、つい「先生はもっと大きいと思いました(背が高い)」と言ってしまった。

次にお会いしたのは、これも学生の頃、W大の友人と沢井忠夫先生宅に伺ったのである。
友人に誘われて行って先生と話している時に奥様もおられて、最初はお茶でも飲んでいたと思う。
その頃、山本邦山と「琴セバスチャン・バッハ」というレコードを出しており、その楽譜を譲ってもらう為だった。
友人は話し好きで、いろいろ話して長くなり夕暮れになった。
当時坊やだった息子さんがぐずり、沢井忠夫先生は「うるさい」と言って彼を外に出して、窓ガラスの鍵も閉めてしまった。申し訳ないと思った。
その上、夕食までいただいたのである。
そこでバッハの「メヌエット」などの楽譜をいただき、W大の新入生のオリエンテーションで友人と演奏した。
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        琴セバスチャン・バッハのレコード

これ又学生の頃、京都で「現代邦楽の祭典」的な演奏会があり、箏は沢井忠夫・一恵夫妻他。
尺八は青木鈴慕師と橋本竹咏(当時は和夫)と私であった。鈴慕師不在の練習時の調絃で尺八のロ(ろ)を吹いた時、音が不安定で沢井先生ににらまれた時はこわかった。プロは凄いと痛感した。

1976(昭和51)年6月、私の尺八リサイタルに招待状を差し上げたところ、代理の人が来られて、沢井先生からと祝いの品をいただいた。これは「足跡形のネクタイピン」で 奇妙奇天烈というか、本当にユニークで遊び心のあるもので、沢井先生の面白さを感じた。
もちろん、これをしばらく愛用していた。沢井先生がお元気ならば、いつかお見せしたいと思っていた。
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あれから何十年経ったであろうか。(たぶん私が40歳の頃)
尺八三本会(青木鈴慕・山本邦山・横山勝也)のメンバーがカラオケ大会の為に関係の先生方や各弟子を集めた時、私は当時某百貨店に勤務していた為、学生の頃の無礼をおわびしようと思って「商品券」を持参して沢井先生にお渡ししたところ「君!もう時効だよ」と笑いながら、やさしく言っていただいた。

ご自宅訪問時は本当にお忙しかったろうに、無礼だったと思う。もう沢井先生はいない。

尺八とその弟子  音楽

「出家とその弟子」をもじり、今回は「尺八とその弟子」を題材とした。

私が尺八の弟子を持ったのは、23歳の会社勤めをし始めた時だった。
当時は江古田のアパートに住んでおり、稽古場は南大塚にある箏演奏家A氏の自宅をお借りした。元々はそのA氏が尺八を教えており、専門の尺八家をと言うことで紹介されたのだった。

1番弟子のYT氏は当時大手商社マンのエリートだった。私の定休日が木曜だったので、木曜の夜に通った。ただ覚えているのは、稽古はソコソコにして、近所の居酒屋で飲んだことである。

そのうちつてで、大手出版社のSA氏が2番弟子。さらにその同僚も誘って3番弟子YS氏。マンガサンデーの表紙絵を描いていたイラストレイターが4番弟子SI氏となった。
弟子が増えたため、2番弟子の会社の組合が借りているマンションを借りた。
さらに5番弟子〜7番弟子位まで増えて、マンションでは「うるさい」と苦情が来て、最後は本郷にある会館をお借りした。

彼らと稽古を2〜3時間で終えて、よく新宿ゴールデン街へ飲みに行き徹夜したこともあった。
店は「スガンさん」とか「ノーサイド」が多く、2番弟子の得意の曲は「ギーギー節」と「好きになった人」で「ギーギー節」は物語になっており何番も続き、いづれも私は尺八の伴奏をした。
「スガンさん」のママは珍しい「モグラ祭り」と言う東南アジア系の歌を披露してくれた。

ある時、2番弟子が知っているという、新宿「たこ八郎」の店に行った。我々は2次会でかなり出来上がっていた。そこには出版関係の人もおり「たこ八郎」本人はへべれけ状態で、勝手にお客さんが厨房内に入り、メチャクチャな雰囲気だった。

我々は1番弟子から4番弟子までそろっており、私が当時、加藤茶が流行らせた「チョットだけよ」の名曲「タブー」を演奏したところ、スタイルの良い3番弟子が踊りだし、それにつられて若い女性も踊りだした。2人はふざけて1枚そして1枚とお互いを脱がして行き、ついに女性はブラジャーまで脱いでしまった。私は横目でチラチラと可笑しさをこらえて演奏していたのだが、1番弟子は「ヤンヤヤンヤ」とはやし立て、1番前で見ていた。大変得したのは1番弟子であろう。

「タブー」はセクシーな尺八に良く合う。歯切れの良いリズムと甘味なメロディーをうまく吹くのがコツである。

1976(昭和51)年6月の私の尺八リサイタルには、4番弟子のイラストレイターSI氏が斬新なチラシとプログラムのレイアウトを考えてくれた。プログラムの文章は、編集者であった2番弟子のSA氏が「てにをは」をチェックしてくれたので、大いに助かったのである。

その後は弟子たちとの飲み会は5年に一度位に減っていったが、1番弟子とは続いており、神楽坂の「ルバイヤート」なるフレンチ・ワインバーにはよく行った。ピアノも置いてあり、尺八を演奏したこともある。うまいワインを飲みすぎて、新宿のホテルに泊まったこともあった。
又、2008(平成20)年4月には土砂降りのなか、銀座の「寿司清」に行った後、彼の行きつけの地下1階の「スナック」へ行った時の話だ。

マスターに聞かせるつもりで「風雪ながれ旅」をカラオケ伴奏で尺八を演奏したところ、たまたま来ていた客のH氏に気に入っていただき、それが着物大手の展示会での出演の依頼になった。
H氏は沖縄の織物店の営業マンであり、当日は織物の実演もあった。

新宿エルタワーで開催された展示会のステージでは、あらかじめ「二胡」が呼ばれており、尺八は突然の演奏となったのである。それでも3ステージこなした。
そこでは司会役の「ハイサイおじさん」の歌に合わせて「安里屋ユンタ」を伴奏。女性客が多かったのでソロで「瀬戸の花嫁」「柔」「川の流れのように」「風雪ながれ旅」などを演奏した。
その時、「二胡」の音楽事務所の方に演奏家登録を打診されたが、丁重にお断りした。

もう1番弟子(他も)は稽古をしていないが、3歳年上の1番弟子と言うより、人生の先輩として個人的なお付き合いで飲んでおり、その交遊は40年以上続いている。

「北島三郎ショウ」への出演  音楽

昭和47年1月、浅草国際劇場(現浅草ビューホテル)において「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」が10日間催された。(1月14日〜1月23日)平日は2ステージ、土・日は3ステージもあった。

出演依頼のキッカケは、尺八仲間が本来1人で演奏するところへ、たまたま本人は期間中にNHKオーディションに合格したので、「録音のために1日だけ代わりに尺八を吹いてくれ」と言うことだった。

公演の前日午後がリハーサルで国際劇場の稽古場に行き、楽団に挨拶をした。そこで初めて楽譜を戴いた。曲は「仁義」「盃」「誠」と劇中音楽「沓掛時次郎」の中の「信州鴉」であった。
尺八仲間は故郡川直樹(1949〜2014)で私と同年齢の23歳であった。
「仁義」のイントロは尺八の独奏で、尺八本曲風なので気持ちがよかった。2人で演奏のため私がメロディを演奏して、それに答えるようにハモリを郡川が担当した。これは郡川のアイデアであった。

やがてサブちゃんこと北島三郎が見えて挨拶したところ気さくに「全日2人で演奏してくれや」と言われた。若造1人では多分心配だったと思う。
リハーサルで気が付いたのは「信州鴉」は2尺1寸管でないと、奏法上うまく吹けない。そこであわてて青木鈴慕先生宅に伺って事情を話して尺八をお借りしたのである。

その夜は国際劇場へと泊まり込み、当日は朝5時に起床ベルで起き、本番さながらのリハーサルを行った。そしてもう10時過ぎには開演だから忙しかった。

国際劇場と言えば信州飯田の中学3年時、東京への修学旅行で「SKD」ダンスを見た、あこがれの場所。そこへ8年後に舞台に立てるとは思わなかった。感激したが予想以上にうまく伴奏が出来た。
場内3000席がすべての公演で超満員であり、すごい熱気であった。

前座は瀬川瑛子で「長崎の夜はむらさき」を歌った。背が高く、すらりとしていたのが印象的で、その後はテレビにも出ていなかった。私はすっかり忘れていたが、何年か後「命くれない」
(1986年)で大ブレーク。それで当時の事を思い出したのだった。

私達でもギャラは1日1万円。所得税を引かれても手取り9万円にもなった。その後尺八だけでは生活が出来ず、サラリーマンになったが4月の初任給は54300円だった。

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千秋楽を終えて「大入り袋」をいただき、中身は5円玉。その日のうちに郡川に「お世話になった舩川利夫先生宅にお礼に行こうぜ」と言われ、それぞれ1万円づつ用意して千葉県のご自宅に伺った。炬燵で酒盛りが始まり、結局ザコ寝した。

翌朝、先生はそのお金で正月気分が残る近くの盆栽展に行って松を買い、それを玄関に飾った。

その後は、今日まで余興で「仁義」を何度吹いたかわからない。北島三郎が現在もずっと第一線で人気があり、活躍しているお蔭で、私もいまだに演奏が続けていられるのである。
今年の高尾山の豆まきに北島三郎が出ると知って、初めて行って見た。本人を見るのは実に43年ぶりだった。

舩川利夫(1931〜2008)は作曲家であり、尺八演奏家、筝曲演奏家だった。郡川直樹は昨年突然亡くなった。あの頃、酒好きで「俺は酒で死んでもいい」と言っていたが、まさかである。脳溢血らしいが残念である。




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