シンガポール旅行 そのT  旅行

久しぶりに飛行機に乗った。

会社勤めだった今から28年前の1988(昭和63)年10月にアメリカ・ハワイに行って以来だった。
この時はNCR米国流通業視察と言う名目で、成田からシアトル経由でシカゴ、ニューヨーク、デイトン、サンフランシスコのツアーで20人位だったか。
その後ツアーと別れて、会社の2人でハワイに回り、あまり話せない英語でも無事日本に帰って来られた。

今回は義弟の息子を訪ねて、5人でシンガポールに向かった。(妻・87歳の義母・義弟・その妻)
4年前には私以外の4人はシンガポールに行っているので、彼らは2回目である。
飛行機や宿泊の手配は、旅慣れた義弟がしてくれた。(7/14〜7/19)

7月14日(木)夕方6時頃は土砂降りだった。 ネットで京王線は平常運転を確認して、雨は止んだ8時前に自宅を出た。

ところが、土砂降りの影響か15分位遅れているの表示あり、一瞬高尾経由で中央線かと迷ったが、それでも何とか新宿に着き、山手線経由で品川に行き、京浜急行で羽田空港国際線ターミナル駅まで行った。

飛行機は給油が遅れているのアナウンスがあり、午前0:15発予定がかなり遅れて0:50離陸であった。
飛行機に乗り込んでから離陸までの時間が長く感じられ、ぐるぐる同じところを回っているのではないかと、ハラハラしながら外を覗いたが、暗くあまり解らなかった。

ただ、離陸時はアナウンスもあるしエンジンが全開になるので、いよいよだなと思い、しばらく走ったところでフワッと持ち上がったので、無事離陸出来たと安心した。

飛行機は全日空で日本語でOK。飛行が安定した1:30赤ワインとスナック菓子2種。
おしぼりにペットボトルもいただく。このペットボトルが旅行中大活躍してくれた。

全日空は総合的な空港サービスが世界1とある。
我々の機種はボーイング240席で、ほぼ満席。エコノミークラスのちょうど飛行機の真ん中あたりの右窓側18のH席に私は座った。

普段は寝ている時刻なのに結構、映画を見ている人がおり、私も「エベレスト神々の山嶺」を飛ばしながら見る。各席にあるから便利だ。ただ最初は操作が解らず、窓側K席の若い女性が教えてくれた。
他に「寅さん」や「東京物語」「男はつらいよ」「海街」など見ている人がいた。

しかし、ここで寝ないと現地は朝だ。機内は少し暗くなった。エコノミークラスで座ったまま寝るのはきついが、どうやらウトウトしたらしい。

気が付くと5:00朝食で鮭彩弁当と「茅乃舎」のスープをいただく。
飛行速度は910`/hで、通常の電車の10倍以上、新幹線の3倍以上の速さで、予定通り現地時刻6:30シンガポールチャンギ国際空港に着。(時差は1時間)

機内で記入した入国カードとパスポートを手に、緊張して入国審査をした。
以前は一所懸命「サイトシーング」と覚えたが、そこでは審査官の「帽子を取れ」のしぐさと、両手の親指を機器にかざす方法ですんなり通り抜けた。

シンガポールではガムの持ち込みは禁止である。販売もしていない。だから日本のようにガムが道路にへばり付いていない。
以前パチンコ店で椅子に座った時、柔らかいガムがズボンについて、大変困った事があった。日本もそうしてもらいたい。

空港で早速両替をする。シンガポール1ドルがほぼ80円である。(5万円がS$630だった)
全員トイレを済ませた。待合のソファーには当然異国の人で一杯である。それでも私にはアラブ系が多いと思った。

空港外は未だ薄暗い位だった。夜明けは日本より遅いようである。

白川郷・金沢旅行記  旅行

2016年4月26日(火)〜28日(木)まで、飛騨、山中温泉、東尋坊、金沢への2泊3日旅行に行って来た。
これはC社の「山中温泉の老舗旅館白鷺湯たわらやに2連泊」がメインのタイトルで「戦国浪漫感じる遺跡から城まで飛騨・北陸充実の旅」がサブタイトルである。
なかなか上手いタイトルをつけたものである。

行きは特急あずさで松本まで、移動はバス、帰りは富山から北陸新幹線で東京までである。
我々夫婦は、八王子から8時3分に乗った。ほとんどは新宿からで、総勢36名だった。
連休前の平日とあって、あずさは空いていた。さわやかな空気に迎えられて無事松本に着いた。

すぐに、大型で新型の長野観光バスに乗り込む。座席の指定があり、我々は10列目で一番後ろの前。もうここで残念に思った。一番後ろは3人組のおじさん達で、あずさの中から酒を飲んでおり、ガイドの話より自分達の話でうるさかった。我慢して、先ずは飛騨高山に到着だ。

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造り酒屋が多い。
以前来たのは高山に尺八仲間がおり、箏と合奏練習をしてそのまま別れてしまった。仕方なく駅前の居酒屋で一人寂しく飲んだなぁ。

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甚五郎の酒屋。「杉玉」は新酒が出来た時に知らせる役目がある。
長沢勝俊作曲「飛騨によせる三つのバラード」の第三章に「杉玉」があり、8分の5拍子や8分の3拍子など演奏に苦労した事を思い出した。

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次は、白川郷の合掌造り。10年に一回茅葺の屋根を葺き替えるという。

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和田家は見学出来るので中に入ると、名物ばあさんが朗々と自信たっぷりに解説をしてくれる。
写真は2階の太い柱と梁。駒尻とはコマの先がとんがっているような造りで、屋根が乗っているだけ。釘を使わず地震に耐えられる建築方法だ。1階はいろりを焚いていた。

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1泊目は山中温泉の老舗旅館「たわらや」で、とにかく源泉かけ流しで熱い。
「厳選垂れ流し」ではありません。誠にもったいない位の湯量と熱さで、いきなりは入れないから、まず寒くても露天風呂に入り、そして内風呂に入るとちょうど良い。

そして一夜明けた27日(水)も薄日が差す晴れ。バス席は7列目に昇格。
先ずは福井県大野市の越前大野城。織田信長の家臣金森長近が1576(天正3)年築城開始。昭和43年に再建。
小高い山の上にある為、下から歩くと20分位でちょっとした山登りだった。

石垣は自然石をそのまま積んだ野面積みだそうだ。あれーツァーのおじさん写っちゃった。
竹田城に負けずに「天空の城」を売り出し中。

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城下町の一角に名水百選の「御清水」(おしょうず)。湧水で美味い。
こちらは町中にあるが、私の生まれた信州飯田の「猿庫の泉」(さるくらのいずみ)も名水百選で、山の中にある。

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白山平泉寺(はくさんへいせんじ)は、中尊寺の平泉寺とは違う。
苔むす静かな所で、なだらかで少し広い階段を上ると突き当りは拝殿で、その裏に本殿がある。

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左側が本殿。
バス停前に何故かソフトクリームやさんがあり、これがジャージー種で柔らかくジュ―シーだった。

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曹洞宗大本山、永平寺の入口。
永平寺は1244(寛元2)年道元禅師にによって開かれた座禅修業の道場である。

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傘松閣(さんしょうかく)は156畳敷きの大広間。
天井の絵は昭和5年当時の著名な画家144人による230枚の花や鳥の絵。

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ここは仏殿だが、その裏には法堂がある。
山門から仏殿、法堂に行くには結構な板の廊下階段があり、山の斜面に作られた事が解る。
廊下は雲水らによる雑巾がけで綺麗であり、中学の時の廊下掃除を思い出した。

この日は尼さんらも修業で沢山来られていた。
私も尺八を演奏する手前、修業をせねばならない。

永平寺は雪が深く、瓦が痛むので1000円寄付すれば、数珠を頂けると知って寄付をした。
数珠と嬉しい事にお経の本もくれた。
これには私も知っている「開経偈」や「般若心経」が載っている「修證義」だった。

雲水らは夜は9時に消灯で朝3時30分に起きて朝食。食事当番は2時30分起きで、とても私は務まらない。
贅沢はしない食事でも彼らは、態度がきりっとして実にキビキビ立派でカッコ良い。

私も、修業のお経を唱えようと思う。

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一乗谷朝倉氏遺跡は、特別史跡・特別名勝・重要文化財の国の三重指定だそうである。上の写真は唐門。

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一乗谷(いちじょうだに)は地名。朝倉氏は兵庫県の豪族で朝倉広景から、朝倉孝景の時代に一乗谷に移り、繁栄したらしい。
しかし、1573年の刀羽坂の戦いで織田信長に敗れ、焼打ちになった。
遺跡の発掘は昭和42年から始まり、復原された。

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2日目の夕方、無料券をいただいて散策中「菊の湯」に行こうと思ったら、小雨が降りだし傘は持たなかったので諦めて、再び同じ宿の風呂に入った。

内湯に浸かっていたら、ガラスの向こうに何か見えたので、何かと思って見たらガラスの外側に「蜂の巣」を作り出して約3p位だった。こちら側に黄色い横縞の腹が見えた。すぐ横は露天風呂だ。スズメバチだったら大変だ。
早速、フロントに伝えたのは当然だった。

3日目の28日(木)は残念ながら朝から雨風強く時々土砂降り。バス席は少し前に進み2列目。
しかし、この席も真後ろの席のおばさんが、バスガイドの話しを聞かずうるさかった。
連れ合いは時々、舟を漕いでいたから気にならなかったらしい。

最初は「東尋坊」から始まった。

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東尋坊とは坊さんの名前。
松本清張の「ゼロの焦点」を読み、いつか現場を見てみたいと思っていた。しかし、土砂降りで風雨強く、ちょっと下に降りただけで、傘をさしており危ないので引き返した。
ここで死ぬわけには行かない。

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3日間バスを飛ばして、松井秀喜記念館を左に、松井ネットを道路上に見たりして金沢入り。
先ず、武家屋敷跡の野村家の庭園を見学。
外人さん達もじっと考え混んで、いつまでも見ている。

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玄関前の岩に苔むす風情がよろしい。
肝心の屋敷の写真が無いのは、とても見せられない人物が映っているので掲載出来ない。

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近江町市場の「市場寿し」は回転寿司だが普通にも握ってくれる。ここは本店。
実はツアー解散の声と同時に、飛び込んだのには情報があった。私の高校同級生のT君の話で旨いと聞いた。「のどくろセット」の寿司を頼んだが12貫もあり、美味いのなんの。全てが柔く新鮮でコメも旨い。それがエビ入り味噌汁も付いて2380円+税だった。

しかも連れは腹いっぱいだと言うから、私はその鯛も食べたから大満足だった。
おかみさんが「明日から連休で大忙しだから、本日は空いていてよかったね」

市場は近江商人が開いたからだと言う。そこは活気があって良いし、楽しい。
串に刺した、大いちご3ケ300円を食う。

あるO水産のエビ担当のお兄さんが「うちは大量仕入れだから安く出来る。地元の客を大事にするから、セット販売はしない」と説得力があった。

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休憩時間は残り30分だった。ここもT君の情報で「東出珈琲」。なに探さんでもバス停の斜め前だった。世界のコーヒーがあり、私は「ブラジル」で連れは「キューバ」。何れも美味い味わいで満足して、予定通り古いが木造の雰囲気のある喫茶店を後にした。

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兼六園は根上松(ねあがりまつ)から。土を盛って若松を植えて段々土を削って根上りになったと。
値上りの兼六園にはしないで欲しい。
以前、一人旅で来たが、うっすらと覚えているだけだった。

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「ことじ灯籠」の名は「琴柱」(ことじ)に似ているところから名付けられた。
とに角、雨激しく写真撮影は傘をさして、資料を持って大変である。もう資料はびしょびしょで破れかかっていた。

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霞ケ池の反対側から。つつじが綺麗だ。
もう駆け足で見て、バスに飛び込んだ。

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旅の最後は、ひがし茶屋街。テレビで良く見る光景だが、やはりテレビは映し方が上手い。
脚立を使って映しているカメラマンもいた。
もっと灯りがともる、夕やみの方が良い。
ガイドの話によると、私が夜来るところではなさそうだ。

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いよいよ最後となった。中田屋の「きんつば」をお土産に買う。私には甘すぎる。
「きんつば」は信州飯田の「和泉庄」の方が甘さが控えめだ。歌舞伎座で売っている。

写真に写らなかったがその左側に「箔一」があった。
そこで、欲しかった九谷焼の「おちょこ」を買った。これは運命で九谷焼のおちょこを求めて三千里ではないが、あちらこちら見て回ったが希望の品は無かった。

「箔一」で誠に品のある中年女性に、希望を言ったらずばりお目当てのおちょこを見つけてくれた。

何しろ中は金箔である。加賀百万石の思い出の品だと大枚をはたいた。パンパンパパンと講談では無い。冗談である。
実は予算ぴったりの3000円+税だった。

帰って時々、眺めながら「純米酒」をやっている。しかし味は金箔に負けるなぁ。

バスは無事富山に着き、バスとお別れした。
富山から北陸新幹線だったが、連休前で空いていた。ところが東京駅ではもう連休のラッシュが始まって、ホームはいっぱいの人。どこへ行くのだろうか。

3日間の旅行は、添乗員さんが若い女性で元気でテキパキとやってくれた。
バスの運転手も安全運転で安心出来たし、バスガイドさんの上手い事。何でも知っていて解り易く感心する。時々コックリタイムもくれて、お疲れの人には良かった事だろう。

たわらやさんには2連泊で、あわよくば他の温泉にも行きたかった。
食事は普通の旅館と同じだが、他人のコメントでは概ね良いと書いてある。
それでも毎回違った食事で、小さいがのどぐろやカレイ、はたはた、等の焼き魚や温泉卵、刺身、豆腐鍋、茶わん蒸し、生卵を自分で焼くベーコンエッグ、天婦羅、野菜寿司など2日間にわたり、夜はビールや地酒の「獅子の里」を飲んだ。

あの蜂の巣はどうなっただろうか。

北海道旅行記[・阿寒湖編  旅行

1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目の阿寒湖

阿寒湖に到着した続き。

さて、今晩の宿を探そうとウロチョロしているうち、今朝ウトロで別れたSさん家族と再び偶然に出会った。これからバスで美幌峠に向かうとの事。余りにも偶然なので、お互いの住所を知らせて年賀状の交換を申し出た。そこでSさん家族とは別れた。

さあ宿だ。今まで民宿だったので有終の美を飾るべくホテルにしようと腹に決めていた。
予約してなかったが、ぶっつけでニュー阿寒ホテルなる立派なホテルに行ってみた。残念ながら満室で特別室なら空いているとの事。仕方なく次のホテルへ行ったが、ここも満室。

さて困ったなあ、旅館にでもするかなあと歩いていると、空き室ありという表示があるホテルの前へ出た。「くまやホテル」と言うホテルで見た目は旅館で名ばかりのホテルと思ったが宿泊をあせっていたのでそこにした。

木造で二流旅館と言う感じ。一泊7000円だと言ったが、せっかくの場所だから「阿寒湖の見える部屋を」と言う事で8000円だった。
三階建ての三階、一番端で確かに阿寒湖を望めた。
荷物を降ろし、くつろいでいると私服の女中が来てお茶を入れてくれた。

遊覧船に乗りたかったので聞いてみると、30分毎に出ていて次は5時だと言う。
急いで船着き場へ行く事にした。

もう夕やみせまっていた。半袖で乗り込んだが動き出すと風は涼しく、寒さで震えてしまった。
右側に雄阿寒岳、後ろに雌阿寒岳がそびえ立ち、阿寒湖の遊覧船はまっすぐマリモのある島へと向かった。

マリモ・・・それは不思議な自然の産物だ。直径20p位もあるマリモは正直言ってびっくりした。すべて4〜5p位だと思っていたからである。藻類が湖の波に揺られながら湖底で回転運動をし、徐々に丸くなって成長しているのだ。

水族館では大小様々なマリモが上がったり下がったり回転運動をしていた。阿寒湖のマリモだけでなく、他の山中湖等のマリモと比較していたが、やはり阿寒湖のものが最大である。

船は阿寒川の水門などを経て、夕日が沈む様を映しながら進んだ。
乗船中、スピーカーから「毬藻の唄」(マリモのうた)が盛んに大音量で流れるので、覚えてしまった。
〽 水面をわたる風さみし・・・マリモよマリモ 緑のマリモ

自分への土産として阿寒湖の状差しを買ったので、それにその歌詞が書いてある。

ホテルに着くと部屋に入り、暮れて行く阿寒湖の素晴らしさを眺めていた。
6時50分夕日が完全に山の麓に没した。空の雲に反射した夕焼けが私の心を感傷的にさせたが、辺りが段々暗くなりやがて阿寒湖らしさだけが残ると、私は風呂に入るべく部屋を出た。

大浴場は私以外誰もいなかった。壁などは温泉地特有の汚れで匂いは確かに温泉の匂いであり、温度は適温でゆっくりつかった。

部屋の外にもう食事は届いていた。7時の指定だったからである。
電話を入れ女中を呼び、食事の用意をしてもらった。小さな鍋物とフライであまり美味しいとは言えず、印象は良くなかった。ビールを飲んだが、とにかく急いで食べた。

それには理由がある。アイヌ部落で8時からアイヌ踊りが上演される由の宣伝カーが回っていたからである。
急いで浴衣に下駄をつっかけてアイヌ部落へと歩き出した。

あちらこちらからも浴衣姿でアイヌ部落の方へ向かっている。失敗したのは下駄だった。
浴衣に似合うのだけれども、その下駄がやや小さいので、かかとが外に飛び出して足の裏が痛くて仕方ない。しかも暗い夜道を一人カランコロン歩くのは、気持ち良いものでは無かった。

アイヌ部落に入って8時を回っていたが始まる気配が見られない。周りは土産物店がいっぱいあり、ほとんど木彫りの熊とブローチ類だった。

8時30分にスピーカーでの呼びかけで小屋に入った。500円。造りはアイヌ的でかやぶきである。一目散に一番前の席を取った。
このアイヌの踊りは無形文化財に指定されており、小屋は釘一本も使ってないとの事。

やがて、アイヌ語での歓迎の歌があり、踊りが始まった。歌は聞いていてもさっぱり解らないが、踊りは描写的で解り易かった。
特に松の木を人間が演じ、風が吹いて揺れる様は、髪の毛を前後にゆすって上体を大きくゆらす白熱の演技であった。

珍しく竹で作った原始的な楽器「ムックル」を聞かせてもらえた。それは20p位のもので、竹を切って真ん中をリードにし、それに紐をつけてひっぱる事によってそのリードが振動し、音がするのである。
そのリード状の所を口にあてがう事により、口の中で共鳴し増幅され音楽として表現される。
極めて原始的にビーンビーンと多少の音程をつけ一曲演奏された。

やがて一時間位の上演を終わると、外の広場でも上演すると言う。ただしこちらは無料。

興味を持ったので再び外で鑑賞、今度は火を燃やして踊りが始まった。先程の踊りと変わらないものをやったが、その他「剣舞」もあった。男と男が刃物で戦うものでその男の裏に女性が一人づつついている。戦いに勝った男と結婚するというものだ。

残念だが「北海道旅行記」はここで終わってしまっていた。

記録に無いともう思い出せない。多分、翌朝阿寒湖からバスで釧路に行き、釧路から空路羽田経由で帰って来たのは確かである。

フィルムの写真がどこかにあるはずで、それには日付けも表示されている事だろう。

北海道には翌年、縁があって「きたみ東急」開店時に旭川まで飛行機に乗りA君と会い、又彼の旭川での結婚式1984(昭和59)年11月にも出席して披露宴で尺八を演奏した。

上記の「北海道旅行記」を見れば解る通り、A君には多大なお世話になり、感謝しきれない程の恩を感じており、上京でもたまに会うが、本当にありがとう。感動はいつまでも忘れない。

北海道旅行記Z・ウトロ〜阿寒湖編  旅行

1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目のウトロ

午前4時頃、あまりの明るさに起きてしまった。しかし間違いなく4時だった。・・・そうだ知床半島はアメリカに近いのだ。とすると朝日はもうすでに昇っているのか?カーテンもない窓からは太陽が差し込みそうだ。しかしあまりに早いので再び寝た。

ところが6時30分頃ガタガタ音がしだしたと思ったら、ご夫婦家族のお出かけだった。たまたまトイレに行きたかったので部屋の外へ出ると、再び会い阿寒湖で又お目にかかれる様、お互い祈った。

男連れ二人は車で羅臼に抜けるのだと言う。ちょうどその日の午後、長い冬の沈黙を破って道路が開通するのだ。

私は8時15分発の知床半島見学の遊覧船に乗るべく港に急いだ。途中には木彫りのアクセサリー等の土産物屋がたくさん並んでおり、時々小熊が鎖につながれいて道路にチョロチョロ出て来るとビックリする。
小さくても猛獣なのだ。

団体客と一緒に遊覧船に乗り込んだ。1時間30分の硫黄山折り返しだ。
流石、オホーツク海の風は冷たく、薄い長袖を必要とした。

船は左をオホーツク海、知床半島の絶壁を右にして進んで行った。スピーカーからは名調子の解説が流れる。知床半島はなだらかな山々を想像していたが、全く違った荒々しい岩々であった。
下側が流氷に削られて上の方が海に飛び出している様は、ぶきみだ。

あまりにも見事なので船室から甲板に飛び出したが、すでに若い人で満員だった。果てしなく続く岩々は間違いなく巨大なもので、層雲峡と共に北海道のすごさを見せつけてくれた。

知床岬行きの遊覧船は3時間以上かかるので、この硫黄山折り返しで私には十分だった。
スピーカーからは戸川幸夫の秘境知床の名文が流れたり、最後には知床旅情の歌が出たりで郷愁を誘った。9時40分港に着く。

今度は最終目的地の阿寒湖に向かうのだ。
10時15分発のバスに乗り、ウトロをあとにした。斜里駅には1時間で着いた。
斜里駅発の急行は12時47分なので、1時間半の待ち時間がある。そこでどうするか考えるべく駅前の「ちるちるみちる」なる喫茶店へ行って「アイスコーヒー」を注文した。

斜里町はこじんまりとしており、田舎的なたたずまいを見せていたがウエイトレスは中々の可愛子ちゃんであった。この近くで見るべきところはないか、聞いてみたが「判りません」とつれなかった。

ここでしばらく休憩すると12時を回ったので、昼食をとるべく外に出た。
駅に戻る途中に大衆的な店があり、そこで「カニラーメン」を注文した。塩味でラーメンの上にはたっぷりサービス良く、タラバガニが乗っていて美味かった。750円支払い駅に向かった。

急行しれとこ3号で弟子屈(てしかが)に向かう。13時55分に弟子屈着。ここから定期観光バスに乗るのだが、そのバス停に行く為に違うバスに乗って行った。

出発は3時なので1時間のロスがある。やはり一人旅はつらい。車ならロスがないのに。
近くにパチンコ店があったので入ったが、あっと言う間にすってしまい、面白くないので止めた。

阿寒湖まで定観光バスで1時間ちょっと。だんだんと山の中に入って行った。
途中運転手さんが、エゾマツ、トドマツの見分け方をなまり言葉で言い、その見分け方が解らない人はオソマツとシャレが出た。
雄阿寒岳が徐々に大きくなり、双湖台でペンケト−、パンケトーの湖を眺めた。

このペンケトー、パンケトーは元々阿寒湖と続いていたが、雄阿寒岳の噴火により分断されたとの事。静かに山と山との間に横たわっている湖を見て、バスは一路阿寒湖へ向かった。
女性のアナウンステープで阿寒湖を紹介してくれる。

16時10分、阿寒湖のバス停に到着。

続く

北海道旅行記Y・摩周湖〜ウトロ編  旅行

1981(昭和56)年6月24日水曜日の北海道旅行4日目、摩周湖

摩周湖には12時20分到着。霧の摩周湖とは言うが幸い良い天気なので、その湖が真っ青。
静かで神秘そのものだ。透明度が世界第二位とのこと。吸い込まれそうな濃い青だ。

湖の周りはすべて山で、人工的な不純物は入っていない。ただ自然の雨だけが溜まったものであろう。

(布施明が1966年にヒットさせた「霧の摩周湖」で有名になった。私は当時上手く歌えなかったが、35年経った今はカラオケで必ず歌う程好きな曲だ)

展望台は第一と第三があり、個人客が次から次へと来ていた。
記念撮影に余念が無く我々も摩周湖が良く写る場所では、どうしても他人が入ってしまい、仕方なく他人も一緒に撮ったりした。摩周湖だけの方がかえって素晴らしい。

摩周湖の清さを目に焼き付け、そこを離れた。これから下り坂で曲がりくねり、徐々に下界に降りて行った。
1時10分、川湯駅着。近くの食堂で昼食。(何を食べたか記録が無いし、記憶も無い)

北海道へ来て4日目。4日間世話になったA君と別れる時が来た。
私はこれから知床へ、彼は車で旭川まで引き返すのだ。

今まで世話になった礼を言い、彼と別れた。別れた途端、言い知れぬ寂しさに襲われた。

無理も無い。今まで北海道へ来てからずっと二人だったが、ここで北海道の原野に放り出されたようなものだったから。

しかし、地図と鉄道の時刻表を片手に持っていれば必ず、道は開けると確信していた。
川湯駅2時16分発、急行で斜里方面行きに乗る。

急行とは言ってもまるで鈍行みたいな走り方だ。たった2両で時速40`位。
山の中に入ったと思うと30`位のノロノロ運転。後で聞くと1000分のなにがしかの急勾配だそうで、それにしても遅い。

やがて平野が開けて来て、3時7分斜里駅に着く。川湯から斜里まで急行券込みで1040円だった。
駅前からウトロ行きのバスがすぐ出発するところ。時間はあらかじめ見ていたのでスムーズにいった。ウトロまで1050円。

路線バス風の定期観光バスといった感じで、各停留所に止まりながらも音声による景色の解説をしてくれた。
網走から眺めた知床半島の山々が目の前にそびえ立っており、右から斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳へと連なっている。

やがて知床半島に入って行く。すぐ左はオホーツク海。真冬は寒いだろう。冬この道は閉鎖される。途中オシンコシンの滝等を眺めさせてくれて、バスはさらに知床半島の中へと進む。

4時10分ウトロに着くとすぐ宿探しだ。民宿と腹は決まっている。
運よく近くに案内所があり、斡旋してもらったのはバス停近くの「うみべ荘」だった。

ひとまず宿へ行き荷物を降ろし、散歩に出かけた。そこは「うみべ」と名が付いていたが残念ながら海は見えなかった。

歩いて10分位で海に出られた。オホーツク海である。幸い天気に恵まれ半袖シャツで十分間に合った。
海岸には高さ30mもある岩がボロボロで、今にも崩れそうにちょっとした山を形作っていた。
周りは網で囲ってある。珍しいので写真に収める。
そこには森繁久弥の「知床旅情」の碑があった。

〽知床の岬にハマナスの咲く頃・・・という歌が彫ってある。
その小高い山をぐるっと回ると目の前はオホーツク海で、真冬を想像してみた。一面雪と氷であろう。鳥肌が立つ寸前だった。

30分程海岸で気を休めて宿に戻る。旭川で買った絵葉書に友人らに、とにかく北海道の素晴らしさを文にしたためる。
明朝、ウトロのバス停前のポストに投函すれば9時に集配にくるはずだ。

入浴後夕食。魚はホッケと鮭でいかにも民宿らしい料理であった。
食堂では他に男連れ二人と夫婦子供一人の家族がいた。
夫婦ペアは明日は阿寒湖に行くと言う。私とコースが同じなので話を始めたら、笛をやっているとかで、話がすっかり合ってしまった。

彼はN市で「蕎麦屋」をやっており、縁なもので来てくださいと言う。
又、3泊4日位の北海道旅行で先ずここに来たのだと言い、「知床最高!」と絶賛していた。

午後8時30分、大和市の自宅と信州の実家に、赤電話に10円玉を投入しながら話をした。
(未だテレフォンカードも携帯電話が無い時代である)
とにかく遠いからポトリポトリと10円玉が落ちて行くので落ち着いて話せない。
結局400円と200円かかった。

実家は父が出たが、もう北海道から帰ったものと錯覚していた。
今、北の最果てに来ているのだと強調して電話を切った。

9時、明日のコースを検討して持参した本を読もうと思ったが、疲れているので早く寝る事にした。
9時30分、就寝。


北海道旅行記X・網走〜美幌峠編  旅行

1981(昭和56)年6月24日水曜日、北海道旅行4日目の網走

我々を待っていたかの様な良い天気。一人3700円と安い。彼には世話になっているので宿泊代は私が払った。

8時25分「かもめ荘」を出る。車で走ってすぐ網走刑務所があり、橋を渡って門の前で記念写真を撮る。

言わずと知れた高倉健主演の「網走番外地」や「黄色いハンカチ」で有名だ。これも目的で高倉健になった気持ちだった。
(黄色いハンカチで、網走刑務所から出て、ビールとラーメン・かつ丼を食べた店はどこかな?)

太陽がまぶしいくらいだ。近くに見晴らしの良い天都山があると、タクシーの運転手に聞いたので、先ずはそこに行ってみる事にした。
小高い山で途中はどうと言う事もなかったが上に登ってみると、はるかオホーツク海上に知床半島がかすかに見えるではないか。私はあそこまで行くのだ。

四方が見渡せるこの展望台にずっと居たい気持ちだった。知床をバックに撮った写真は、これ又最高。気に入っているのだ。
展望台の下にオホーツク館と呼ばれる資料館があり、中には本物の流氷が冷ケースに入っていた。
又、イヤホーンで聞くと流氷のきしみの音がぶきみに聞こえ、思わずオホーツク海の真っただ中にいる錯覚がして身震いした。
9時30分に資料館を出る。

さあこれからだ。どうしようか。駐車場にたむろしているタクシーの運転手が「今日は美幌峠コースが最高。明日の天気はわからない」との事で心が揺らぐ。

近くに案内所があったので、聞いてみたが我々の条件に合うコースが無かった。
とにかくA君とは別れる日だし、私は26日釧路から帰る予定である。
総合的に判断して、美幌峠、摩周湖、川湯へ車で行き、そこで別れて私は急行で斜里〜ウトロのコースとした。

先ず美幌峠だ。コースが決まれば早い。
10時20分、網走をあとにする。昨日来た道とは違うコースで女満別に向かう。
右側には網走湖、空はさわやか。ライトバンなので乗用車よりはるかに見晴らしが良いのだ。

右に大きくカーブして少し登った所に町があり、ここが女満別。
ここを通り抜け、今度は直角に左に折れる。さあここからはまっすぐの一直線だ。飛ばしても飛ばしても一直線だ。こんな道は長野県には無い。
地図でみるとおよそ10`はあるだろう。

やがて美幌町の手前で左に折れた。車はどんどん山道を登っている。
そもそも峠とは山道の登りつめた所なのだから、標高がだんだん高くなって来ている訳だ。
11時10分美幌峠の駐車場に着く。未だ何も見えない。

団体客がバスを連ねて来ている。アイヌの貸衣装で身をつつみ、アイヌ人らしき人と記念写真をあちらこちらで撮っている。老人が多い。

小高い山を登ると眼下に大パノラマが広がった。メルヘンである。
屈斜路湖が雄大に静かに横たわり、北海道の広さを見せつけてくれた。色はスカイブルー。
中央に中島が見え、遠くには斜里岳、標津岳、カヌイヌプリが見える。
A君がここだけは推薦していた理由が判った。とにかく素晴らしい眺めだ。

天気も良し。見渡せば遠く大雪山も見えそう。言葉に言い尽くせない美しさがある。自然の美しさだ。
フィルムを入れ替え、美幌峠を下って一路屈斜路湖へ向かう。

11時40分、私は摩周湖にも行きたかったが、彼は修学旅行で行ったと言う。
そこは無理を言って行ってもらう事にした。何しろ有名な「霧の摩周湖」である。歌の世界に触れたかった。

続く


北海道旅行記W・石北峠〜網走編  旅行

北海道旅行3日目、石北峠の続き。
1981(昭和46)年6月23日火曜日。

石北峠で「じゃがいも焼き」と「割りチョコ」を買う。じゃがいもは大きなのを3つ割りばしに差して焼いてある。歯ごたえがあり、甘くとてもおいしい。本州ではちょっと食べられない味だ。
割りチョコはホワイトチョコで牛乳たっぷりの甘いチョコレートだ。簡易包装で中にいくつもあり、おいしくて300円は安い。

峠を越えると下り坂。風は涼しい。
蛇行しながら段々と下の方に降りて行く。私は地図を見ながら道案内だ。左に見えて来たのが北見富士で1291m。道路は相変わらず空いていて、スイスイと北見方面へ向かっている。
道はやがて石北本線を横切り、「るべしべ」(現在は北見市)の町に入って行く。

北海道の雄大な景色を堪能しているうちに、やがて街並みになったと思ったら北見市である。
そこでは「きたみ東急百貨店」が1982年に開店予定で、建築中であった。
(実はその開店時に後日出席をしたのだが、残念ながら2007年に閉店した)

北見市をあっと言う間に通り過ぎた。端野町に入って大きく右にカーブし、やがて田んぼの中を通って行く。幹線では無くなったのか、車の量がほとんど無く、夕やみ迫っていた。

網走まで40`。1時間弱で着く予定。
途中山道から突然下り坂になると目の前には間違いなく、オホーツク海が左手から右手にかけて横たわっていた。
ついに来たのだ。北の果てまで。そう考えると身震いした。
空にはうろこ雲。かすかに見える知床半島。幻想的な夕やみである。

5時40分、双鏡台展望台にて、近くは能取湖、網走湖、遠くはオホーツクを感慨深く眺めた。
車は右に網走湖を見て、6時3分網走市内に入った。あこがれの網走だ。

早速、宿探しで電話帳にて民宿「かもめ荘」と決定。かもめ荘へ直行する。
夕食ではカレイ、イカ刺身が出た。
入浴後、街見学とシャレてみた。

思った程大きな街ではなく、地方都市を感じさせた。
とにかく魚の旨いもの、取り分け毛ガニを食いたい。安くてうまい処は無いか?
タバコ屋のおばあちゃんに聞いてみた。ところが「良く知らない」と言いだし、向かいの鮨屋に行って聞いてくると言いだした。

こうなると鮨屋に入らざるを得ない。しかし若いお兄ちゃんが出てきて「カニならそこの角から二軒目の底曳ですね」と親切に教えてくれた。

底曳では「内地から来て是非毛ガニを食いたい」由を告げると、とびきり新鮮な・・・今朝獲れたもの・・・毛ガニを一匹都合してくれた。水が滴る珍味そのもの。
冷酒で毛ガニを堪能した。

その後であるハプニングが起きたのは。
A君が主人に尺八を聞かせようと言うのである。彼は急いで宿に戻った。
やがて、私の尺八と楽譜を持って来た。

私はお得意の「春の海」と「仁義」を演奏した。座敷にいた地元の三人のおじさん連中も一緒で喜んでくれた。すると主人が珍しいものを持って来た。
「うちこ」である。どろっとして紫色で、これが何とタラバガ二の受精したばかりの卵とかで、見た目には紫色だから変な感じがしたが、味は最高の珍味であった。

言い忘れたが、お通しにウニが出た。生ウニで水分があり、柔くトロッとして美味。
さらなるものは「めふん」・・・サケの背中のちあい(神経)・・・これは塩辛みたいにぬるっとして黒ずんでいた。

それに鮭の頭・・・「氷頭」(ひず)・・・酢付けにしたものが出た。珍味、これ又珍味づくしで、冷酒も6合位飲んだらしい。すっかりごちそうになって底曳を出たのだが、又又、先程の鮨屋「福尚」(ふくひさ)に寄らなくてはなるまい。刺身が食べたい。

ガラッと開けると今さっき案内をしてくれた若いお兄さんが「いらっしゃい」「やっぱり来たよ。さっきはありがとう」今度はチーフが「どこへいらしたんですか?」「底曳です」と言う訳で、底曳で出なかった物をもらう事にした。

福尚ではルイベ(紅鮭)、イカの沖漬・・・生きたイカを油漬けにしたもの、タラバ蟹の肉の厚い部分、ボタンエビ、北寄貝、エバラ貝、クジラのスネ肉といった具合で、全てが初めてと言う位珍しい食い物であった。
酒はもう入らなかったが、彼は日本酒をやっていた。
いい気分になって、静かな北国の街を歩き宿に戻った。

早速、明日の打ち合わせ。彼はどこまで来てくれるのか未だ決めて無く、とにかく明日の夕方6時頃までに旭川に戻れば良いとの事。
明日は先ず、網走市内を見て、お天気次第と言う事で就寝。

北国と言っても6月下旬。お天気が良いので全然寒くは無くカラッとして快適。
網走の夜も寝つき良し。

(網走を今現在検索したところ、かもめ荘と福尚は存在したが、底曳は閉店したようだ)


北海道旅行記V・旭川〜石北峠編  旅行

1981(昭和45)年6月23日火曜日、北海道旅行3日目の旭川。

夜中に目を覚ましたものの、再び寝て気が付いた時には8時を回っていた。
今日の予定は層雲峡経由網走で224`の道程である。天気は朝から小雨模様。
私は晴れ男だが、彼の母親は雨女という。それが当たっているから面白い。

朝食には鮭と大きな筋子等の北海道の旨いものをごちそうになってから、彼の母を伴って10時10分出発して旭川駅まで送る。札幌まで急行で行くと言う。

車にガソリンを入れ、旭川からややはずれた高台にあるユーカラ館に行く。
ユーカラ織の展示館で衣類から、アクセサリー、家具までユーカラを使用している。素晴らしい芸術を見たと思って館を出ると、そこは土産売り場だった。

団体客が土産物をあさり、混雑で大変な騒ぎである。私も騒ぎにつられ何か買わなくてはとあせり、絵葉書とコースターを買った。彼曰く「最高のデートコースがあるとは知らなかった」と。

次はアイヌ記念館。場所はやはり旭川市内でアイヌ人達の狩猟の道具等が展示されていた。

雨は降ったり止んだりしていた。

次は「比布」の駅である。ちょっと前TVCMで「ピップエレキバン」でこの駅が出て有名になったらしい。
(出演した当時ピップ会長の禿げたお爺さんの顔が思い出される)
A君はわざわざ連れて行ってくれたのだ。

早速、駅員にことわり、中に入り線路を渡って例の駅名のところで「比布」を指し記念撮影をした。

時刻は12時40分。腹も減ってきた。考えて見れば北海道へ来て3日目だが、未だラーメンを食べていない事に気が付いた。
昼は次の目的地とした。雨はいよいよ激しくフロントガラスにたたきつけていた。

雨は時折強くそして弱くを繰り返しているうち、行く手は段々と晴れ上がって来た。
母を降ろしたので晴れるぞと二人で大笑い。
やがて「ポンモシリ」へ着く。

もう1時を回っている。早速昼食だ。やっとラーメンを注文する。
醤油味で、味は薄かった。ラーメンの上の具はほとんどない。
これは旭川ラーメン」で札幌は具が多いと言う。油分が多かった。
腹が減っていたので旨く、チャーハンは山分けとした。

そこには大雪山観光資料館があり、さらに奥の公園には日本に二頭しかいないと言う熊「コデアックグマ」5歳がいた。
その大きさはライオン位あり、もし山の中で襲われたらあっと言う間に食い殺されてしまうだろう。オリの中で幸いである。躰は茶色である。

午後2時にポンモシリを出発して、層雲峡に向かう。もう雨は小雨どころか霧状態である。
左前方に断崖絶壁の岩が近くの山の上に現れ、やがて全ての絶壁が見えてきた。
コケさえ生えぬその岩に圧倒されてしまう。
やがて層雲峡のロープウェイ入口に差し掛かった。私の父母も父の還暦旅行でこの地に来たと言う。この辺りは大函、小函だ。

断崖絶壁がしばらく続き、やがて右手に「流星の滝」が見えた。
空に突き刺した様な岩と岩の間から滝が出来ていて、スマートな滝だ。
突然、足元近くリスが矢の如く走り抜けて行った。滝は続けて3つ程あった。その内の一つ「ライマンの滝」でA君が録音すると言い出した。滝の音をである。

録音を仕掛けて、散歩に行った。30分程して戻って録音を聞いてみると、シャーシャーしているだけで、気が休まる自然の音楽とは言い難かった。

3時20分に層雲峡をあとにする。天気は晴れたり曇ったり。
川の流れに沿って走る。川は石狩川の上流。大雪ダムを右に見て車は石北峠へと進む。
徐々にだが上がって来ているらしい。石北峠は標高1050mで北見まで70`のところにある。

3日目続くーーー。

北海道旅行記U・旭川編  旅行

1981(昭和45)年6月22日月曜日、北海道旅行2日目の札幌。

朝6時頃目が覚めたが、まだ眠い。二日酔いの感じでまだ起きられず、再び目を閉じる。
札幌の一夜は思った程寒くはなかった。気が付くと8時半。
階下に降りてA君が作った目玉焼きで朝食をいただく。その後皿を洗うとその水の冷たさには参った。あの私の故郷・・・信州飯田・・・の冬の水の冷たさ。手の切れる様な冷たさだった。

今日のコースは札幌〜旭川で見るべき所があったら見たい、という気楽で十分時間のあるコースである。余裕を持って10時10分彼の親類宅を出発。

札幌市内をやっとのことで抜け出すと、やがて石狩川にぶつかる。
「石狩川エレジー」を思い出しながら川を渡ると当別に入る。道路はタイヤの跡が付くところだけがへこんでいて、ところどころその上にアスファルトをのせている。
北海道は雪が積もる為に、タイヤをラジアルにする。雪解けになってもラジアルタイヤで走るので削られてしまうと言う。

当別で給油し、月形町を経て滝川市へ向かう。地図を片手に照らし合わせながらの進行は良く解った。ほとんど線路づたいで周りは緑一色。放牧された牛や馬が実にのどかに見える。
地図によると札幌〜旭川間は138`だから普通で3時間かかる。
これだけでも北海道は広いと思った。

やがて滝川市に入る。時計は12時を回り昼食時。A君のおすすめで有名な手打ち蕎麦の「そば嘉」に寄って天婦羅そばを注文する。本当の手打ち蕎麦で、シコシコしており、歯ごたえがある。
納豆蕎麦が有名らしい。マンガ家のおおば比呂司が絶賛した新聞の切り抜きが柱に貼ってあった。もちろんイラスト入りである。

車は深川市を経由して旭川市に入って行く。道路のすぐそばを石狩川が流れており、その川も我々を導いてくれた。

しばらく走って小高い丘に登ったなと思った瞬間、突然目の前に旭川市が飛び込んで来た。
山と川を見ていた私にはとても新鮮であったので、思わず大きな声で「すごい」と叫んでしまった。「そんなに驚いた?」と聞かれた程だった。

想像以上に大きな街で人口40万人と言う。
神居にある彼の家に午後1時30分着。早速コーヒー一杯飲みながら次の行動を計画した。
大雪山連峰の中の旭岳にロープウェイがあるからそこまで行こう。
出来れば勇駒別温泉にでもつかって疲れをとろう、とリュックを置きカメラを持参してそこを飛び出した。

畑の向こうに、草原の向こうに見える大雪山の山々が段々と姿を現し、残雪が夕日に照らし出され、青い空とみごとに調和を保っている。ところどころで記念写真を撮っていたら、結構時間がかかってしまった。

やがて着いたところは旭岳ロープウェイ旭岳駅。時刻は4時10分でロープウェイに乗るべく時間を聞くと、今度の4時20分が最終だと言われた。あやういところだった。せっかく来たのだ。

20人乗り位のロープウェイに我々が貸切で乗る。一人2400円と、ちょっと高い気がしたが仕方あるまい。
女性のガイド付きで遠くの山々、旭岳について説明してくれる。

途中乗継駅があり、再び乗り込む。ロープウェイでどんどん昇り、ついに標高1600m地点までくる。下を見ると、ところどころに残雪があり森林地帯はエゾマツ、トドマツが姿を現している。
見晴らしは最高。終点まで来ると15分しか余裕がないという。

ところがちょうど36枚撮りのフィルムが終わってしまったので、又新たにフィルムを買ったりしていたら5分経過。時間がないのに何をしているのか。
急いで長靴を借り(200円)すぐ近くにある見晴台まで走っていった。

すぐそこから雪があり、足をとられてうまく走れない。厚さ30pはあるだろう雪はサクサクとまるでシャーベットの様で足がのめり込んでしまう。しかも登りで日頃走り慣れていない私には、とてもつらく息が切れる。やっとの思いで着くと3分経過。

とにかく写真をと必死で4〜5枚旭岳を目の前にして撮る。
標高2290mの旭岳は夕日に照らしだされ茶色の肌を現している。

ゆっくり眺めている時間は無く、すぐ放送で最終便が出るとのこと。
再び走って降りて行く。距離にして50m。スキーのように滑りながら、今にも転びそうになりながら、二人はかけ降りて行った。
雪が長靴の中に入り、靴下は濡れている。

ロープウェイの真横には出来たばかりの川がきれいな透き通った水を徐々に集めてだんだん大きくなっていった。まだ高山植物は咲いてないが、雪解けと共に咲くのであろう。

終点には5時に着く。すぐ近くに温泉があるので入って行こうと「えぞ松荘」の風呂に向かう。
風呂代一人400円、タオル250円。ここは本当の温泉だ。弱食塩泉で適温。健康に良いと水も飲む。広い浴場を二人貸切でゆっくりつかる。

およそ1時間でA君宅に着いた。
今度は夜の旭川に繰り出すことになった。タクシーでちゃんこ鍋の「北の富士」へ行った。
二階の座敷に案内される。下足箱は昔銭湯にあったものと同じでそれぞれ力士の名前が入っており、私は栃ノ海、彼は琴桜であった。

「九重鍋」を二人前、注文した。先ずはビールジョッキである。
小皿には白いゴマがあり、これをすってスープを入れたがこの味は忘れられない。未だかつて食べたことがない位おいしい鍋だった。

スープは塩味で中には毛ガニ、大きなエビ、ホタテ貝、つくね、タラ、鶏肉、春菊、はるさめが入っていた。
最後には平べったいうどんがあったが途中牛肉を特別注文したので、もう腹はいっぱいであった。ビールは大ジョッキ2杯で締めて二人で9760円はおいしさ、腹いっぱいを考えれば安いものである。

8時半過ぎに出て、旭川の街を歩く。からっとして気持ちの良い天気だから汗も出ず、気分が良かった。

9時頃、「ナイトアンドディー」に入った。ここは音楽の生が出来るスナックだ。
彼のなじみの店だったが、マスターはちょうど東京に行っていなかった。
素人の集まりで時々ドラム、ギター、ベースを演奏するらしい。私は尺八を持参しており、ここで吹かせたかったらしい、がその機会はなく、ただ何となく時間が流れて店を出た。

もう午前0時を回っていたが、もう一軒「あすか」というスナックに向かった。
カラオケが出来る店で、もうママは酔いが回りどうしようもなかった。何人かの客がいたのだが、いつしか私達だけになっていた。

他に従業員が二人いたので、カラオケをセットしてくれた。
K君は「浪曲子守唄」を歌い、私は「私祈ってます」。又「別れても好きな人」等のデュエット曲を店の女の子と歌い、気分良くしてそこを出たのはもう2時近かった。

K君宅では2階の彼の部屋を当ててくれた。
彼は中国語の勉強をしており、朝早いNHK中国語講座を聞いているとの事。筋が良いらしく盛んに謝謝、ニーハオとやっていた。そのうれしそうな顔が忘れられない。

さて、翌日どうするかの検討をした。彼の気持ちとしては網走まで一緒に行きたいらしい。
層雲峡経由、網走とコースが決定。午前2時ベッドに就く。
酔いのせいか気持ち良くバタンキュ―だったらしい。






北海道旅行記T・札幌編  旅行

今年3月26日に北海道新幹線が開業したが、札幌までは遠い話である。
さて、若い時の話だが、1981(昭和56)年、6月21日会社の都合をつけて北海道の旅に出た。
これが、最近私が見つけた「北海道旅行記」の書き出しである。

逆算すると32歳の時だった。もう所々しか思い出せなかった旅行が、断捨離で整理中偶然に見つかりまざまざと思い出した。私にしてはかなりの量で詳しく書いてあり、そうだったかなと思うところもあり、面白い。やはりメモでも旅行記でもとっておくもんだな。

全てを公開する訳にも行かないから、多少は端折って書いてみよう。これは珍道中ではなく、世話になったA君への感謝のブログである。以下旅行記から。

天気は薄曇り。リュックを背中に喜びを胸に、つきみ野駅7時30分発の電車で羽田に向かう。
一人旅とは言っても北海道旭川に二つ下の尺八友人A君がおり、札幌から旭川まで案内してもらうつもりで気は楽だった。彼とは大学は違うし、歳も違うが、ある演奏会で一諸に演奏して親しくなった。

およそ1か月前、会社で休むべき休暇がたまっているとの事でその消化に努めるべく連休を必要とした。たまたまA君に誘われていて・・・実は結婚式には絶対行くと言ってあったのだがその兆候が見えないので・・・思い切って北海道旅行5泊6日の計画を企てた。
(その後昭和59年に彼は結婚式を挙げ、私も参列し、披露宴で春の海を演奏した)

羽田での飛行機は10時45分に離陸した。私は飛行機に乗るのは2回目だった。20分くらいで乱気流に遭いガタガタと揺れ出した。
窓外の左翼がゆっくり揺れる様がぶきみである。霧で翼がしっとり濡れている。

機長の説明があり、上空1万m、時速800`とのことだ。
太平洋側を飛行するのだが、日本の地図の通りにハッキリ見えた。

(その後の1985年8月、御巣鷹山の日航機墜落事故で坂本九ちゃんは亡くなったが、実は私の高校の一つ上、ブラバンで同じ楽器、しかも大学も同じ、長野県の寮でも同じ部屋だった先輩Mさんも亡くなった)

旋回して、千歳空港に無事着陸。ついにあこがれの北海道に。晴れているが、むし暑さは無く、からっとして気持ちが良い。
到着ロビーでは、すでに友人のA君は来ていた。

千歳には12時10分に着いたから、ちょうど昼飯という事で鮨屋に入る。特上の鮨は魚が新鮮でカニも乗っていた。ビールも一杯ひっかけ、早くもごちそうになった。

彼の車は青塗りのタウンエースだ。札幌に向かうべく有料道路を走る。
窓外の緑が新鮮で実にさわやかである。札幌に行く途中、羊が丘に寄る。
ここは遠く札幌市内を見下ろせる所で、市民の憩いの場所になっている。ちょうど行った日は日曜日で家族連れの姿も見えた。ジンギスカンの匂いをかぎながら、一路札幌市内に向かった。

市内は近代的な街づくりで都会である。東京の繁華街と何ら変わりない事を確認した。
車を有料駐車場に入れ、市内見学へと出かけた。

カメラ片手にまず、テレビ塔のある大通り公園へ出る。大通り公園では花畑で若い連中から老人までごろごろしている。とうもろこしの匂いがし、早速食べる。200円。冷凍物だが柔らかく、美味しかった。
テレビ塔の上まで昇ろうということでエレベーターに乗る。ここから四方八方が見られ足元を見るとフラフラする位高く昇っていることがわかる。

やがて降りて、降りたところで雪印のソフトクリーム160円を買う。これが最高の美味しさ。かつて田舎で食べた気がする昔のあの柔らかい牛乳たっぷりのソフトクリームであった。

テレビ塔の時刻は3時8分。そこから時計台、旧道庁、札幌駅を回る。
その後は、彼の親戚宅に伺う。宮の森の近くにあり、札幌オリンピックの会場となった大倉山シェンツェをバックにしていた。
すぐ大倉山に行き、ジャンプ台を見る。なだらかなスロープで下から見るとなんでもない様だが、上から見ると怖いだろう。上からは札幌市内に飛び込む感じとのこと。

親類宅で5時半から8時まで尺八の練習を彼とした。杵屋正邦作曲「尺八二重奏曲」、山本邦山作曲「壱越」など。
実は札幌にうまい尺八の吹き手がいるとのことで、その日会う事になっていた。相手は「疲れているから」と言われたが、紆余曲折を経て会えることになり、すすき野まで一杯やりに行く事に成功。N氏は車で迎えに来てくれたが、何と外人女性も同伴だった。

行先はすすき野の緑ヶ丘で、全国でも名だたる繁華街とのうたい文句どおり。
そこではジンギスカン、ビール飲み放題、食べ放題一人2500円と安く、生まれて初めてと言う位のジンギスカンは柔らかく、おいしくてどんどん胃の中に収まっていた。

ビールは中ジョッキ3杯。言う事なし。N氏は札幌都山流若手ナンバーワンだそうだ。
初対面でありながら、尺八が取り持つ縁で話が合った。
片や気になる外人女性は、27歳の美人ドイツ人。尺八のお弟子さんで3年習っているとの事で、曲は何でも出来、とにかく練習の虫らしく手に尺八ダコが出来ているのに驚く。

日本語は上手く、盛んに「どうぞどうぞお食べ下さい。ぜんぜん食べてないじゃないですか」と言われた。ドイツ語を学生の頃少しやったので、何となく話してみたくなり、「ダンケシェーン」や「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と単語を並べ「イヒリーベディヒ」なんてやったら、一生懸命に「発音が違う」と言って教えてくれた。

ナハトはナを強調して、あとは小さくすぼめる様にと手振りでも分かり易かった。少しはマシになったかな。
とにかくジンギスカンを食べ、ビールを飲んだのでもう腹はいっぱいだった。
再会を希望して0時に別れた。すっかりN氏にごちそうになった。

(その後何年かして、N氏と再会出来てご自宅に伺ったところ、その女性と結婚されてリカちゃん人形の様な可愛い女の子がいた)

A君ともう一軒「つぼ八」に行き、今度は日本酒にした。
炉端焼きで、焼きじゃが、アスパラ、カニカブト、エビ、メロン、パイナップルといったメニュ―で〆た。お銚子は8本飲んだようだ。

タクシーで親類宅に向かったがすでに深夜1時30分を回り、長い一日が終わり深い眠りに付く。
どうやら二日酔いの気配がありそうである。
彼からもらった消化薬「ザンビアン」を飲むのをすっかり忘れていた。

ブログは長くなりそうなので、初日はここで終了する。

旅行記は5泊6日の内、5日目の夜で終わっていたのは残念だった。どうしても6日目がはっきりと分からないから、今思い出せる範囲内で書こうと思う。






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