アパルトヘイト政策への抗議活動を共にした五味川純平さんについては、父は折りにふれ語っていました。
父が一橋講堂の一角で「統制経済」の発行を始めた頃(1935年)、その雑誌に宛てて、大陸からさまざまな資料を送ってくれたひとりが五味川さんでした。
アメリカと日本との国力の差を数で示し、このまま戦争の道にすすんでいいのかと警告されていたそうです。
戦後、「人間の条件」を目した父が三一書房で出すことをすすめたいきさつなどもよく語っていました。
父について「闘う編集者」という言い方を、前述の毎日新聞の城島徹さんがして下さいますが、五味川さんは父にとって、同じ時代を同じ思いで闘ってきたかけがえのない友人であったのだと思います。
2015.5.6 荒井 きぬ枝
わが友 五味川純平 “肩の力をぬいてくれ”
「人間の条件」から「人間喜劇」へ小宮山 量平
*・・・時たま街角で会ったりすると、私たちはひっそりと手を握り会う。何か語ろうとすれば、どちらからか、思わず激して涙ぐんでしまったりするおそれがあるからだ。さりげなく別れ、さりげなく無事を祈る。いわば、互いに「腹を立てている」ことの確認だけが、近年の五味川純平と私の阿吽の関係であった。
*・・・それにしてもこんな出会いのあと、同年の年輪にふさわしく、彼も私もにんまりとほほえむ矜持はあった。が、彼が声を失った時から、もはやそんなほほえみで踏みこたえることはできなくなった。まして、彼が長年の同志と恃(たの)んでいた奥さんに逝かれたあとは、そっと手を握りあうことすら差し控える思いだ。
*・・・女々しいことを拒みつづけてきた男。極限状況に断乎として生き抜くことのみを課題としてきた作家。こちらから慰めるより早く、独りで耐えぬくヨといった姿勢で雄々しく答えてくる人間。・・・『人間の条件』も『戦争と人間』も、そういう作家の意地につらぬかれている。
戦争責任ひとつをウヤムヤにして尚も平然たる「国民気質」が、こんなにもヌケヌケとのさばっている限り、彼に、その意地の頑なさをほぐして・・・・・などと望むわけにはいかないのか。彼が、もひとつ安らいではいけないのか。
*・・・けれども、今度会ったら、私は、やっぱり言わねばならないと思う。ゴミさんよ、肩の力をぬいてくれ。怒り狂って命を縮めるのは、彼らであっても、我らではない。いうなれば、戦争責任を追いつづけた戦闘的ヒューマニストが、今こそ巨大なモラリスト(人性批評家)の不屈さへと昇華する時ではないだろうか、と。
*・・・先日の《折々のうた》に「少数にて少数にてありしかばひとつ心を保ち来にけり」(土屋文明)とあった。この国の多数の心に豁然として戦争責任感が甦ったりすることの金輪際ありえないシブトさを、じっくり見定めようではないか。私たち少数派がモラリストの心で描くべき「人間喜劇」の世界は、今こそあなたならではのバルザック的主題へと熟しつつあるのだと思う。
小宮山量平(理論社会長)
〔日本読書新聞 1982年10月4日〕
ミュージアムの棚に並んでいる「人間の条件」
昭和33年に行われた「人間の条件」出版記念会、
五味川純平夫妻を囲んで(右端が父)