2016/3/2
7歳ではじめて観たマルシャークの芝居「森は生きている」。
その後「劇団仲間」に引き継がれたこの芝居を、私はくり返し観ることが出来ました。
学校が休みになると上京する私を、父はよく芝居に連れて行ってくれたのです。
「森は生きている」の主題歌は私の愛唱歌となり、芝居の中で主役の“みなし子”を
演じた伊藤巴子さんはあこがれの女優さんになりました。
後年(私はもう50代になっていたと思います)、演技指導のために上田へいらした
伊藤さんにお目にかかることが出来た時には、ただただあこがれの女優さんの前にどき
どきしながら立ちつくす“小学生の女の子”のようだったと、自分を振り返って苦笑してし
まいます。
父が理論社でマルシャークの本を手がけたのは、ジュニア・ライブラリーという
シリーズの一冊、「人生のはじめーマルシャーク自伝」が最初だったと思います。
(1968年刊)続いて、1980年には「マルシャークのこどもの芝居の本」全三冊を
編集・刊行します。
第一巻に収められた「12の月の物語」。これこそが「森は生きている」なのです。
第三巻の最後に父は、“マルシャークの作品とこどもたち”と題する文章を記しています。
「こどもたちに、ほんものを」・・・・・。
マルシャークについて書きながら、父自身の思いがそこに重ねられています。そして
それが、父の本づくりの姿勢そのものなのです。
幼い私を芝居に連れて行ってくれた父を思い出しています。
「ほんものを観ておくんだよ」。
父の声が聞こえてくるようです。
2026.3.2 荒井 きぬ枝
マルシャークの作品とこどもたち
小宮山量平
(1)ほんものを観て、聴いて育つ
1960年代の初めから十数年のあいだに、私は、モスクワ、レニングラード、キエフ、
トビリシ、タシケント、ハバロスクなど、ソ連の諸都市を、それぞれ何度か訪れること
ができました。どの旅においても、私の目的の一つは、子どもたちのための本や、絵や、
音楽や、芝居など、ひろく児童文化の世界をのぞきこんでくることだったのです。
それらの旅を今ふりかえってみて、私の心のアルバムにいちばん鮮明にやきつけられ
ているのは、ソ連の子どもたちが、幼いうちに、さまざまの芸術のほんものに直面する
機会をたくさん与えられている状態です。
そんな現場を訪れるたびに、ほとんど羨望にちかい思いに駆られるのでした。
(中略)
幼い日々、人生のはじめに、すぐれたナマの芸術による感動を体験することができる
かどうか───それは、人間の一生を左右するほどの重みを持っていることでしょう。
もしかすると私たち日本の現代的機械文明は、余りにも過剰な電波音や録画を子ども
たちに与えすぎているかも知れません。
小川のささやきも小鳥のさえずりも、テレビやラジオからとびだしてきますし、どん
な音楽も絵画も映像やグラビアによって氾らんさせられております。
しかも多くの場合、それらは子どもたちの内面的な欲求に応じて与えられるのではなく、
恐るべきほどの商業主義や競争原理にバックアップされ、休む間もない騒音として、視覚や
聴覚を刺激し、きわめて扇動的にせき立てるように押しよせてくるのです。
いつしか若者たちは、森へ出かけるときもラジカセを必要とし、受験勉強をしながら
イヤホーンの刺激を必要とします。
その当然の結果として、電力で拡大された音にハートを合体させることが音感の主流
となり、テレビの映像を即座にわが身のものとすることが踊りや服飾のパターンとなる
のでしょう。
そのような文明のリーダーシップに無抵抗な若い心が、スイッチひとつの命令によっ
て、右を向き左を向き、管理と訓練に従順となり、体制化された政治の指令に盲従しや
すくなることは、すでに、文明諸国の特徴とさえなっているのです。
とりわけつらいことは、こんな潮流の中で、肉声やナマの音楽が遠ざけられるばかり
か、ついには、それら「ほんもの」に対する拒否反応さえ生じるような状況が深まって
いることです。 (後略)
マルシャークの「こどもの芝居の本」第一巻

劇団仲間の「森は生きている」主役の伊藤巴子さん(左)
マルシャーク生誕100周年記念の冊子より(日ソ協会刊)
投稿者: エディターズミュージアム
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