永年の読書会友だちでもあり、長いメールの(ほとんど文通!)メル友でもある「れんくみ」さん。10年にもなろうという付き合いなのに、ほとんどふたりで一緒にどこかへ出かけたり、お茶したりさえしたことはない。他の友だちを交えて複数では、お茶もご飯もおしゃべりも近場のお出かけもある。でも、お互い忙しい身なので、一緒におでかけはスケジュール調整が難しすぎる。先が読めない生活でもあるので、キャンセルも充分ありえるし。
けれど、時間差でそれぞれ教えてもらったおすすめの場所に子どもを連れて出かけては、感想をメールしたり。意気投合するけれど、子どもを含めてそれぞれの視点の違いに目を開かれるような刺激を受ける。
彼女に最近宛てたメールで、ふとぽろっと思いついた事を書いてみた。深い考えではない。書いた勢いみたいなもの。以下がそう。
意外に夫婦って自分と真逆なタイプを選んでるんですよね。(私とれんくみさんだけ!?) それって、もしかすると、遺伝的に重要なことなのかもしれない。潜在的に子どもに本来の(表に出ている)性格と違うものも埋め込んでおくなんて、自然の摂理って奥深い。
これ(父母)に付け加えるなら「隔世遺伝」(祖父母)も含まれているから、可能性としてはより幅広くなる。
人間に色濃く出ている性格や特性を、その人の本質だと思いがちだけれど、思わぬハプニングや壁に打ち当たって、一番色濃い性格だけでは乗り越えられない困難も、人生には起こりえる。そこで初めて眠っていた思いもしなかった自分の一面を掘り当てる事ができたら、「無理」と思っていた絶望的なシチュエーションも打破できるかもしれない。それが「人生をあきらめないこと」につながっていくような気がする。
そういう体験を何度かすれば、生きて行く事に自信がつくのではないか。自分はひとりでも一人じゃないこと、何人もの人が自分を形作っていることを知ると、苦しいときも「自分を救う手だて」を必死に探すことができる。
「自分を救うための手だて」はアートのなかに潜んでいるような気がしたので、子どもたちにはそれぞれ得意な分野で、楽しむ事を目標に習い事をさせてみた。第二次世界大戦中、あちこちにあった収容所にいた何人かの人達は、唯一の愉しみとして、音楽、絵画、俳句や短歌に支えられていたのを読んだことがあったから。
学校は、生活を円滑にすすめ日常を楽しむ術を教える家庭科や、人生の危機に直面した時、大きな意味をもつに違いない芸術系の時間を充分確保してほしいのだけれど、なぜか今もっとも必要とされているこれらの教科が、世間で軽く見られているのが非常に残念である。

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