エディターズ・ミュージアムP 生原稿のゆくえ2013.2.9掲載
当エディターズ・ミュージアムスタッフの山嵜庸子さんが、地元紙「週刊上田」に『本の森に囲まれて−私の図書館修業時代』と題して連載をしている内容を、ご本人の承諾を得て転載しています。
「その楯にのって≠ヘ削除されたのですか。削除されているとすればプランゲにあるかもしれませんね」とTさんは言うのです。私は今までそれを話さなかっただろうか。しかし一縷の望みは断たれていないと思いながら反芻してみるのでした。「またメリーランド大に行ったときは必ず原稿を探してみてください」とお願いして電話を切りました。
間もなくして、エディターズミュージアムで当時の興味深い手紙を手にしました。もちろん小宮山先生宛てで、差し出し人は北海道の印刷会社でした。
季刊理論から削除された原稿を小宮山先生は諦めてはいませんでした。無念の想いを一筋に、単行本として出版しようとしていました。それを北海道の印刷会社に依頼した返信だったのです。見積書とともに出版するにあたっての計画などが記されていて、並々ならぬ意欲が感じられました。しかしそうまでして本にしたかったこの作品が日の目を見ることはありませんでした。
印刷には紙がつきものですが、占領下では新聞・出版用の紙の配給が行われていました。用紙配給委員会というものがあって、割り当て券を配ったとか。必要な分を取って余るとヤミ屋に横流し。当時のヤミ紙の値は天井知らずだったと聞いています。そんな時代のなかで小宮山先生は、戦っていたのでした。
エディターズ・ミュージアムQ 小宮山量平先生 2013.2.16掲載
朝、エディターズミュージアムのドアを開けて中に入ると、私は真っ先に「先生、おはようございます」と小宮山量平先生の机の上に置かれている写真に向かってあいさつをします。しばらく立ったまま遺影を見つめ、それから掃除などを始めます。
机には生前のときのまま、『良寛さ』をお書きになったときの原稿や割り付けがあり、その上に愛用の万年筆、横にアヒルの形をした天眼鏡と対のペーパーナイフが置かれています。まるで今、ちょっと席をはずして、すぐお戻りになるような気がしてしまいます。
いつも「ゴクロウサン」とニコニコしながら入ってきて、お帰りのときは「アリガトウ、アリガトウ」と声をかけてくださいました。幼少時代にフクスケさんと呼ばれた顔はこのお顔かと思ったものです。常に機嫌よくしておいでの先生に、こちらの頬もゆるみました。
先生のお話をお聞きしたいという方がよくお見えになりました。そういう方がいらっしゃる日が折よく自分の当番日だったりすると、いっしょに聴かせていただき、幸運にはしゃいだものです。私は小講演会とひそかに名づけていましたが、聴く人が二人でも三人でも先生はきちんとレジュメを作り、覚書を書きこんで臨んでいらっしゃいました。そこからはあれもこれも語りたい、自分が内蔵しているありったけを託しておきたいというお気持ちが伝わってきました。