日本・世界の高層ビル  随想・日々是尺八

東京浜松町に世界貿易センタービルがある。竣工時には日本一の高さだった。
そのビルが取り壊されることになり、6月30日閉館したそうだ。

1970年竣工、高さ152メートル、地上40階のビルだ。
取り壊しの跡地に新ビルが建設され、2027年3月完成予定。

このビルにS社と言う会社が当時あり、勤務していた会社の冷蔵・冷凍ケースはすべてこのリース会社にお願いしていた。

あの頃の経済発展はもの凄く、お互い接待もあり、お陰様でそのビルに登る事が出来た。
打ち合わせの後、銀座のスナックに行きS社の社員が仙台で流行っていると言う「青葉城恋唄」を歌ってくれた。

初めて聞いてその良さは分からなかったが、その後テレビで「さとう宗幸」が歌って大ヒットした。

今、渋谷は高層ビルが軒並み出来ている。

「渋谷マークシティ」は2000年2月竣工。地上23階建て、高さは95.55メートル。
井の頭線の渋谷駅の駅ビルになる。ホテルや能楽堂、レストランもある。

「渋谷ヒカリエ」は東急文化会館跡地に出来たビルである。

2012年3月竣工、地上47階建て。
7階にレストランがあり、東急Bunkamuraのオーチャードホールでの演奏会を聞きに行った時に利用した。

当時、東急文化会館の屋上にはプラネタリウムがあり、中学の修学旅行で星座を見た。
眠くてほとんど見てなかったと思う。
帰りのバスガイドが「上の瞼と下の瞼が仲いいですね」と言っていたのが懐かしい。

会館内の「東急ゴールデンホール」で私達は結婚式を挙げたところでもある。

2018年11月には「渋谷ストリーム」が開業した。地上35階建て。
旧東横線の渋谷駅の跡地に建設されて、渋谷川に沿ってビルが建ち、渋谷川を望んでレストランもある。

このビルへ行くには渋谷駅からぺデストリアンデッキ(橋)を通って行ける。国道246号の上を横切る形だ。

最近、話題になったのが「渋谷スクランブルスクエア」だ。いつか46階にある展望台に行って見たい。
2019年11月開業。高さ230メートル、地上47階。

さらに、東急は「東横店西館」の跡地にもビルを建てる予定だ。2027年竣工予定。

新宿では
1971年竣工の「京王プラザホテル」は地上47階の高さ178メートル。

1974年竣工の「新宿住友ビル」は高さ210メートル。
ビル内には「朝日カルチャーセンター」があり、青木鈴慕先生が教えた生徒が鈴慕会に入会している。

1990年竣工の都庁舎は地上48階建て、高さ243メートル。
丹下健三設計で南館と北館のツインビル。それぞれ南展望室、北展望室があり、都心を一望できる。

2008年2月竣工の「コンシェリア西新宿TOWER'S WEST」は地上44階出ての高さ159.8メートル。黒川紀章設計の高層マンション。

私が自営業していた店のはす向かいにあり、販売時にお願いして最上階モデルルームを見せてもらった。見晴らしは良く目の前に富士山が見えた。販売価格は当時2億円だった。

アメリカに行ってみよう。
1988年10月、「米国流通業視察団」でシカゴに行った時に登ったビルが「シアーズタワー」で、シカゴで一番高いビルだ。シアーズ・ローバックの本社である。

1973年竣工、108階建て1450フィート(約442メートル)。
我々が登った時はもう夕闇で、夜景がとても綺麗だった。

ニューヨークではエンパイヤ・ステートビルに日中登った。
1931年竣工、102階建ての443メートル、展望台は86階(320メートル)にある。

我々はその展望台まで登った。確か途中でエレベーターを乗り換えたと思う。
展望台は外に出られる。高くてちょっと怖い。

目の前には2001年9月11日に、同時多発テロで破壊された「ワールドトレードセンターのツインビル」がそびえ立っていた。建設当時は世界一のビルだった。

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記念にエンパイアヤ・ステートビルの模型を買って来たが、何故か頂点のタワーが欠けてしまったのは残念だ。

アメリカの地図も買って来たので、ニューヨークのマンハッタンのページを下にして写してみた。

ついでに2016年7月、シンガポールの旅行に行った時のホテル「マリーナ・ベイ・サンズ」は2011年2月開業、高さ191メートルの屋上にプールがあった。

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船をイメージしており、プールに入って下を見ると、ゾクッとした。

百貨店の終焉か  随想・日々是尺八

新聞によると、新宿西口にある小田急百貨店本館は2022年9月末に営業を終了と発表した。
つまり来年である。

西口再開発で跡地には地上48階、高さ260bの高層ビルが29年度に完成予定。ビルに小田急百貨店が入店するかは未定だそうだ。

現在の本館は14階建てで1967年に開業し50年以上経った。
私が新宿に勤務の頃は地下食料品、文房具、催事、レストランなどを利用した。

隣接する新宿西口ハルクに食料品などは移転するようだ。

同じ頃に建設された近くの京王百貨店も同じような経過をたどるから、いつ建て替えをするか分からない。

一方、東急百貨店は2023年春以降、東急本店の解体作業に着手すると発表されていた。

跡地には東急電鉄、東急百貨店、LVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)グループの3社によって開発を進める。

隣接するBunkamuraも大規模な改修工事をする。
東急百貨店はすでに渋谷駅前の東横店を2020年3月末に閉店している。

東急百貨店での思い出は尽きない。

私が結婚を決意した時に、東急本店8階のレストラン「コートダジュール」は私の両親と、家内の両親の顔合わせをしたところだった。

Bunkamuraの大ホールで横山勝也の尺八と、鶴田錦史の琵琶による「ノベンバーステップス」を家内と聞きに行ったこともあった。

作曲は武満徹で開場前にロビーで見かけ、私は家内に知ったかぶりで「あれが武満徹だ」と指をさしてしまったところ、武満氏が気が付き、お辞儀をしてくれた。

面識はなかった。今でも思い出すと可笑しい。

私が20代の頃は未だ東横百貨店だった。
東横店には「東横ホール」なる大きなホールがあって、よく落語なども開催されていた。

ある時、青木鈴慕先生に推薦され、箏の社中の賛助出演に呼ばれて、その東横ホールにて宮城道雄作曲「高麗の春」を演奏した事があった。

とにかく大きなホールだったので、演奏していても音が散って、迫力を全然感じ無かった事だけは覚えている。

八王子の駅ビルも「そごう」だったのが、今は「セレオ」である。
府中も伊勢丹が閉店して、専門店街になった。

今、百貨店の独自の営業は難しい。
元々テナントに貸して、食料品は「のれん街」やレストランなど他店に任せている。
社員が専門性を身につけるのも大変である。

今や「ユニクロ」「ビックカメラ」「無印良品」「ロフト」「ダイソー」だらけで、代わり映えがしなくなって来た。

飯田市の紹介  随想・日々是尺八

自分のブログを見ると、追加したい事が次々と出て来るので、一度アップしても毎日のように日付けが変わる。

今年1月の事であるが、テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」に飯田市のトマツ本店の「逆さから読むとエッチな言葉」として、トラックに書いてある「ヨイタネトマツ」(良い種トマツ)が紹介された。(残念ながら私は見逃して、妻から聞いた話)

確かに逆さから読むと「ツマトネタイヨ」である。

この会社は創業100年以上になる、種苗販売店である。
当時は松尾町に昔からあり、大正8年生まれの母が女学校の頃から、そこを「可笑しい」と笑いながら通ったと話していた。

私も高校の頃、ここを通る事があり、店の上に掲げられた大きな看板に筆字で左から「ヨイタネトマツ」と書いてあったのを確認している。

飯田市の事が話題になったので、ここに飯田市の概要を記そうと思う。

飯田市の面積は658.66平方キロメートル、人口96,255人(2021年5月現在)である。

手元に「飯田市の観光ミニ事典」がある。サブタイトルは「りんご並木と人形劇の街」になっている。

この本は、亡き母が飯田信金のコラムに応募して掲載された時の、謝礼だった。
巻頭を飾るのは岸田國士(くにお)の「飯田の町に寄す」で次の通り。
 
「飯田美しき町 山近く水にのぞみ 空あかるく 風におやかなる町。飯田静かなる町 人みなことばやわらかに 物音ちまたにたたず 粛然として古城のごとく丘に立つ町。飯田ゆかしき町 」以下略

岸田は戦争中の昭和20年頃、飯田(当時は鼎町)に疎開して、その娘女優の岸田今日子は現在の飯田風越高校に通った。

飯田市は、江戸時代飯田城(長姫城)を中心にした城下町(旧飯田市)である。
街並みは碁盤の目のようで、小京都と呼ばれている。

城下町だけあって、町名には追手町、馬場町、伝馬町、小伝馬町、銀座などがある。

旧飯田市は河岸段丘の上にあり、遠くに南アルプスの赤石岳(3121m)や聖岳(3013m)が見え、近くには風越山(かざこしやま・ふうえつざん)(1531m)や虚空蔵山(1130m)がある。

河岸段丘の下には松川が流れ、やがて天竜川にそそぐ。

以前は暴れ天竜と言われ急流だったが、下流に佐久間ダムが出来て、少し穏やかになった。天竜下りは有名である。

以前は市田から天竜峡まで1時間30分だったが、今は弁天港から時又港(35分)と、天竜峡温泉港から唐笠(50分)まで行く。

いつの事であったか、舟会社は2社あり、その内1社に我が家の2階を事務所として貸していた。
ガイドさんの名調子を我々家族もそらんじて、今でも言える。
ただ、たった一人のおじさんがふすまに頭髪のポマードをこすりつけて臭く、その上汚して母が愚痴ていた。

飯田市は南信州で下伊那郡に入る。
長野県歌の「信濃の国」はいい歌だが、下伊那にもいい歌がある。

「下伊那の歌 その1」は元気が良く今も歌われているらしい。
「赤石は山並み青く 天竜は川並み白く 母のくに 母のくに 伊那は故郷ーーー」

「下伊那の歌 その2」は静かで落ち着いた曲調だ。
「山紫に水遠く 南の風の吹き香る 揺籃の地をーーー」

これらの曲は作詞を募集して作られ、我々は中学校で習った。
この「その2」の作詞は、我々の追手町小学校の校長先生の池田寿一氏だった。
詩の解釈が難しく、余り歌われていないようだが、いい歌だ。

飯田市の市歌があるかと検索したが、「飯田市歌」は私の知らない曲だった。
私がそらんじているのは、次の通り。
「山はアルプス赤石の 峰に輝く白雪を―――我らが飯田」
多分これも中学で習ったと思うが、検索出来ない。

小学校は飯田市立追手町小学校に通ったが、1872年設立だからもう150年近くになる。
校舎と講堂が2005年、国の登録有形文化財に登録された。

1961年NHK唱歌コンクール小学校の部で全国1位。課題曲は「わかいおじさん」でYouTubeで聞ける。確かに上手い。

追手町小学校の校歌が良い。
「長姫城の名に残る 昔のあとは変われども 今ぞ栄ゆる学び舎の 庭の教えも年事に 進みゆくこそうれしけれ」

飯田、下伊那地区は赤石山(岳)、風越山、天竜川を歌詞に入れるのが定番である。

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飯田高校の校庭から望む風越山。

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飯田病院の2階から望む風越山(左)と虚空蔵山。

飯田市立東中学校の校歌は
「暁の空澄み渡り 若草もゆる東野に 風越山の風そよぐーーー」

飯田高校の校歌も紹介しよう。
「赤石山は巍巍(ぎぎ)として 我が南信の骨をなし 天竜川はいだとして 我が伊那郡の血を成せり―――夏風越(かざこし)の青嵐ーーー長姫城の秋の月ーーー」と歌われる。

ブラバンでライバルだった飯田長姫高校(現飯田OIDE長姫高校)も是非紹介したい。
1954(昭和29)年、春の選抜高校野球で光沢毅投手を擁して全国大会優勝。彼は「小さな大投手」と言われた。ほとんどの家庭でラジオを聞き、町なかが静かだったと父は言っていた。パレードがもの凄かった事は写真に残っている。

飯田市は1947(昭和22)年、4月20日大火に覆われ、旧市内をほとんど焼き尽くした。我が家は火元の西側にあり、火事にはならなかったようだ。後年、酒田市で大火があった時に、過去の大火として飯田市が新聞に載った。

1961(昭和36)年6月、三六災害に見舞われた。私が中学1年生の時だった。我々は通称、三六災(さんろくさい)と言う。
今で言う線状降水帯(集中豪雨)であろうか。

町の道路は川になり、今宮球場は土砂で埋まり、川は氾濫。浄水場も土砂で埋まった為、自衛隊が給水車を出した。私も自宅前の給水車で水を汲んだ覚えがある。

通っていた東中学校の校庭は自衛隊のヘリポートとなり、授業中はパタパタとしばらくうるさかった。

飯田名物に「りんご並木」がある。
横一線にりんご並木の通りがあり、りんごの木が中央に植えられていて、東中学生の「緑化部」が草を取ったり、管理している。(実際の消毒や袋掛けは業者)

昭和22年の大火のあと、東中学の生徒達の「自分達の手で美しい街並みをつくりたい」の気持ちから誕生し、「誰もりんごを盗まない」など美談になっていると我々は道徳で習った。
収穫したりんごは給食で食べた事がある。

1975(昭和50)年、中央道の飯田インターチェンジが開通して、新宿までつながった。
従って、それまでは飯田駅からJR急行「アルプス」で上京したのが、中央高速バスに代わった。

新宿バスタから飯田駅前まで約4時間ちょっと。陸の孤島と言われる所以である。
私がつきみ野に住んでいる頃、新宿駅からつきみ野駅がこれ又、1時間30分位かかった。

今、リニア中央新幹線が話題である。工事はかなり難航、様々な問題を抱えている。
私の生存中に出来るか分からない。出来たら神奈川県橋本駅から長野県駅の飯田まで15分位らしい。夢のような話だ。

中央道掘削時に温泉が噴き出し、昼神温泉郷が出来た。

旧南信濃村の遠山郷も飯田市になり、静岡県と隣になったとは驚きだ。
未だ下伊那には飯田市より南に阿南町、下條村、阿智村、平谷村、売木村、天竜村などがある。

俳優・タレントの峰竜太は下條村出身である。

飯田、下伊那は伝統芸能が盛んで「大鹿歌舞伎」は映画になったし、遠山郷の霜月まつり、人形浄瑠璃の黒田人形座・今田人形座は有名だし、「いいだ人形劇フェスタ」は毎年夏に行われ、世界から演者が集まる。我が家も子供を連れて見せた事もある。

6年に一回お練り祭りがある。申年と寅年だから、来年3月末の3日間に実施予定らしい。
街を挙げての大騒ぎとなる。5年前にブログに書いたところ、知人がわざわざ日帰りで行って来たと聞かされてびっくりこいた。

私は毎回ほとんど見に行っている。親類も集まって来る。友人にも会える。

各地区から出し物があり、「東野大獅子」は毎回追っかけ、銀座商店会は「次郎長踊り」、本町三丁目は「大名行列」だ。

私は中学1年時に妹と「大名行列」に参加した。私の実家は正真正銘の本町三丁目だからだ。その時は鉄砲隊でただ歩くだけだった。

飯田を語る時に忘れてはならない事は、地場産業である。
水引は日本一の生産量を誇る。落語「文七元結」の話の元となった「桜井文七」の墓は長昌寺にある。

城下町だったので和菓子が美味い。どこの和菓子でも美味しいが、特に有名なのは東京銀座歌舞伎座の地下でも売っている「和泉庄」の「名代大きんつば」は甘過ぎない。

東京の百貨店の催事で出店したのは、和泉庄の他、春月の「おたふく豆」、京王ストアのチラシに載った「いと忠」の「巣ごもり」は私も買って来た。

さらに有名なのは市田柿、五平餅、馬刺し、おたぐり(馬のモツ煮)、蜂の子など。
おたぐりは実家の町内の「三ツ輪食堂」で食べられる。

蜂の子は缶詰になっており、高級品故に我が家ではお正月にお客さんに出したり、炊き込みご飯にして食べた。珍味でタンパク質が取れる。

大学生の頃、友人が遊びに来た帰りに蜂の子缶詰を土産に上げたところ、開けてびっくりして捨ててしまったと聞いて悲しくなった。

戸田屋の半生菓子は時々スーパーで見かける。かなりのシェアーらしい。

地酒は喜久水で、名水百選に選ばれた「猿庫の泉」の名前そのものや大吟醸「聖岳」などがある。地元の宴会で飲む日本酒はほとんどが喜久水である。

実家に帰った時には時々買って持ち帰る。一時期、銀座のアンテナショップ「長野NAGANO」で販売していて購入した事もある。

飯田市が日本一を誇るのは、未だある。
人口1万人あたりの焼き肉店が日本一なのだ。私が小さい頃、親父は良くジンギスカンを食べていた。

最近、新宿東口に「焼肉ジンギスカン飯田屋」が開店したはずなのに、コロナ禍だろうか、もう閉店したそうだ。

遠山郷のジビエ料理「鹿肉」「猪肉」などの鍋は、時々テレビで紹介される程だ。
いつも我々が泊まった「島畑」のおじさんが出るので、笑って見ている。

年を取ると望郷の念が募るんだに。

新聞に投稿が掲載される  随想・日々是尺八

5月26日に私が投稿した文章が新聞に掲載された。
初投稿なので、幸運だった。

掲載されたのは東京新聞の「つれあいにモノ申す」のコーナー。
ただし氏名もペンネームも出てないから、誰だか分からない。

文章は次の通り。

別荘
妻が「ここは鳥が鳴くし、緑に囲まれて、まるで別荘みたいね」と満足そうに言った。
ちょっと待って。四季折々の花が咲き、芝生もきれいなのは、私が丁寧に手入れをしているから。私も褒めてほしい。
(夫婦で旅気分・72歳)

となっている。
ほとんど投稿の通りだが、最後の()部分が替えられた。

私は(料理はホメない夫)と書いたのだった。

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参考までに掲載された新聞をご覧ください。

緊急事態宣言と営業時間短縮  随想・日々是尺八

1月7日に政府から緊急事態宣言がなされ、百貨店、スーパー、飲食店など軒並み営業時間短縮に追い込まれた。

NHKテレビを見ていると、画面の上部に各百貨店などの営業時間が表示され、ほとんどの店が応じている。

振り返れば、私が会社に入社した時のスーパーの営業時間は午前10時から午後6時30分であったから、まさに昔に戻ったようだ。

当時のT百貨店の営業時間は10時から6時で、毎週定休日があった。

私のスーパーはT百貨店の子会社で勤務時間は9時45分から6時45分までで、当然定休日は毎週あった。

事務員だったので、夏ごろには未だ明るいうちに退社出来て、上司も独身だったので週3回くらい近くの居酒屋で飲んでいた。

その後は経済もどんどん発達して、だんだん営業時間は長引き、定休日もほとんど無くなり、社員はシフトで休みを決めていった。

そんな訳でテレビの画面を見て、懐かしさで当時を思い出した。
まさかこういう時代になるとは、予想だにしなかった。

昨年から続くコロナ禍で、飲食店などの閉店が続いている。

おさらい会などの後、門下生をよく連れて行っためじろ台駅前の「バーミアン」が1月11日に閉店した。誠に残念である。

「バーミヤン」や「ガスト」「夢庵」「藍屋」などは「すかいらーくグループ」である。

以前勤めていた会社は、まだ「スカイラーク」という店舗がある時に、テーブルや椅子を納品しており、最盛期は次から次へと出店で売り上げは凄かった。もう40年ほど前の話である。

テレビを見ていたら知っている店が出た。

八王子の高尾から陵南方面、甲州街道沿いにある「魚心亭(うおしんてい)」である。
大将がコロナ禍の中、海鮮丼にこれでもかと丼からはみ出すほどの大盛りの刺身を乗せていた。

私は何回か行っているのだが、最初に入った時の注文が「まかない丼」だった。注文に対して大将が「うまかないけどいいか?」と聞かれてびっくりした。

どうも名物大将らしく、次に行った時は「うまかない丼下さい」と言ってみた。笑われた。イやな客だね私は。

今頃になるといつも思い出すのは、昭和47年1月の浅草国際劇場での「北島三郎ショウ」へ出演した事だ。

調べたところ1月14日から1月23日までの10日間で、平日は1日2回公演、土日は1日3回公演とハードだった。従って49年前の今頃(1月20日現在)は公演中だった訳だ。大入り袋にはハッキリ1月23日千秋楽の印刷がある。全公演満席の大人気だった。

もう開演時間は何時に始まったか思い出せないが、昼休みには仲見世に通って昼食をとった。
ある飲食店に入った時「北島三郎ショウ」を見た観客らしい家族がおり、つい声をかけてしまった。「今の北島三郎ショウの尺八を吹いたのは私です。いかがでしたか?」と。
今考えるとアピール性が強かったなと思う。

その頃の仲見世の混雑状況は凄かった。昼食を終えてかろうじて次の公演に間に合う程だった。
ステージでは紋付き袴の着物姿なので着替えが必要で、支度も忙しい。

今は閑散とした浅草の状況をテレビで見るだけだ。

最近、物が壊れる  随想・日々是尺八

最近、物が壊れる。

身の回りで物が壊れる。何かの前兆だろうか。

その@、10月に右上の虫歯を治したばかりなのに、12月始め突然口の中に硬いものをかんで、吐き出した。金属の詰め物だったが、その時は何故か他人を疑った。

自分のは鏡をのぞいたが異常無いと見なして、その金属を一度は捨てた。翌日どうも私の右下の詰め物のようだと拾いなおして、後日歯医者に行った。
結局その場所で、詰め物をクリーニングして、はめなおした。

そのA、結婚する時に買った腕時計は、5〜6年後T百貨店で電池交換の際、無くされてしまった。
それで、同等の新品の腕時計をくれたのだ。

その腕時計も経年劣化で、新宿で商売をしている頃、電池交換のサービスを請け負っており、メッキも出来たのだ。それで金メッキをしてもらって、きれいになった。

それも今では大分剥げて来たので、腕が見えない冬にだけ使用していた。
5日図書館からの帰りに長袖をめくって時計を見たところ、ガラスが無く、針は止まっていた。

しかもこの時計は4日前に電池を交換したばかりであった。何という不運だ。
100年は持たなかったが、約36年間休まず動いてくれたのだ、感謝する。

その後、ついでがあったのでその時計店に伺って、事情を話し「もうこれはダメだ」と言うことで、店主に「何か部品として使えるならば使ってください。電池も新しいし」と渡すと、お礼として?長さ10センチの携帯用LED照明をくれた。これは便利な「懐中電灯」である。

そのB、べつに壊れた訳ではないが、洗面所の点灯管が突然つかなかったり、翌日にはデジタル体重計の電池が切れた。その前、電話機子機のバッテリー切れで新品を取り寄せた。急に変化が身の回りで起こっている。

12月18日バスに乗っていて追突事故にあった。
八王子に行く予定で、めじろ台からバスに乗り、2停留所目の前の信号待ちで止まっていたところ、「ドン」とバスが前のめりになった。

エンジントラブルかなと思っていると、車内放送があり、追突事故らしい。後部座席にいたので後ろを覗くと、乗用車が止まっていた。80歳くらいの爺さんがぶつけたようだ。

私はあわてて降りて、後部を見ると双方へこみは特になかった。
ちょうど白バイが走っており、パトカーも割と早く来たが処理に時間がかかると思って、めじろ台に向けて歩き出した。振り出しに戻ったのだが15分位かかった。

予定を変更して西八王子行きのバスに乗った。冷静に考えれば、大した事故ではなかったので、それ程時間はかからなかったろうにと思い直した。

軽い衝突だったので、幸いむち打ち状態にもならず、あの時猛スピードでぶつかっていたら、一瞬で命を無くしたと思うとゾッとする。

24日、しばらく使って無かったプリンターで印刷しようと思ったら、インクジェットの黒がほとんど無く、印刷できなかった。あわててネットで調べたが、どこも掲載されていなかった。

買って2年程だからまだあるはずだ、と八王子に出かけてヨドバシカメラで購入出来た。
プリンターの品番を調べてあり、従業員に聞いたらすぐに見つけてくれた。自分で見つけるより早い。

しかし、機械に弱い私はセットの仕方に四苦八苦。メーカーのネット上の説明でやっと取り付け完了。やっとの思いで印刷できた。

又新年早々、歯と歯の間にピスタチオの殻が挟まり、自分では取れなくなった。

バカな私は新聞を読みながら、ピスタチオとナッツ類を食べていたのだが、たまたま手にしたのを見なかったら、ピスタチオの殻までかんでしまった。

あわてて吐き出したのだが、その時は気がつかなかった。

しかし、歯の裏側に飛び出した小さな殻は自分では取れなかった。非常に気持ちが悪い。触ると舌が痛い。

これはすぐ歯医者に行かなくてはと、予約なしで診てもらった。結局歯を少し削り除去したのだが、詰め物をする事になった。こうして段々歯が削られていくのかとうんざりする。

壊れた時計  随想・日々是尺八

前回のブログで掛け時計が壊れて捨ててしまおうと書いたが、思い直して修理することにした。
やはりもったいないの精神だ。

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私が結婚した時に後輩からいただいた時計だから、大切にしたかった。
39年間働いてくれたが、電子部品を交換するだけで見事によみがえった。
しかも、くぐもったガラスも綺麗になり、新品同様になってうれしい。

西八王子駅の北口にあるU時計店で、親切なご主人が5千円で直してくれた。
その上、サービスでLEDの懐中電灯までいただいた。

早速、つけて見た。どうも釘にかける場所を前回は外枠にかけていたから、はずれたと思う。
今回はしっかりとかけたから、ドアの反動では落ちないだろう。

主人いわく「これでしばらく持ちますよ」と言われ「時計の寿命より私の方が先に行くかも」と言ってしまった。ひょっとしたら100年持ちますよ。

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この時計は写す時に斜めに置いたから、変な感じである。
考えたら結構、時計をいただいている。
これは会社を卒業した時にいただいた。木枠の真ん中は「たち吉」のお皿の置き時計である。

大和市に以前住んでいた頃、狭い家で置き場所がなく押入れにしまって置いたのだが、引っ越しで見つけた時には乾電池が液漏れして使用不可能の状態だった。

時計はやや見にくいが捨てるには忍びなかったので、新宿のK百貨店の陶器売場「たち吉」で聞いてみた。
「もうこれは取り扱ってはいない」とは言うものの、修理は可能だった。
上記と同じ後ろの電子部品の交換で、よみがえった。
これは大事に○○に置いてある。

兄の結婚返礼品も掛け時計で、我が和室にかけて時を刻んでくれる。
5月に三代目青木鈴慕になる彰二氏の結婚返礼品も置時計で、玄関に鎮座しており、出かける時は必ず見て出かける。

又、私がNHK育成会に通っている頃、「学生三曲連盟」の演奏会で「琵琶と糸竹のための二章」を指揮した時に、お礼として円柱形の置時計をいただいた。

表現は難しいが、上部は丸みのあるガラスで、周りは円柱形のガラスが覆い、中にぜんまい式の金ぴかの時計があるタイプだ。下で振り子にあたる金の玉が4個ぐるぐる回るやつだ。分かるかな?

外のガラスはかぶせるタイプだから、ぜんまいを巻く時にはガラスを割らないように外さねばならない。

下側四隅には、でこぼこの高さを調節する足が付いていた。水平でないと振り子が回らないのだ。
しばらく使っていたのだが、ぜんまいを巻くのがおっくうとなってしまった。
巻かないと時は止まる。

そんな訳で、今はもう手元には無い。

キタサンブラック優勝  随想・日々是尺八

第62回有馬記念が12月24日中山競馬場であり、「キタサンブラック」が優勝した。
騎手は武豊で、オーナーは北島三郎である。

「キタサンブラック」は史上最多タイの中央G1 で7勝目を挙げた。過去には「ディープインパクト」がいる。

レースをテレビで見ていたが、最初から飛ばして先頭で、最後は少し追いつかれそうになった。しかし最後まで先頭だった。

通常の馬より、筋肉が発達していて、登り坂の訓練を何回も繰り返したそうだ。やはり練習がものをいう。

余談だが、私は会社勤めのころ同僚に「キタサン」と呼ばれた。
「北原」だから「キタさん」である。でも腹黒ではないので、ブラックでは無い。

「サブちゃん」とは、私が浅草国際劇場の「北島三郎ショウ」で10日間尺八伴奏をした仲(?)である。

「キタサンブラック」は競走馬としてはこれが最後で引退するが、有終の美を飾った。
私は引退するわけにもいくまい。

競馬はやらないが、思い出がある。1965(昭和40)年の有馬記念は「シンザン」が優勝をした。
「シンザン」は八大競争の勝利数から「五冠馬シンザン」と言われた。

その年だったか、暮れの紅白歌合戦を見た時のことだ。
司会は宮田輝アナウンサーで、男性のコーラスグループ「ダークダックス」の時に「藤田まこと」も現れて、その時「五冠馬シンザンのいななきです」と鳴き声が流された。

藤田まことは役者であり、お笑い芸人、歌手でもある。あだ名は顔が長いので「馬」であって「来年は藤田まこととダークホースと名前を変えます」と笑わせた。

当時は録画するビデオは無いので、テープレコーダーに録音をして、何度も繰り返して聞いたので良く覚えている。

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ブラック関連で思い出した。
これは「長谷園(ながたにえん)」の炊飯土鍋「かまどさん」である。
お茶漬けの「永谷園」と読み方は同じだが別会社で、我が家で重宝している。
東日本大震災の時大停電があり、それまでは電気炊飯器を使用していたのだが、ガスによる土鍋に変えた。

元々は前からあった、料理用の白い土鍋でご飯を炊いていたが、蓋が壊れ、ガラス製の蓋で飯を炊いていた。ところが蒸気孔が無いので見ていないと、すぐに吹きこぼれてしまうので工夫して、割りばしを蓋と土鍋の間にはさんで、吹きこぼれそうになると、あわてて蓋を開けていた。

そんな時にテレビ東京の「カンブリア宮殿」で紹介されたのを見て、直接窯元へ電話して今年の4月に2合用を購入した。

土鍋は約10分間中火で、蒸気が出たら2分後に火を止めて、20分蒸らすだけ。中蓋がしっかり押さえているので吹きこぼれ無く、楽である。
これは旨い。特に最初に目留として炊いた「おかゆ」がとても旨かった。

三重県伊賀市の伊賀焼窯元で、テレビで見た7代目の長谷優磁(ゆうじ)氏の笑顔がとても良かった。

最近ではK百貨店やアートマン、高尾イーアスの「織部」でも売っている。


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こちらは「めしびつころりん」である。
上記「かまどさん」を買う前に、新宿にあった「通販生活」の店舗で見つけた。

「残りご飯の余分な水分を吸う陶器だから、電子レンジで温め直しても味が落ちない」と宣伝文句にあった。これも伊賀焼である。

炊き込みご飯など、大量に作った時などこれに入れて「チン」すれば、パサづかず美味しい。

いよいよ年の瀬である。

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我が家の庭には今年も「万両」の赤い実をつけてくれた。今年は良く出来た方だ。

万両は葉の下に実が成り、千両は葉の上に実が成る。

時々小鳥が来て、実を食べて、そこらへんに糞をするものだから、その糞のところから、又「万両」が生えて来る。

鳩が豆食ってぱ  随想・日々是尺八

ジュリーこと沢田研二は、私と同年である。

今でこそ、若い人は知らない人が多いが、私が25歳の頃、会社の新入社員教育で「そろばん」を教えた時に、「私は、ジュリーと同じ歳である」と言ったところ、若い女性は「エー!」と驚きの声を上げたが、どう言う意味だったのか。多分私の方は老けて見えたのであろう。

ただ私は、「ジュリーと同じだ」と言えば歳が分かると思ったのだ。それ位有名だった。

彼も歳をとり、今年1月8日のNHKホールでのライブで「Pray〜神の与え賜いし」の歌詞を忘れ、もう一度歌って、土下座をしたそうだ。某週刊誌には「頭がスパークした」と書いてあった。

そう言う同年の私も、物忘れが多くなってきた。

先日は尺八の稽古の時、レとチと頭で理解しているのだが、楽譜は「チ」であっても「手」は「レ」を瞬間的に吹いていた。

特にいけない、悔しいのは、出かけるときに何かを忘れることである。

昔から、「鳩が豆食ってぱ」と言う呪文みたいのがある。

これは、ひらがなに直せば「はとがまめくってぱ」であり、持参するリストの頭文字である。

「は」はハンカチ、「と」は時計、「が」は「がまぐち」すなわち財布、「ま」は万年筆、「め」は名刺、「く」は櫛、「て」は手帳、「ぱ」はパスすなわち通勤定期である。

私は、これでは足りないので、自分用にリストを作って出かけることにした。

「鳩が豆はってパホーマンスか」としてみた。
ひらがなで書けば「はとがまめはってぱほーまんすか」となる。

「は」は「ハンカチ」、「と」は「時計」、「が」は「がまぐち=財布・楽譜・楽器=尺八」、「ま」は「万年筆・シャーペン・ボールペン」、「め」は「名刺」、「は」は「歯ブラシ・歯間ブラシ」、「て」は「手帳・メモ帳・ティッシュペーパー」、「ぱ」は「パス=スイカ」、「ほ」は「本」、「まん」は「万歩計・マスク・マフラー」、「す」は「スマホ=携帯」、「か」は「カード類・カメラ・カイロ」である。

このメモを机の上に置いておき、出かける時にチェックするのである。
これで、どうやら忘れ物が少なくなった。(メガネに帽子は、私には当たり前)
もちろん、スーパー銭湯に行くならば「タオル」や、スーパーに行くなら、今時「レジ袋」も必要だ。

演奏会には尺八が必要だが、一尺八寸管や、時には一尺六寸管、二尺管の時もあるので、間違えたら最悪だ。

正式な演奏会の時には、紋付、袴をつけるが、ある時、白足袋を持参したは良いが、履いてみたら左足二枚の時があり、裏返して履く手もあるようだが、無理して履いたところ、右足が痛いのなんの非常に困った事があった。

靴下なら、左右どちらでも良いのだが、足袋は左右決まっているので、不便ではある。

同じ釜の飯  随想・日々是尺八

「同じ釜の飯を食べる」は一緒に生活する意で、家族は当然だが大学生の時は寮生活だった。

信州飯田から、M大学合格と同時に武蔵境にある長野県のS舎に面接を経て入寮した。駅前から歩けば20分位かかるので、通常はバスで桜堤の「公団中央」で下車した。

私が入寮した当時は木造建物が古く、旧館の裸電球で薄暗い10畳ほどの部屋に3人が入った。3隅に机を置き、その上に蛍光灯スタンドを各自用意して勉強をした。

セキュリティーなんぞ無く、泥棒が入り、先輩は財布を盗まれた。
勝手に入れたので、考えたら当たり前だったが、当時は未だ治安が良かった。

寮母さんが住み込みでいるので、朝・夕とも食事付き。風呂は我々が当番を決めて毎日交代で石炭を焚いた。
そこでは4年間お世話になった。様々な思い出があるがここでは省略する。

20年前には、土地を有効活用する為に老人ホームと一体化した「ケアハウス」が出来て、寮生は1人部屋になった。
その竣工記念のパーティーに出席して、久し振りに同僚に会った。

そして又、今年9月舎友会が飯田橋のアルカディアであり、タイトルは「武蔵境再建60周年記念式典」だった。創立では110周年にもなる。

名簿によると過去には凄い人の名もある。同期には会社の社長や弁護士もいる。

さて、当日懐かしい同期や、先輩方にお会い出来た。
1学年上の金田憲治氏は、今年下条村の村長になっていた。
私が下条村でかつて「長野オリンピックにエールを送ろう」と企画された催しで、下条村中学校で尺八演奏をした時に、金田憲治氏にお会いしていた。

小冊子も出来たので、皆さんの近況が良く解る。
私の文章は寮の先輩に尺八出演の機会をいただき、飯田市で初ライブや、稲荷町の龍谷寺での尺八演奏につながったと載せた。

話は変わるが9月30日に調布で飲み会があった。

飲み会は昼12時からなので早めに着き、調布を散策する事にした。もちろんゲゲゲの鬼太郎などの彫像を写す為だった。以前場所が分からなかったが、ネットで調べたところ天神通り商店街に並んでいた。

そこへ行く前に、通りの看板に「大西楽器店」を見つけた。矢印にしたがって歩いて行くとすぐ近くにあり、邦楽専門の箏・三絃・尺八を扱っていた。
尺八は「誠和音芸」銘があり、吹いてみたが私には上手く鳴らなかった。

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天神通り入口を見上げると、成るほど鬼太郎は上にいた。

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これらの写真は10月14日に再び訪れた時のである。なんでーか?
実は前回のは誤ってパソコンに「貼り付け」失敗して消してしまったからである。


散策後の12時から「調風」で飲み会である。
以前から懇意にしている、尺八で取り持つ縁の飯田高校の大先輩のTAさん(87歳)と、やはり柳井調風氏の弟子である、KA氏の3人であった。

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「調風」は調布駅東口を出ると、すぐのところにある。
あらかじめコース料理をTAさんが頼んでいてくれた。どうもTA氏が私の事を吹聴したらしく、KA氏が私に会いたいと言ったらしい。

KA氏は初対面だったが、歳も近くお互い尺八の話で盛り上がり、やはり尺八の話は面白い。(彼は箏まで習っていると言う)
あの曲この曲、あの人この人とバンバン次から次へと話題が出て来る。

酒も進み、料理も美味い。あっと言う間の2時間だった。
名残惜しいので、近くの喫茶店に行き全員暑いのでアイスコーヒーを注文する。

記念撮影は「従業員に写してもらうかな」と私が言ったのを聞いていたらしい、近くにいたカッコいいお兄さんが進んで「撮りますよ」と撮ってくれた。

余りにもカッコいい男なので「俳優かな?」と言ったら、一緒にいて勘定をしていたおばさんが「そうですよ」と言った。いったい誰だろうか。

せっかく撮った写真も、これ又データから削除してしまい残念。ただ一度はパソコンに取り込んで、スライドショーで見たのだが。




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