今日は午後から時間がとれたので、下の子Kちゃんの友達Sちゃんのお母さんが昨年オープンされた整骨院へ。
去年の夏にひどい肩こりに悩まされ半死半生!?状態のとき、遊びに来ていたSちゃんに「病気じゃなくて肩こりやけど、整骨院いってもいいのかなあ」と聞けば、にっこりと「もちろん!ぜひ来てください!」。
お言葉に甘えて現在肩こりじゃなくても、暇をみつけては通うようにしている。おかげで寝込んじゃうような辛い症状からは脱出できた。代わりに電気をかけてもらっている間、あまりの心地よさに爆睡している。足湯あり、赤外線あり、ストレッチありで、待ち時間なしの快適さ。こじんまりとアットホームで、病院というよりリラクゼーションに近いかも。っていう患者(というよりお客)は私ぐらいか。
高校サッカーが優勝した町の、必ず隣に本屋さん「ガンコ堂」があるスーパーチェーン店・丸善の向かいの真新しい整骨院。
体調が上向きになった所で、きのうの続き。
橋本治さんの「広告批評2006年1月号」に連載された「ああでもなく こうでもなく」No.100のこと。今回は日本の言論(総合誌と新聞)の衰退について。いつもいつも橋本さんは「自分の頭でものを考える」ことがいかに重要かを、(たぶんもう、うんざりされてるんだろうなと思うくらい)繰り返し、手を変え品を変え云われている。
自分の思考回路を保持すること。自分の劣等感を肯定する「体力」をつけること(それができて初めて他人を肯定できる)。自分の周囲1.5メートル以内の円周の外側をみること。(自分に理解できない事や関係ない事は全部「ない」ことになってしまっているようなので)
『とんでもない事件がおこるたび大騒ぎするばかりで、「事件への速やかな対応策」ばかりが求められ、事件の因を特定できないまま時間だけが過ぎ、だから連続して同様にとんでもない事件が立て続けに起こってしまう』、なんていうところは、オウム事件の後、村上春樹さんがいってたこととかなり似てる。
藤原新也さんは、「愛国心が退行した、なんとかしなければ!」という世相の様子をクールに述べたあと、「愛国心とはきわめて身近かな愛情の相互補完の土壌の中に芽吹くもの」「愛国心を掲げる人たちは愛とは他者との相互関係において成り立つという基本的なことをも忘れている。(なぜなら国家・国の長は国民を愛しているとはとても思えないから、国民は愛国心を持ちようがない、と具体的な事例を引いて続く)」
ほかにも若者の「使い捨て雇用システム」や劣悪な労働環境については、私自身の雇用を顧みても(派遣なので。環境は悪くはないけれど、非正規雇用の立場は、たとえどんなに仕事してても「使い捨て」なんだろうな、きっと)、思い当たる所がおおいにあった。
というようなところに、昨日はおもいきり感じるところがあった訳です。でも、うまく伝わらなかったかもしれないな。
橋本治さんのは7p、藤原新也さんのは(朝日新聞1月23日朝刊)新聞の「社説」くらいのスペースの文章なので、興味のある方はぜひ実物をお読みください。

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