奈良から私を呼ぶ声が聴こえるような気がするほど、気持が引っ張られてついに行った「神仏習合展」は、入ってすぐ、いきなり巨石の三段重ね「須弥山石」に圧倒される。ケースに入っている訳ではないから、どでん!とした展示品の周りをぐるりと回り、ため息をつく。なんやこれは一体! それでも流石に飛鳥時代からの歴史をくぐり抜けて来ただけの物であるので、物体としてだけでなく、その存在感も巨大である。
それから東大寺二月堂の「お水取り」が、神仏習合儀礼だということも初めて知る。
「お水取り」の最初の作法として、日本中の神々の名を列挙した神名帳を読み上げ、全国の神々を二月堂に勧請するという式次第だそうだ。
古代日本人は山自体を神として恐れ敬っていた。山は神の住まう所と信じられていたのだ。山林修行に励む僧侶たちは、神聖な山(白山や比叡山や高野山など)に入ることを許された人達であり、彼らが神仏習合をすすめてきた面があるらしい。弘法大師こと役行者が有名どころである。密教のお坊さんでありながら不思議な神通力をもっている、という伝説があまたある仏教界のスーパースターである。
それから鏡、三種の神器の鏡なのであるが、これが「懸け仏」(基本は丸形で、壁に掛けてお祀りする金属製の仏像。社殿内!に掛けられていた)へと推移していくのだ。
最初は鏡の裏に仏の姿が線で描かれていて、裏は鏡として使用できるものだったのだが、そのうちに裏から打ち出されて仏のレリーフになってしまった。こうなるともう鏡としての用をなさない。おまけに懸け仏が進化するに連れて、最初は鏡だった丸いところがたんなる光背になり、仏像は別にしっかり作られたのが貼付けられたりして、鏡としての原初の姿は見る影もない。この進化の過程が、たいへん興味深かった。
日本史の授業で習った記憶がうっすらとある本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)。これは日本の神々は、仏菩薩(本地)が衆生を救済するために、この世に現れた仮の姿(垂迹)であるという説である。中世から近世にかけて、神社と寺院が一体化してゆくなかで、最も一般的な説として広まったそうである。これは神仏習合の基本の話である。
ここで不思議な変換がされる。日吉社は釈迦如来、八幡社は阿弥陀如来など、神社ごとに本地仏が特定されてゆく。そのカテゴライズはどこから出た話なのか? その辺の説明もあってしかるべきかと個人的には思う。その過程で、上記の「懸け仏」ができていったらしいのだが。
神社に熱心に祈願にいく僧侶たちもいた。
平安時代の後期、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が灰燼に帰した東大寺の復興祈願のため、60人の僧侶とともに伊勢神宮へ参詣した。
その後もさまざまな僧侶のお伊勢参りがおこなわれたようで、伊勢神宮は神社として孤高を保ちたかったようだが、勝手に仏教側から天照大神=大日如来説を提出され、内宮=胎蔵界大日、外宮=金剛界大日と理解され、三種の神器も密教的に解釈したりしている。伊勢神宮にとっては、もしかするとありがた迷惑な話かもしれない。(「ありがた」すらなかったかも?)
鎌倉時代の明恵上人は、春日フリークともいうべき熱狂的な春日信仰者で、春日明神の神託をうけて、ますます釈迦に帰依したそうである。不思議だ。きっとこの文章の間に、幾多の出来事が省略されているのだろうと思う。
またファンキーな踊り念仏の一遍上人は熊野に参詣し、熊野権現の神託を受けて、人々に念仏を勧めたそうである。
う〜〜ん、神託を受けたのなら、なぜ神様をプッシュしないのか? 展示では時間がないので省略してあったが、その省略の部分に大きな秘密が隠されているのだ、きっと。ここに私の理解を阻むものがあったんだろうな。まだまだナゾが山のように隠されているらしい神仏習合なのであった。
まあそれでも、宗教対立で争いが絶えないよりは、むしろこのいい加減さに強烈な魅力があるんだと思う。頑なさよりも、したたかさ。筋を通し信義を貫くより、よく分からないうちに融合される面白さ。こういうのが本来日本人の伝統技なのでは? と自分が日本人であることが久々、ちょっと嬉しかったりした。

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