子どもの頃に子ども番組(アニメやまんがのテレビ化の実写版)をみていたら、「世界征服の野望に燃える悪の組織」という団体さんにあちこちでお目にかかれた。
最近はその手の番組をついぞ見なくなってしまったので、その手の団体さんたちは今や絶滅危惧種になったのか、逆に異常繁殖しているのかは、よくわからない。どちらかといえば、「地球征服の野望をもつ宇宙人」にウエイトがかかっているような感触もある。違うかな?
「世界征服の野望」というものに一抹の疑問も持たなかったのはなぜだろう?と今さらながら不思議である。子どもながら「どうせ、無理やしー」と楽観していたのかもしれない。
しかしながら「世界」がつかない「征服の野望」は私のごく身近に存在した。学校図書室と、週に一度日曜日の午後にだけ開く私立の図書館が、私の野望のフィールドだった。
小学生時代は読書漬けの日々だった。いわゆるひとつの黄金時代である。
低学年の頃は誰とも話す事無く、本だけを読みに学校に通った。外遊びの時間すら学級文庫から1冊抜き取り、グラウンドの式台?(グラウンドで全校集会のときに、校長先生がお話しする時あがる台)の下で本を読んだ。雨の日は講堂の隅で。
小学館の「オールカラー世界の童話」シリーズ。「カロリーヌとゆかいななかま」のシリーズ、「世界の偉人50人」シリーズ(だったかな?ちがうかも)、学研の「新しい世界の童話シリーズ」(『小さい魔女』とか『ながいながいお医者さんの話』とかが入ってるシリーズ)。日本の民話を集めた「ふるさとのはなし」のシリーズは、よっぽど気に入ったのか繰り返し読みかえした。とにかく、葉っぱを食べ進む青虫のように、読み進んだ。
もちろん1点残らずすべてを読んだ訳ではない。それでも、若かったので(なんといってもこども!)信じがたいような読書意欲があり、勢いだけでたいていは読破できた。
古典のシリーズが図書室に入ったという情報を仕入れるや、「百合若大臣」や「曽我兄弟」や「雨月物語」を順次読んでいく。
最近『百合若大臣』というタイトルを聞いた時に、思わず「なつかしー!!」とおもったのに、内容はキレイに消去されていて、全く思い出せない自分がむなしい。「今昔物語」も「宇治拾遺」も読んだっちゅーのに。ああ、むなしい。征服して残るのは、意外にもむなしさだったりして。
話は冒頭に戻って、悪の組織はいずれも世界征服にたどりつけなかったように記憶している。その方が、彼らにとっては、むしろ幸せだったのかもしれない。征服は結果的にむなしいものなのだ。きっと。
しかし高学年になると、いよいよ最高峰に挑むことになる。世界名作全集(集英社??)。100冊はあろうかと思われる壁面ギッシリのシリーズ。相手にとって不足はない、と見上げる。しかも卒業というタイムリミットがある。卒業の日までの勝負だったが、やはり制覇はできなかった。
しかしこのシリーズを読んで、10代への足がかりを作れたように思う。
ここでの一番の出会いは、なんといってもシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』で、その後大久保康雄訳の新潮文庫を購入し、10代はバイブルのようにして始終読んでいた。カバーがボロボロになったこの本は、今も私の寝室にある。

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