三笠宮様が〈はしがき〉(まえがき)を書かれた『月の輪教室』の目次に父が引用し(1954年)、「私の大学」のシリーズの巻頭にかかげた(1956年)アラゴンの詩の一節──
学ぶとは 誠実を 胸にきざむこと
教えるとは ともに 希望を語ること
アラゴンは20世紀フランスを代表する詩人。ドイツ占領下のレジスタンスの中で生まれたのが、「フランスの起床ラッパ」という詩集です。
そこにおさめられている“ストラスブール大学の歌”という詩の中にその一節はあります。1943年11月、中仏のクレルモンでストラスブール大学の教授・学生たちが、ドイツ軍によって銃殺され、数百名が逮捕されました。その悲劇がアラゴンにこの詩を書かせたのです。
ストラスブール大学の歌(抄)
陽の色に輝くカテドラル
ドイツ人どもに囚われながら
おまえは倦むこともなく数える
めぐる季節を 月日を 流れる時を
おお ストラスブールのカテドラル
教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
かれらはなおも苦難のなかで
その大学をふたたび開いた
学問とは永い永い 忍耐
だが今 なぜすべてのものが黙っているのか
ナチどもははいりこんできて 殺している
暴力だけがやつらのただ一つの特性だ
殺すことだけがやつらのただ一つの学問だ
ストラスブールの息子たちは倒れても
だが 空しくは死なないだろう
今よりはかずかずのクレベールたち
それは百人となり 千人となり
つづく つづく 市民の兵士たち
われらの山やまに 町まちに
大島博光さん訳の『フランスの起床ラッパ』(三一書房1951年)で父はこの詩と出会ったのだと思います。
父の文章を見つけました。出版の世界の危機的状況にふれながら、次のように記しています。「誠実」を語り続けていた父を思い出しています。
2016/11/9 荒井 きぬ枝
はじめに−出版世界への誠実
小宮山量平
(前略)
私自身は、もはや去り行く者ですから、いささか自己批判の思いをこめて、そんな思案に参加しようと思っているのです。そもそも自分にとって、この出版世界は何であったのか。こんなにも根深い危機をみつめて、なおも出版人たちに期待する何かがあり得るのか・・と。
そんな思いを反芻している近頃の私の心底に、ゆくりなくもよみがえるのは、誠実 Fidelityという言葉なのです。アラゴンの『フランスの起床ラッパ』やヴェルコールの『海の沈黙』などに先立って、あのナチス占領下のパリの地下室で編集制作されたといわれる同じアラゴンの《深夜叢書》の一冊『愛と死の肖像』(青銅社)が邦訳されました。
この詞華集の中には、何と多くの「誠実」がちりばめられていたことでしょう。
じっさい、さまざまの信条に生きたパリ市民たちの多くが「神を信じた者も信じなかった者も」いつしかひとつ心に融け合って、不屈の抵抗のエネルギーへと結晶してゆくとき、その合言葉のように光を放つのが「誠実」の一語でした。
神に対する、祖国に対する、仕事に対する、肉親に対する、恋人に対する、そして何よりも明日への希望に対する、それぞれの切迫した思いが、名状しがたいほどの危機の圧力に耐えながら、次第に「誠実」という一語へと収斂されてゆく緊張の美しさは、今も私たちの心に灼きつけられております。
『出版の正像を求めて』−戦後出版史の覚書−(1985)より
現在私の手元にある『フランスの起床ラッパ』
(新日本出版社・1980年初版)