2018/8/30

古希の祝い  スポーツ・健康

8月5日は私の誕生日で、70歳だから「古希の祝い」をした。

古希(古稀)は「人生七十古来稀なり」から。唐の詩人杜甫の詩の一部に由来する。

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前もって予約をしておいた自宅近くの和食屋さんFで、「誕生日祝いだ」と特別に花火とベルギーワッフルをサービスしてくれた。(もちろん申し込み時点で誕生日祝いとは言っていた)

昼に行ってコース料理は花会席・フレンチ風で、色々な小鉢が出て楽しめた。

昔の人は「人生五十年」だとか、「村の船頭さん」の歌には「〽村の渡しの船頭さんは 今年60のおじいさん」とある。

孫のいる同期生は「おじいさん」と言わせるだろうが、私は未だ「おじいさん」でないし、古希でもじいさんの気持ちは無い。

気持ちは無いのだが、身体が確実に年を取っている。
実は6月に左耳の手術をした。

真珠腫中耳炎というやっかいな病気で、鼓膜が破れてそこの中(中耳)に上皮組織が入り込み、伝導させる骨を溶かしつつあった。

4月中旬の夜中に突然耳垂れが出て、聴力がかなり落ちたのである。難聴である。

早速、近場の耳鼻科から八王子の「東京I大病院」を紹介してもらって、各種検査後、鼓膜再生・鼓室形成手術に及んだ。

自分の皮膚から取って鼓膜を再生と、中耳の骨2ヶ所も耳裏の骨を取って中に埋め込んだのである。(かなり複雑な手術である)

手術は6月28日に全身麻酔で、朝9時から午後2時半まで5時間30分かかる大手術だった。手術は成功した。

病室には近くの「看護学校生」が研修という形で、女性のOさんが私に付いた。
いろいろ質問を受けて、手術当日も私の手術を見守った。

その後も話の中で、私の生き方みたいな質問を受けたので、このブログについて話をしたところ、「見ました」と言ってくれた。

入院中は規則正しい生活だが、時間に追われた。それでも看護師さんらは皆、親切に接してくれた。

入院は7日間で済んだ。
退院時はOさんに「退院後の生活・注意をする点」のファイルをいただいて、説明もしてくれた。彼女も来年、看護師として立派に育つのを祈る。

手術後2ヶ月経ち、少し(思ったより)聴力が回復したのは嬉しかった。

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2018/1/13

星野仙一氏死去  スポーツ・健康

喪中だったが、とにかく新年は開けた。

1月6日いつものように朝7時にNHKラジオをつけると、開口一番に「1月4日に星野仙一氏が70歳で亡くなりました」と告げられ、瞬間的に心にグサッと来て、涙があふれあわてて起きた。

70歳は今現在、私と1歳違いではあるが、大学での学年は2年先輩である。
星野仙一氏がM大学野球部に属していた頃は残念ながら、六大学での優勝の経験は無い。

同時期にライバルだった法政大学の山本浩二・田淵幸一らや、早稲田大学にも荒川など凄いのがいたからである。
野球は一人では勝てない。(彼は在学中にノーヒットノーランを達成している)

しかし、彼には不運と言うか、彼が卒業して中日のプロに入ったその春の六大学(昭和44年)にM大学が優勝したのである。なんと皮肉なことであろうか?

我々はその時、学園祭の「和泉祭」で尺八を校外の舞台で演奏する予定だった。
同僚のK君と私がアレンジした、尺八二重奏「子象の行進」を必死で練習していた時に、「優勝したぞ」の一報が入り、「和泉祭」をほったらかしにして、提灯行列に向かった。

ところが、もう終わっていたと思う。(今みたいに携帯やスマホがあったら、情報は早いのに)
結局「京王百貨店」の屋上に向かい、もう「ビアガーデン」は、オープンしていたのでそこへ乗り込んだ。

気勢を上げ、バンド演奏を乗っ取り、「校歌」を歌い出した。
バンドマンも仕方なく、適当に合わせてくれた。

星野仙一氏は岡山県倉敷市出身である。
母子家庭で育てられ、苦労した事だろう。その上奥様に先を越され、可哀そうであった。
「闘将」と呼ばれるが、反骨精神で良く頑張った。

NHKで「ファミリーヒストリー」を見たが、涙ものだった。

その岡山県倉敷出身者が、我が門下生にいるのである。若いE君だ。
長野県と岡山県は不思議な縁?で、年末に高校生同士の戦いがあったのだ。

まず、12月24日の全国高校駅伝競走大会で長野県代表と、岡山県代表が優勝争いをしたのである。

優勝したのは「佐久長聖高校」で、9年振り2回目である。
その模様をテレビで見ていたのだが、途中岡山県代表「倉敷」に追い抜かれて一時二位になった。その後挽回して最後は、トップだった。

12月28日には、全国高校ラグビー大会の一回戦が大阪花園であり、何と我が母校の飯田高校が長野県代表で出場したのである。
しかも相手は、岡山県代表の「倉敷工業」で飯田高校が26対5で勝った。

飯田高校は県立の進学高校ではあるが、毎年のように県大会は岡谷工業と決勝戦を戦っている。
たいしたものである。

しかし、2回戦は神奈川代表の桐蔭学園で120対0で負けた。圧倒的な差であった。
長野県代表になった時に同窓会から、寄付のお知らせが来て、わずかばかりの寄付をした。

「倉敷工業」に勝った時にE君に早速メールをしたところ、誠に残念がっていた。

私は岡山県には最近良く行っている、と言うか通過拠点として行っていると言うべきか。

一昨年11月には、四国旅行の帰りは岡山駅で新幹線に乗ったし、昨年11月の出雲旅行は行きも帰りも新幹線の岡山駅だったので、駅構内を知り尽くしているとはオーバーだろうか?

いやいや駅構内のコンビニや、駅ビルの販売店やレストラン名など良く知っていて、「門下生より知っているよ」なんてな話をしている。

倉敷は以前一人で旅行して、倉敷川一帯と大原美術館などを見たことがある。

「星野仙一記念館」があるようだ。いつか行ってみたい。
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2016/10/3

豪栄道の優勝  スポーツ・健康

大相撲9月場所で大関の豪栄道が優勝した。

1986年4月生まれの30歳である。本名が澤井豪太郎で大阪府出身。
埼玉栄高校卒業後、大相撲入りした。「豪栄道」の豪は名前から、栄は高校名から、道は相撲道である。

私が澤井を初めて知ったのは、彼が高校生の時だった。
澤井が出場した全日本相撲選手権大会を、たまたまテレビで見ていたのだ。

トーナメントで勝ち進み、高校生なのに強いのがいるなと思い、その時「澤井」の名をしっかりと頭にきざんだ。
高校生としては史上4人目となる3位入賞を果たし、2005年1月初土俵。

あの時は大きいと思ったが、プロの世界では小さい。
順調に大関までになった時、「ああ、あの時の澤井がついに大関になったのか」と感慨無量であった。

だが、大関になってなかなか結果が出なくて、歯がゆかった。押しても両足が揃い簡単に振られて負ける。押してダメならすぐ引く悪い癖で、押し替えされる。
白鵬が良く使う、張り手もたまに使う。私は余り「張り手」は好きでない。

それが、どうしたことか9月場所で全勝優勝を成し遂げた。もちろん白鵬がいなかったから、評価は完璧ではない。しかし、懸念した「引き」「張り手」がなく、窮余の「首投げ」はあったものの、総じて満足できる勝負であった。

これが持続出来るか、来場所が見ものである。

ついでに「御嶽海」。ついに上がって来た。私が十両の時に予想した通り順調だ。
私が言った通り、取り口に組んで良しとなってきたからだ。技を身につけたな。

稀勢の里は腰高を修正出来なけば、横綱には成れない。

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2016/8/20

オリンピック雑感  スポーツ・健康

今年のリオデジャネイロのオリンピックで、日本は目覚ましい活躍ぶりで毎日快進撃が続いた。
(金メダル12個、銀メダル8個、銅メダル20個の合計41個だった)

予想通りの金メダルもあれば、予想外の活躍もあり、テレビを見るのが楽しかった。
何故かいつもより早めに寝て、午前5時頃には起きて生の演技を再三見られた。

やはり感激したのは、卓球女子団体戦である。3人のチームワークよろしく銅メダルは立派だ。
さらに男子団体も負けじと、銀メダルは予想以上であった。
いつもはハラハラして見ないけれども、今回はしっかり見た。

私も卓球を久しぶりにしたくなり、近くに住む義弟宅に行って卓球をした。何しろ小学校5年頃には自宅2階に卓球台があり、友人を呼んで卓球を良くしたものだ。
中学1年次には卓球クラブに入って、強くはないがそれらしい事はした。
しかし、愛ちゃんにはかなわないが、ある程度は勝てる。

オリンピックの詳細はテレビ、新聞に任せるとして、私の思い出を書こうと思う。

我が家にテレビが来たのは高校1年の、東京オリンピックの時だから、やはりオリンピックの思い出は東京からという事になる。

特に体操男子の遠藤幸雄の個人総合と男子団体の金メダル、バレーボール女子の金メダル、男子マラソンの(裸足の)アベベや円谷、柔道の無差別級のヘーシンク、体操女子のべラ・チャスラフスカが印象的だった。

東洋の魔女と言われた、バレーボール女子チームは「鬼の大松」監督に導かれ、河西昌江を主将として、厳しいスパルタ式練習が有名である。ここで日本らしい「回転レシーブ」が生まれた。

大松監督の「俺についてこい」や「成せばなる」の名文句で、ついに優勝した。

体操男子の演技でアナウンサーが連発した「これもウルトラCです」が未だに耳に残っている。
演技の難易度で、今回のリオでは「ウルトラC」どころか、最高難度はH難度だから相当難しくなっている。

べラ・チャスラフスカは1942年5月生まれのチェコ出身で「オリンピックの名花」と言われ、個人総合優勝をした人である。当時22歳。
この名前を、親父はなかなか覚えられず、「チャフラフカフカ」と言って何度教えてもダメだった。

(後日談=チャスラフスカさんは8月30日、74歳で亡くなった。ご冥福をお祈りいたします)

東京オリンピックの開幕は、陸上自衛隊を中心とする「ファンファーレ」で始まった。
この曲は、公募により諏訪交響楽団の指揮者だった、今井光也作曲である。
正式には「東京オリンピック・ファンファーレ」であり、30人で特注の長いトランペットで演奏された。

たった8小節の短い曲であるが、中身は濃い。
変ロのユニゾンで始まり、5小節目で四声に分かれてヘ短調の主和音で終結する。

YouTubeにて「東京オリンピック・ファンファーレ」や続けて「東京オリンピック・マーチ」も聞ける。
ファンの中には2020年の東京オリンピックにも、この曲を演奏してほしいと言う要望もあるようだ。私も名曲だと思っている。

しかし、尺八を演奏している手前、今度は尺八で「ファンファーレ」はいかがであろうか。
或いは、箏や津軽三味線での共演もいいかも知れない。誠に日本らしい。
しかし未だ、開会式の演出者が決まっていないらしい。

さらに、私が気に入っているオリンピックのファンファーレは、1984年ロサンゼルスオリンピックのファンファーレであろう。

この曲はジョン・ウィリアムズ(1932年2月〜)作曲で「ファンファーレとテーマ」がその年のグラミー賞を受賞している。
その当時、甥が気に入ったらしくそのCDを購入して聞かせてもらった。

最近の開会式は1964年の東京オリンピックみたいに整然と行進しない。
閉会式はどこもバラバラで入場するが、その東京の時は選手を式典で待たせる間に、酒をふるまったので選手は陽気になったようである。

しかし、東京オリンピックのように開会式は整然と行進してもらいたいのは私一人だけであろうか。
どこかの国なら、100点満点の一糸乱れぬ大変立派な行進をするであろう。

「東京オリンピックマーチ」を作曲した古関裕而は「会心作だ」と言い、内外でも評価が高かった。
最後のメロディーに日本らしく「君が代」を入れたのを、皆さんはご存じであろうか。
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2016/6/9

万歩計  スポーツ・健康

ついに日本で新元素が発見されてNh「ニホニウム」と命名されそうだ。
日本で発見されたから、「ニホン」と「イウム」の合成語である。これを和製と言うなら、私がブラバンで演奏した「ユーホニウム」はヨーロッパ製か?まさかである。

北海道では、小学二年生が父親に置き去りにされて7日目に発見された。子供の心情を考えれば、行き過ぎた行為である。どんなに辛く小屋まで歩いて行ったのだろうか。

このような時にスマホがあれば、GPSで位置確認が出来たであろう。
様々な教訓で、対策を講じてもらいたい。

彼はどの位歩いたであろうか?

4月に北陸に旅行に行った時、ツアーのガイドさんがお客に「本日は何歩位歩きましたか?」と聞いて返事は「一万歩を越えた」と言っていた。

万歩計を持参していたのである。

普段どの位歩いているのか興味を持っており早速、旅行から帰って万歩計を購入した。
これは健康増進を図るのであって、歩数を計るのである。悪事を謀るのではありません。

オムロン製の簡単ので、たったの1,220円である。
操作は簡単。10,000歩越えると万歳マークが出てうれしい。

5/14自宅から、竜泉寺の湯まで歩いて45分。帰りは京王片倉まで歩いて13分。これで大体一万歩だった。竜泉寺はいつも混んでいる。

一日自宅にいると1,000歩どまり。

6/2高尾山の琵琶滝コースへ登って、帰りはリフトだったが14,000歩で、これが万歩計を買って初めてのトップ記録となった。万歳マークで盛んに両手を上げてくれる。
大体私の歩幅を50pとすると単純計算で10,000歩で5`mである。

パジャマの胸ポケットに入れると感知せず、自転車の場合も胸ポケットはダメである。

6/8は自宅から高尾駅まで自転車を飛ばし、高尾駅から高尾山口駅まで電車。駅前を見学して、高尾山温泉に入った。昼頃だったが、ガラガラ。竜泉寺とは随分違うようだ。
昼食は「ロースカツ定食」を美味しくいただいた。再び高尾駅から自転車で帰宅。これで7,300歩だ。

6/9日野煉瓦ホールで「ふれあいコンサート」があり、聞きに行って来た。

レェヴと言う三人組の女性合唱グループの主催演奏会に、何故か尺八都山流のK氏が出演した。
曲は「鹿の遠音」と「竹籟五章」を独奏でと、「春の海」はピアノと合奏した。
45分の長きにわたり、トークも交え場を独占していた。

今では都山流でも「鹿の遠音」を演奏する時代になった。
ただ、私は楽譜を持参して聞いていたところ、独奏用に自分で考えたであろうメロディーに違和感を覚えた。後半の雄鹿と雌鹿が掛け合いで鳴く部分の後は段々静かになって行くのだが、又前の派手な旋律に戻ったのである。びっくりした。間違えたのか意図的なのかは解らない。

又、「竹籟五章」は私が演奏したより速く、思っていた以上にせせこましく感じた。全曲したのだが「この曲で良かったのかな」と自分でも言っていた。

ただ、なにぶんにも「歌」のコンサートで会場は、おばさんばかりである。難しい曲だったが解ったのかな? これでは尺八リサイタルの曲ばかりである。

「春の海」は本来、箏の部分をピアノの伴奏で演奏した。これが素晴らしい伴奏だった。
しかしピアノと尺八は音律的に難しく、尺八の音程は不安定だった。

その後の歌はピアノ伴奏で「浜辺の歌」や「旅人よ」など、先生方と皆さんとで楽しく歌った。
最後は先生達だけで「涙そうそう」を歌ったが、やはり上手い。もっと先生達の歌をたっぷりと聞きたかった。

高幡不動まで、バスで行き後は電車で帰った。これで4,600歩だ。

どうも統計上は、私の年齢で目安は7,000歩らしい。
だから一日家にいたのでは、ダメじゃん。
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2016/3/20

甲子園で高校野球  スポーツ・健康

春の選抜高校野球が始まった。

夏と違って各県代表ではないので盛り上がりが無く、知らない間にもう決勝戦かと思う時もある。

私は信州出身だし地元を応援するのは当然だろう。何しろ生まれて高校生までの18年間を過ごした場所である。
さらに、神奈川県大和市に28年間住んでいたので神奈川県も応援するし、現在の西東京も応援する。
特に長野代表は肩入れするが、今回は残念だが出ていない。

夏の場合は地方大会からよく注意して、新聞などでチェックしている。

会社勤めの頃、先輩に「長野県は出ると負けだなぁ」とか、「長野県は松商学園しか無いのかよ」と散々バカにされた。大変悔しい思いをしたものである。

夏の甲子園で印象が強いのは、池田高校やPL学園、横浜高校である。
PL学園のKKコンビで毎回のように優勝している時、会社では「プロ野球の最下位チームより強いのではないか」と言う話が出た事もあった。

夏の甲子園決勝戦では様々な名勝負があったし、ドラマもあった。思い出に残る試合は、

1969年、井上明投手の松山商業対太田幸司投手の三沢高校で0:0で引き分け、再試合となって4:2で松山商が優勝した。
この時は私は大学生で、アルバイトをしながらラジオを聞いていた。
太田投手を応援していていたので残念だった。

1980年、愛甲猛投手の横浜高校対荒木大輔投手の早稲田実業は6:4で横浜高校。
愛甲の大きなカーブが面白いように決まり、荒木は大輔ブームとなる。

1983年、桑田真澄投手のPL学園対横浜商業は3:0でPL学園。
桑田投手は1年生だった。

1985年、やはり桑田真澄投手のPL学園対宇部商は4x:3でPL学園。

1992年、星稜高校は松井秀喜が2回戦で、明徳義塾に5打席連続敬遠されて敗退した。
明徳義塾の馬淵監督は、いろいろ非難されたが「相手には1人プロがいた」と言ったらしい。
松井のコメントは淡々として、悔しさを隠し、その態度が大物を思わせ、プロで花が開いた。

1998年、松坂大輔投手の横浜高校対京都成章は3:0で松坂大輔はノーヒットノーランだった。
その前の準々決勝は17回までの凄いシーソーゲームで、7回から登板したPL学園の上重投手との投げ合いは手に汗を握った。横浜高校は史上5校目の春・夏連覇だった。

2006年、齋藤祐樹投手の早稲田実業対田中将大投手の駒大苫小牧で1:1再試合となり、4:3で早稲田実業が優勝。齋藤はハンカチ王子と愛称が付いた。
この時点で田中は負けたけれども、素質は齋藤より上と評価されていた。

名監督は池田高校の「攻めダルマ」こと蔦監督、PL学園の中村監督、取手二高・常総学院の木内監督、横浜の渡辺監督、明徳義塾の馬淵監督、智弁和歌山の高嶋監督を上げる事が出来る。

再び春の選抜高校野球に戻ると、実は輝かしい優勝をしたチームが飯田市にあるのだ。
長野県をバカにしないでくれと言いたい。

1954(昭和29年)4月、飯田長姫(おさひめ)高校は身長157pと小柄で左腕の「小さな大投手」と称された光沢毅を擁して、第26回選抜高校野球大会で全国優勝を遂げた。

当時はラジオしかないから、飯田市民はラジオにかじり付き、あれよあれよの快進撃にやんやの喝采の声を上げたと父から聞いた。

優勝パレードとして市中行進をした時、父はカメラ好きでバシャバシャ撮ったようで、白黒写真を見た覚えがある。

我々の年代以上の人は結構、飯田長姫高校が優勝した事を知っていて、こちらがビックリする位で鼻が高くなったのは事実だ。

光沢毅氏は明治大学から三協精機に入社して野球を続け、甲子園の高校野球大会ではNHK解説者として長らく名解説をしてくれた。
私が小学校の時に、彼の弟がクラスにいたので、親近感が沸きうれしく思っていたが、交通事故により失明されたのは不運だった。

飯田長姫高校の校名は飯田城(別名長姫城)跡地にあったことに由来する。
2013年度には飯田工業高校との統合により、飯田OIDE長姫高校となった。
英字を使用する珍しい校名である。

蛇足だが、もう一つ準優勝を上げておきたい。
1991年、春の選抜高校野球大会で、その「松商学園」が抹消されずに決勝戦まで行ったのだ。
優勝は広陵高校で6x:5だったが、松商学園の投手は「上田佳範」でドンドン勝ち進み、ついに優勝寸前まで行ったのだ。

会社で興奮したのは言うまでもない。松商学園をバカにしないでよ。PlayBack。

彼はその後プロになり、ドラフトで日ハムの外野手、そして中日でも活躍した。
今期はDeNAで一軍外野守備走塁コーチをしている。
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2015/10/31

卓球とスケート  スポーツ・健康

スポーツはあまり自信がない。野球等は、からきし駄目である。
それでも卓球とスケートは別である。

私が小学校5年生の時には自宅(信州飯田)の2階に卓球台があった。5歳上の姉が高校生で卓球部に入った為、父に買ってもらったらしい。
新品だったから、多分大工さんに作らせたものだろう。しっかりとした作りだった。

私もクラスの友人を呼んで、良く試合をした。いやむしろ遊びだった。
中学生になって、私が入りたかった吹奏楽部は未だ無かった為、卓球部に入部した。
ところが、同級生らも入ったが、皆私より強いのである。ほとんどつまらなかったと記憶している。2年生の時に吹奏楽部が出来たので喜んで鞍替えした。

しかし、昔取った杵柄と言う例えがある通り、素人よりは強い。
ある時、会社の旅行で旅館に卓球台があり、卓球をしたところ、同じ部署の若い連中よりは強くて鼻を高くした。
姉は高校以来、現在も続けており、私より強いのは間違いない。

スケートは、やはり小学生の頃から父に習い、まずは自宅庭の雪を踏みしめて作ったスケート場でだった。
最初は下駄スケートだから、刃のついた下駄の上に足袋をはいて、ヒモで縛る訳だ。
それはそれは寒くて、足は冷たかった。足の指先が痛いくらいだった。

「柏原つつみ」とか「松川プール」で練習して、休日にはバスで「沢城湖」に行った。

中学生や高校生の頃には、電車で七久保にある「千人塚」。そしてさらに遠出して「諏訪湖」「白樺湖」「蓼の海」まで足を延ばした事もある。
その頃には、靴スケートを買ってもらっていた。

都会住まいになって、子供を連れて「こどもの国」「二子玉川園」「新横浜」「よみうりランド」「東京オリンピックプール」「後楽園」と数えたらキリが無いほど良く行った。
都会人とは違い、腰を十分曲げて、両手は後ろに組んでも大丈夫だった。コーナーでもそのままバランスは保てた。通常「千鳥足」と言う滑りだ。
結構速く滑れるようになり、一周400mで約1分くらいだった。

「二子玉川園」では、子供も一緒だったので、カッコいいところを見せようとスピードを出し、止まるときにそのままフェンスにぶつかってしまった。
当然衝撃があり、右手と胸でまともに当たって止まった訳だから、右肋骨と右手首を打撲して痛く、しばらくの間、湿布した。
今も、右手首に痛みが残るのは、後遺症であろう。
やはりスピードは危険である。

会社の旅行で御殿場へ行った時だった。
翌日は「ファミリーランド」でスケートをする事になっており、誰かが私と後輩と「どちらが速いかカケよう」と言う話になった。
私は負けるかもしれないと弱気になり、「カケはしない」と言った。
ところが、ふたを開けてビックリ。私の方がダントツで速かったのである。「しまった」と思った。

都会の人混みの中を、右に左にスムーズに追い抜いて移動できるのは、スケートで鍛えた、人にぶつからない「凄ワザ」であろうか。
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2015/7/17

大相撲との縁  スポーツ・健康

昭和34年、私が小学生の頃は、栃錦・若乃花が横綱で栃若時代と呼ばれ、自宅にはまだテレビが無かった為、ラジオを良く聞いた。そしてマンガで「若乃花物語」を見て「土俵の鬼」と知った。

中学生の時は柏戸・大鵬が横綱で、人気者の大鵬は優勝を重ねて「巨人」「大鵬」「卵焼き」と3大人気に数えられた。もちろん私も好きだった。

時を経て平成15年5月、西新宿に元栃桜が経営する、相撲料理・和食と地酒「方屋」が開店した。
私は開店前に栃桜と知り合いになり、開店日に招待された。
現北の湖理事長・宮城野親方(元金親)・北桜も見えてビールに「ちゃんこ鍋」を頂いた。
会が進み余興として、相撲の歌謡曲は無いので「柔」を尺八で演奏した。宴会終盤の頃、「綾小路きみまろ」も来店。若い頃から栃桜と懇意にしていたそうである。私はきみまろ氏を知っており、一度下げた尺八をもう一度取り出し記念撮影をお願いした。友人たちに写真を見せたところ知らない人が多かったが、今では知らない人はいないであろう。
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栃桜は相撲甚句の名手でCDも出しており、記念品として頂いた。

「方屋」と言えば、夜の宴会に友人を連れて「ちゃんこ鍋コース」を食べたが、鳥のダシがうまく、日本酒の「田酒」を初めて飲み気に入った。
今年の正月に自宅近くの酒屋で1升瓶の「田酒」を売っていることを知り、他の銘柄1本を抱き合わせ販売で2本を買い、長らく楽しんだ。
「方屋」の昼ランチは「サバ焼き」や「ちゃんこ鍋」もあり、特に「サバ焼き」は好きでよく食べた。

ある時、元NHKアナウンサーの葛西聖司氏が、たまたまカウンターの私の隣に座り、ビックリしたが、この機会にと失礼ながら声をかけた。
私の最初のNHKFMラジオ「邦楽のひととき」で「明治松竹梅」を演奏した時の、出演者紹介時の放送アナウンサーが葛西氏だったからだ。
当然だが面識もなく、無名の私を覚えているハズが無いが、その頃筝曲家の沢井忠夫(1937〜1997)が亡くなっており、「残念ですね」と言葉を交わした。
「方屋」は何年か前、惜しまれて閉店された。

昨年(平成26年)初場所の1月20日の9日目だった。突然午後に知人から電話があり「升席4人のところ3人空いているから来ないか?」と言われて当日だったが、あわてて家族も呼び出し4時に両国で待ち合わせをした。
もうすでに館内は、横綱土俵入りを終えてザワザワとしていた。相撲茶屋に案内されて、無事升席に座った。周りの升席は多少空いており、足を投げ出して見ていた。西側の土俵からは遠かった。
ビールは飲み放題だし、何本もの焼き鳥に二段弁当やらで6時終了まで、食べるのに忙しかった。
それでも私は遠藤関に「遠藤ー!」と大声を上げていた。その時、前席のおばちゃんが振り向いて私の顔を見た。
テレビと違って解説や再生ビデオがない為、たんたんと進む。
帰りには、紙袋いっぱいのお土産(うどん・和菓子・急須等)を頂いた。せめて昼頃から見られれば、ゆっくり出来たのだが。

今場所(名古屋場所)十両・御嶽海(みたけうみ)は初日より6連勝と好調が続いている。私と同じ信州で木曾出身。得意な突き・押し相撲を貫いてもらいたい。

日本人の横綱誕生を期待しています。
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