エディターズ・ミュージアム101 まどみちおさん 2014.9.20掲載
当エディターズ・ミュージアムスタッフの山嵜庸子さんが、地元紙「週刊上田」に『本の森に囲まれて−私の図書館修業時代』と題して連載をしている内容を、ご本人の承諾を得て転載しています。
まどさんは、戦争という弾丸のなかをくぐりぬけながら、詩が書けなければ「日誌」や「短歌」を、どのようなときでも書き続けました。表現したいという意欲は、枯れることがなかったのでしょう。
さぞかし詩を書きたかったのではと想像しますが、当たり前のことですが戦場では詩というものに入ってゆける時間がとれなかったのだと思います。
そんななか、まどさんは同僚の近藤一市の名前をカタカナで逆さにしてチイズカウドンコと夢のような、とぼけた気持で、反対に読んだ≠ニ興がっていたこともあったとか。こんな発想が、後に私たちを楽しくしてくれる「うた」に続いていったのではないでしょうか。戦争がなかったら、どんな詩が生まれていたでしょうか。
昭和21年6月、まどさんはシンガポールから広島県の大竹港に帰還しました。台湾から帰還した妻子や両親も散りぢりばらばらでしたが、両親は4月に徳山に戻り、妻と長男は姉夫婦を頼って大阪に移住。まどさんは6月末に故郷の徳山に帰り、7月に大阪で妻子と再会しています。その後、まどさんは義兄の紹介で単身で川崎に行き、味の素川崎工場の守衛となります。とにかく食べてゆかなくてはならず、苦難の日々でしたが、それでも家族全員が無事に故郷に帰還できたことは幸せというほかありません。その年の暮れには妻子を呼び寄せています。
エディターズ・ミュージアム102 まどみちおさん 2014.9.27掲載
昭和21年6月に戦地から帰還したまどさんは、家族を大阪に残して単身、川崎の味の素川崎工場の守衛として働き始め、その年の暮れに妻子を呼び寄せることができました。実家がある山口県徳山を経て、妻子と再会した大阪へ、そして川崎へと、まどさんがたどった軌跡を、地図をなぞって確認してみました。汽車を乗り継ぎ移動したのでしょうが、当時の混乱と交通事情を考えると、その大変さが想像できます。
食料も満足になく、お腹をすかしているのは当たり前の当時です。もともと身体が丈夫とはいえないまどさんは、軍隊時代と同じように下痢にも悩ませられ、苦労したようです。
守衛の仕事は24時間勤務で、翌日は明け番。まどさんにとって明け番はひたすら休養する日で、ゆっくり「詩」のことを考えることなどできるはずもありません。
そんな日々でも、家族揃って帰ってこられたことが、大きな支えになったことでしょう。やがて、まどさんは詩を書き始めます。それはメモ書きのような短い詩でした。戦時中、秘かに書いていた短歌のことが思い出されました。『まど・みちお全詩集』(理論社)のページを繰ると、「けしつぶうた」に収められていました。というのも、メモ書きのような詩を二、三知っていたから探し出せたのです。
「まめつぶうた」があるから「けしつぶうた」か、と微笑みました。