今回の総集編/後編では、すっぽりと抜け落ちていたけれど、『ちりとてちん』の後半は、実はとても苦かった。
ヒロインを演じた貫地谷しほりさんが『B子を蹴飛ばしたくなるほど』ひどいことをした女の子だと言っていたのをどこかで読んだ記憶があるが、確かに喜代美はいろんな人を傷つけて来た。その場の勢いから、保身から、欺瞞から、想像力の欠如から、自分の辛さから逃げるため、そして本気で、とさまざまな形で。A子を、小草若を、ときに草々を、そして母親を。
それらがことさらに苦いのは、そのたぶんどれもが自分の身に覚えがあるからだ。決して他人事ではない苦さなのだ。
ことに小草若に関しては、彼が一向に自分を振り向いてくれない喜代美に対して、どこまでもオープンマインドな温かさと優しさを向けているから、彼自身がどんなにあかんたれでも、(視聴者は)肩入れせずにはおられない。いつも小草若のことを気にし、彼を守り抜く決心をしていた四草のように。
それでも喜代美が輝くのは、彼女が決して「間違えない」からだ。道を間違えることはあっても、ただやみくもなだけだったとしても、自分の心や思いに向かってはひたすらまっすぐに走る。「あれかこれか」という二者選択で迷うことはない。なにもわからないか、なしとげる方法だけがわからないかというときには、解決方法を知っていそうな人に聞きまくって、ひたすら一本道を疾走する。
たまには、すでに走り出してから「こんなことできっこない!」とか「私にはムリ〜!」とか叫ぶことはあっても、その時にはすでに自分でレール敷いちゃってるから、もう周囲が軌道に戻してあげるしかないし、実際誰かが彼女をフォローしてくれている。
それに彼女は自分が傷つけたことを自覚すると、どうしたらいいか方法はわからないながらも、傷つけた人々に向き合い、お互いに成長し、あるいはより深い関係を築く事が出来るようになる。
それは自分のことだけでなく、彼女の周囲の人々にとって、本当に幸せな事、心からの願いなどをも、彼女はまっすぐに、迷いなく見つめることができるからだ。そしてそれが実現するように奔走する。
喜代美は小浜の町から出るために母親を傷つけ、一瞬共同生活を受入れたりして小草若を傷つけ、結果的にはA子も傷つけた。でもやっぱり誰かを傷つけることなしに歩めるほど、人生は甘くはないのだ。とくに不器用な喜代美には。
自分が気付かないうちに人を傷つけていることがあるのなら、だからこそせめて意識的にまっすぐに人の幸せを願う(「おかあちゃんみたいになりたい」というよりもっと前からの)、喜代美のような人生は、しごくまっとうなのだ。

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