2016/2/3
「理論社と私」(飛ぶ教室 38号)という文章の中で、倉本聰さんが語っていらした『日本シナリオ文学全集』(第一巻〜第十二巻、1956年)。 倉本さんにはじめてお目にかかった時のことを、父もやはりそのことにふれながら記しています。 (前略) その時、倉本さんがにんまりと笑って、「ぼくは、ずいぶん昔から、小宮山さんの名 を知っていたんですよ」と言われたことを、今も昨日のように覚えています。 聞けば倉本さんは、未だ高校生のころ、かって私の制作したシナリオ文学全集を真っ 赤になるほど朱線を引きながら読み更ったのだそうです。 「あのシナリオ文学全集が、ぼくのテレビ・シナリオ作家としての人生を決定づけた んですよ」───そう聞いた瞬間も、そして夜ベットの中でも、私はとめどもなく涙を 流したものです。あんなにも私の出版経歴の中に痛切な想い出を残した愛憎きわまる 制作物なのではあるが、それが一人の倉本聰を生み出したとすれば、以て冥すべきで はないか!しかも映画時代からTV時代へと、映像文化の進化する二十余年の歴史を 経て、こうしてその人とめぐりあえるとは! 私は、めぐりあいの奥深さに感動する ばかりでした。 (後略)─── “倉本聰 その国民文学的創造”より 以前、このミュージアムを訪ねてくださった山田洋次さんは、“日本シナリオ文学全集”が置かれている棚の前に立たれ、なつかしそうにおっしゃいました。「僕はこの全集を全部持っています。お世話になったんですよ。」と・・・・・。 なぜ父が当時シナリオの出版に踏み切ったのか・・・・・その問いに答えてくれる父の文章がありました。“今出すべき本を出す” ということが、父という編集者にとっては何よりも大切な仕事でした。けれど、出版社としての経営面からは、大変困難なことであったのです。 理論社をおこしてからずっと、父はそのことと戦ってきたのだと思います。 2016.2.3 荒井 きぬ枝
シナリオ文学というジャンル 小宮山 量平
いま七十歳前後の人びとの多くは、昭和初年から10年代にかけて、その知的青春のめざめを体験しているはずです。この人たちにとっては、どんな講義よりも、その時代の「映画」こそは最高の知的メディアでありました。 かえりみれば、映画そのものも昭和十年前後のころに最高の水準に到達していたと言っても過言ではありません。 ところが戦後になって、これら映画のシナリオを探し求めても、その多くは映画制作の現場では消耗品として扱われ、殆どが消失している有様でした。 理論社を創業して数年目のころ、私は《シナリオ文学全集全12巻》という大企画を刊行して、映画というものが私たちにとって最上の文学そのものであったことをひろく確認してもらおうと願ったことがあります。そのために、山中貞雄や伊丹万作のシナリオなどを、手をつくして探し出し、時には故人のエスキスまで参考にして、活字に復活したものです。 不幸にして、このような企画の冒険そのものが営業上の重荷となって、わが理論社は窮地に陥り、この全集の発行権そのものを他社に譲らねばならなくなったという痛切な体験があります。 (後略)
日本シナリオ文学全集 全十二巻
投稿者: エディターズミュージアム
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