曾孫の「悠吾」という名前に、密かにヴィクトル・ユゴーを重ねていた父。
広津和郎さんは、父にとって敬愛すべき “日本のユゴー” でした。
約50冊もの広津さんの著書が、このミュージアムの棚に父の蔵書として遺されています。
広津さんについて記した文章の最後に書かれていた父のある “決心”。
命日を前に、あらためて父のその “決心” を胸に刻みます。2018.4.11 荒井 きぬ枝
日本の夜と霧の頃
先ごろ不帰の客となった松本清張さんの名著『日本の黒い霧』を読み返せば、今更のように占領下日本の自主性の欠如ぶりが思い知らされる。
とりわけ、下山事件だの松川事件だの幾つかのフレームアップ(でっち上げ)が、日本人の判断力を曇らせ、国民各層の意識を分裂せしめていった過程が如実に物語られている。
実はこの作品の原資料ともなった本を私は手がけたので、一層生々しく当時をかえりみることができる。それは板垣退助ならぬ進助の名で書かれた。『この自由党!』という上下二巻の大作で、当時ペンの自由を奪われていた大新聞の記者たちの協同討議の中から生まれ出た著作だ。
そんなにも痛烈な紙のつぶてが放たれたにもかかわらず、例えば松川事件の被告たちの弁護に立つ同胞の歩みは遅々としていた。
社会党も共産党も、それぞれのお家の事情があって、弁護の足並みは乱れがちであった。
ただひとり広津和郎さんだけが、なりふりかまわず弁護の先頭に立ち、延々十数年に亘って『世界』 誌上に法廷記録への疑義を書きつづけたのであった。それのみか、病軀をかえりみず、乞われるままに西に東に弁護の論陣を張りつづけた。
そんなある日、神田神保町のとある中華料理店で、私は広津さんを見かけた。作家は痛風の足に藁草履をヒモでゆわえつけ、一人の編集者とおぼしき若者に支えられて、覚束なく奥から出てきた。思わず私は立ち上がった。とたんに涙が出て止まらなかった。そして頭が下がった。
広津さんはびっくりした面持ちで一瞬立ち止まり、やがてよちよちと歩いて去った。
その時私の胸に浮かんだのは、日本の知的誠実というもののきびしい姿であった。私は、この作家が体現している誠実の道を辿りぬかねばと密かに決心した。 (『昭和時代落穂拾い』1994年週刊上田社刊より)
