昨日のブログを書いていて思い出したが、私は子ども時代からアウトドアで読書するのが大好きだった。
私立の幼稚園から公立の小学校へ上がり、1年生の間はほとんど同級生と口をきかなかった。公立の幼稚園から同じメンバーで隣にある小学校に入学するというのがおきまりだったので、クラスメイトからは「このひと、だれ?」状態だったのだ。悪意ではなく、すでに「友達」や「グループ」は幼稚園児代に形成済だったので、私は突如現れた異端者だったのだ。
その上、入学式の日に教室に入ると、椅子も机も用意されてなくて、ひとり呆然としていたりした。学校からも先生からも、なぜか忘れられた存在だったのだ。先生があわてふためいて椅子だけは確保してくださった。なにしろまだ小さかったので、びっくりしたが「そういうこともあるんだろうな・・・」という理解の仕方をしていて、特に憤慨したり悲しんだりはしなかったように記憶している。いまもそういうのんびりした思考回路は健全である。
小学校では朝、昼にはグラウンドに出て、自由に遊ぶ事になっていた。一緒に遊ぶ友達がいなかった低学年の頃は、戸外の朝礼で校長先生が立つステップ付きの鉄の台の横に渡した支えに座り、熱心に読書していた。なぜわざわざ戸外なのか? なにしろ教室に残っている子どもなんか誰一人いなかったので、仕方なく学級文庫を抱えて戸外で読書をしていた。アウトドア読書のあけぼのである。
ウチでは、ほぼごろごろしながら本を読んでいたが、今日はお天気がいいからお寺の本堂の縁側で廣介童話を、とか、ひろびろした本堂で仏さまを目前に仏教童話を、とか、ウチがお寺である事をずいぶん活用させていただいた。
用済みになった乳母車の中で身体を縮めながら「オズの魔法使い」を読んだこともあるし、庭にゴザを敷いて母親が干した蒲団の上でぽかぽか読書という、今から考えれば叱責ものの読書をしたこともあった。よくも叱られなかったものだと、太っ腹な母親に感謝したい。裏山の天辺で大岩に座って、松風の音を聴きながらの読書もしたな。アウトドアで読書することのヨロコビを堪能した子どもだったのだ。
友達の家に出向いて彼女らが不在のときも、ちゃんと心得ていた親御さんは「紙魚子ちゃん、もうちょっとしたら帰ってくるから、本でも読んで待っててや」と言ってくれる声に甘え、学年の違う小学館の「小学◯年生」を読めるヨロコビでいっぱいだった。友達の不在をヨロコビさえした(笑) 納屋や農機具置き場の小屋でも何かしら読んでいたのは、昨日書いた通りである。
二宮金次郎のように、学校帰りに歩きながら読書していたこともある。背負っていたのは薪ではなくランドセルだったが。読んでいたのはファージョンの「ガラスの靴」だったことまで憶えている。
バスや電車で読書するのも大好きだった。乗り物酔いに強かったのだ。(新幹線は別。あれは「乗り物」じゃないと思う)しかし、まれに読書に熱中しすぎて乗り過ごしてしまうこともあった。大学生の頃のお気に入りのアウトドア読書の場所は、京都府立植物園ベンチと京都・東本願寺の縁側だった。
いまでは、仕事の休み時間か就寝前の一瞬プラス何かの待ち時間が、ほぼ読書時間として当てられているが、昨日の自分のブログで、どわっと思い出してしまいました、「アウトドア読書」の至福の時間を。

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