エディターズ・ミュージアム57「椋鳩十さん」 2013.11.16掲載
当エディターズ・ミュージアムスタッフの山嵜庸子さんが、地元紙「週刊上田」に『本の森に囲まれて−私の図書館修業時代』と題して連載をしている内容を、ご本人の承諾を得て転載しています。
椋さんのお父さんは部屋の真ん中に赤い毛氈を敷き、絵を楽しそうに描いていたという方ですから、文学を志す環境は整っていたようです。椋さんは、父親がそうして絵を描いているのを見るのが好きだったと語っていらっしゃいます。
―父が紙の上に生みだしていく木や鳥や馬は、ほんに生き生きと心にせまってくるのであった。なぜものの影と父の描く墨絵とは同じような色で形をはっきり示していながら、こうも違うのであろうかと不思議に思いながら父の描く絵をみつめるのであった―だから椋さんは、父親が絵を描いているのを見ていると退屈することがなかったと。本当に好ましい家庭の姿を感じさせてくれます。
椋さんの文学の出発は「詩」であったと書きましたが、一方「山窩」にも興味を持ちました。山窩を辞書でひきますと、「村里には定住せずに山中や河原など家族単位で野営しながら漂泊の生活をおくっていたとされる人々。主として川漁、箕作、竹細工、杓作などを業として村人と交易した」とあります。
椋さんは「国籍すらない、風のようにひょうひょうとした、雲のように自由気ままな…」と表現しています。
昭和8年という時代背景があったからこそ、憧憬に似たものもあったのでしょうか。
椋さんは山窩の資料を集め始め、スペインバスク地方出身の作家ピオ・バローハの作品に感銘を受けます。
エディターズ・ミュージアム58「椋鳩十さん」2013.11.23掲載
椋さんは、スペインの作家ピオ・バローハ著『バスク牧歌調』に感銘を受けたのです。これはバスク族を扱った小説で、これが後年、山窩小説を書く要因のひとつになったのでした。
本欄を書くにあたって調べるうち、椋さんが詩人として活躍していたことがあったことを初めて知りました。まして私家版の詩集まで出していたとは。
「リアン」という詩誌の同人でした。「リアン」は、日本がまだ誰もつくっていないような詩を書こうと意気軒昂でした。
そんななかで椋さんは、山窩小説数編を書いて同人仲間に見せますが、一笑に付されて挫折します。
大学卒業後はジャック・ロンドンの海洋文学に惹かれ、海を舞台にした作品を書きたいと強く思うようになりました。そこでマーシャル群島の職業訓練学校に勤務しようと思いたったわけです。ところがそこへ行く前に鹿児島で医師をしているお姉さんに挨拶するために立ち寄ったところ、お姉さんから勧められ、鹿児島に住むことになってしまいました。昭和5年のことです。以後、鹿児島県民として過ごすことになります。
椋さんは逸話の多い人としても知られます。鹿児島県の高等小学校の教員になったとき、あまりの暑さに越中ふんどしだけで授業をしていたところを見つかって、首になってしまったとか。それを読んだとき、可笑しくて吹き出しました。