大阪の尾崎書房から児童詩誌『きりん』が刊行されたのは1948年。
日本一美しいこどもの詩と童話の雑誌を・・・・・・という願いが込められていました。
編集部には日本中の教室からこどもたちの詩が送られてきました。
こどもたちにしっかりと寄り添って、こどもたちの心と言葉を受け止めようと、努力した先生たちがいたのですね。
だから、教室から詩が生まれました。
灰谷教室の「詩のコクバン」の連載が始まったのは1961年。
やがて、『せんせいけらいになれ』となったこの連載は『きりん』の刊行が、東京の理論社に引き継がれた後も1965年まで続きました。
灰谷さんが亡くなられた翌年の2007年に刊行された『アジアを歩く』(灰谷健次郎・文、石川文洋・写真・キャプション、エイ出版社刊)には、灰谷さんに捧げた父の言葉が遺されています。 甦る日本の教師像―灰谷センセイへの懐かしさ
灰谷さんと言えば、誰しもが『兎の眼』や『太陽の子』を先ず挙げて、その不滅の業績をたたえて下さるにちがいありません。それに異を唱えるわけではありませんが、かってあなたの作品の殆どを手がけて本づくりに没頭することのできた私の心の中で、日が経つのにつれて、何と言っても鮮烈さを増して甦るのは、『せんせいけらいになれ』と、『手と目と声と』(注)の二冊です。いずれも、かって十七年間もセンセイとして活躍しておられた灰谷さんの輝きが、まっすぐに読者の心を打つ文字が、ぴちぴちと弾んで甦り、少しも古びることはなく、今や日が経つのにつれて、ますます切実な輝きを増すのです。
むしろ、今こそあなたが、余りにも苦しみ悩んでいる日本の教師たちの前に立ち現れ、「ほんとうにきれいな目で」にっこりと微笑んでおられるような錯覚にとらわれるのです。「ほんとうにきれいな目」と言うのは、在りし日のあなたに会った人びとが、先ず第一に感じる印象なのですが、あなた自身は、そのことを忘れたかのように、先ずはめぐりあったすべての子どもたちの愛らしさの根元に、そんな目の輝きを発見するセンセイでした。
『せんせいけらいになれ』という最初の文集は、およそセンセイという天授のしごとを与えられた若者が、あたかもめぐりあった子どもたちの一人ひとりのまなざしに対して、合掌しながら遍歴を重ねた歡びの旅日記とでも言いたくなるような温もりに満ちています。
やがて、理不尽にも、「勤務評定」とか申す権力による圧力が、あの敗戦という深い哀しみの土壌から芽を吹いたばかりの子どもたちの「きれいな目」と、ようやく晴れ間からのぞいた太陽のぬくもりのような「センセイ」たちとの結びつきを、断ち切るようなむごたらしさによって、灰谷センセイは愛すべき教室を去らなければなりませんでした。(後略)
(注)『手と目と声と』灰谷健次郎作・坪谷令子絵 1980年 理論社刊
1972年に灰谷さんは教師を退職されました。
そして、その翌年1973年に『きりん』休刊。 (前略)
『きりん』は日本の子供の心をそのままあらわす場です。
そういう場を喪失している日本そのものへの怒りを怒っているのが、私の沈黙と休刊です。(後略)
(「休刊のことば」小宮山量平)
今、こどもたちが巻き込まれている数々の事件。
先生とこどもたち、親とこどもたち────。
あの『きりん』があった時代から、いったい何が変わってしまったのか・・・・・、
そのことを考えています。
2019.2.20 荒井 きぬ枝

灰谷センセイとこどもたち