2016/9/28
作家、西村滋さんが、5月21日、91歳で亡くなられました。明日9月29日、静岡市で行われる「西村滋さんをしのぶ会」に参加させていただきます。父が西村さんから頂いたお手紙やお葉書を読み返してみました。といってもとても一気には読み切れません。
お手紙150通ほど、お葉書が30〜40枚・・・・・。
初めて父がいただいたお手紙は、昭和49年9月10日消印のものです。 お見知りなき者から。突然お便り差し上げます。失礼をお許し下さい。
(中略)
実は、私は多少の著書も残しております者ですが、今度「お菓子と私の放浪記」又は、「おとうちゃんの放浪記」(お菓子の巻)というものを書き上げました。
(後略)
これがきっかけで、昭和51年、理論社から『お菓子放浪記』が刊行されます。
作家と編集者がめぐり会ったのです。
父が亡くなった時、西村さんが沼津朝日新聞に寄せて下さった文です。
どうせすぐに後からと思うせいか、あまり動じなくなっていたつもりだが、小宮山量平さんの場合は別だった。九十代のご高齢だったから、この時がくるのは覚悟しておくべきなのに、親はいつまでも死なぬと思い込んでいる子どもの、ノンキな感性だったのだろうか。訃報を受けたあと、いい年をして妻に背をさすられながら、大声で嗚咽した。
ふるい話になるが、1976年、それまでどこへ持ち込んでも出版にならなかった『お菓子放浪記』を一言一句、原稿の直しもなく、ひろってくださった恩人なのである。
私は既に中年になっており、そろそろペンを捨てようとしていたギリギリのところだった。そして、この作品は、全国青少年読書感想文コンクール課題図書に選定され、木下恵介さんの手でテレビドラマになったりして、本もちょっとしたベストセラーに・・・・
(中略)
若い日、なにひとつ眼のさめるような思いもなく、ただ人生の底辺をはいまわっていただけの私も、ようやく作家のはしくれになれたのだが、生みの親は小宮山さんだったのだ。出版だけのことではない。小学校も満足に卒業しておらず、むろん、文学的な素養もなく、コンプレックスのかたまりのように背をまるめて生きていた私という人間を、知る人ぞ知る、あの独特の、大きく、やわらかい体温のようなやさしさで包んでくれた人なのである。
(後略)(沼津朝日新聞 平成24年5月4日より)
平成22年、西村滋原作「みなし子」(希望舞台プロジェクト)が上演された折、そのパンフレットのために語った父の言葉です。
明日、私は父と一緒に「西村滋さんをしのぶ会」に伺うつもりです。2016.9.28 荒井 きぬ枝
焼け跡から希望の道を
小宮山量平
(前略)
私は今の時代は若者にとって頼るべきものが無いというと言う点で、敗戦直後の浮浪児たちの生きた時代に似ていると思っている。
「浮浪児」は消えた言葉だが、実態は今も消えていない。
むしろ現代の方が絶望の深刻さは深いと思う。それは人と心が繋がり合うことの出来にくい環境がメカニックに作り出されているからだ。
何万年の単位でゆっくりと進化して来た、人間の生理は、急速に進化するインターネット等の電子機器のスピードに適応出来ず、ゆっくりと考えたり、味わったりする余裕がなくなってきている。
戦後の焼け跡に放り出された西村さんは絶望の中で、しかし振り返ると希望の道を歩んで来ている。何がそうさせたのか、それは人との出会いとつながりこそが西村少年を希望への道に導いてくれたのだ。
私自身も幼児の時、親と死別して祖父母に育てられた。十三歳の時に信州の佐久から誰も知る人の無い東京に出て、第一銀行の給仕として採用され、重役だった渋沢敬三氏(渋沢栄一の孫)のお抱え給仕となった。
その御縁が私の人生の扉を開けてくれる事になる。大人の温かな眼差しが子どもの「童心」を育んでくれる。
おかげで私は、「童心ひとすじ」の人生を歩ませていただいた。
絶望の深い時代に、希望舞台が挑むこの作品の舞台化に期待せずにはいられない。(談)2010.4.28

西村さんが父のもとに持ち込んだ原稿の表紙
投稿者: エディターズミュージアム
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