エディターズミュージアム D 検閲 その1 2012.11.10 掲載
当エディターズ・ミュージアムスタッフの山嵜庸子さんが、地元紙「週刊上田」に『本の森に囲まれて−私の図書館修業時代』と題して連載をしている内容を、ご本人の承諾を得て転載しています。
どうしても書いておきたいことがあります。それは小宮山量平先生が敗戦後の1947年から発行した『季刊理論』。とりわけ創刊号は、戦後史と出版史研究における第一級の資料です。敗戦後の日本は1945年9月から1949年10月まで、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の統治下におかれ、この期間に発行された出版物はすべて、参謀第二(GU)
に属する民間検閲所に提出させられました。その検閲は、検閲したことを読者がそれとわからないように文章の塊ごと削除し、改変させてしまうというものでした。
小宮山先生は『季刊理論』創刊号に「楯に乗って」という小説をお書きになったのです。
原稿用紙120枚ぐらいあって一挙掲載になるはずでしたが、すべて活字に組みあがってから削除されてしまいました。そして削除したことが不自然にみえないようにと命じられたそうです。そのときの歯ぎしりするような思いは忘れられないと語っていらした先生の声音が思い出されます。
「楯に乗って」は、祖国と民族とは何かをひとつの主題にされたとのことでした。
ギリシャのスパルタの母は子どもが戦いに出て行くときに、祖国のために敵を倒すか、そうでなければ楯に乗って帰れと言ったという言い伝えがあって、これがスパルタ教育という言葉の由来だとか。先生の小説の題名もこれに関連してます。
エディターズミュージアム E 検閲その2 2012.11.17 掲載
ギリシャの古い絵に、楯に乗せた死体を担いで戦争から帰ってくる兵士の姿が描かれているのを見たことがあります。心ならずもスパルタの母たちは、「楯に乗って帰れ」と息子たちに諭したのです。言い換えれば「死んで帰ってこい」と。
厳しい鍛錬と教育のなかからそんな母が出てきたのでしょうか。
そうであってはいけないというのが、小宮山量平先生のお考えでした。先生が入隊したころは、兵隊になった者たちが一定の兵役を務め終わると退役して故郷に帰り、銃後から国民として支えるという制度だったといいます。昭和15年のことです。
ところがその2年後に入隊してきた兵隊たちは、最初から死ぬ気で入ってきたというのです。昭和16年1月8日付で「戦陣訓」というものが出て、当時10代半ばだった旧制中学の学生や、あるいは若い兵隊たち、青年学校や女学校の生徒にまで配られたと聞きます。
「戦陣訓」の精神が浸透していく歴史をたどるとき、昭和18年秋に明治神宮外苑の国立競技場で行われた、あの学徒出陣壮行会の映像が浮かんできます。
先生は彼らを「戦陣訓」世代と呼び、生きて帰るなと刷り込まれ育てられたのだとみていらしたようでした。
ほかに選ぶこともできず、死ぬために招集され死ぬために戦ったーー彼らが死を賭して戦い守ろうとした祖国とは何だったのでしょう。